薔薇の下

薔薇の下 1

 助けて、助けて、助けて

 誰もいないせいで無機質に広い食堂。隅にはとって付けたような緑が置かれている。
 整然と並べられたテーブル群。その一番窓側の一番端の席で、一人突っ伏している男がいた。
 濃灰の軍服。年はまだ若く、ほんの淡く黄色がかったテーブルの上に、銀の前髪をばら撒いている。体つきは全体的に細く、背は高めだ。
 彼は今日はまだ誰とも話していない。その不機嫌極まりない表情にみな逃げていってしまったのだ。

 だれか、助けて――

 目覚めたときから、いや、そのせいで目覚めた。
 一方的に送られてくる、その声。鼓膜を経由することなく、直接脳に響いてくる。
「煩(うる)さい……」
 眉根を寄せて低く唸る。
 頭痛にも似た感覚で響く声には、もううんざりだった。
「ジィルバ・ヴァント中尉」
 唐突に耳を打った肉声に、青年はばっと上半身を起こした。
「ははは、見事な銀髪が台無しだな」
 あちこちにはねた髪を見て、呼び声の主は笑った。
 銀髪を片手で撫でながら、ジィルバは憮然と嘆息した。目線だけ上げる。
「……なんだ、いや……なんですか?」
 その視線の先には、黒い髪を綺麗に整えた若い男。
 名をクラング・ヒンメルという。軍服は高級感のある黒で、腕には四本の袖章――大佐である。
 笑い声こそ穏やかだが、澄んだ青い瞳には隙がない。
 クラングは笑みのまま、一言紡いだ。
「URだ」
 途端、ジィルバが表情を引き締める。
 UR。軍事機密の任務である。内容は失策、失敗、不正、そういったものの事後処理であることが多い。
「迅速に動いてくれ」
 そして内密に。それは言われずとも、分かっていることだ。
 クラングは囁くように告げた。
「天使が逃げた」
 髪と同じ色の瞳が鋭くなる。ジィルバは立ち上がって、机の上に放っておいた手袋をはめた。襟を詰める。
 そして、銀に似合った硬く冷たい声が返事をした。
「イエス、サー」

 UR――Under the Rose.
 薔薇の下に。
 悪事も失態も、醜いものは隠してしまおう。
 真っ赤な嘘の下に。

 薔薇の下に。

      *      *      *

 十年前、人間の蜂起により、二世紀に渡って世界を統一していた大天使の玉座は崩壊した。
 神の戒めに耐えられるほど、人は神の子ではなかったのだ。
 苦痛であった天使時代は終わりを告げ、人はまた気ままな暮らしを送っている。現在、世界の覇権を握っているのは蜂起の折に大天使を討った軍部である。
 海を裂き、天を落とした。そう謳われるほど激しかった戦いは「自由戦争」と呼ばれ、今は歴史の教科書のページを埋める役割を担っている。
 人ごみに混じり歩きながら、ジィルバは意識を研ぎ澄まさせていた。
 軍服の上にはロングコートを羽織り、それと分からないようにしてある。軍人に憧れる子供ならばいざ知らず、これを見て逃げ出さない天使はいない。
(こっちか……)
 ジィルバは雑踏をくぐり抜け、薄暗い路地に踏み込んだ。
 彼は生まれながら天使の気配を読むことが出来た。そのためこういったURはほとんどが彼に任されている。おかげで給与も優遇された。
 四方を壁に囲まれた暗い道に立って、ジィルバは一度足を止めた。
 路地裏の饐(す)えた匂い。思わず顔をしかめる。
(天使には限りなく不似合いな場所だな)
 自由戦争以来、天使の数は激減している。彼らを忌み嫌う人間が乱獲したからだ。いまや天使は宿敵であるはずの軍の保護を受けるほどである。
(だが、誇り高い天使にとってあの大天使を殺した軍に保護されるのは……)
 足を止め、静かに見下ろす。
 透き通るような白い肌は薄暗い影の中で、淡く輝いていた。純白の翼は土で汚れても、決して清楚さを失わない。
(……屈辱以外の何でもないだろうな……)
 それは少年だった。
 少年といっても男ではない。天使は人間で言うところの二次成長までを無性で過ごす。
 目の前の少年はどこかよれよれのシャツと土で汚れたズボン姿で、気絶して壁にもたれていた。
 外傷は見あたらない。ジィルバは片膝をついて、顔を近づけた。
(呼吸は正常……。単に気力が尽きただけか……)
 警戒厳重な軍からの脱走だ。どうやり過ごしたのかは分からないが、肉体的にはもちろん、精神的にも疲弊しているはずだ。
 そして、ついその白い顔に見入る。幼い天使の顔。
 自由戦争のさなかに出会った天使の多くは成体だった。そして無論敵であり、こんな風にじっと見つめたのは開戦以来、滅多になかった。
 伏せられた睫毛は長く、その瞼の下には信じられないほど清廉な瞳があることを彼は知っている。
 死の間際であっても、決して相手を憎まない、その瞳。水面を揺れる光のように静かで、緑の木漏れ日のように柔らかな、広い慈悲の心を表した瞳だ。
 ――本来はそうであるはずだった。
 戦火の中でまみえた多くの双眸は、人間への敵意に満ちていた。そのことに何度失望したことか。
(……いや、 《断罪の天使》 はそういう生き物だ……)
 目を伏せ、甦ってきた記憶を再び沈める。
 ジィルバはコートを脱ぐとそれで少年を覆った。ゆっくりと少年を抱き上げ、歩き出す。静かに、足音も立てずに。

