難題相談

難題相談 1

 高嶺神社は祈願成就のオキツネ様で有名だが、恋愛相談に関しては成就率が低いと言われている。
 それでも縋ってしまうのは乙女心か気休めか――どちらにせよ、そんなことであの長い石段を昇ってくるとは、ご苦労なことだと高嶺松壱は思う。
 この日現れた少女は紺色のブレザーに緑のネクタイ、地元の高校生だ。社の前に佇んで手を合わせる。
「オキツネ様、オキツネ様、あの人の名前だけでも知りたいのです。お願いします」
 願い事を聞きながら、オキツネ様、もとい沖はため息をついた。
 社中に潜んで願い事を聞き、成就のために行動を起こす。それが沖の基本的なスタイルだ。ただ、すべての願いに無差別に応えることはできない。道徳に悖(もと)るような願いは言うまでもなく、そもそも神でもない彼にできることは限られていた。
(恋愛相談は受け付けてないんだけどなー。まあ、名前を調べるくらいは出来なくもないけど……)
 それなら沖が出向くより、男の顔を知っていて地元民であるその少女の方が早く調べられるのではないか。
(まさか旅行先で見かけた男だなんて……言わないよね?)
 沖は首を捻って格子扉の隙間から少女の顔を覗いた。
 色白で肩にかかるほどの黒髪。身長は標準。可憐な顔立ちの可愛い子だ。
 と、そこで沖は彼女の後ろにもうひとり立っていることに気づいた。付き添いで来た友人だろう。同じ制服を身につけた、ショートヘアで快活そうな少女。
(って、優じゃん!)
 羽山優は昨年の初秋、大鬼にとり憑かれていたところを助けた少女である。その後、時おり神社に遊びに来るようになった。
 しかし、だからと言って贔屓するわけにもいかない。実際、彼女は沖がいることに気づいている様子で、じっとこちらを見ている。
「羽山さん」
 声をかけたのは松壱だった。優が振り返る。
「あ、高嶺先輩」
 愛想を浮かべた宮司は今日は洋服を着ていた。黒地に黒のアーガイル柄のシャツを着て、ブルーのジーンズを穿いた格好はそのへんの大学生に見える――事実そのとおりなのだが、優の中では白い袴姿の印象が強かった。
「いや、先輩なんて呼ばなくていいから」
 松壱はいかにも遠慮がちに手を振った。
 揺草山のある町に高校はひとつしかない。それを除く一番近い高校でも長時間電車に乗ることになる。松壱も町の高校の出身者だ。
「うちの神社に恋愛ごとは向きませんよ」
「うん、それは知ってるんですけどね」
 優は頷く。
(じゃあ、なんで来たんだ……)
 松壱はそう思ったが、口には出さなかった。
 そこでやっと願い事をしていた当の少女が振り返る。その動きに合わせてふわりと髪が揺れる様に、松壱はどことなく違和感を覚えた。
 青年を見上げてから、少女は優のほうを向いた。
「優さん、お知り合いなの?」
「ああ、うん。高嶺先輩……じゃなくて高嶺さん、うちの高校の卒業生だよ」
「そうなの」
 少女同士の会話を聞きながら、松壱は違和感の原因を悟った。
(雰囲気の違いか。これは……いわゆる『お嬢様』だ)
 「清楚」という言葉はこういう少女に使うものだろうか。白い肌に黒目がちの瞳が愛らしい。言葉遣いも丁寧で、喋るスピードも早過ぎない。しかし、どこか警戒心を感じさせる空気は近寄りがたいものがある。
「高嶺さん、この子は伊納沙良(いのうさら)。ちょっと人見知りだけど許してくださいね」
 伊納。その名は覚えがある。伯父の取引相手の一つに確かそんな名の重役がいたはずだ。
「はじめまして、伊納さん」
 松壱が営業用としては最上の笑顔で会釈をすると、沙良はぱっと頬を染め、同じように頭を下げてみせた。
(なるほど……)
 人見知りというのは本当らしい。では慣れればこの近寄りにくい雰囲気もなくなるのだろう。
「それで、相手の名前も分からないというのは本当なんですか?」
「そうです」
「それならなおさら……」
 うちには向かないと言いかけた松壱を、優が制す。首を傾げる沙良に聞こえないように、優は松壱の耳元で囁いた。
「人間じゃないんですよ」
「……え」
 少女の言葉に松壱は目を見開く。
「沙良はもちろん人間だと思ってますよ。でも、私にはそうは見えなくて……」
 優はそこで言葉を切り、沙良を振り返った。
「沙良、高嶺さんにその人の容姿を教えてあげて」
「え……でも」
「いいから、いいから。この神社で見かけたんなら、高嶺さんの知り合いかもしれないでしょ?」
 困惑する友人を優が気楽に促す。迷った挙句、沙良は小さな声で語りだした。もちろん沖も聞いている。
「あの……一度きりなんですが、新年の初詣でお見かけしたんです。髪は黒くて短くて、背が高くて」
(それは沖じゃないのか?)
