鬼の霍乱 5

「東條さん、俺は何度も言ったはずです。相続権は放棄する、と」
 そう告げる松壱に対して、東條山背は笑みを崩さない。
「君は東條の財産を知らないからそんなことを言うんだ」
「知ってますよ。でも俺には必要ありません」
 頑なに拒む甥の肩を山背は掴んだ。色素の薄い、自分とは似ていない双眸を見つめる。
「なぜだ。なぜ、無意味に手放すんだ?」
 松壱は伯父を嘲るように笑った。
「あなたに譲るよりは意味があることだと思うからですよ」
 かっと山背が目元を赤らめる。
「善人ぶる気か! あのろくでなしの息子が」
 怒号は無遠慮に松壱の劣等感を刺激した。松壱が睫毛を震わせ、そしてうつむいて声を絞る。
「……俺はあんな奴の息子じゃない」
「息子だよ」
 山背は甥の襟を掴み、嬲るように吐き捨てた。
「鏡を見てみろ。お前のその顔は間違いなく、あの男のものだ」
 胸を締め上げられる息苦しさに眉を寄せながら、松壱は頭を振った。
「……黙れっ」
 その声に呼応するようにびしっと空気が弾け、乾いた手で叩かれたような痛みが山背の頬に走る。
 痛みと怒りに山背は顔を歪ませた。
「妖怪を飼いならす力がこれか!」
 叫ぶな――松壱は頭の中で呻いた。
 男の怒罵は脳内で狂ったように響き、頭痛を増長させる。熱に侵された体は言うことを聞かない。
「姉さんは優れた術師だったが、お前が継いだのは父親の粗野な力のようだな!」
 松壱はぼやけた視界で山背を捉えた。
(叫ぶなよ。……自制できなくなるだろ……)
 彼は身の内に流れる霊力が、渦巻いて勝手に暴れだそうとしているのを感じていた。幼い時も熱を出したときは霊力を上手く御せなかったのを覚えている。
 ただでさえ集中力が落ちているこの時に、耳元で騒がれると、いっそ流れのままに力を解き放ってしまいそうになる。松壱はきつく目を閉じた。
(落ち着け……)
 父親がどうしたというのだ。
 あの男がどんなに暴力的な人間だったとしても、自分には関係ない。
「……帰ってください、東條さん。俺はなんと言われても意見を変える気はありません」
「っこの!」
 山背は甥を突き飛ばした。なす術もなくベッドに倒れこみ、松壱はシーツを握り締めた。
 思考さえも飛んでいきそうな感覚。だが、決して放り出したいわけではないのだ。自分は衝動的な怒りを最も恐れている。
 理性に縋るように、松壱は呼んだ。
「……月佳、来い」

 突然、沖が立ち上がる。
 座卓を蹴飛ばさんばかりの勢いに、千里はぎょっとして肩を跳ねさせた。
「沖?」
 黒刀が呼び止めるが、沖は滑るような動作であっという間に客間から出て行く。
 唖然とする千里には構わず、黒刀は紫黒色の双眸を細めた。
(呼ばれたのか……?)
 今はこの部屋にいない、現高嶺だけが沖を自由に呼び出すことが出来る。
 妖怪の手綱、真名によって。

「マツイチ!」
 襖を外さんばかりの勢いで現れた妖狐に驚きながら、山背は振り返った。
「なっ?」
 当惑する伯父の背後で、松壱は唇を笑みの形に歪めた。
「東條さんはお帰りだ。送ってやれ」
 月佳は頷いた。
 そして立っている男の肩を掴む。
「なんなんだ?」
 半ば怯えるように山背は後退ろうとする。
「石段の下に車がある……」
 独り言のように呟き、月佳は掴んだ男をそのまま放り投げんとするかのように、引っ張った。自分よりも背の低い華奢な青年に身体を浮かせられることに、山背は驚愕した。
「うわっ!?」
 そしてまるでぽおんと投げるような感覚で月佳が手を離すと、山背の姿は室内から消えた。
 ぱんぱんと手を叩き、月佳は主を振り返った。
「終わったよ」
 嬉しそうに笑う狐に、松壱は追い出すような仕草で手を振った。
「靴もだ、バカ。早く届けて来い」
「あ、そっかー」
 いそいそと出て行く狐を見送ってから、松壱はため息をついてベッドに転がった。

 放り投げられた。
 奇妙な浮遊感を覚えて目を閉じていた山背は、体がどこかに着地した感覚を受けて、恐る恐る目を開いた。
 そこは神社の石段の下に停めていた自分の車の中だった。身体はきちんとシートにおさまっており、木陰に停めていたせいでほんのりと湿ったような涼しさが車内にはある。
 ほっと息をつくと、膝の上にぼとぼとと靴が落ちてきた。
「わっ」
 驚きながらもそれを受け止める。まだ何か落ちてくるのかと身構えるが、次はなかった。
 そして今度こそ、安堵の息をつき、山背は車のハンドルに額を押し当てた。
 徒労感に重い溜息が漏れる。行ってみたら熱があるというので、今日は交渉し易いかもしれないと思った。だが、結局いつもよりもどたばたした帰還を受けてしまった。
 あの背の高い男もおそらく人ではない。術は使えないが、山背もまた魔性の存在を視認することができる。だが、彼はそれらと馴れ合うつもりはなかった。
(……妖怪屋敷もいい所だ)
 彼はぽつりと呟いた。
「疲れた」
 しばらく甥のところを訪れるのは控えよう。
 山背はのろのろと靴を履くと、車のキーを差し込んでエンジンをかけた。