――鷹が鳶を生むとはまさにこのことだ。
――見ろ、髪の色だって違うじゃないか。
幾人かの男たちが記憶に残っている。
顔はどれも真っ黒に塗りつぶされて、判別などできない。
それが最も古い記憶だ。
シグマはぽつりぽつりと話し始めた。
「カインシェッセ=シグラシルドって知ってる?」
「それって、世界最強といわれるあのカイン?」
「月神」と呼ばれる最強の魔法剣を操る銀髪の勇者である。
彼の英雄伝に関しては、サッシャも幼い頃に両親に寝物語として聞かされた覚えがある。
「そう。それ、俺の父親」
「え!?」
思わずサッシャが驚きの声を上げる。
瞬間、シグマの瞳が悲しいそうに揺れた。
サッシャは慌てて口を覆った。
「全然似てないだろ」
自嘲さえ含んだ声が漏らされる。
「母親だって髪は栗色なのに、俺は真っ黒だもんな」
巫女は目の前の青年の苦悩をその瞬間、すべてではないが、理解した。
銀髪と栗毛から黒髪の子供など生まれるはずがない。
彼は伝説の勇者の本当の子供ではないのか。
それは安易に浮かぶ疑問だった。
「それでもさ、やっぱり育ててくれたのはその人だし。俺は少しでもその人に近づきたかった」
シグマがゆっくりと胸元を握り締める。サッシャはそれが何を意味するのかわからなかったが、それについては触れなかった。
「……俺、魔力ぜんぜんないんだよ」
絞り出される声は今にも泣き出しそうな響きがある。
つらくて、サッシャはわずかにうつむいた。
「……その人は……、父さんはそんなこと気にするなって言ったけど」
――これが「伝説の息子」とは笑わせる。
周りの大人の声は幼い彼にとって、鋭い刃でしかなかった。まだ決して強くない心はたやすく傷ついたのだ。
「魔力の有無は生まれつきの事だもの。気に病むことなんかないわ」
「でも俺は『伝説の息子』として生まれたんだ!」
シグマは声を荒げた。しかしサッシャがびくりと肩をすくめたのを見て、はっとしてうつむき、顔をそむけた。
「……ごめん」
謝られて、サッシャはただ首を振った。
軽率だったのだ。月並みの慰めを与えようなど。巫女として、サッシャは自己嫌悪した。
シグマはこちらを向かない。
言葉が浮かばず、サッシャはただ彼の影の落ちた横顔を見つめた。
艶(つや)やかな髪も、長い睫毛も、甘い瞳も、ただ黒いというだけでシグマにとっては苦痛のものなのだ。
(こんなに綺麗なのに……)
ふと、シグマが瞬きをした。伏せた睫毛から銀の雫がこぼれる。
「シグマ……!?」
サッシャが慌てる。
まさか泣くなんて思いもしていなかった。
「……俺はただ……」
困惑する少女など視界に入らない様子でシグマが呟く。
「ただ、……父さんの恥にはなりたくなかったのに」
そう言ってすすり泣くと、また涙がぽろぽろとあふれた。
「……シグマ……」
こんな、同じ年頃の男の子が泣くさまをサッシャは初めて見た。しかも相手は異民族で、その彼が泣く姿はどこか神秘性をも感じられた。
シグマは泣き顔を隠そうとはしなかった。しかしそれは羞恥心がないというよりも、サッシャの存在を忘れているからのようにも思われる。
それほど、シグマは父親のことを敬愛しているのだ。
たとえ、もしかしたら本当は血がつながっていないのだとしても。
「シグマ、……シグマ、泣かないで」
サッシャはシグマのこぼれる涙に指先で触れた。
「……っ!?」
そうしてやっと、シグマは我に返った。すぐ目の前に少女の美しい顔がある。
慌てて一歩さがって顔を覆う。
「な? ……え!?」
現状を理解し、ついで顔を真っ赤に染める。
「シグマ…」
茹蛸(ゆでだこ)のようになってしまった青年とは対照的に、巫女は落ち着いていた。
「大丈夫よ。泣かなくても、いいのよ」
ゆっくりと諭(さと)すように言われ、シグマは今度は青くなった。
動転して、とてつもなく情けない気分だ。
「お、おれ……っ」
呂律(ろれつ)の回らないシグマの髪にサッシャがそっと触れる。シグマの顔に再び朱が昇る。
「救いを必要とする者に、シヤンは常に開かれているって言ったでしょう」
静かな声が耳を撫でる。青い瞳は穏やかな大海にも似ている。シグマは速まった動機が急速に落ち着いていくのを不思議な気分で感じ取った。
「シャナラーを信じて」
「……俺は異教徒だよ? それでも助けてくれるの?」
やや皮肉めいた事をシグマは言った。
サッシャが眉を寄せる。
「信じられない?」
「だって、俺は……自分の事だって信じられないのに」
「やめてよ」
サッシャがシグマの口を指先で指す。
「自分を卑下するものじゃないわ。あなたは素敵よ。何度も言ってるでしょう」
シグマは照れたように眉の端を下げた。それからかすかに微笑んで見せる。
「……ありがとう」
そう言った瞬間、少女の白い頬がぱっと薔薇色に染まった。
予想していなかった事にシグマは戸惑った。
「あ、あの……?」
サッシャは頬を両手で覆うと、うつむいてしまった。
「さ、最初に寝てらした部屋を今夜も使ってもらっていいかしら?」
早口に話をそらす。
その様子が年相応で可愛らしく、シグマは目を細めた。
「ああ、いいよ」
おやすみと付け足して、部屋から出て行く。
「……おやすみなさい」
サッシャは小さくそう返したが、振り返ったときにはもうシグマの姿はなかった。
円盤の上に水晶で出来た針が浮いている。円盤には方位が刻まれており、針は南を指していた。
「嘘、早すぎるわ」
赤い光りを点(とも)したその針を見て、サッシャは愕然とした。
「どうしてこんな時期に……」
サッシャは時計を見た。
「明日の昼の前までには到達するわ…」
それから引き出しを引くと中から手の平より少し大きい鏡を取り出した。胸に抱きしめ、サッシャはじっと瞳を閉じた。