 普段は長い髪をしているが、人間に化けた沖の髪は短い。容姿も優しげで、温和な性格だから、少女の受けは良いだろう。
 だが、それなら優には分かるはずだ。松壱が優を見下ろすと、彼女は沖ではないということを肯定するように頷いてみせる。
「あの、それで日本人のお顔立ちなんですが、目が少し紫を帯びていて……」
「げっ」
 うっかり声を上げたのは沖だ。思わず口を手で押さえる。
 松壱は社の方を睨みつけ、それから驚いた顔をしてそちらを見ている沙良に、どうしましたかと声をかけた。
「あの、今何か……」
「何か?」
 何も聞こえなかったという様子で松壱が問う。沙良は困った様子で優を見たが、彼女も首を傾げて見せるだけだ。
 沙良はもう一度社を振り返ってから、うつむいて考え込む仕草をし、最後に首を左右に振った。
「……気のせいだったようです」
「そうですか」
 松壱と優は一様に息をつく。
「それで、その人のことが……」
 話の続きを始めたとたん、沙良はぼっと真っ赤になった。
(確かに見かけは悪くないとは思うが……)
 いかんせん幼少の頃からの付き合いである松壱には、黒刀を思い出して赤くなる思考回路が理解できない。無論、沖も同様である。
(よりによって黒刀だなんて)
 社の中で一人で青褪める。
 人間でない上に、人間嫌い。そんな黒刀に人間の女の子を紹介しようものなら、「帰れ」の一言で一蹴されるであろうことは容易に想像がつく。
「高嶺さん、知ってる人?」
 さすがに鋭い優がきらりと松壱を見やる。
「……いや……」
 珍しく言い淀む松壱を優はクロと判断したらしい。そしてこの反応はやはり、その男は人間ではない、とも。
 沙良は頼るような眼差しを宮司に向ける。松壱は条件反射で笑みを返した。彼女は少し安心したように目元を緩め、おずおずと口を開いた。
「あの……その、もう一度会えるだけでもいいんです」
 長い睫毛を伏せる。
「会えたら……」
 彼女が最後まで言い終える前に、アラーム音が鳴り響いた。沙良が慌ててポケットから携帯電話を取り出す。彼女はアラームを停止させ、画面を見た。
「あ、いけない」
「ああ、時間?」
 察して問う友人に、沙良は頷いてみせる。脇に置いていた学生鞄を持ち上げ、
「お話の途中で申し訳ございません。用事があるのでここで失礼いたします」
 松壱にぺこりと頭を下げた。
「あ、私が話を聞いとくね」
 そう申し出る友人にお願いしますと沙良は答える。優は手を振り、小走りに駆け出す沙良を見送った。

難題相談 2

「なんなんだ?」
 丁寧な言葉遣いをやめて、松壱は少女が駆けて行った鳥居の方を見つめた。優はため息をついて、社の階段に腰を掛ける。
「カテキョー」
「……家庭教師、ね」
 松壱も腰掛け、沖は格子扉を開けて出てきた。こちらはいつもどおり沙を纏った袴姿だ。頭上に狐の耳も生えている。優は振り返って声を上げた。
「沖様、お久しぶりです」
「おひさー」
 ひらひらと手を振って沖が最後に座り込む。少女を挟んで、沖と松壱は揃ってため息を零した。
「黒刀か」
「黒刀だろうね」
 優が二人の様子に目を瞬く。
「こくと?」
「ああ、君が言ったとおり、妖怪だよ」
 そう言って松壱は親指で背後――裏山を指した。
「鴉天狗だ」
 えっと優が驚く。
「天狗? でも、鼻は長くなかったですよ?」
 その言葉に逆に松壱が驚く。沖はたまらず吹き出した。
「いや、羽山さん、残念だけど、いや、残念なのか? あいつはわりと普通に人間と同じ外見をしてるから」
 でなければ、沙良が惚れることもなかっただろう。翼を持っているが、当然それは人前では隠されている。
「えーっ、なんだか裏切られた感じです」
 頭を抱える松壱に優は軽く唇を尖らせた。そしてはたと膝を叩く。
「というか、やっぱりお二人の知り合いなんですね。どういう人なんですか?」
 問いに二人はまたため息を零す。沖は座りなおして頬杖をついた。
「人間嫌い。特に子供は嫌い」
 黒刀の性質を端的に述べる沖に松壱が眉を寄せる。
「……子供も嫌いなのか? でも俺……」
 小さい頃に遊んでもらった記憶はいくつもあった。それに遊んでもらっただけでなく助けられたことも何度もある。
 沖はマツイチはね、と言った。
「やっぱり高嶺の子だし。なにより可愛かったしね、小さい頃は」
「え、え、高嶺さんの小さい頃ってどんな感じだったんですか?」
 興味深そうに優が乗り出してくる。沖は話好きのおばさんがするように片手を振って、そしてむふふと笑った。松壱の眉間の皺は無視する。
「すっごい可愛いの。ちっちゃくて色白で、目がころころしててね」
「おい」
「よく寝る子でさ、膝の上で眠られると動けなくなったりして、でも寝顔がまた可愛いから、いいかーなんて……っうぐ」
「黙れ」