(……なんだろう。体がふわふわする)
 わずかに開いた視界の向こうは濃灰だった。見間違うはずはない。軍の制服だ。
 少年は涙の滲んだ瞳でそれを見た。
(ああ、捕まったんだ。……軍人に見つかったんだ……)
 気力はもたず、沈みゆく意識で彼は小さく呟いた。
 助けて――……
 誰も気づかないはずだった。その声には。
 心の中で発した声だったから。
 だが、ジィルバは少年を凝視した。彼だけが少年の声を聞いていた。

 次に目を開いたときには無機質な電灯がぶら下がっている。
 そのはずだった。柔らかい光をたたえた家庭用のライトに目をぱちくりさせる。
(軍の天井じゃない……!?)
 寝起きの頭を精一杯動かし、周りを確認する。
 少年は冗談のように軽い布団の中にうずもれるようにしていた。滑らかなシーツが頬を撫でている。
「起きたのなら翼をしまえ」
 冷たい声が投げかけられる。少年はぎょっとしてそちらに目をやった。
 知らない青年がテーブルの向こうからこちらを見ている。
「それは目立ちすぎる」
 銀の髪、銀の瞳。笑うことを忘れたような冷めた顔。
 それらに少年は思い当たるものがあった。
 ぼーっとこちらを見つめる少年に、ジィルバは眉を寄せた。声を低くして言いつける。
「早くしろ」
「えっ、あ、はい」
 少年はあたふたと起き上がると、自分の肩を抱きしめた。と、音もなく背中の翼が消える。
 天使の翼はその法力の源、つまりは力の塊であるので形を変えることは容易だった。ただ荘厳なイメージを与える白い翼は彼らの象徴として、普段は背中にある。
「歩けるか?」
 いつの間にかそばに来ていた青年が上方から問いかけてくる。
 少年はそろそろとベッドから足を出すと床に付けた。毛の長いじゅうたんが柔らかく足を包む。力を入れれば、普通に立つことが出来た。
 それを認めるとジィルバは少年にあごをしゃくってテーブルを示して見せた。
「お茶にしよう。喉が渇いているだろう」
 そう言って歩き出す青年の軍服を少年は掴んだ。銀の瞳が振り返って射抜いてくる。
 ぞくっと背筋が震えるのにもかまわず、少年は声を絞った。
「あ……あなた、銀闇の使者でしょう? なぜ、僕に優しくするんですか?」
「銀闇?」
 聞き慣れない単語にジィルバは目を細めた。

