薔薇の下 6

「ジィルバ!」
 クラングの声だ。
 この夜中にどうやってと思うほどの軍勢を率いて駆けてくる。駆けるとはいっても、彼自身は車の中だが。
 ぶはっと天使の息吹が顔にかかった。
「おのれ、おのれ……っ」
 憤慨に表情を歪ませ、断罪の天使の体が震える。
 ばしんと空気が破裂したような音が響いた。金縛りを解いたのだ。ジィルバは思わず顔面をガードした。
「銀闇の使者! 背徳の大罪人! 必ず、裁きを下してやろう!」
 叫び声だけを残して、天使の姿は消えていた。
 幾度か目を瞬き、ジィルバは発光体が消えて暗くなった道路を見つめた。
「ジィルバ、無事か!?」
 クラングが車から降りて駆け寄ってくる。
 振り返るとジィルバは不機嫌そうに眉を寄せて答えた。
「……無事じゃない。天使が逃げた」
「構うか! 君の安全のほうが優先だ」
 先に駆けていってしまった大佐を追いかけてほかの兵も続々と集まってくる。
「大佐!」
 少佐が怒りの形相で走ってくる。栗色の短い髪をカールさせたブルーメン少佐は、ジィルバより年上の美女である。
「ヒンメル大佐! 指揮を放り投げて、一人勝手に走るのはやめてください!」
 喚き出した彼女に、とりあえずジィルバは敬礼の姿勢をとってみた。すると彼女はこちらを振り向き、さっと礼を返してきた。
 甘い笑みを見せる。それは軍服とは合わないものだったが実に魅力的であった。
「ヴァント中尉、お疲れ様。天使の発見は相変わらず迅速ね。――なのに我々の到着が遅れ、取り逃すことになってしまった事は深くお詫びしたいわ」
 ブルーメンはジィルバの過去さえ知らないものの、URであることを知る数少ない人物であった。そしてそうにも関わらず、人懐こい笑みで彼女はジィルバと接してきた。
「でも無理はしないでよ。天使に殴りかかられたあなたを見たときは正直ぞっとしたわ」
 目を瞬くジィルバに、少佐は肩をすくめて続ける。
「顔面スプラッタは今はもう映画だけで十分よ」
「ああ……」
 ジィルバは苦笑してみせた。
 自由戦争時、そうして死んだ兵は多い。顔がない、胴がない、体の左半分がない……天使の凄まじい力は哀れな死体の山を築いた。
「……少佐が私の言いたいことを全部言ってしまった」
 クラングが二人の背後でぽつりと呟く。
「あら、申し訳ございません」
 少佐はそれだけ言って、軍隊のほうを振り返った。
「天使は逃げた! 引き続き、捜索を続けよ! 単独行動は慎め!」
 高い声が響き渡る。びっと全員が敬礼の姿勢を取る。
「では、解散!」

 ぞろぞろと兵たちが去っていくのを見ながら、ジィルバは前髪をかきあげた。
「……ついに指揮まで」
 クラングが恨めしげに少佐を見ている。
「間違っていませんでしたでしょ? 大佐は声を張り上げるようなことはしなくてもいいんです。その分、働いてください」
 意地悪な笑みに、クラングはため息をついた。
「分かった。そうしよう。――ジィルバ!」
 呼ばれて、ジィルバが振り返る。
「私は基地に帰る。君は自宅待機だ」
「……天使の捜索は?」
「今は他の兵に任せて休め。いざというときは、君がいれば五分で呼び出すことが可能なのは分かったしな」
「……分かった」
 正直ありがたかった。リヒトのことが気にかかるのだ。一度家に帰りたいと思っていたところである。
 去ろうと足を踏み出すと、クラングが声をかけてきた。
「その銃、無駄撃ちするなよ」
 青年の足が止まったのを見止め、クラングは続けた。
「弾丸がもう残り少ないだろう」
「……分かってる」
 呟くように返事をして、ジィルバはまた歩き出した。
 暗闇に去っていく中尉を見ながら、クラングはため息をついた。
「手元で監視しておきたいんだがな」
 少佐が笑う。
「鑑賞でなくて?」
「それもいいが。怖くて言い出せないな」
 笑みを返す大佐に、ブルーメンは目を細めて茶色の瞳を光らせた。
「彼は危険です。まるで死を厭(いと)っていないようで……」
「そのとおりだ」
 クラングは天を仰いだ。街の星の瞬きは弱い。
「……実に危険だ」

      *      *      *

 玄関をくぐると一直線に廊下の明かりが灯った。
(疲れた……)
 オレンジの柔らかい光に思わず徒労感を覚える。首を振ってジィルバは見慣れた家内に視線をめぐらせた。
 そして声を大きくして呼ぶ。
「リヒト!」
 すぐに一室から金の頭が覗く。
「な、何?」
 水色の瞳が不安げに揺れている。ジィルバは嘆息した。
「どうせ隠し事はできない性格なんだろう?」
 おもむろにリヒトは涙を浮かべた。
「だって、怖かったんです! 彼があなたを殺すんじゃないかと思って……」
 ジィルバは眉を寄せた。
「『彼が』?」
 首を振って、リヒトはジィルバに駆け寄ってきた。
「ごめんなさい! 僕、僕が……っ」
 感じていた違和感。
 これだ。
「リヒト、お前……幻術の使い手か?」
 少年天使は目にたまった涙を手の平でぬぐった。こくんと頷く。
「得意なんです」
 視界が白く明滅した。
「え?」
 ジィルバは体をひねって周りを見回した。
 赤、黄、橙、青、色の洪水。輝く花々。丸い地平線の向こうまで、万の色が波打っている。風が吹いて、無数の花びらが舞い上がった。芳香に包まれ、体の力が抜けていく。
 目を閉じかけると、ぴしゃんと水が頬を打った。
 宙に散った花びらが、水滴と化し、風に吹かれて更に舞う。
 光の反射から虹ができ、水の網の間を泳いでいく。光の尾を引いて――。
「……見張りの人間を幻覚に引き入れて、その間に彼の偽者を作りました」
 少年の柔らかい声が耳を撫でる。
 ジィルバは目を開けた。目を閉じた覚えはないのだが、閉じていたらしい。天井灯が目にしみる。
 リヒトはすまなそうな笑みを見せた。
「人間は……あなたたちは断罪の天使の幻術には慣れています。断罪の天使の幻術は相手を惑わし、その間に敵を滅するもの。僕らのとはまるで違います」
「……なぜ……」
「心に疲労を抱えた人を癒すために……。相手が不安に思うところが微塵もない完璧な幻術。救済の天使の術は断罪の天使のそれを大きく凌ぐんです」
 ジィルバは頭を抱えて首を振った。
「違う。なぜ、断罪の天使に加担したのかと聞いているんだ」
 リヒトは目を逸らした。
「それは……」
 ――頭痛がする。
 ジィルバは片目を閉じた。もう一方の目でリヒトを捉えようとするが、視界が霞む。
「僕は……ジィルバさん?」
 ふらりと影が揺らいだかと思うと、長身の男が倒れる。
「ジィルバさん!」
 リヒトは床を蹴った。
 戦う術などなくても、動きは人間より速い。
 どしんっ
 リヒトはジィルバを抱えながら、尻餅をついた。
「……った……いたた」
 体を起こして、ぐったりと脱力しきった男の額に手をやる。
(……熱い!)
 熱がある。少年は猛然と立ち上がった。