 顎を片手で押さえられ、それでも沖は続けた。
「でも寝せすぎたね。こんなに大きくなっちゃうなんて予想外」
「羽山さん、しばらく待っててくれ。この口の軽い狐に制裁加えるから」
「おわわわ、マツイチっ、ギブギブ! ロープ!」
 関節をキメられて、沖が床を叩く。優は笑った。
「あいかわらず、仲良しですね」
「仲良しの意味を勘違いしてるだろう」
 胡乱な眼差しでこちらを見る宮司に、優は両手を振る。
「まあまあ、それより黒刀さん? 人間嫌いってどの程度なんですか?」
「どの程度って……君がここに遊びに来るようになってそれなりに経つけど、一度も会ったことがないだろう? 避けてるんだよ、あいつが」
 ははあ、と優は頷く。嫌いな相手とは顔も合わせたくないということか。友人もやっかいな相手に惚れたものだ。
 松壱は腕を組んだ。
「伊納さんには悪いけど、何か理由をつけて断るしかないな」
 反論したのは沖だ。
「いや、会うくらいならできるんじゃないかな。会えるだけでもって言ってたよね?」
 彼はあくまで人の味方なのだ。少女がわずかでも喜ぶのなら叶えてやりたいという気持ちが沸いてしまう。
 松壱は眉を寄せた。会えるだけで良いという言葉をそのまま受け取ることはできない。無言で見つめ合って終わりなんてことがあるだろうか。
「会ってどうするんだ。話が弾むはずがないだろう」
「それでも気持ちを伝えるだけでもっていう話もあってさ」
「黒刀なんかに相手をさせたらかえって傷つくんじゃないか?」
 口論になってしまった二人の間で優が肩をすくめる。
 沖がお人好しで人間に甘いのは知っていたが、どうもこの宮司はその黒刀とやらの肩を持つらしい。沙良が傷つかないようにと口では言っているものの、黒刀が煩わされるのを避けたいという気持ちが透けて聞こえる。
 よほど面倒な相手なのか、それとも――。
 優が首を傾げた時、ついに沖は立ち上がった。
「もーっ、とにかく、まずは黒刀の意見を聞いてみよう!」
 そのまま天狗を呼びに行こうとするが、肩に羽織った紗を掴まれてうっと踏みとどまる。実は沖の尻尾であるその紗を掴んだまま、松壱はじろりと狐を睨んだ。
「……分かった。そこまで言うならそうしようじゃないか」
 そう言って、松壱は指を鳴らした。いつからそこにいたのか、なぜそこにいたのか、ともかく社の屋根から逆さまに玖郎が降ってくる。優がひっと悲鳴を上げた。
 屋根の縁にぶら下がったまま、怯えた様子の少女に挨拶代わりに手を振ってから、玖郎は松壱のほうを向いた。
「呼んだ?」
「呼んだ。さっきまで聞いてた内容を黒刀に伝えて、どうしたいか聞いてきてくれ」
 玖郎はくるりと地面に降り立ち、おどけた仕草で敬礼の姿勢をとって見せた。
「承りました」
 そう言って、地面を踏むと、人間にはありえない跳躍で森の中へ消えていく。見送って松壱はため息をついた。
 横で沖が拳を握っている。
「ま、また玖郎に物を頼むなんてっ。霊気の無駄遣いもいいとこだ」
「俺のものだ。どう使おうと勝手だろう」
 目線を合わせずに松壱は答える。
 その横でやっと我に帰り、優は玖郎が消えていった方向を指差した。
「い、今のは?」
 外見は普通の人間だった。黒髪を伸ばしっぱなしにしたような男。明るい色柄の洋服を身に付け、沖のように耳だけ人と違うということもなかった。
 沖が不満げな表情で答える。
「俺と同じ玄狐。最近ここに住み着いたんだけど、あいつはマツイチの霊気を報酬に働くんだ」
 優の脳裏を過ったのは巨躯の鬼だった。彼女の身近に潜んで、霊気を喰らっていた。青褪めた少女に松壱が片手を振る。
「あいつは雇い主を食い殺すほど頭の悪い奴じゃないさ」
「でも」
「君とあの鬼の間に契約はなかったが、俺とあいつの間にはある。あいつが俺に逆らうのは契約違反だ。妖魔は存外、そう、人間以上にまじめな生き物なんだ」
 松壱はそう言うと、玄孤が向かった森の方に視線を移した。その横顔を優は黙って見つめる。
 大丈夫だと言うからには信じるしかない。沖と同じ種類の妖魔だというなら、確かに不安はないのかもしれない。
 ただ、一方で松壱が「人間は信用ならない」と皮肉ったようにも受け取れて、寂しい気持ちになった。先ほどのやりとりといい、お人好しの沖より松壱のほうがよほど妖魔に近しいようだ。
 陽光を弾いて金色に輝く瞳には人の世はどう映っているのだろうか。白い横顔から視線を逸らして、優もまた同じように深い森を見やった。

難題相談 3

 世間話を始めた沖と優の会話を松壱が聞き流しているうちに、玖郎が現れた。
「どうだった」
「うん」
 松壱の問いかけに玖郎は頷いて見せるだけで、あとは視線を上へと投げる。その視線の先から。ふわりと風を巻いて、一人の男が境内に降り立つ。