薔薇の下 2

「闇が連れてきた銀の使者……」
 テーブルに着いて、少年は静かに口を開いた。両手で暖かいカップを包んで。
「銀色で統一された軍人が逃げ出した天使を見つけに来る。必ず……」
 そう言われてみれば、確かに耳にしたことがあるような気もする。だが特に気にはならなかった。あれだけの天使を捕獲した自分が彼らの間で噂にならないはずがない。
 ジィルバは向かい合って座った少年を観察した。
 優しい色合いの金髪、空を水で描いたような瞳。無駄な肉のつかないしなやかな身体。愛らしい顔つきは、その甘い笑顔を容易に想像させる。
「気まぐれで僕を助けたんですか?」
 上目遣いにこちらを見つめてくる。
 少年は外見からして自由戦争末期の子供だろう。
 地上で生まれた天使は、天上で生まれた天使と比べて、子どもの成長が早いのだ。
 人間は野生の獣たちと比べて成長が非常に遅い。子どもの一人立ちに二十年もかかる種族は他にないだろう。これは長い間か弱い子どもであったとしても、それを害する敵がいないためである。
 超長命種であり、自分たち以外は存在しない天上に住む天使の成長はさらに遅かった。しかし、下界に降り立ったことにより、天使の成長は早まったのである。今では子どもの天使は人間と変わりない成長をするようになっている。ただし、その長い寿命は変わっていない。つまり新生児期から少年期は短く、青年期は長くなったのである。
「……いや」
 ジィルバは嘆息混じりに答えた。
「なぜ、俺に話しかけてくるのか聞いておこうかと思って。安眠も阻害されたしな」
「え?」
 少年が小首をかしげる。自覚はないらしい。
 ジィルバは手元のコーヒーを一口含んだ。その苦味を味わって飲み下す。
 形のよい唇が白いカップに口付ける様子に、少年は思わずじっと見惚れてしまった。取っ手に触れる指、長い睫毛の動き、すべてが滑らかで映画か何かのワンシーンのようだった。
「……おまえ、名前は?」
「えあぁっ、は、はい?」
 素っ頓狂な声を上げた少年に、ジィルバは目を瞬いた。少年は知らなかったが、これは珍しいものだった。ジィルバの驚いた表情など、写真におさめれば軍内の新聞――不定期に発行される二枚つづりの簡単なものだ――に掲載されたかもしれない。
「……名前は?」
 話を聞いていなかったのだろうかと訝りながら、ジィルバは質問を繰り返した。少年が頷いて答える。
「リヒトです」
 気に入った名なのか、最後に笑みを添える。
(光、か。天使らしいな)
 まあ、似合ってはいるが、そう思いながらジィルバも名乗る。
「俺はジィルバ・ヴァントだ」
「銀……ですか。そのまんまですね」
 率直すぎる意見を述べる少年に、ジィルバはなんとなく肩に疲労感を感じた。
 彼の憂鬱な表情を見て、リヒトは慌てたように手を振った。
「あ、そのまんまって、いえ、あの、よく似合っていると思います。本当に綺麗な色ですし」
「……どうも」
 褒められるのは苦手だ。良いことをして褒められたことなどないし、容姿は生まれつきのものだから褒めるに値しないと考えている。
 と、その時、けたたましい音が二人の間を貫いた。リヒトが驚いて肩を跳ねさせる。
 ジィルバは聞きなれた音にうんざりしながら席をたった。軍の緊急呼び出しだ。
「はい」
 壁に添えつけられた受話器をとり、耳にあてるとベル同様に同僚が喚いてくる。
「北四区に悪魔だ! すぐに出て来い!」
「分かった……」
 鼓膜を必要以上に振動させる音声に顔をしかめながら返事をし、ジィルバは受話器を元に戻した。
 URの任務は大佐であるクラングから直接下っているため、同僚はそれを知らない。知っているとしたら、それはどこからか漏洩していることになってしまう。
 とにかく仕事が増えて、ジィルバはため息をついた。
 自由戦争時に天使は大量の法力を使った。物理法則を著しく歪めたその力が、終戦後から現在に至るまで、世界を不安定なものとしている。一時的に力が凝縮した世界はそれを元の状態に戻そうとし、その急激な力の逆流が異形の生物を呼び出す。そして仮想であったはずの化け物の出現に人間たちは大いに戸惑ったのだった。
 天使を滅ぼしたがために現れた悪魔だ、と。
 「悪魔」は軍の権威を下げる。そのため軍は出現した怪物――正式には「法定危機生物」と呼ぶ――を迅速に始末する必要があった。
「出かけてくる。家の中ならどこへ行ってもいいが、外へは出るな」
 どこでも、と言ってもジィルバの書斎と寝室には鍵が掛かっている。
 立ち上がってリヒトはその柔らかい色の瞳を揺らした。
「……どこへ行くんですか?」
「仕事だ」
「軍に届けないんですか? ――僕……」
 大きな瞳には自分が映っている。ジィルバは上着を羽織ってから、リヒトの前で背中をかがめた。泣きそうな少年の顔を覗き込む。
「……今日はそんな時間はない。今からある仕事が終わるころには勤務時間外だ」
 リヒトは顔を上げてこちらを見つめてきた。不安げに首が傾いている。
「俺は時間外労働に励みたいほど出来た人間じゃないんだ」
 言い終えて、ジィルバは振り返ると玄関へと歩き出した。遠ざかる後姿をリヒトはぼんやりと見送った。
 靴を履き替える音がして、扉が開き、そして閉じる。最後に鍵をかける音がした。
(……僕を助けてくれるの? 銀闇の使者が?)
 以前、軍から逃げ出し、そして捕縛されて戻ってきた天使がいたことを思い出す。彼は戦争にも参戦した勇猛な天使だった。
 彼は銀闇の使者は背約の咎人だと罵っていた。他のどの人間よりも冷静に天使に銃弾を打ち込む、と。
(そんなに怖くなかったけど……な)
 氷そのものの冷たい銀の瞳。感情のこもらない瞳には、だからこそ人間の卑屈さもない。すらりと背が高く、涼しげな容貌は眼を惹いて離さない。
 天使ほどに美しい人間がいるとは、リヒトは知らなかった。
 今まで軍の敷地内で銀闇の話を聞くことはあっても、当人に出会うことはなかった。管轄が違うのか、彼は天使が保護されている区域には来ないらしい。
(あ、言い忘れちゃった……)
 逃げ出すときに破いた服は、新品のシャツに替えられていた。差し出された紅茶は熱すぎず、甘く仕立てられていて……。
(ありがとう……)

