肩こりの少女 5

 少女は打ち身だけで、特に目立った外傷はない。そのことを確認して、松壱は立ち上がった。
 次に、明らかに重傷である狐に向き直る。と、その足元の仔狐に気づく。
「ああ、ユキ。よくやったな」
 松壱に褒められるのが癪なのか、ユキは少しばかり唇を尖らせた。
「やるわよ。ユキは沖様の重石だもん」
「……なるほど」
 優には分からなかったが、松壱はその言葉に頷いて、今度こそ沖の顔を見つめた。
 ユキは沖の足から離れ、彼の顔を見上げた。わずかながら沖は動揺しているようだった。
「……マツイチ」
「よくもまあ、こっぴどくやられたもんだな。見せてみろ」
「あっ……いたた!」
 腕を引っ張られて、傷が引き攣ったのか沖が声を上げる。それでも松壱は構わず、相手の傷口を覗き込んだ。
「まったく、手を抜くからこんなことになるんだ」
 そう言って、松壱は沖の傷に手を触れた。
「っ……!」
 痛みに沖が目を固く瞑(つぶ)る。その表情にユキがつられて眉を寄せた。
 松壱の手がぼんやりと光る。優は目を凝らして、それに見入った。
 なんと言っているのか聞き取れない、日本語なのかさえ怪しい言葉を、高嶺神社の宮司がぼそぼそと呟いているのがかろうじて耳に届く。やがて光が強くなり、分裂して沖の背中を飛び回った。
「ねえ、あれ何してるの?」
 尋ねると、ユキは顔をしかめたままだったが、答えくれた。
「傷を治してるんです。応急処置ですけど」
「そんなこと、出来るの? すごい……」
 感心して優がそう呟くと、ユキは不満気に唇を尖らせた。
「ユキだって出来ます。ただ、高嶺の方が上手いから役目を譲ってやるんです」
 少女の不満は焼き餅にも近いだろう。沖の傷が癒えると知ってほっとした優はユキの様子に小さく笑んだ。
 やがて宮司の手から光が消えた。
「終わりだ」
 短く告げて、相手の肩を軽く叩く。沖は小さく息をついて、松壱を見やった。
「乱暴だ」
「感謝しろ」
 高慢な物言いに、沖はため息をつく。
 それから礼を言うこともなく、鬼のほうを振り返った。少女姿の鬼は腕を組んでこちらを見ていた。
「終わったか」
「ああ、そっちが待っててくれたおかげで」
 沖が肩をすくめてそう言うと、鬼は鼻先で笑った。
「そのほうが面白いかと思ってな」
「後悔するよ。そんなこと言ってると」
 言い返して、沖は一歩進み出た。
「沖」
 背後から呼ぶ声に沖が振り返る。塀に背を預けて、すっかり傍観を決め込むつもりらしい松壱がこちらを睨んでいた。
「真名(まな)で命じたいところを堪えてやる。ギャラリーが多いからな」
 もう飽きたとでも言うようなやる気のない口調であったが、ぴくりと沖の表情が変わる。
 真名、この単語に反応したのだろう。妖怪の唯一絶対の弱点である。真名を呼んだ者の命令には逆らうことは出来ない。
 ふう、とあからさまに嘆息して、松壱は見上げるように首をかすかに傾けた。陽光を弾きやすい明るい瞳が、金色に光る。
「沖、お遊びの時間は終わりにしろ」
 蒼穹を映したような澄んだ瞳が一瞬細められる。その視線を真っ直ぐに受け止めながら、松壱は続けた。
「一日で二度も俺に治癒能力を使わせてみろ。ただじゃおかないからな」
 ただじゃおかない、とは抽象的な言葉ではあったが、その凄みのきいた声に優は冷や汗の出るような心地になった。
「心得ておく」
 短く答えて、沖は鬼に向き直った。
 二人のやり取りを聞いていた鬼が、嘲笑を浮かべる。
「貴様、人間なんぞに真名を知られたのか。情けないのう。同じ妖しとして恥ずかしくもなるわ」
 沖の表情に変化はなかったが、そのパーカーが淡い光をまとうのを優は見た。
「好きなだけ恥じ入るがいいさ。これから妖狐に負けるんだ。大鬼であるあんたは」
 完全に光と化したパーカーはしゅるしゅると縮んで、次にふわりと広がった。淡い、月光の青をした紗。
 優とはじめて会った時も、沖はその紗を身につけていた。
「負ける? 私が? 狐に?」
 沖の言葉に疑問符をつけて、鬼が反芻する。
 そして、ばっと彼は腕を伸ばした。速い。
「口を慎め!」
 怒号とともに鋭い爪が沖の体に到達する。その瞬間、ふわりと、本当にふわりと沖は跳ねた。紗が広がって、鬼の腕はそれに吸い込まれるようにして狙いを外される。
 それは場違いなほどに優雅な跳躍に思えた。
 視界を遮る紗の向こうから静かな声が響く。
「何度も同じ手を喰うと思うなよ」
 鬼の舌打ちが耳に届く。
「ならば! 違う手をくれてやろう!」
 振り向く鬼の髪が伸びた。波打ちながらも沙を打ち抜く勢いで伸びていく。
 紗を巻きこんで、あっという間に沖の体に巻きつく。きりきりと手足を締め付ける大量の髪。
 相手が動けなくなったのを確信して、鬼は狐をねめつけた。獰猛な眼光にも沖の表情は揺るがない。
「さて、次はどうして欲しい?」
 鬼の問いかけに、沖は口角を吊り上げた。
 紗が輝き、沖の黒髪が伸びた。いや、元に戻ったと言うべきか、同時に耳も狐のものに変化する。
 優がはじめて神社で見たときの姿。ただ服だけが洋服のままである。
 鬼は表情を歪めた。大きく、驚倒の表情へと。
「……黒い……狐……」
 しゃがれた声が明らかに震えている。
「……っ嘘だ! まやかしだ!」
 がっと沖の胸倉を伸ばした腕で掴み取る。唾を飛ばす勢いで、鬼は叫んだ。
「黒い狐の一族は、四百年も前に絶滅したはずだ!」
 優が目を見開く。
 体を吊り上げるほどの力で締め上げてくる腕を、沖は掴み返した。ぎょっとする鬼に、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべてみせる。
「悪かったな。生き残りだよ!」
 鬼が金色の目を見開く。沖は掴んだ腕に、手の平を通して妖力を叩き込んだ。
「ぐあ!」
 声を上げて、鬼は腕を振り払った。赤い腕は黒く焦げていて、煙を上げている。
 髪の毛が緩んだので、沖は絡んだそれを引っ張りながら地面に降り立った。
「おのれ!」
 鬼の怒号と同時にばっと少女の皮が破れた。中から真っ赤な鬼、少女姿であったときの倍はゆうに越える高さの、巨躯の妖怪が現れる。
「最初からそうしてればよかったんだよ。……もう『今更』だけど、さ」
 そう言う沖の手が夜光虫の緑に発光した。
 びりっ、と背中が緊張する。優はその光に凄まじい気配を感じた。
「いちいち癇に障る狐だ……。だが、ひ弱な人間の皮を脱いだ以上、もう好きにはさせぬぞ」
 鬼が地面を蹴る。巨体にもかかわらず、その動きは速い。
 だが、それよりも早く、沖は地面を手の平で叩いた。
「開け! 双刻の暗!」
 地面が波打つ――いや、波打ったのはその上の空間だ。
 やがて真っ黒い何かが溢れ、ペンキをこぼしたように広がっていく。それはまるで地面に丸い二次元の闇が出現したかのようだった。
「なっ、開門したのか!?」
 揺れる地面に踏みとどまり、鬼が青褪める。
「まさか、こんなことが……っ!」
 ずぶりと足が闇に浸かり、鬼は悲鳴じみた声を上げた。その間にも闇は容赦なく彼を呑み込み続けている。
「もといた場所へ帰るんだな」
 沈んでいく鬼を見下ろしながら、沖が無表情に告げる。
 ぎっと鬼がそれを睨みつけた。捨て鉢になって嘲笑を浮かべる。
「……途絶えた血族の残り香が……今なお、生き恥を晒してどうする?」
 それは負けを認めた者の小さな反撃だった。
 捨て台詞と言えばそれまでかもしれないが、その言葉は確かに最後の玄狐を貫いた。沖の手が強く握り締められて白く震えるのを、松壱は黙って見つめた。
 沈んで姿の見えなくなった妖怪の低い声音が、闇の中から不気味に響く。
「人間に飼われて、それでもまだ生に執着するのか……」
 小さく掠れていく声とともに、地面に広がった黒い染みも収縮していった。
「……閉じろ」
 沖がそう呟くと、一滴の闇がぴしゃんと跳ねて、そして消えた。
 風が吹いた。先ほど優が教室で感じた不穏なものとは違う、爽やかな風だ。
 だが、優は言葉を発することが出来ないでいた。

