トゥワル ストレイア 2

 去っていく巫女を呼び止めることも出来ず、シグマは黙ってその後ろ姿が扉の向こうに吸い込まれていくのを見ていた。
 そのままぼんやりとあたりを見回す。
 普段は空き部屋なのか、彼が寝かされていた布団以外は何もない。
 南向きに備え付けられた窓からは豊富な陽光が注いでいる。耳を澄ませば小鳥たちの美しい歌声も耳に届いた。
 そのままシグマは身じろぎすらせず、じっと目を閉じていた。
(なんて空間だ……。空気が澄んで……、淀(よど)みがない)
 人間のいる場所には常に闇が潜んでいた。夜の闇とは違う、おどろしい暗黒。
 それがここにはない。
(神のいる森を守る一族……。名ばかりではないのか)
 シグマはどさりと布団に倒れこんだ。
(こんな所に長居をしているわけには行かない)
 こんな喧騒も起こりそうにないところ。
 平和を具現したような村。
 こんな所に、自分は用はないのだ。
 ――救いを必要とする者には、シャンは常に開かれている……。
(救いが必要な者? ……それが俺だって言うのか? 俺は救いなんか要らない。一人でだって……)
 そこまで考えて、シグマは再び飛び起きた。
「俺の剣……!」

 シグマはあたりを見回した。
 小さな木造の家がいくつか見える。
「ふぅん……」
 家々の向こうに森が見え、それがシヤンであるのだろう。
 サッシャがしばらくたっても戻ってこないので、そろそろと部屋を出た彼はそのまま外に出ていた。部屋からの廊下が一番に外へとつながっていたので、当然の結果である。
「お兄ちゃん、だぁれ?」
 ふいに足元であどけない声があがる。
 見下ろせば、サッシャと同じ緑の髪をした子供が一人、同じく蒼い瞳でシグマを見上げていた。知らない者を見る好奇心でその表情は輝いている。
「どこから来たの?」
 続けて問いを発し、首を傾げてみせる。
 そのあどけない仕草にシグマは思わず微笑むと、その子を抱き上げた。
「よう、坊主。俺はシグマだ。おまえは?」
「テリー。お兄ちゃんどうして髪の毛、黒いの? 病気?」
 中途半端に伸びた青年の黒髪を指し、テリーは心配そうに眉の端を下げる。思わずこみ上げた笑いを堪え、シグマは少年を抱えたまま、入り口の段差に腰を下ろした。
「いいや。これは生まれつきだよ。病気なんかじゃない」
「目も?」
「目も」
 さも当然に答えながら、シグマはかすかに自嘲を浮かべた。
(『生まれつき』だって? 父も母も髪は黒くなんかないのに?)
 幼い頃は気がつかなかった。
 自分が「違う」なんて。
(知識って残酷だよなぁ……)
 知らない間は幸せだった。
 だが気付いた途端、日々急速に疑問は膨張し、重くなりシグマを苦しめた。
「サッシャ!」
 突然耳元で高い声が響き、シグマは我に返った。手のひらに汗が滲んでいるのに気づき、深く息をつく。それから振り返ると、安堵の色を浮かべたサッシャが戸口のそばに立っていた。
「良かった。いなくなっていたから、どうしたかと……」
「あぁ、ごめん」
 謝りながら、少年を横に下ろす。テリーは地面に足がつくとすぐに巫女の方へと寄って行った。
「このお兄ちゃんと遊びに行ってもいい?」
 袴の裾を引っ張られながら、サッシャは困ったようにシグマを見た。
 シグマが軽く肩をすくめて見せる。
「俺は構わないけど?」
 ほっとしたサッシャと喜ぶテリーに、しかしシグマは手を振って見せた。
「先に飯を食わせてくれないか? あと剣も返してくれ」

「水が美味かった」
 シグマが待っていた間にサッシャは料理を準備していたのだ。おかげですぐに食事にありつくことができ、綺麗に平らげたシグマは満足そうにそう言った。
「ふつう、水なんかより料理の方を評価するものじゃない?」
 サッシャが笑いながら、悪戯っぽく眉を寄せて見せる。
「君のも美味かったけど」
 サッシャの用意した料理は巫女らしく簡素な物が多かったが、決して手作りの温かさを失っていなかった。
 しかし出された冷水は、初めて「本物の水」を飲んだという気にさせるほどの美味で、他の料理を圧倒していたのだ。
「いいのよ。その水を不味いなんていっていたらそれこそ追い出していたわ。神泉の水なのよ」
「あの泉の……。はじめに飲んだときは、水があるってだけで夢中になってたから……。そうか、こんなに美味かったのか」
 空になったグラスを傾けてみながら、シグマは静かに目を閉じた。
 疲れきってたどり着いた森で見つけた泉。それはまばゆく神々しい光を発していた。
(日の光が反射して、そう見えただけだろうけど。でも神の泉というのなら、案外本当に光っていたかもな)
 そう思い、軽く唇の端を持ち上げる。
 神なんて見たことはない。四大元素の王すら知らないのに。
(精霊が見えなくては魔法は使えない。俺に精霊など見えるはずがないんだ)
 頭(かぶり)を振り、椅子から立ち上がる。
「じゃぁ、行って来るよ」
 サッシャがどこからともなく剣を持ってきて、シグマに渡した。頭一つ背の高い青年を心配そうに見上げる。
「本当にいいの? あの子達すごく元気で、やんちゃよ?」
「俺だって昔はそうだったよ。男の子がはしゃぎたい気持ちはわかる。大丈夫だよ」
 優しい声でそう言われ、サッシャはゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう」
 不意打ちの言葉と笑みに、シグマは頬が熱くなるのを感じてすばやく顔をそむけた。そのまま出口に向かって歩き出す。
「……暗くなるまでには帰るから」
 何とかそれだけを言い残し、振り返る事もできず足早に少年のところへ向かった。
 ギクシャクとした青年の様子に首をかしげながらも、サッシャはその後ろ姿を笑顔で見送った。