薔薇の下 17

「ジィルバさん!」
 面会人だと別室に呼び出されたリヒトは銀髪の青年を見つけて声を上げた。
 パイプ椅子に座ったまま、ジィルバは小さく頷いてみせる。
「では、私は外で待っていますから。終わったら呼んで下さい」
 そう言って施設勤務の職員は部屋を出て行く。
 二人だけになった部屋に沈黙が下りて、リヒトはおずおずと口を開いた。
「……あ、あの一昨日はありがとうございました。その……」
「座ってくれ」
「……はい」
 長机をはさんで、リヒトはジィルバの向かいに腰を下ろした。
 銀の双眸がじっと自分を見ている。リヒトは椅子の上で小さくなった。
(なんだろう。僕、何かしたかな?)
 しばらく間をおいて、ジィルバは口を開いた。
「俺は今度、ここを離れる」
 リヒトは目を瞬いた。
「え?」
「第三司令部から離れて、他所へ行くんだ」
 静かに告げて、ジィルバはリヒトの表情の変化を見た。が、眉を寄せたあと、少年はうつむいてしまった。
「えっと……じゃあ、お別れなんですね……?」
 呟いて、リヒトは服の裾を握った。
 もとより、ジィルバと今後会う約束などなかったのだ。彼がわざわざ別れを言いに来てくれただけでも、喜ばなければならない。
(ちゃんと今までのことをお礼を言って……これからも頑張って……って言わなきゃ)
 目頭が熱くなってくる。
「……おまえが……嫌でなければいいんだが」
 不安を孕(はら)んだ男の声に、リヒトは顔を上げた。ジィルバは机の上で自分の右手を握り締めていた。
「……何が、ですか?」
 何故だか続きが聞きたい気がして、リヒトは促すように問うた。
 こちらに目線を向けた銀の瞳に自分が映る。
「俺と一緒に行かないか?」
 手を握りなおして、ジィルバは窺うように小さく首を傾げた。
 リヒトの蒼穹を封じたような瞳が見開かれる。
 青年の言葉を理解するには時間が掛かった。
 ――嬉しすぎて。
「……いいんですか?」
 か細い声は震えている。
「ああ」
 ジィルバは頷いた。
 リヒトは顔を上げて、笑ってみせた。嬉しいから泣くことなんかないと思ったのだが、不覚にも目じりに涙がたまる。
「僕、行きたいです。ジィルバさんと一緒に」
 はっきりと言葉にすると、ジィルバが笑んだ。
 窓から差し込む光は銀色に弾かれて、室内に溢れる。陽光よりも鈍い、けれど柔らかなその光が、彼の微笑を優しく撫でた。
「一緒に世界をまわろう」

     *     *     *

 空港にて、見送りに来たクラングの言葉を聞いて、リヒトは口をあんぐりと開いた。
 ジィルバが眉を寄せて問い返す。
「なんだって?」
「だから、リヒト君は私の姪という事になっていると言ったんだ」
 繰り返してクラングはリヒトにパスポートを差し出した。
「天使を連れた軍人など、胡散臭さいことこの上ないからな。単なる表向きの間柄さ。それと、ジィルバは天涯孤独という事になっているから、今更姪など増やせないだろう?」
「それはそうだが……」
 なにやら言いたさげなジィルバにクラングはにやりと笑った。
「リヒト・ヒンメルだ。良い名だろう?」
 ジィルバはパスポートを開いて目を瞬いている少年を見下ろし、疲れたため息を吐いた。
「悪くはない。……ただ、まさか天使にお前の名をやるとは思っていなかった」
「意趣返しさ」
 青い双が悪戯さを含めて細められる。
「天使に、天使を恨む者の名を刻んでやったんだ」
 そう言うクラングの優美な笑みは、暗い感情とは全く逆属性のものに見えた。
 もしかしたら、クラングはさほどリヒトのことは嫌っていないかもしれない。ジィルバはそう思った。
 それからクラングはジィルバに小さなピンバッジを渡した。不思議そうにそれを見るジィルバにすまなそうに唇の端を歪めてみせる。
「発信機だ。常時着用してくれ。軍を辞めないとは言っても、元URの君だ。監視下に置かないわけには行かないんだ」
 ジィルバは苦笑してバッジを胸につけた。
「これくらいは予想していた。体に埋め込むタイプのものじゃないのが救いだ」
「君の傷は背中のものだけで十分だよ」
 クラングは告げて、手を差し出した。ジィルバはそれを握り返した。
「……クラングには感謝してる」
 真摯に告げると、クラングはくすぐったそうに笑った。
「気味が悪いからよしてくれ。それにどうせ感謝するくらいになら、言葉でなくて現物で示して欲しいものだよ」
 パスポートを握り締めたまま、リヒトは別れの挨拶を交わす二人を見上げていた。
(やっぱり大佐さんとジィルバさんは仲良しなんじゃないですか)
 クラングとの握手を終えて、ジィルバはじっとこちらを注視している少年に気づいた。
「どうかしたか?」
「いいえ。でも、ジィルバさん、そろそろ時間みたいですよ」
 時刻表を指差してみせる。ジィルバは自分の腕時計に目を落とした。
「そうだな」
 荷物を持ち上げて、もう一度クラングのほうを向く。
「他所でも元気でな」
「ああ」
 リヒトも続けてぺこりと頭を下げた。
「あ、あのありがとうございました。ヒンメルの名に恥じないように気をつけて行動します」
 リヒトにとって真剣に言ったつもりだったその台詞は、しかしクラングに吹き出されてしまった。顔を上げると彼は肩を震わせていた。
「……ああ、ジィルバのことを頼むよ。な、なかなか君のほうがしっかりしているようだ」
 笑いを堪えた揺れる声でそう告げると、クラングは手を振った。
 釈然としないながらも、リヒトも手を振り返す。
 そして自分の荷物を抱えて、ジィルバのほうを見ると彼も笑っていた。
「えっと……?」
 首を傾げる少年に気づいて、ジィルバは姿勢を正した。わざとらしくゲートを指差す。
「出発ゲートは向こうだ」
「はぁ……?」
 もう一度首を傾げて、リヒトは歩き出すジィルバに続いた。
 ジィルバはゲートに入る前に一度クラングを振り返った。人ごみに紛れてもすぐに目に付く黒い軍服。それに身を包んだ若き大佐は静かに笑んでいるだけだった。


「こ、これ、本当に飛ぶんですか?」
 狭い座席に座ってリヒトが冷や汗混じりにベルトを握り締める。
「ああ、飛ぶさ。今日は天気もいいし、揺れはしないだろう」
「ゆ、揺れたりするんですか……」
 更に青褪める。
 ジィルバは笑って、リヒトの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「俺がいるから大丈夫だ」
 説得力に欠けているような気のする言葉を与えられて、リヒトは隣の男を見上げた。ジィルバは首を傾けてみせる。
(……ま、いっか)
「そうですね」
 同意して、リヒトは笑う。
 素直な少年に小さく笑みを浮かべて、ジィルバは窓の外を見やった。なだらかな丘陵とそれに隣接する空が視界を占める。
(世界を回って、歪みを直す。それが俺の使命か)
 いや、償いか。
 そして弔いでもあるのかもしれない。
(……俺は全うしよう。……お前達のために)
 消えていった命と今も息づく命のために――。
 ジィルバは目を閉じた。
 離陸アナウンスに続いて、エンジンの轟音が響く。戦塵渦巻く大地を髣髴(ほうふつ)とさせる音だ。
 ただ、心は静かで、それがどこか遠くのもののように聞こえる。
 そして彼を乗せた翼は大空へと舞い上がった。