 耳に届いた感謝にジィルバは振り返った。
 告げなかった親切に気づかれるというのはなんともくすぐったい。
 もっとも親切にしようと思ってしたわけではない。汚れた服を着た子どもをベッドに寝かしたくはないし、飲めないと分かっていて熱湯を出すのはばかばかしいからだ。
「ヴァント中尉? どうかしましたか?」
 敵と反対を向いているジィルバを兵が呼ぶ。
「いや、なんでもない」
 答えて、ジィルバは空を仰いだ。いや、空ではない。仰ぎ見るほどに高い、それは竜のような姿をしていた。
 トカゲと言うにはやや長すぎる。頭をもたげれば、周りのビルほどにもなるその生物は、まさに悪魔と言ったものを連想させた。
(こんなのまで出てくるとは、よほど世界の物理法則は曲げられたんだな)
 世界に余った力の塊。天使が使い込んだ法力の廃棄物。それが悪魔だ。
 ジィルバはため息をついて、手にしていた長銃を肩に担いだ。
 隊長が手を上げ、合図を出す。攻撃開始の指令が下りた。

 発光。ランチャーで打ち込まれた手榴弾が炸裂する。悲鳴を上げて竜はその巨体を傾(かし)いだ。倒れる方向から幾人かの兵士が足早に移動してくる。
 その混雑の中をジィルバは突っ切って行った。走りながら銃を構える。
 どぅん、と重い地響きを立てて竜が倒れた。その体に飛び乗り、顔面に向けて引き金を引く。悪魔の外皮は硬いものが多く、特にこういった爬虫類系悪魔の持つうろこ状の外皮は簡単には傷がつかない。よって狙うとすれば柔らかい目などになる。
 一発、二発、三発と連射し、ジィルバは一度手を止めた。その両眼から血を流す竜を見つめる。
(そうしてまた殺すのか、俺は……)
 とどめをさそうと、再び引き金に指をかける。
 突然、竜が咆哮をあげた。空気をびりびりと振動させる巨大な肉声。尾が地面を打って、悲鳴が上がった。
「く……っ」
 竜が身体を起こせば、振り落とされる。ジィルバは引き金を引いた。
 口内から頭へ貫くように。弾は思い描いたとおりの軌道を走った。開かれた口から血液がこぼれる。その赤い滴のいくつかはジィルバの頬を打った。
 断末魔は短く、低い呻きだった。
 悪魔の絶叫など、そんな大層なものは滅多にない。そもそも彼らは「悪魔」ではないのだから。
 絶命までは長くなかった。痙攣した後、動かなくなった竜を背後に、ジィルバは頬の血痕を親指で拭った。
 死体を移動、処分するための重機のエンジンが掛けられる。その無機質な音を聞きながら、銃をそこらに投げやる――放っておけば、歩兵が拾って帰る――。
 赤く染まりだした太陽の下、ジィルバは手に残った感触を持て余していた。

