薔薇の下 1

 助けて、助けて、助けて

 誰もいないせいで無機質に広い食堂。隅にはとって付けたような緑が置かれている。
 整然と並べられたテーブル群。その一番窓側の一番端の席で、一人突っ伏している男がいた。
 濃灰の軍服。年はまだ若く、ほんの淡く黄色がかったテーブルの上に、銀の前髪をばら撒いている。体つきは全体的に細く、背は高めだ。
 彼は今日はまだ誰とも話していない。その不機嫌極まりない表情にみな逃げていってしまったのだ。

 だれか、助けて――

 目覚めたときから、いや、そのせいで目覚めた。
 一方的に送られてくる、その声。鼓膜を経由することなく、直接脳に響いてくる。
「煩(うる)さい……」
 眉根を寄せて低く唸る。
 頭痛にも似た感覚で響く声には、もううんざりだった。
「ジィルバ・ヴァント中尉」
 唐突に耳を打った肉声に、青年はばっと上半身を起こした。
「ははは、見事な銀髪が台無しだな」
 あちこちにはねた髪を見て、呼び声の主は笑った。
 銀髪を片手で撫でながら、ジィルバは憮然と嘆息した。目線だけ上げる。
「……なんだ、いや……なんですか?」
 その視線の先には、黒い髪を綺麗に整えた若い男。
 名をクラング・ヒンメルという。軍服は高級感のある黒で、腕には四本の袖章――大佐である。
 笑い声こそ穏やかだが、澄んだ青い瞳には隙がない。
 クラングは笑みのまま、一言紡いだ。
「URだ」
 途端、ジィルバが表情を引き締める。
 UR。軍事機密の任務である。内容は失策、失敗、不正、そういったものの事後処理であることが多い。
「迅速に動いてくれ」
 そして内密に。それは言われずとも、分かっていることだ。
 クラングは囁くように告げた。
「天使が逃げた」
 髪と同じ色の瞳が鋭くなる。ジィルバは立ち上がって、机の上に放っておいた手袋をはめた。襟を詰める。
 そして、銀に似合った硬く冷たい声が返事をした。
「イエス、サー」

 UR――Under the Rose.
 薔薇の下に。
 悪事も失態も、醜いものは隠してしまおう。
 真っ赤な嘘の下に。

 薔薇の下に。

     *     *     *

 十年前、人間の蜂起により、二世紀に渡って世界を統一していた大天使の玉座は崩壊した。
 神の戒めに耐えられるほど、人は神の子ではなかったのだ。
 苦痛であった天使時代は終わりを告げ、人はまた気ままな暮らしを送っている。現在、世界の覇権を握っているのは蜂起の折に大天使を討った軍部である。
 海を裂き、天を落とした。そう謳われるほど激しかった戦いは「自由戦争」と呼ばれ、今は歴史の教科書のページを埋める役割を担っている。
 人ごみに混じり歩きながら、ジィルバは意識を研ぎ澄まさせていた。
 軍服の上にはロングコートを羽織り、それと分からないようにしてある。軍人に憧れる子供ならばいざ知らず、これを見て逃げ出さない天使はいない。
(こっちか……)
 ジィルバは雑踏をくぐり抜け、薄暗い路地に踏み込んだ。
 彼は生まれながら天使の気配を読むことが出来た。そのためこういったURはほとんどが彼に任されている。おかげで給与も優遇された。
 四方を壁に囲まれた暗い道に立って、ジィルバは一度足を止めた。
 路地裏の饐(す)えた匂い。思わず顔をしかめる。
(天使には限りなく不似合いな場所だな)
 自由戦争以来、天使の数は激減している。彼らを忌み嫌う人間が乱獲したからだ。いまや天使は宿敵であるはずの軍の保護を受けるほどである。
(だが、誇り高い天使にとってあの大天使を殺した軍に保護されるのは……)
 足を止め、静かに見下ろす。
 透き通るような白い肌は薄暗い影の中で、淡く輝いていた。純白の翼は土で汚れても、決して清楚さを失わない。
(……屈辱以外の何でもないだろうな……)
 それは少年だった。
 少年といっても男ではない。天使は人間で言うところの二次成長までを無性で過ごす。
 目の前の少年はどこかよれよれのシャツと土で汚れたズボン姿で、気絶して壁にもたれていた。
 外傷は見あたらない。ジィルバは片膝をついて、顔を近づけた。
(呼吸は正常……。単に気力が尽きただけか……)
 警戒厳重な軍からの脱走だ。どうやり過ごしたのかは分からないが、肉体的にはもちろん、精神的にも疲弊しているはずだ。
 そして、ついその白い顔に見入る。幼い天使の顔。
 自由戦争のさなかに出会った天使の多くは成体だった。そして無論敵であり、こんな風にじっと見つめたのは開戦以来、滅多になかった。
 伏せられた睫毛は長く、その瞼の下には信じられないほど清廉な瞳があることを彼は知っている。
 死の間際であっても、決して相手を憎まない、その瞳。水面を揺れる光のように静かで、緑の木漏れ日のように柔らかな、広い慈悲の心を表した瞳だ。
 ――本来はそうであるはずだった。
 戦火の中でまみえた多くの双眸は、人間への敵意に満ちていた。そのことに何度失望したことか。
(……いや、 《断罪の天使》 はそういう生き物だ……)
 目を伏せ、甦ってきた記憶を再び沈める。
 ジィルバはコートを脱ぐとそれで少年を覆った。ゆっくりと少年を抱き上げ、歩き出す。静かに、足音も立てずに。

