恐怖に震え上がるとはこのことだ。
目の前に現れた化け物に、シグマは息を呑んだ。
サッシャはデュラウサは昼頃に森に到達すると言った。それから凝った文様の刻まれた縁を持つ鏡を取り出すと、それを用いて村に結界を張った。
ためしにシグマが渾身の力で斬りつけたが、刃は弾かれ、手はひどく痺れた。
村が襲われる事はないのだ。
しかし。
「デュラウサ……。これが……」
周りの木々よりも高くもたげた頭。黒光りする皮膚。吐く息は荒くて臭い。
むしろ悠然とした態度で現れたデュラウサは、シグマの想像よりはるかに巨大であった。
耳元まで避けた口からは真っ赤な舌がはみ出、涎(よだれ)が垂れている。
「シグマ! 気を抜いていたら、食べられてしまうわよ!」
横からサッシャの鋭い声が響く。
気を抜かずとも食べられてしまうのではないか。
シグマは正直にそう思った。
「デュラウサ!!」
その時、サッシャがデュラウサに向かって叫んだ。
化け物がゆっくりと、それはゆっくりと、こちらを向いた。
濁った金の瞳が細められる。
シグマはぞっと悪寒が背を駆け上がるのを感じた。
(最悪の魔物だ……)
今まで幾度となく、人に害を成そうとした魔物を斬ったことはある。
しかし、これほどまでに足が竦(すく)むのは初めてだった。
人が足を踏み入れない砂漠の魔物は、原始の姿をとどめ、巨大である事は聞いていた。デュラウサはその中でも、特に凶暴なのだ。
悪魔の化身とも呼ばれる魔物から、シグマは目を離せなかった。
ふと、目の端で何かが光る。
はっとして振り返ると、サッシャが手にした鏡をデュラウサに向け、何かを口走っている。
鏡はみる間に光を集め、甲高い声で鳴き始めた。
(これがシヤニィの魔法か……!)
今まで見てきたどの魔術師とも違う呪文。
シグマはその光がデュラウサに向かって放たれるのを、何もできずに見つめていた。
光はデュラウサの首の辺りに命中し、激しい閃光を放ち、閃光は爆音とともにその色を変えた。黒い煙が上がる。
(……やったのか?)
光に目を細めながら、シグマはデュラウサを見つめた。
だが爆煙の中から現れた魔物には、傷の一つもついていなかった。
シグマはもちろん、サッシャも驚き、そして失望を覚えた。
敵は噂に違わず、手強いのだ。
(魔法の無効果率が高いのか……)
シグマは腰の剣を抜いた。
魔法が効かないからといって、剣が効くとは限らない。デュラウサの皮膚は鋼より硬いのだ。
攻撃されて、デュラウサは明らかに気を害したらしい。
鋭くとがった歯を剥き出しにして、低く唸り声を上げた。腹の底から響くようなおぞましい声だ。
震える手をぎゅっと握りなおし、シグマは地面を蹴った。
背後でサッシャが防御の呪文を唱える声がする。
デュラウサの手前でシグマは高く飛び上がり、その体めがけて剣を振り下ろした。
凄まじい衝撃が腕から伝わる。傷をつけた手ごたえはまるでない。
「……!」
尾が自分にめがけて振られたのを目にし、シグマはデュラウサの体を蹴って地面に飛び降りた。頭上を凄まじい風が吹き抜ける。
尾に当たりはしなかったものの、シグマはその突風でもといた場所にまで飛ばされた。
地面に尻餅をつきながらも、シグマの目はデュラウサを捕らえていた。
心臓が早鐘を打つ。耳元でうるさいほどにその脈動が聞こえる。
足元から湧き上がる、恐怖。
こんなに、こんなにも力量が違うのか。
再びサッシャが攻撃の呪文を唱える。
しかし、二度とそんな小賢しい真似はさせないと言わんばかりに、デュラウサは少女に向かった。口元に笑みを浮かべているようにすら見える。
サッシャは怯まなかった。
魔物の広く裂けた口元に、炎が宿る。青い死の炎だ。
それを目にしてサッシャはいくらか、戸惑ったようだったが逃げようとはしない。
シグマは急いで立ち上がり、巫女の元へ走った。
「無茶だ! 逃げろ!!」
声の限り叫ぶ。
青年の声にサッシャは反応した。鏡を持つ手がわずかに震える。
それを見て、シグマは奥歯を噛んだ。
死なせたくない。
無情にも魔物の口から炎が放たれる。
シグマは力の限り地面を蹴り、サッシャに向かって飛び込んだ。
「……くぅ!」
少女の体を覆うようにしながら、シグマは低くうめいた。そのまま二人とも地面に倒れこむ。
背を炎が焼いたのが分かった。
耐えられない事もないが、それは激しい痛みと熱を伴った。
デュラウサの炎はサッシャの背後にあった木を炭にした。
シグマは歯を食いしばり、気を失ったサッシャを抱えるとまだ無事な木の陰へ駆け込んだ。
荒い息を吐きながら、体を木に預ける。
(どうすればいい?)
このままでは二人とも焼き殺されてしまう。
せめてサッシャだけでも助けたいと思った。
「……父さん……」
服の下にある十字架を掴む。
父のくれたお守りだ。
「父さん…」
青年の呟きに、サッシャはわずかに睫毛を震わせると、意識を取り戻した。
「……シグマ? 私……」
「……大丈夫だ。まだデュラウサには気づかれてない。あいつ頭は馬鹿なんだな」
少女を安心させようとでもいうのか、シグマは無意識に笑った。
「自分の吐いた炎で俺たちを見失ってるんだ」
サッシャはわずかに目を細めた。
そして、青年がまた胸元を握り締めている事に気がついた。横になったまま、それを見つめる。
「ねぇ、それなんなの?」
指摘されて、シグマは服に手を突っ込んでロザリオを取り出した。
「俺のお守り」
「……綺麗ね」
少女の顔にもわずかに笑みが宿る。シグマはほっとした。
しかし、すぐにサッシャは顔色を変えた。慌てて起き上がり、銀の十字架に触れんばかりに顔を近づける。
「シグマ、これ……!」
何をそんなに驚いているのかシグマには分からなかった。
しかし続く少女の言葉に、シグマは息を呑んだ。
「これは魔法剣よ!」
ただのロザリオだ。
そう言おうとしたが声にならなかった。
魔法剣?
そんなことは聞いていない。これはお守りとして父が十五の誕生日にくれたのだ。
サッシャはそんなシグマにかまわず興奮した声で青年に詰め寄った。
「呪文は? これを剣に戻す呪文は!?」
シグマはただ首を横に振った。
「知らないの!?」
サッシャが声を荒げる。
これが魔法剣だという事さえ知らなかったのだ。ましてや、呪文など。
その瞬間、シグマの中で何かが弾けた。
暗闇の中、父の声が響く。
――忘れてはいけない。
これ……うの……葉だ。
「これが解放の言葉だ」
シグマは呆然と呟いた。
その様子にサッシャが眉を寄せる。
「これが……」
十字架を持つ手が震えた。
なぜ今まで思い出せなかったのだ。
小さな頃、寝物語の最後にいつも言われていた言葉。
夜の闇から、夢の闇へと落ちるときに、父がいつも囁くように言っていた。