薔薇の下 3

 この地上には二種類の天使がいた。
 人に教えを説き導く 《救済の天使》 と、驕れる人間を裁く 《断罪の天使》 である。
 人間を殺すことが出来るのは断罪の天使。彼らの多くは自由戦争で散った。
 そして残った断罪の天使は、救済の天使と一緒に軍で保護されている。ただし、救済の天使の中には教会に保護されている者もいる。
(まあ、断罪の天使なんて教会で扱うには危険すぎるからな)
 断罪の天使は救済の天使と違い、決して人間とは相容れない。人間の持つ負の感情を裁く者たちだ。小さな欲望までも断罪するというわけではないが、罪人が現れない限りは、彼らが大天使の住む神殿からは出ることはなかった。
 ジィルバは自宅の玄関の扉を見つめた。
 今、この向こうには救済の天使がいる。
 救済の天使は人と触れあい、迷う者を助け、弱き者を守って暮らす。自由戦争以前はどこの教会でも見かけることのできる存在であった。“人間以上の力を持った優しき者”である彼らは人間達から愛されていた。
 そのため、断罪の天使が排斥される風潮にあった戦時中、戦後であっても表立って救済の天使を処分することはできなかった。
 その救済の天使、しかも子どもが脱走するのは初めてのことだった。そして自分はそれを隠匿しようとしている。
 古傷が痛んだ。苛むように。
(俺はリヒトに何をさせたいんだ……)
 自問は苦痛を増長するだけだった。答えは出ているのだ。だが、それを自覚するだけの勇気がない。
 自分の罪を認めることになるから。
 背中に冷たい汗を感じなら、ジィルバは深く息を吐き出した。

 大丈夫だ。過去は薔薇の下に埋めてしまったんだから。
 赤くて、何も見えない。

      *      *      *

 優しい赤で染められていく空。
 それを窓から眺めながら、リヒトは眉を寄せた。
(……彼はまだ、動いていない?)
 星がひとつきらめいていた。軍の保護施設から見たのはと違う方向に。
(僕、これからどうしよう……)
 銀闇の使者は、どうも自分を軍に突き出す気がないように思える。何を考えているのかは理解できないが、助かることは確かだった。
(だって……このままじゃ帰れない)
 そう、このままにはしておけない。
 改めて決意して、リヒトは唇を引き結んだ。
 それから間もなくジィルバが帰ってきたのだが、彼は特にリヒトに何も言わず、奥の部屋へと向かってしまった。
 不思議に思って、リヒトはひょいと部屋の中を覗いた。
「あ、何かお手伝いしましょうか?」
 中はキッチンで、冷蔵庫を前にジィルバは腰を曲げていた。軍服の上着は側の椅子にかけてある。声を聞いて、彼は入り口に立つ少年に気づいた。
「いや……特にないが、……肉は食べられるか?」
「あ、……だめです」
 答えて、リヒトは申し訳なさそうに首を振る。
「天使には多いな。まあ、欲しいと言われてもここにはないんだが――俺も肉は好きじゃない」
 見るとどうしても死体の記憶が甦ってくるのだ。殉職した仲間、殺された人間、殺した天使……。
 ジィルバは目を伏せた。小さく首を振る。
(過ぎたものは戻らない)
 自分に言い聞かせて、改めて冷蔵庫に向かう。と、赤いものが野菜室を占拠していた。滑らかな曲線を描いて瑞々しく光る、歯を立てるとその果汁が溢れるだろう健気に張り詰めた赤い肌。
 直送大安売り、宣伝のおばさんに無理やり買わされたものだ。
「トマト……か」
 リゾットにしよう。直感で決めて、一人で頷く。
 ジィルバはトマトを取り出すと、黙って扉のところに突っ立ている少年に目をやった。
「部屋で待っていていいぞ」
「えっと、でも……」
 助けてもらったことへの遠慮があるのだろう、手伝いたいのだと青い目が訴えている。ジィルバは首を振った。
「大丈夫だ。料理は好きなんだ」
 テーブルの上にトマトを置き、冷蔵庫の横にぶら下げてあるエプロンに手をかける。
「本当にいいんですか……?」
「ああ」
「……じゃぁ、見ていてもいいですか?」
「ああ。………何?」
 流れで返事しておいてから、質問の内容を反芻し、ジィルバはエプロンを着る手を止めて少年を見つめた。リヒトが言いにくそうに肩をすくめて見せる。
「僕、誰かが料理しているところって、もうずっと見たことないんです。小さい頃、母が料理していたのをぼんやり覚えてるだけで……」
 天使の保護施設での食事は軍側が用意する。もちろん、その食事が調理されている現場を見ることはできないだろう。
 だが、それとこれとは話が別で、自分は他人に調理現場を見せるほどの腕前ではない。
「……見ていて面白いものでもないぞ」
「いいんです」
 にこりと、それこそ天使のというにふさわしい笑みを見せ、リヒトはキッチンに入ってきた。ジィルバから少し離れた位置で立ち止まり、もう一度笑う。
(……まあ、いいか)
 邪魔になるわけでもない。ジィルバはエプロンの紐を締め、調理台に向かった。

