残片 1

 気持ちのいい晴天。自然と背伸びをしたくなるような見事な青空である。
「マツイチー、どこか遠出しようよー」
 と、そんな麗らかな日には自然と出る台詞。
「そう考える人間がどれだけいると思うんだ。せっかくの大型連休を芋洗いに費やす気はない」
 切り返す台詞はまたそれぞれ。
 人ごみに揉まれて遠出するよりも、邪魔のない広い庭を掃除する方が万倍楽しいと考える松壱には、休日にレジャーという発想はない。
 いつもと変わらず箒を手にした松壱は、社を開け広げて伸びている狐を睨んだ。
「出掛けたいならユキを連れて二人だけで行って来い」
 黄金の名を頂くこの数日間、わざわざ長い石段を昇ってまで神社にやってくる人間は稀だ。ご神体がいなくてもさして問題にはならないだろう。
 ごろごろと転がり、頬杖をついて沖は半眼で松壱を見つめた。
「えー、その間に黒刀と二人で出かけたりしない?」
「しない。する意味がない」
 揺草山の裏手に住む鴉天狗の黒刀も暇を持て余しているのか、最近ちょくちょく遊びに来ていたりする。
「ふふふ」
 にやにやと笑い出す沖を、松壱は気持ち悪そうに見た。
「なんだ?」
「んー、マツイチも変わったなーと思って。ちっちゃい頃は黒刀にベッタリだったのにねー」
 まだ小学校にも上がらない頃の少年にとって、耳が生えているだけの沖より、翼を持つ黒刀の方が一緒に遊びたい存在だったのである。
「昔のことだな」
 怒るわけでもなく、冷たく返されて、沖はまた床の上を転がった。
「暇だよー、マツイチー。ご神体に不自由させないのは宮司の務めなんじゃないのー?」
「そういう教育は受けておりません」
 きっぱりとそれだけ答えて、松壱は沖に背を向けた。そしてカサカサと石畳の上を掃き始める。
 だんだん遠ざかっていく松壱の後姿を眺めながら、沖は瞼を擦った。
(眠い……)
 鳥居の側まで来て、松壱はふと手を止めた。視界の中に箒の先と人の足が入っている。顔を上げると、石段を三段ばかり残した位置に男が一人立っていた。
 紫の開襟シャツに白いスラックス、ちょっとばかり派手で、ちょっとばかりセンスが悪い。伸ばしっぱなしにしたような黒髪を揺らし、男は片手を上げた。陽光を弾いてサングラスが光る。
「ぼんじょーるの」
「…………こんにちは」
 あまり関わりたいタイプではないと感じながら、松壱は一応ぺこりと頭を下げた。
 男は笑みを浮かべて、残りの石段を昇ってくる。
(……う)
 松壱は隣に立った男に目線を合わせるには、わずかに上向かなければならないことに気づき、思わず眉を寄せた。黒刀と同じかそれより高いか。
 いずれにしろ自分より背の高い相手というのはあまりなく、松壱としてはどことなく苦手な感を受けるのである。
「君が宮司?」
 男は松壱を上から下に眺めたあとそう尋ねてきた。松壱は頷く。
「ふーん、確かに可愛い感じではあるね」
「かっ……」
 可愛いなどと。面と向かってはたまに参拝に来る中年女性などにしか言われたことがない。
 絶句して一歩あとずさる青年に男はくつくつと笑って見せた。
「いや、町のほうで美青年だと聞いてきたからさ。なるほど噂も馬鹿には出来ないらしい」
 からかわれている。そう悟って松壱は箒を握る手に力を込めた。もちろん顔には出さない。
 そんな松壱に気づいているのかいないのか、男は別の方向を見やり片手を上げた。
「……アレは何?」
 男の指差す先を振り返って、松壱は眩暈を覚えた。
 社でくかくかと沖が寝息を立てている。
(……あ、の、バカ狐!)
 拳を握り、絶対にゴールデンウィーク中は外出なんかさせないと心に決める。
「あはは、あれが『オキツネ様』?」
 耳を打ったのは、まさか、と思うような台詞だった。笑いながら男は歩き出す。
「……あ、ちょっ」
 呼び止めかけて、松壱はやっと男が人間でないことに気づいた。彼を包む気の色は人外のものだ。
「あー、ごめん。忘れてたね」
 宮司の声に振り返って、男は微笑んだ。サングラスを外す。
 松壱は息を呑んだ。
「自己紹介。僕は玖郎(くろう)
 男の青い青い双眸がこちらの驚愕の表情を映している。

「玄狐の生き残りさ」

 その青は沖のそれと同じ色だ。
 考えるよりも先に身体は動き、松壱は男のシャツを掴んでいた。
「……ん?」
 不思議そうにその手を見下ろし、玖郎は首を傾げた。
「何?」
「な、何って……まさか、本物、なのか?」
 玖郎のシャツを掴んだまま、松壱は問う。
 四百年前に玄狐は沖という例外を除いて絶滅したのだと祖父に聞かされていたのだ。突然現れて玄狐だなどと言われて受け入れられるはずがない。
「疑ってるわけ?」
「……疑うというか……」
 じっと見上げてくる明るい色の双眸を玖郎は逆に覗きこんだ。
「君、ハーフ?」
 間近に沖と同じ青い瞳。本物なのかと目を見張りながら、口は勝手に質問に答える。
「……いや、クォーター……です」
「お国はどちら?」
「……ドイツ……って、なんであなたに答えなきゃならないんですか」
 口を動かすうちに我に返り、松壱は不満げに眉を寄せた。
「さあ、素直に答えてるのは君だけど? うん、ドイツもなかなかいい所だったな。麦酒は美味しかった」
 言いながらその味を思い出したのかぺろりと唇を舐め、玖郎は腕を組んだ。
「僕が生き残ったのはそういうわけだ。玄狐の里が壊滅したとき、僕はヨーロッパにいたんだ」
 沖は揺草山にいたから助かったのだと祖父から聞いている。
 松壱は玖郎のシャツから手を離した。
「なんでヨーロッパなんかに……」
 玖郎はちらりと沖のほうを見やってから答えた。
「傷心を癒す旅さ」