突然の昇級宣告にジィルバは目を瞬いた。
「……大尉に? なぜ?」
URを本業とするジィルバには階級などあまり関係しないのだ。それをわざわざ昇進させるとは一体どういうことだろうか。
「まあ、大尉に上げるのは一種の『見栄』だな」
そう言って、クラングは書類の一枚を示して見せた。
「悪魔に関して、全軍一の業績を誇っているのはこの陸軍第三司令部だ」
それは知っている。ジィルバは頷いて見せた。
「それを妬んでか純粋な向上精神かは知らんが、他の司令部でも悪魔処理体制を本格的に整えたいそうだ。それで我々の中から一人、特に腕の立つ者をよこせと幾つかの司令部から言われた」
クラングが指差す文書には今彼が言ったことを堅苦しくした文が並べられている。
「それで、誰を?」
「……私は君を推そうと思う」
青い双眸がもう決めたと告げている。
しかし、ジィルバは眉を寄せた。
「……それならクラングが行けばいい。正直な話、俺よりもお前のほうが腕は上だ」
俺はすぐに熱を出すからな、と肩をすくめる。
クラングは顔をしかめた。
「冗談じゃない。私はここを気に入っているんだ。将軍殿も私の好きにさせてくれるしな」
確かに第三司令部の壮年の将軍はなぜだかいたくクラングを気に入っている。クラングが将軍の戦死した息子に似ているからだとか、同じ戦場で戦ったからだとか、噂は様々である。
「確かに向こう側の希望は私だがな。しかし、それはまさしくこちらで好き勝手やっている私の力を削ぐためだ」
なるほど、合点のいく話だ。若くして大佐の地位にいるクラングは他の上層部から見れば、鼻持ちならない若造であろう。しかも第三司令部の将軍は彼に甘い――となれば、彼を第三司令部から遠ざけたいと思う者がいないはずがない。
それにな、とクラングは続ける。
「私はこれを一司令部への異動で終わらせるのではなく、各司令部への巡回派遣にするよう案を出そうと思う。各地を回り、その地に適した法定危機生物対処マニュアルを作成する。……今までにはなかった任務だな。どこかの司令部に属しているわけでもない」
ジィルバはクラングの言わんとするところを悟った。
「それは、つまり……」
「つまり、軍を辞めずに軍から独立することになる」
強引な言い方かもしれないがな、と言って若い大佐は形のよい唇の端を吊り上げる。
ジィルバは目線を落とした。他所の司令部から送られてきた書類の日付と、クラングが準備した書類の日付を見比べる。
「……クラング」
きっと寝る間も惜しんで仕上げたのだろう。
顔を覆ってうつむくジィルバの肩をクラングは叩いた。
「上へは必ず通してみせる。任せておけ」
「……すまない」
気にするな、とクラングは笑う。
「それより少し匿(かくま)ってくれ。一時間でいい」
書類を揃えて枕元に置くと、クラングはそのままごろんとベッドに転がった。かかとを擦ってくつを脱ぐ。
「……少佐が来たらいないと……」
呟きながら、眠ってしまう。
規則正しい寝息が聞こえ始めて、ジィルバは眉を下げた。働く姿からはあまり分からないが、こうして寝顔を見ればクラングが幼い顔立ちであることはすぐに知れる。若造だと言われる彼は、そう、確かにまだ三十にも満たないのだ。
その若さで大佐の地位まで上がったのは、ひとえに自由戦争での功績の賜物である。
(クラングは俺より多く天使を殺した……)
ベッドの端に腰掛けて、ジィルバは手を組んだ。
クラング・ヒンメルの原動力は、憎悪である。
肉親を殺されて生まれた復讐心が彼を「闇」にした。
(だからこそ……クラングは異常な程に俺のことを気にかける)
天使に絶望したクラングにとって、人間側についたジィルバこそが、唯一真の天使だと言えたのだ。彼の信仰はジィルバにある。
お前だけが信じられる、そう言ったクラングの儚い微笑は今も忘れられない。
(……すまない。俺は……)
――私はお前に手を貸そう。
そう言ってジィルバは戦火の中、クラングの手をとった。
(私は、お前を置いて行く)
だから、せめて、今はまだ。
ジィルバはクラングの手を握った。
そろそろ時間だ。夢を見ているのとは違う自分がそう囁く。
おもむろに目を開けたクラングの耳に銀の声が触れた。
「おはよう」
クラングはジィルバがまだいたことに少なからず驚いた。どうせもう出掛けているものだとばかり思っていたのだ。
「……あ、ああ、おはよう」
髪を手櫛で整えながら、起き上がる。ベッドに腰掛けたまま伸びをして、クラングははたと思い出した。
「そうだ、必要ならば、リヒト君も連れて行っていいぞ」
「え?」
ジィルバは目を瞬いた。クラングが笑う。
「君は私と同じで『死にたがり』だからな。だが、君は誰かが側にいれば死のうとはしないだろう?」
指摘されて、思わず指先が震えた。
「……俺は、死にたがっているのだろうか?」
青い双眸を細めて、クラングは裏切りの天使を見つめた。
「……無自覚か。ならば、なお悪い」
靴を履いて、枕元の書類を取り上げながら、クラングは告げる。
「リヒト君は連れて行け。……あんなのでも救済の天使だ。例の銃の弾丸も作れるかも知れん」
ジィルバは釈然とせず、クラングを見上げた。
「だが、子どもは駄目だと言ったのはクラングのほうだ」
それでもリヒトを連れて休暇をとったくせに、それを聞くのか。クラングは嘆息した。
「もう諦めた。……君が少女趣味だとは知らなかったよ」
「は?」
後半の呟きは聞き取れなかったのか、ジィルバは首を傾げる。クラングは首を振った。
「いや。ただ、あれはもう君が元天使だと知っているらしいから、いろいろと面倒がないだろう?」
ジィルバはうつむいた。
確かに少年は外の世界を見たいとは言っていた。しかし、彼はまだ幼い。
「……だが、リヒトは行きたいと言うだろうか?」
自信なさげに呟く美貌の部下を見下ろして、笑いを噛み締める。
「君は女性を食事に誘ったことがないからそんなことを言う」
「……食事と仕事では違う」
真顔で眉を寄せるジィルバに、クラングは耐えれず喉の奥で笑った。
「そうだな。だが、それでも動かねば、機を逃すことになるのは同じだ」