天使時代は二十世紀の末の年に始まった。
断罪の天使が、空から降り注いだ。手に神の槍を持って。
「神の慈悲はもはや尽きた」
それが第一声であった。
ジィルバは書斎の椅子に腰掛けて、ため息をついた。手にしている暗い緑色の本を閉じる。
「神、神、神、神のため……か」
皮肉に口元が引きつる。
神の意志を遂行する者、天使。
一人目を殺すことによって、二人目を殺すことになった。
まばゆい光の中だった。
そう記憶しているのは、怒りに駆られて周りが見えていなかった証拠なのだろうか。しかし、自分は冷静に構えていた。天使の頭に向けて。
二人殺せば、三人殺すことにためらいはなかった。
四人殺したところで、クラングから誘われた。軍に来い、と。
それまでの過去などというものは、これからの栄誉に埋もれて誰にも見えなくなる。そう彼は言ったのだ。
「それで、今も軍にいるんですか?」
背後で黙っていたリヒトが口を開く。
食事を終えた後、彼はジィルバにくっついて書斎に入ってきた。説教でも聞く羽目になるのかとジィルバは思ったが、リヒトは何を言うわけでもなく、ただ書斎の中を見渡していた。
そしてつい先ほど、リヒトの目に留まったのが天使時代の創始から自由戦争までを記した一冊の歴史書だった。
「そうだ」
ジィルバは振り返って、肩をすくめた。
「甘い汁は依存性だ」
「保障された生活を失いたくないのは普通です」
リヒトが淀みない声で答える。
「……そう、なんだろうか。……いや、そうなんだろうな」
背もたれに後頭部を乗せて、ジィルバは天井を仰いだ。
「だが俺は砂漠へ派遣されても文句は言わないと思う」
リヒトはじっと銀色の瞳を見つめた。
どこか違和感を覚える。ジィルバの言葉は、まるで否定されることを望んでいるようだった。
「なにか良心に呵責があるんですか?」
導き出した答えは、正しかったのか。ジィルバはこちらを見て動きを止めた。
技術屋が腕によりをかけて作ったような美しい顔立ちの人間。その疑いようもない美貌とは裏腹に、彼の心は複雑で読み取りがたかった。
他の人間とは何かが違う。
「……救済の天使、人間を説き導く者……ああ、おまえはそうなんだな。訓練もなくそうなるのか」
話しかけているようで、独り言のようでもある呟き。
ジィルバはあいかわらず冷たい声で、しかし今までになく自信なさげな口調で続けた。
「……俺には、罪悪感があるように見えるか?」
天使を殺した。たくさんの天使を。視界に舞い散る羽根がちらちらと揺れる。
じっと、天上の瞳がこちらを見つめる。濡れた空色。無垢で澄んだ瞳。
清廉な天使の眼差し――。
ジィルバはふと目を逸らしてしまった。
「見えます」
リヒトは静かに答えた。
「自覚も、あるんじゃないですか?」
確かめるような口調。
長い間があった。夜空の星の瞬きさえ聞こえてきそうなほどの沈黙。
「……俺は……」
ジィルバが口を開きかけたその時、二度目の非常ベルが鳴った。
慣れないリヒトがまた肩を跳ねさせる。しかし今度ばかりは、さすがにジィルバも心拍数を上げた。
夢から覚めたような心地だった。長く息を吐き、立ち上がる。
「悪い」
一言そう断って、書斎の壁にある受信機に手を伸ばす。受信機はリビングと書斎、そして寝室の三箇所に備え付けてある。ジィルバが自宅で特に長くいる三部屋だ。
普通はひとつしか設置しないものなのだが、寝起きのジィルバがリビングまで行くのを面倒がってなかなか出ないために、クラングが設置させたのである。
「ジィルバか」
受話器から聞こえてきた声は意外にもクラングのものであった。
切羽詰った気配を感じ、ジィルバはリヒトのほうをちらりと見やった。人との会話には聞き耳を立てない方針らしく、窓の外へ目を向けている。それを確認してから受話器に向かう。
「なんだ?」
二人だけのとき、ジィルバはクラングに敬語を用いない。それはもともとジィルバがクラングに力を貸してやる、そういう理由でできた関係だからだ。
どうせ盗聴もできない最新鋭の機器にも関わらず、クラングは声の調子を落としていた。
「救済の天使は、どうした……?」
問いかけに、一瞬目を見開く。ジィルバはため息を聞かせてみせた。
「……まだ見つけてない。午後から悪魔の処理が入ったからな」
「そうか。では、そちらはしばらく放っていい。所詮は救済の天使だ」
「……なぜだ?」
URを途中で破棄することは今までにはなかったことだ。
何か渋っているような間を置いて、クラングが苦々しく告げる。
「……断罪の天使が一人足りない」
「何?!」
思わずあげた大声に、リヒトが驚いて振り返る。だが、ジィルバは構わず続けた。
「どういうことだ。なぜ今まで気がつかなかったんだ!」
「ついさっきまできちんと揃っていたからだ」
クラングの言い返しに、ジィルバは眉を寄せた。
「幻術、だったんだな」
幻術。天使の使う幻覚を見せる術である。あるはずのないものを見せることのできる技だ。断罪の天使はこれを戦闘に用いて相手の視界を歪ませ、その隙に攻撃することもある。
「……おそらくそうだ」
「非常警告は発したのか?」
「あたりまえだ。君はまたラジオを切っていたな」
クラングが呆れた口調で指摘してくる。ラジオは全世帯に一台ずつ設置されている。常に起動させていることが義務付けられており、おもに悪魔が発生した際に避難警告が放送される。他の用途と言ったら朝に一度天気予報が流れるくらいだった。
だが、その天気予報が寝起きのジィルバにとって耳障りであるために、この家のラジオはほとんど使用されていない。
「あれはうるさいんだ――分かった、今から捜す」
それだけ答えて、ジィルバは受話器を置いた。目をぱちくりさせていたリヒトを振り返る。
「出かけてくる」
「えっ、こんな時間に?」
リヒトは窓の外の暗闇とジィルバを交互に見た。
「大仕事が入った」
答えて、書斎の引き出しを開く。中は空だ。ジィルバはその底板をはずすと、奥から一丁の銃を取り出した。
銀に輝く、拳銃。
今どきは見かけなくなったリボルバー式の銃。銃身には細かな模様が描かれている。芸術的価値もありそうな銃だ。
だが、どんなに美しくても、それは武器である。リヒトは表情を曇らせた。
「……なんですか、それ」
不安げに聞いてくる少年を銃と同じく冷たく光る瞳が一瞥した。
「天使を殺せる銃だ」
リヒトの顔が青ざめる。
「家から絶対に出るな。命の保証はないからな」
外はすでに武装した兵が出ているはずだ。闇夜に輝くリヒトは見つかれば有無を言わさず、撃ち抜かれるだろう。
ジィルバは天使の光沢とは違う、人口の光を含んだ軍のコートを着込んだ。
何も言わない、いや、言うべき言葉が見つからないのだろう呆然としているリヒトに一度視線を投げ、ジィルバはそのまま書斎を出た。