 優は息を呑んだ。高所から飛び降りたのではないと分かった。空中から鳥が降り立つように、重力との折り合いをつけながら爪先が地面につけられる。白いティーシャツの上に纏った黒無地のシャツが風を孕んでいる。穿いているジーンズも靴も黒い。地に踵がつくと、急に重さを得たようにシャツが下方に垂れた。短い黒髪がさらりと揺れる。
 そして、男は不機嫌さの滲んだ無表情で社の下の三人に視線を向けた。黒く見える双眸が、紫を帯びていることに気付いて、優は彼が目的の人物であることを察した。人間に見えるが、人間ではない――そのことを視界の外で理解する。
 松壱は驚いて立ち上がった。一瞬だけ、隣の優を見下ろす。彼女は不思議そうに三頭目の黒い獣を見ていた。
「来るとは思わなかった」
 松壱は半ば茫然と呟いた。まとわりつく風でも振り払うように、黒刀は軽く首を振る。
「沖の正体も知っているんだろう」
「あ、ああ……それもそうか」
 それでも釈然としない気持ちで松壱は優を振り返った。
「羽山さん、彼が黒刀だ」
 優はしばらく目を瞬いていたが、やがて息をついた。
「なんていうか、イケメンっていうのはむしろ畏れ多い感じですね?」
 ゆるいうえに軽い言葉に松壱は目眩を覚えた。ちらりと黒刀を見やるが彼は無表情のままだった。少女の言葉が理解できなかったのかもしれない。
「えーと」
「あ、お世辞とかじゃないですよ」
「いや……まあいいか」
 投げやりに言って、松壱は首を振った。階段を下りて黒刀に近づく。あとから沖と優もついてきた。
「話は聞いた」
 傍までやって来た松壱に黒刀は短く告げる。
「会う必要はない」
「だろうな」
 予想していたとおりの答えを得て、松壱は沖のほうを見た。その顔には諦めないと書いてある。
「天狗だってばれなきゃいいだろ」
「そういう問題ではない」
 黒刀はゆっくりと首を振る。
「すれ違ったところで風が吹くだけのこと。人と人ならず者の接触はその程度のものであるべきだ」
 松壱は視線を下げた。冷たい口調はふだんのぶっきらぼうなそれとは違う。優がいるからだと推し量ることができた。慣れ合う気など毛頭ない、そう言っている。
 優はどう思うだろうか。彼女の表情を盗み見ると、意外にもまっすぐに黒刀を見ていた。不満そうにも不安そうにも見えない。あるいは人間嫌いだという情報から覚悟はしていたのかもしれない。
「でも、袖擦り合う縁を大事にしたいって、そう思ってもいいだろう?」
 言い募る沖に黒刀は冷めた視線を送る。
「お前がそうしたいならそうすればいい。だが、そのおせっかいに俺を巻き込むな」
「冷たい」
 沖は間髪入れずに返す。
「いつもの五割増しくらい冷たい」
 相手の眉間に皺が刻まれるが、そんなものは見慣れている。
「そりゃあ、こっちだって無理強いする気はないよ。でも、黒刀には譲歩がない」
「譲歩する必要はない」
 沖は唇を歪めた。もとより他人が干渉するような事柄でもないことは分かっている。嫌だというなら仕方ない。だけど、それ以上に人間を拒絶するその態度が悲しかった。
「黒刀君」
 口を開いたのは玖郎だった。周りの視線がそちらに移る。優は沖と同じ青い目を見つめた。
「人間だと思わず、会ってみれば? 雪女でも猫娘でもいいじゃない。だって、ユキちゃんは平気なんだろう?」
 紫暗の双眸が細められる。
「……お前は俺の話を聞いていなかったのか?」
 侮蔑のこもった声に、玖郎はさらりと返す。
「聞いてた。でも、僕は恋する女の子の味方だから」
 嘘だ、と松壱は思った。
 確かに玖郎は黒刀と比べれば人に対して好意的だ。しかし、それでも野生の狐。沖ほど親密な感情は抱いていないはずである。
 ならば、なぜ優に味方するようなことを言うのか。答えは簡単だ。
(楽しいからだ)
 だが、松壱はあえて口を挟まなかった。短気な黒刀は玖朗の軽口にかかれば容易に普段の顔を出すだろう。重苦しい空気は自分とて遠慮したい。
 玖朗は肩をすくめて笑う。
「黒刀君はかしましい女の子の相手なんか面倒くさいだけだろうけど、乙女にとってはまだまだ大事な気持ちなんだからさ」
「知るか」
 黒刀は吐き捨てた。
「だいたい話もしたことのない男の何が好きだというんだ? 見てくれか? そんなものが大事だと言われても片腹痛いだけだ」
 松壱は内心で同意する。
(それもそうだな)
 しょせん一目惚れなのだろうから。
 実際、沙良は黒刀を前にして告白のひとつでも出来るだろうか。まず、なんの接点もない他人に話しかけられるかどうかも怪しい。
「そうは言っても、文字通り『人並み』の顔じゃないしねえ。ちょっとは自覚したほうがいいんじゃないの? 分かってやってる松壱より性質が悪いよ?」
「誰の性質が悪いって?」
 笑顔が可愛いと評判の宮司が眉根を寄せて口を挟むが、玖朗はそれを無視した。腕を組んで首を傾げる。
