薔薇の下 2

「闇が連れてきた銀の使者……」
 テーブルに着いて、少年は静かに口を開いた。両手で暖かいカップを包んで。
「銀色で統一された軍人が逃げ出した天使を見つけに来る。必ず……」
 そう言われてみれば、確かに耳にしたことがあるような気もする。だが特に気にはならなかった。あれだけの天使を捕獲した自分が彼らの間で噂にならないはずがない。
 ジィルバは向かい合って座った少年を観察した。
 優しい色合いの金髪、空を水で描いたような瞳。無駄な肉のつかないしなやかな身体。愛らしい顔つきは、その甘い笑顔を容易に想像させる。
「気まぐれで僕を助けたんですか?」
 上目遣いにこちらを見つめてくる。
 少年は外見からして自由戦争末期の子供だろう。
 地上で生まれた天使は、天上で生まれた天使と比べて、子どもの成長が早いのだ。
 人間は野生の獣たちと比べて成長が非常に遅い。子どもの一人立ちに二十年もかかる種族は他にないだろう。これは長い間か弱い子どもであったとしても、それを害する敵がいないためである。
 超長命種であり、自分たち以外は存在しない天上に住む天使の成長はさらに遅かった。しかし、下界に降り立ったことにより、天使の成長は早まったのである。今では子どもの天使は人間と変わりない成長をするようになっている。ただし、その長い寿命は変わっていない。つまり新生児期から少年期は短く、青年期は長くなったのである。
「……いや」
 ジィルバは嘆息混じりに答えた。
「なぜ、俺に話しかけてくるのか聞いておこうかと思って。安眠も阻害されたしな」
「え?」
 少年が小首をかしげる。自覚はないらしい。
 ジィルバは手元のコーヒーを一口含んだ。その苦味を味わって飲み下す。
 形のよい唇が白いカップに口付ける様子に、少年は思わずじっと見惚れてしまった。取っ手に触れる指、長い睫毛の動き、すべてが滑らかで映画か何かのワンシーンのようだった。
「……おまえ、名前は?」
「えあぁっ、は、はい?」
 素っ頓狂な声を上げた少年に、ジィルバは目を瞬いた。少年は知らなかったが、これは珍しいものだった。ジィルバの驚いた表情など、写真におさめれば軍内の新聞――不定期に発行される二枚つづりの簡単なものだ――に掲載されたかもしれない。
「……名前は?」
 話を聞いていなかったのだろうかと訝りながら、ジィルバは質問を繰り返した。少年が頷いて答える。
「リヒトです」
 気に入った名なのか、最後に笑みを添える。
(光、か。天使らしいな)
 まあ、似合ってはいるが、そう思いながらジィルバも名乗る。
「俺はジィルバ・ヴァントだ」
「銀……ですか。そのまんまですね」
 率直すぎる意見を述べる少年に、ジィルバはなんとなく肩に疲労感を感じた。
 彼の憂鬱な表情を見て、リヒトは慌てたように手を振った。
「あ、そのまんまって、いえ、あの、よく似合っていると思います。本当に綺麗な色ですし」
「……どうも」
 褒められるのは苦手だ。良いことをして褒められたことなどないし、容姿は生まれつきのものだから褒めるに値しないと考えている。
 と、その時、けたたましい音が二人の間を貫いた。リヒトが驚いて肩を跳ねさせる。
 ジィルバは聞きなれた音にうんざりしながら席をたった。軍の緊急呼び出しだ。
「はい」
 壁に添えつけられた受話器をとり、耳にあてるとベル同様に同僚が喚いてくる。
「北四区に悪魔だ! すぐに出て来い!」
「分かった……」
 鼓膜を必要以上に振動させる音声に顔をしかめながら返事をし、ジィルバは受話器を元に戻した。
 URの指令は通常の指揮系統と異なるため、同僚はジィルバがURの任務を負っていることを知らない。UR任務をこなしている間は他の任務からは上手く外されることになっているのだが、緊急事態のために出動要請が来たのだろう。
 とにかく仕事が増えて、ジィルバはため息をついた。
 自由戦争時に天使は大量の法力を使った。物理法則を著しく歪めたその力が、終戦後から現在に至るまで、世界を不安定なものとしている。一時的に力が凝縮した世界はそれを元の状態に戻そうとし、その急激な力の逆流が異形の生物を呼び出す。そして仮想であったはずの化け物の出現に人間たちは大いに戸惑ったのだった。
 天使を滅ぼしたがために現れた悪魔だ、と。
 「悪魔」は軍の権威を下げる。そのため軍は出現した怪物――正式には「法定危機生物」と呼ぶ――を迅速に始末する必要があった。
「出かけてくる。家の中ならどこへ行ってもいいが、外へは出るな」
 どこでも、と言ってもジィルバの書斎と寝室には鍵が掛かっている。
 立ち上がってリヒトはその柔らかい色の瞳を揺らした。
「……どこへ行くんですか?」
「仕事だ」
「軍に届けないんですか? ――僕……」
 大きな瞳には自分が映っている。ジィルバは上着を羽織ってから、リヒトの前で背中をかがめた。泣きそうな少年の顔を覗き込む。
「……今日はそんな時間はない。今からある仕事が終わるころには勤務時間外だ」
 リヒトは顔を上げてこちらを見つめてきた。不安げに首が傾いている。
「俺は時間外労働に励みたいほど出来た人間じゃないんだ」
 言い終えて、ジィルバは振り返ると玄関へと歩き出した。遠ざかる後姿をリヒトはぼんやりと見送った。
 靴を履き替える音がして、扉が開き、そして閉じる。最後に鍵をかける音がした。
(……僕を助けてくれるの? 銀闇の使者が?)
 以前、軍から逃げ出し、そして捕縛されて戻ってきた天使がいたことを思い出す。彼は戦争にも参戦した勇猛な天使だった。
 彼は銀闇の使者は背約の咎人だと罵っていた。他のどの人間よりも冷静に天使に銃弾を打ち込む、と。
(そんなに怖くなかったけど……な)
 氷そのものの冷たい銀の瞳。感情のこもらない瞳には、だからこそ人間の卑屈さもない。すらりと背が高く、涼しげな容貌は眼を惹いて離さない。
 天使ほどに美しい人間がいるとは、リヒトは知らなかった。
 今まで軍の敷地内で銀闇の話を聞くことはあっても、当人に出会うことはなかった。管轄が違うのか、彼は天使が保護されている区域には来ないらしい。
(あ、言い忘れちゃった……)
 逃げ出すときに破いた服は、新品のシャツに替えられていた。差し出された紅茶は熱すぎず、甘く仕立てられていて……。
(ありがとう……)