 音と香りの調和。
 リヒトはダイニングテーブルから引っ張ってきた椅子に腰掛けて、じっとジィルバの後姿を見ていた。
 包丁がまな板を叩く軽やかな音。切り開かれたトマトから漂う甘酸っぱい香り。
(不思議。心が和む音と香りだ……)
 背もたれに寄りかかって目を瞑ると気持ちよくなってくる。
(覚えてないのに、懐かしい感じ……)
 霞のかかった母の後姿を目の前の男に重ねてみる。思わず顔が綻んだ。

 トマトのリゾットは文句の付けようもなく美味しい。だが。
「……あの、ジィルバさんは軍で何をしてるんですか?」
 無言の重苦しい食事にいたたまれなくなったのか、リヒトが遠慮がちに尋ねてくる。
 向かい側の席で、ジィルバは手を止めると、数瞬思案する表情を見せた。
「はっきりいえば雑務だな。……俺はどうも特異な位置にいるらしい。表向きは少尉か何かだった気がするが……いや、中尉だったかな」
 不明瞭な回答にリヒトは目を瞬いた。
「表向きはって……?」
「とりあえず軍の書類に記載されている俺の階級。俺は別に歩兵だってなんだっていいんだ。だが、一歩兵がそうたびたび大佐に話しかけられていたらおかしいからな」
「……あの、よく分からないんですが……」
 青い瞳が困ったような光を浮かべている。そこでジィルバはリヒトが本当に「何も」分かっていないことに気づいた。
「ああ、逃げた天使を捕まえるのは特務の中でもさらに裏の仕事なんだ――ちなみにURと呼ばれている。軍内でその存在は公然の秘密だ。だが誰がそれを行っているのかは、ほとんどの人間が知らない。軍の失態の事後処理だからな。内部のごたごたを片付けるときもある」
 だから表向きは中尉だと、そこまで話すと、リヒトは首をひねった。
「なんとなく分かった気もします……。でも……、それって僕に話しちゃっていいんですか?」
「だめなんだろうな」
 ジィルバはあっさりと漏らし、リヒトの顔色を窺った。わずかだが先ほどよりも顔が青い気がする。
 秘密を知ったからには始末される、そんなことでも考えているのだろうか。
 ため息をついて、ジィルバは手を振った。
「別にお前一人が知ったからと言って、何が変わるわけでもない。URを行う俺をお前が止められるとは思えないしな。バレなければそれでいいと俺は思ってる」
「はぁ……」
 なんとなく自信のない返事を返してくるリヒトに、ジィルバは軽く笑んでみせた。
 初めて見せたその優美な笑みが、実は意地悪なものだと、リヒトは見惚れてしまった後に気づいた。ジィルバがそのまま続ける。
「バラしはしないだろう? 助けてやったんだから」
 リヒトは口をぽかんと開けて、ジィルバを見つめた。それから徐々に眉を歪める。
「……ジィルバさんて、そういう人だったんですか……」
「どういう人だって?」
 面白がるように聞いてくる。リヒトは頬を紅潮させた。
「人の弱みを握って、いうことを聞かせるような卑怯な人だって言ってるんです。そんなのはダメですよ。人道に悖(もと)ります!」
 語気も強く言いつける。しかしジィルバは喉の奥でくつくつと笑った。
「……人道に悖る、か。子どもでも天使だな」
 銀の瞳が剣呑に光る。椅子に座ったまま、リヒトは体を引いた。
 食器を持ってジィルバは立ち上がると、少年を見下ろし、冷めた声で告げた。
「悪いな。俺は最初から人道なんて歩いてないんだ」