「あれ? つまり顔は合わせてるんだよね? 黒刀君はその子のこと覚えてないの?」
 黒刀は問われてそのまま松壱を見やる。
「どんな女だって?」
「……お前な」
 端から興味がないから確認することでもなかったのだろうが。どう説明しようかと思考を巡らせたところ、優が口を開いた。
「私、覚えてますよ。二人が会ったところ」
 黒刀が少女を見下ろす。優は説明しますよとでも言いたげに小首を傾げた。
 沖はそんな彼女を感心して見つめる。
(相変わらずいい「目」をしてるなあ)
 優は相手が妖魔だろうと悪意さえ感じられなければ、それを恐れることがない。そして、その判定能力は高いと言える。
「初詣で人が多かったでしょう。人混みを抜け出そうとして躓いた沙良を支えてくれましたよね?」
「ありがちだなあ」
 黒刀が答える前に玖朗が苦笑する。優は眉を下げて笑った。
「ありがちですけど、でも、実際にそんなことがあるとは思わないじゃないですか。ふつう、そのままこけるか、自力で踏みとどまって終わりですよ」
 なるほどと頷く玖朗を見て、それから優は黒刀に視線を戻した。
「だから、見てくれだけじゃないんですよ?」
 優しくされたからだと訴える。
「私はなんで人間じゃない人がいるんだろうって、そっちのほうが気になってたから、顔はよく見てなかったんですよね。それにさっさといなくなっちゃったし、えーと、黒刀さんって呼んでも大丈夫ですか?」
 少女の言葉に黒刀は気難しげに眉を寄せる。呼称の問題ではない。呼ぶことを許すということは、この少女と関わりを持つということだ。
 しかし、またしても玖朗が先に口を開いた。
「好きに呼んだらいいと思うよ。僕の推奨は『黒刀様』だけど」
 ばつが悪そうに睨む黒刀に、玖朗は当然のように返す。
「だって、この子、沖のことを『沖様』って呼んでるだろう。じゃあ、黒刀君も『黒刀様』だ」
 その意味が分からず、優は目を瞬いたが、玖朗は構わずに続けた。
「あ、僕は野良だから『玖朗』でいいよ。『お兄さん』って呼んでくれてもいいけど」
 頭上に疑問符が増え始めた優を見かねて、松壱は息をついた。どこまで話そうか少し考えて、端的な言葉を選ぶ。
「黒刀は人外の世界では格の高い存在なんだ。だから玖朗の言うことは一理あるが、厳密に俺たちが気にしなきゃいけないことでもない」
 黒刀の制止の視線には応えず、松壱は続けて玖郎を顎で示す。
「こいつは言葉のまま、野良狐さ。呼び捨てにでもなんでも好きにすればいい」
 はあと優は理解半分に頷く。沖は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
「俺のことだって、べつに呼び捨てでもいいんだけどね」
 優は少し困った顔をして沖を振り仰いだ。
「えーと、でも、やっぱり私からしたら神様みたいなものですし」
 神社のご神体として存在し、事実その力でもって助けてくれた。感謝の気持ちと同様に、親しくなっても彼に対する敬意は消えないと思う。
 こちらの答えに対する沖の微笑みが寂しそうに見えた。彼が人間好きで、人間に対して親しく思っていることを知っている。敬意を持たれることは、本当は彼の望みではないだろう。
「それに今から呼び方を変えるのもちょっと照れ臭いです。もう定着しちゃったし」
 優は力説するつもりで両拳を握ってみせた。
「私にとって『沖様』は『沖様』なんです」
 沖ははにかんで返す。
 松壱がいいんじゃないかと言った。
「ユキだって『沖様』だしな。そのくせ、黒刀は『黒刀』だし」
 そういうお前はぜんぶ呼び捨てだろうと、その場の全員が考えたが、誰も口にしなかった。そんな周囲の目線を受けても、松壱にはなんの痛痒もない。
 優はくるりと黒刀を振り返った。
「じゃあ、黒刀様って呼びます」

難題相談 4

 流れで呼称が決まってしまったことに、黒刀は頭を抱えたくなったが、勝手に呼べばいいというのも本音だ。残った問題は、
「話は戻りますけど、黒刀様、沙良のこと覚えてますか?」
 これだ。
 ここまで会話が弾んだ末にこの少女を無視するのは、さすがに意固地な気がして――少なくとも自分は彼女を交えた会話に参加したつもりはないのだが――、黒刀は観念せざるを得なかった。
「覚えていない」
 ぽつりと答えると、会話の成立に玖朗と沖が嬉しそうな顔をする。癪だ。
「黒髪が肩につくくらいの綺麗な子です」
「あいにくだが」
「……そうですか」
 肩を落とす少女に黒刀は短く息をついた。
「すれ違った相手と二度と会うことがなくても、それだけのことだろう。件の男は見つからなかったと伝えてくれ」
 頑なな相手に、優は控えめに言葉を紡ぐ。
「沙良はお礼を伝えられるだけでもいいんだと思うんですけど」