 黒い狐の一族は、四百年も前に絶滅したはずだ!

 まあ、珍しいことに間違いはないんだろうけど?

 元通りの無口なアスファルトに戻った地面を見つめたまま、動かない青年。長い黒髪が風に巻かれて揺れている。
 優は地面に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。背中が痛んだが、切り裂かれた沖のことを思えば、これくらいですんだ事を彼に深く感謝するべきだろう。

 そりゃあね、四百年も生きてると色々あるんだよ。

 一歩、沖のほうに踏み出す少女を、松壱は壁に背をもたれさせたまま一瞥した。取るに足らないちっぽけな少女。その声。
「……沖様、ありがとうございました」
 その声に振り返って、沖は笑った。
「なんてことない、狐のおせっかいだよ」
 返ってきた言葉は想像よりもずっと明るくて、優はほっとした。微笑を返す。
 その横を高嶺神社の宮司が無言で通り過ぎた。後ろに銀髪の少女がついてきているが、彼は気にしていないらしい。
 その手がぺちんと沖の額を叩いた。
「おせっかいで怪我してりゃあ、表彰ものだな。――帰るぞ」
 叩かれた額に手をやりながら、沖はそばに寄ってきた仔狐の頭をもう一方の手で撫でてやった。
 それから、優に向き直って手を振る。
「じゃあね」
「はい……、さよなら」
 答えて手を振り返し、沖が前を向いて進みだすと、優は静かに頭を下げた。