 耳に届いた感謝にジィルバは振り返った。
 告げなかった親切に気づかれるというのはなんともくすぐったい。
 もっとも親切にしようと思ってしたわけではない。汚れた服を着た子どもをベッドに寝かしたくはないし、飲めないと分かっていて熱湯を出すのはばかばかしいからだ。
「ヴァント中尉? どうかしましたか?」
 敵と反対を向いているジィルバを兵が呼ぶ。
「いや、なんでもない」
 答えて、ジィルバは空を仰いだ。いや、空ではない。仰ぎ見るほどに高い、それは竜のような姿をしていた。
 トカゲと言うにはやや長すぎる。頭をもたげれば、周りのビルほどにもなるその生物は、まさに悪魔と言ったものを連想させた。
(こんなのまで出てくるとは、よほど世界の物理法則は曲げられたんだな)
 世界に余った力の塊。天使が使い込んだ法力の廃棄物。それが悪魔だ。
 ジィルバはため息をついて、手にしていた長銃を肩に担いだ。
 指揮官が手を上げ、合図を出す。攻撃開始の指令が下りた。

 発光。ランチャーで打ち込まれた手榴弾が炸裂する。悲鳴を上げて竜はその巨体を傾(かし)いだ。倒れる方向から幾人かの兵士が足早に移動してくる。
 その混雑の中をジィルバは突っ切って行った。走りながら銃を構える。
 どぅん、と重い地響きを立てて竜が倒れた。その体に飛び乗り、顔面に向けて引き金を引く。悪魔の外皮は硬いものが多く、特にこういった爬虫類系悪魔の持つうろこ状の外皮は簡単には傷がつかない。よって狙うとすれば柔らかい目などになる。
 一発、二発、三発と連射し、ジィルバは一度手を止めた。その両眼から血を流す竜を見つめる。
(そうしてまた殺すのか、俺は……)
 とどめをさそうと、再び引き金に指をかける。
 突然、竜が咆哮をあげた。空気をびりびりと振動させる巨大な肉声。尾が地面を打って、悲鳴が上がった。
「く……っ」
 竜が身体を起こせば、振り落とされる。ジィルバは引き金を引いた。
 口内から頭へ貫くように。弾は思い描いたとおりの軌道を走った。開かれた口から血液がこぼれる。その赤い滴のいくつかはジィルバの頬を打った。
 断末魔は短く、低い呻きだった。
 悪魔の絶叫など、そんな大層なものは滅多にない。そもそも彼らは「悪魔」ではないのだから。
 絶命までは長くなかった。痙攣した後、動かなくなった竜を背後に、ジィルバは頬の血痕を親指で拭った。
 死体を移動、処分するための重機のエンジンが掛けられる。その無機質な音を聞きながら、銃をそこらに投げやる――放っておけば、歩兵が拾って帰る――。
 赤く染まりだした太陽の下、ジィルバは手に残った感触を持て余していた。