残片 6

 乗り換えの駅で、沖は再び足を止めた。
「……俺」
「氷輪?」
 首を傾げる玖郎の声は耳に届かなかった。胸騒ぎがそれを凌駕している。足が帰りたいと訴えていた。
 沖の手が震えているのを見て、ユキは彼の服の裾を掴んだ。
「沖様、高嶺がひとりです」
 水色の双眸が見開かれる。
『明日から高嶺は一人だな』
 黒刀の台詞をもう一度反芻し、沖はやっと理解した。彼は「独りだな」と言ったのだ。
「俺……っ馬鹿だ」
 今頃、気づくなんて。

     *     *     *

「黒刀……なんで来たんだ」
 松壱は掠れた声で後姿に向かってそう訴えた。振り返った黒刀は質問には答えず、汗の滲んだ相手の額を撫でてやった。
「何だ? さっきみたいに昔の呼び方はしてくれないのか?」
「……気の迷いだ」
 意地悪に尋ねてくる黒刀に松壱はうんざりと答える。雷鳴の中、霞のかかった頭で呼んだ名はもうずっと忘れていた愛称だった。
「迷っていたのが分かってるなら大丈夫だな。応急処置しかしないぞ。時間がない」
 言うが早いか、黒刀は額を撫でた手に光を溜め、血を止めた。傷口を塞ぐことまではしなかったが、ヴェールのようなものが肌を覆うのを松壱は感じた。
 黒刀は立ち上がり、何もない中空から錫杖を掴み取った。弧を描いて両手で構える。
「羅刹鬼(らせつき)か」
「興醒めじゃ」
 見下す視線で告げてくる鬼に黒刀は片眉を上げて見せた。
「じゃあ、帰ったほうがいい。痛い目を見る前にな」
 ざわりと鬼の髪が揺れる。
「……まさか、そう言われて退くと思うか」
 ざわざわと鬼の妖気が膨れ上がっていく。
「飛焔!」
 噴き出す妖気を声が制御する。矢のように飛んでくる炎を黒刀は錫杖で払った。紫黒の瞳が冴え、周囲の空気が帯電する。虚空を切り裂く錫杖の切っ先が鬼を指した。
「雷麟!」
 唸りを上げて光が走る。対して鬼は手を上下左右振り、防御結界を築く。
「臥盾(がじゅん)!」
「安い壁なんか作ってんじゃねえよ!」
 相手の盾と己の雷撃が相殺する次の瞬間を狙って、黒刀が二撃目を打ち込む。
(これは、入る)
 松壱は強烈な風が鬼を地面から剥がすのを見た。格が違う、そんな現実味のない言葉が頭に浮かぶ。
 鬼が宙に舞い、木で背を打った。地面に落ちて、鬼は唸り声を上げる。
「おのれ、おのれえ……っ!」
 口角に泡を飛ばし、溢れる妖気で傷を治していく。
「人間なぞに情けをかけるような腑抜けに勝てぬはずがないのだ!」
 黒刀は錫杖で肩を叩いた。不愉快気に鬼を見下ろす。
「あいにく、俺は人間なんかに情けをかけられるほど優しくはないんだよ。どっかの狐とは違うんでね」
「ならば、なぜ――」
 松壱を助けるのだという鬼の問いは、肉薄する黒刀の妖気の凄まじさに掻き消された。
 驚愕に声を欠く鬼の耳に、静かな声音が響く。
「『特別』って言葉を知ってるか?」
 黒光りする柄が、その身体を貫いた。

     *     *     *

「俺、帰る」
 そう言って妖力を解放する沖の肩を玖郎が掴む。
「帰るって、里は?」
 沖は悲しげに眉を寄せ、玖郎の手を払った。
「行かない」
「見なくていいのか」
 責める響きを帯びた声音に、沖は首を振る。
「ごめん。玖郎が一人じゃ見られないかもしれないと思って言わなかったけど……俺はもう見たんだ。四百年前に」
 血の匂いも生々しいその土地に。三代目高嶺が連れて行ってくれた。
 そして、声も上げられない沖に代わって、泣いてくれたのだ。沖を抱きしめて彼が泣いてくれたから、生きている。
 玖郎が驚きで顔を染める。
「……四百年前に、見た……」
「……っだから、ごめん!」
 沖は叫んで、地面を蹴った。今乗ってきた電車の屋根を更に蹴り、青空の向こうに消えていく。
 残ったユキは呆然としている玖郎を見上げた。
「他種族のユキじゃ不満かもしれないけど、一緒に行ったげるよ?」
 小さな銀狐を見下ろし、玖郎は笑みを零した。
「いや、いいよ」
 首を振る。
「僕ももう見たからさ」
 ただ四百年前ではない。二百年前だ。
 そこにはすでに里の跡はなく、若い森が形成されつつあるだけだった。
 皆の屍を吸い込んで茂る木々。十夜が、迦葉が、どこで死んだのかも分からない程の緑。
 だからせめて、二人の息子を連れて行きたかった。
 これからは彼と玖郎とが二人だけで、一族の無念を背負う。その覚悟を決めさせなければいけない――、そう思ったから。
「……僕は意外と後ろめたい奴だったんだな」
 ぽつりと呟いて、眦を押さえる。
 氷輪は無念を背負うことはないだろう。彼はもう、別のものを背負っていたのだ。
 玖郎の服の裾をユキがくいっと引っ張る。玖郎が見下ろすと、そこにはしっかりと見上げてくる幼い双眸があった。
「大人は後ろにいっぱい過去があるんだから。沖様より後ろめたくったってしょうがないわよ。気にすることないわ」
 少女の言葉に玖郎は目を瞬いた。
 そして笑う。ユキの頭を撫でてやり、玖郎は歩き出しながら、どうしても笑んでしまう口元に手をやった。

(……これならば僕も背負いたいというものだ)