 なにも沙良とて一度会ったきりの男といきなり親密になりたいとは思っていないだろう。きっかけだけでも作ってやりたいような気がした。
 しかし、黒刀は首を振る。
「礼はいらない」
 退ける声に先ほどまでの硬さがなくなっていることに気付く。優は相手の眼差しから険しさが消えているのを見た。
 天狗は言葉を探す様子で視線を泳がせる。間を置いて苦い声が漏らされた。
「嫌がらせでもしたいというのでないならば、放っておいてほしい」
 優は唇を引き結んだ。
 困らせている。
 いくらこちらが好意を向けても彼は拒絶するしかないのだ。恋慕だろうが感謝だろうが、敵意だろうが、関係ない。
 松壱が彼を人間と引き合わせるのを渋っていたことを思い出す。沖と違って、黒刀は人との触れ合いを良しとしていない。そこにあるのは感情ではなく、ひとつの掟なのだと実感する。
「……どうして、私に会ってくれたんですか?」
 思わず口をついて出た言葉に優は慌てた。だが相手はおかしな質問だとは思わなかったようだ。黒刀の表情がわずかながら和らぐ。むしろこちらが事情を察するのを待っていたかのようだ。
「理由はいくつかあるが」
 耳を撫でる低い声が心地良い。今になって、こんな声だったのかと思う。
「ひとつは、今さらだということだな」
「……ええと?」
「はじめにも言ったが、沖の正体を知っている相手に隠しだてするのも今さらだと思った。他にも俺の存在を知っている人間がいないわけではないしな」
 その筆頭は松壱だろう。優は頷いて、さらに続きを待った。
「それにお前は目がいいから、俺が人でないことを確信しているとも聞いた。そうなら、口止めをしておきたいと考えた」
 松壱はやっと黒刀が現れた理由を理解した。
「いらぬ心配だったようだな」
 得心した表情を見せた青年に黒刀が言う。松壱は頷いた。
「羽山さんは気づいたことを俺にだけ伝えた」
 優は目頭が熱くなるのを自覚した。確かに誰にも言わなかった。言ってはいけないと思ったからではない。言っても信じてもらえないと思ったからだ。信じてくれるのは、「彼ら」だけだろうと。
(……私も、なんだ)
 松壱の横顔が脳裏を過って、優は眉を歪めた。
 自分にも人より妖魔を信じている部分があるのだ。人には見えないものだから、人とは共有できない。そして、松壱もまた人に紛れた異邦の者達を見ながら生きてきた。
「いつの世でも、こちら側を覗く者は足場が危ういな」
 独り言のように零された言葉はよく分からなかった。優は声の主を見る。色の深い紫黒の瞳に何が映っているのか、窺うことはできなかった。
 黒刀に向かって沖が口を開く。
「支えたいと思ってるんだけど」
 遠慮がちに告げられた言葉に黒刀はため息をついた。
「お前がそうしたいならそうすればいい」
 繰り返す。しかし今度は、自分にはそうはできないからと言っているように聞こえた。
 微笑を浮かべる沖から顔を逸らし、黒刀は優に視線を戻す。
「お前の友には悪いが、誤魔化してくれるか」
 優はこくんと首肯した。誰も反論しない。
「分かりました」
 少女の返答に黒刀は頷く。
 松壱が疲れた筋でもほぐすように己の首を撫でながら息をついた。
「ややこしい話にならずにすんで助かった」
「僕としては物足りないけど」
 玖朗が笑いながら黒刀の肩に肘を乗せた。
「バレなきゃそれでいいっていうふうにも聞こえたけど?」
 黒刀は顔をしかめて相手の頭を押し返す。
「勝手なことを言うな。自分のことじゃないからどうでもいいんだろう」
「もちろん!」
 玖朗は語尾にハートマークでもついていそうな軽快な返事をする。黒刀はこれ見よがしに息をつき、松壱に目線で玖郎を示した。
「高嶺、こいつを使いにするのはやめてくれ」
 玖朗がどのようにして黒刀を引っ張り出したのかは分からないが、ろくでもないことがあったのだろうと松壱はあたりをつける。「理由がいくつかあった」のもそういうことだろう。
「沖の方が良かったか?」
「それもやめてくれ」
 なんでだよと不貞腐れる沖に、黒刀は煩わしそうに片手を振って返す。仲が良さそうだと優は笑みを浮かべた。
 不意に黒刀が輪から一歩下がる。
「話は済んだな」
 その言葉にはっとして、優はその背を追って声を掛けた。
「もう帰るんですか?」
 名残惜しそうな少女の声に振り返り、黒刀は思い直したように踵を返して優に近づいた。
「確かに目はいいようだが……、灯台もと暗し、か」
 そう言うと、相手の両肩をそれぞれ軽く払う。きょとんと見返す少女に、彼は少し呆れたように眉尻を下げた。
「じゃあな」
 地面を蹴る。翼でも生えているかのように宙に舞い上がると、あっという間に木立に隠れて視界から消えてしまう。
「あ、さよならって言えなかった」
 ぼんやりと見送ってしまってから、はたと気づいた。
「大丈夫だと思うよ」
 優は声を掛けてきた沖に向き直った。己の肩を撫でて問う。