(……なんだろう。体がふわふわする)
 わずかに開いた視界の向こうは濃灰だった。見間違うはずはない。軍の制服だ。
 少年は涙の滲んだ瞳でそれを見た。
(ああ、捕まったんだ。……軍人に見つかったんだ……)
 気力はもたず、沈みゆく意識で彼は小さく呟いた。
 助けて――……
 誰も気づかないはずだった。その声には。
 心の中で発した声だったから。
 だが、ジィルバは少年を凝視した。彼だけが少年の声を聞いていた。

 次に目を開いたときには無機質な電灯がぶら下がっている。
 そのはずだった。柔らかい光をたたえた家庭用のライトに目をぱちくりさせる。
(軍の天井じゃない……!?)
 寝起きの頭を精一杯動かし、周りを確認する。
 少年は冗談のように軽い布団の中にうずもれるようにしていた。滑らかなシーツが頬を撫でている。
「起きたのなら翼をしまえ」
 冷たい声が投げかけられる。少年はぎょっとしてそちらに目をやった。
 知らない青年がテーブルの向こうからこちらを見ている。
「それは目立ちすぎる」
 銀の髪、銀の瞳。笑うことを忘れたような冷めた顔。
 それらに少年は思い当たるものがあった。
 ぼーっとこちらを見つめる少年に、ジィルバは眉を寄せた。声を低くして言いつける。
「早くしろ」
「えっ、あ、はい」
 少年はあたふたと起き上がると、自分の肩を抱きしめた。と、音もなく背中の翼が消える。
 天使の翼はその法力の源、つまりは力の塊であるので形を変えることは容易だった。ただ荘厳なイメージを与える白い翼は彼らの象徴として、普段は背中にある。
「歩けるか?」
 いつの間にかそばに来ていた青年が上方から問いかけてくる。
 少年はそろそろとベッドから足を出すと床に付けた。毛の長いじゅうたんが柔らかく足を包む。力を入れれば、普通に立つことが出来た。
 それを認めるとジィルバは少年にあごをしゃくってテーブルを示して見せた。
「お茶にしよう。喉が渇いているだろう」
 そう言って歩き出す青年の軍服を少年は掴んだ。銀の瞳が振り返って射抜いてくる。
 ぞくっと背筋が震えるのにもかまわず、少年は声を絞った。
「あ……あなた、銀闇の使者でしょう? なぜ、僕に優しくするんですか?」
「銀闇?」
 聞き慣れない単語にジィルバは目を細めた。