「今の、なんだったんですかね」
 沖はいまさらだなあとでも言うように笑った。黒刀が最後に見せた表情に少し似ていると優は感じた。
「肩凝りのモトを払ったんだよ」
「あれ、私また何かつけてました?」
 優は自分の肩をきょろきょろと見降ろす。知覚能力に欠く松壱もまた言われて気づき、彼は黒刀が去って行った方角を振り仰いだ。
「いや、そんなたいそうなものじゃなかったけど」
 沖としては払うほどでもないと感じていたものだ。それをわざわざ払っていったのだから。
「気に入られたと思ってもいいんじゃないかな」
「えっ、どのへんで?」
 優は驚いて声を上げた。自身のことを卑下するつもりはないが、先ほどのやりとりのなかで、何か気に入られるような要素でもあっただろうか。
「そりゃあ、黒刀の頼みを聞いた形になったわけだしね」
 ああと優は納得する。ならば、気に入られたというよりは、礼代わりだったのかもしれない。それでも嫌われたわけではないだろうからよしとしよう。
「でも、沙良に対する言い訳を考えなきゃいけませんね」
「けっきょく分からなかったと言うしかないんだろうな」
 松壱の意見に頷いて、優は背伸びをした。社の下に戻ってカバンを持ち上げる。自分もそろそろ帰らねばならない。
 帰り支度をする自分を待っている三人の側に駆け寄り、改めて頭を下げる。
「今日はなんだか面倒なことにつき合わせちゃってすみませんでした」
「いや、俺は楽しかったよ」
 沖が笑みを浮かべて返す。玖朗も同様に頷いた。
「女の子の相手はいいものだよ」
 優は相好を崩す。沖は本心面倒だとは思っていなかっただろう。玖朗は楽しくないものでさえ楽しんでしまおうとする気概が窺える。
 松壱を見る。彼は腕を組んで頷いた。
「ああ、面倒だった」
 そう言うだろうと思っていた。
「だから、すみませんってば。でも、声を掛けてきたのは高嶺さんの方ですからね」
「あのときはそれこそ面倒事を避けるつもりだったんだ」
 松壱は記憶でも遡るように空を見上げた。赤く染まり始めている。
「まさかこんなことになるとは……」
 優は笑った。
「そういうこともありますよ」

難題相談 5

 前日から雨が降ったりやんだりしていた。陽は顔を出さず、冷たい空気が肌を撫でる。今もまた雨が降っていた。小降りではあったが、木々に囲まれた場所はひときわ大きく雨音が響いている。
 伊納沙良は傘を後ろに傾(かし)いで、石段を見上げた。石はじっとりと雨を含んで重い色をしている。瞼を水滴が打って、傘を戻した。
 学校帰りに立ち寄った神社は人影も見当たらず閑散としている。雨音が傘を包む音は耳に心地よかったが、足元が湿る感覚はいいものではない。
 友人には、あの日思い当った人物は人違いだったと謝られた。そもそも彼女の問題ではなかったのに、手を煩わせてしまって謝りたかったのはこちらのほうだ。
 だからなのかもしれない。この長くてきつい石段をもう一度登ろうと考えたのは。何かしなければいけないような気がしたのだ。
 一方で、もう諦めようという気持ちもあった。相手の素性も分からない。助けられはしたが、それが彼のすべてではない。手を貸したのは気まぐれか偶然で、本当は酷い人間なのかもしれない。もしそうであるなら、わざわざ事実を知る必要はないないし、知りたくもない。
 だから、叶うはずもないと思いながら石段を昇り、それでおしまいにしようと、そう思った。
(我ながら悲観的だけど)
 ため息を零す。さすがに息が白くなるほど寒くはない。沙良は唇を引き結んだ。

 中腹まで来て足を止める。背後を振り返って、ここまで登った自分に関心してしまう。
(こんなことで満足してもしょうがないのだけど)
 前回は優が一緒で、喋りながら登ったからあっという間に思えた。傘を打つ雨音を聞きながら、取り留めもなく思考を巡らせる。授業のこと、課題のこと、新刊の本のこと、初詣のこと――。
 顔を見たのはわずかな時間だったが、網膜に焼き付いた。こちらを見下ろす紫暗の瞳は心配しているふうもなく、ただ黙ってこちらを支えていた。
(そうね……優しくは、ないのかもしれない)
 突然のことに上がってしまい、礼を言えなかったのだが、相手もまた何も言わなかった。人混みを避けるようにして去っていった背の高い後ろ姿も記憶に残っている。おおよそ愛想というものは見当たらなかった。
(なのに)
 沙良は片手で頬を押さえた。熱い。
 その冷たい容貌が頭から離れず、もう一度会いたいという気持ちは日毎に強くなっていった。恋心と称していいのかは分からない。気に入った絵画をまた見たいという気持ちと何が違うのだろう。
 分からないから、切りがないから、早く諦めてしまったほうがいいと思った。
 こんなに会いたいという気持ちを抱えたまま――?
 沙良は残りの段数を気にして顔を上げた。そのとき散漫な気持ちになっていたのがまずかった。
 石段に掛けた足が滑る。
 声も出なかった。つい先ほど見下ろした高さが脳裏を過る。落ちたらどうなるのか。
 答えを得るより先に肩を支えられた。
 己の体勢を理解できないまま、それでも滑らせた足で下の段を踏み抜く。それでやっと上体の安定を得ることができた。水が跳ねたのか、靴下に濡れた感触がじわりと広がる。心臓は痛いほどに早鐘を打ち、沙良は大きく息を吸った。傘を握りしめる。
 肩を支えていた腕が離れ、慌てて振り返る。礼を言わなければ。助けてくれた相手はすでに背を向けて去ろうとしていた。その後ろ姿。
 短く整えられた黒髪。振り仰ぐ長身。黒いシャツに見覚えはないが――。
「あの!」
 男は石段から道を逸れようとしている。その先には林。どこへ行くというのか。あの日も男を追うことはかなわず、見失ってしまった。まるで逃げられているようだと思う。
 ふだんならそんなことが出来るはずもないのに、沙良は男のシャツを掴んだ。小雨に晒されて冷たく湿った手触り。黒い髪が揺れて、男が振り返る。
 紫黒の双眸を、沙良は感動を持って見た。
 オーバーシャツの下には、白いティーシャツを着ているようだった。穿いているジーンズも黒で、鈍いモノトーンの印象は、しかし、その冴えた相貌によって引き締められている。切れ長の目に直毛の黒髪が涼しげで、結んだ唇はいかにも寡黙そうだ。
 見下ろされて、沙良は思わず肩を震わせる。
「なんだ?」
 低い。囁くような静かな声音に心が痺れる。以前に会った時はその声を聞くことはできなかった。
「あの、あ……」
 声が上擦る。だが、今しかないのだと、二度も機会を棒に振るのかと、自分を叱咤する。
「ありがとうございました。あの、以前にも助けていただいて……、そのときの分も……ありがとうございました」
「……以前?」
 男は首を傾げることもしなかった。
 覚えていないのか。想定はしていたが、自覚している以上に自分は期待を持っていたらしい。ぎゅっと胸の奥が委縮するのが分かった。
「あ……すみません」
 小さく声を漏らす。再会に対して一人で舞い上がっていたのかと思うと、羞恥が強まって顔を上げていることができなかった。そうしてうつむいてしまうと、今度は涙がこぼれそうになって後悔する。泣くようなことではないはずだと思うのに、動揺はますます気持ちを不安定にした。
「なぜ謝るのかは分からんが」
 男は感慨もない声で続ける。
「足元には気をつけろ。今のは運が良かっただけだ」
 怒られているわけでもないのに、気分はそんな心地だった。頭上に感じる視線が苦しい。
「……は、はい」
 息を絞って出した声は涙声で、男が目を瞬いたのが分かった。だが、沙良にはどうしようもできなかった。なんでもないと顔を上げることもかなわない。
 男は逡巡したすえに口を開いた。
「……神社に用があるのか? このまま一人で登れるか?」
 気遣う言葉。階段から落ちかけたことに驚いて泣いてしまったのだと解釈したのだろう。
 このままでは悪戯に相手を困らせてしまう。息を吸って沙良は目を開いた。ふと自分の足元を見る。己の靴の周りは雨が落ちていない。だが、男の靴を雨粒が打った。その様子が視界に入ってはっと顔を上げる。
 そういえば、相手は傘を持っていなかった。助けられた上に、いつまでも雨の下に晒していたのか。
「す、すみません、あの、これ」
 何も考えられないまま、勢い余って傘を差し出す。男は首を振った。黒髪から滴が落ちる。
「いや、いい」
 沙良はゆっくりと傘を引き戻した。相手が濡れているのに自分だけ雨をしのぐのが気まずくて、そのまま傘を閉じる。固い切っ先が石段を引っ掻いた。
「濡れるぞ」
「いいんです」
 絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
 沙良はなんとか笑顔を作ってみせた。
「転びかけた時にも濡れましたし。いっそ滑らないよう杖代わりにする方が良いような気がします」
 縋(すが)ればこの人は一緒に登ってくれるだろう。
 だが、そんなことは望めない。
「そうか」
 わずかだが男が唇を歪めた。笑ったのだと分かった。嫌味でもなんでもなく、少女の提案が可笑しかったようだ。
 それだけのことだったが、沙良の気持ちはぐっと軽くなった。相手はべつに怒っているわけでも、疎んじているわけでもないのだ。
 ただ、助けてくれた通りすがりの人だ。
「大丈夫です。一人でも」
 ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました。……あの、風邪などお気をつけてください」
 男は頷いた。
「ああ。お前もな」
 それだけ告げて林に向き直る。軽い身のこなしで石段を蹴ると、舗装されていないけもの道に降り立つ。
 そのまま、男は振り返ることもなく木陰に消えていった。
(どこへ行くのかしら……)
 暗い林を見つめる。
(……どこから、来たのかしら……)
 誰もいなかった。転ぶ前に石段から下界を見下ろした時、人影などなかったはずだ。
 再び寂しい石段を見下ろす。不思議な気分だった。
 しとしとと降雨が木々や草花に吸い込まれていく音が全身を包む。
 白昼夢でも見ただろうか、自分を疑い始める。もう一度会いたいと思うあまり? そっけないけれど、確かに優しい――そんな都合のいいものを見たのか。
 沙良は石段の頂上を振り仰いだ。小雨を降らす薄い雲が目に眩しい。灰色の視界に、赤い鳥居が小さく見える。
 白昼夢を見せた存在がいるなら――。
(神様……?)

 沙良は石段を最後まで登り切り、社の前で願い事ではなく礼を言った。