薔薇の下 4

 天使時代は二十世紀の末の年に始まった。
 断罪の天使が、空から降り注いだ。手に神の槍を持って。
「神の慈悲はもはや尽きた」
 それが第一声であった。

 ジィルバは書斎の椅子に腰掛けて、ため息をついた。手にしている暗い緑色の本を閉じる。
「神、神、神、神のため……か」
 皮肉に口元が引きつる。
 神の意志を遂行する者、天使。
 一人目を殺すことによって、二人目を殺すことになった。
 まばゆい光の中だった。
 そう記憶しているのは、怒りに駆られて周りが見えていなかった証拠なのだろうか。しかし、自分は冷静に構えていた。天使の頭に向けて。
 二人殺せば、三人殺すことにためらいはなかった。
 四人殺したところで、クラングから誘われた。軍に来い、と。
 それまでの過去などというものは、これからの栄誉に埋もれて誰にも見えなくなる。そう彼は言ったのだ。
「それで、今も軍にいるんですか?」
 背後で黙っていたリヒトが口を開く。
 食事を終えた後、彼はジィルバにくっついて書斎に入ってきた。説教でも聞く羽目になるのかとジィルバは思ったが、リヒトは何を言うわけでもなく、ただ書斎の中を見渡していた。
 そしてつい先ほど、リヒトの目に留まったのが天使時代の創始から自由戦争までを記した一冊の歴史書だった。
「そうだ」
 ジィルバは振り返って、肩をすくめた。
「甘い汁は依存性だ」
「保障された生活を失いたくないのは普通です」
 リヒトが淀みない声で答える。
「……そう、なんだろうか。……いや、そうなんだろうな」
 背もたれに後頭部を乗せて、ジィルバは天井を仰いだ。
「だが俺は砂漠へ派遣されても文句は言わないと思う」
 リヒトはじっと銀色の瞳を見つめた。
 どこか違和感を覚える。ジィルバの言葉は、まるで否定されることを望んでいるようだった。
「なにか良心に呵責があるんですか?」
 導き出した答えは、正しかったのか。ジィルバはこちらを見て動きを止めた。
 技術屋が腕によりをかけて作ったような美しい顔立ちの人間。その疑いようもない美貌とは裏腹に、彼の心は複雑で読み取りがたかった。
 他の人間とは何かが違う。
「……救済の天使、人間を説き導く者……ああ、おまえはそうなんだな。訓練もなくそうなるのか」
 話しかけているようで、独り言のようでもある呟き。
 ジィルバはあいかわらず冷たい声で、しかし今までになく自信なさげな口調で続けた。
「……俺には、罪悪感があるように見えるか?」
 天使を殺した。たくさんの天使を。視界に舞い散る羽根がちらちらと揺れる。
 じっと、天上の瞳がこちらを見つめる。濡れた空色。無垢で澄んだ瞳。
 清廉な天使の眼差し――。
 ジィルバはふと目を逸らしてしまった。
「見えます」
 リヒトは静かに答えた。
「自覚も、あるんじゃないですか?」
 確かめるような口調。
 長い間があった。夜空の星の瞬きさえ聞こえてきそうなほどの沈黙。
「……俺は……」
 ジィルバが口を開きかけたその時、二度目の非常ベルが鳴った。
 慣れないリヒトがまた肩を跳ねさせる。しかし今度ばかりは、さすがにジィルバも心拍数を上げた。
 夢から覚めたような心地だった。長く息を吐き、立ち上がる。
「悪い」
 一言そう断って、書斎の壁にある受信機に手を伸ばす。受信機はリビングと書斎、そして寝室の三箇所に備え付けてある。ジィルバが自宅で特に長くいる三部屋だ。
 普通はひとつしか設置しないものなのだが、寝起きのジィルバがリビングまで行くのを面倒がってなかなか出ないために、クラングが設置させたのである。
「ジィルバか」
 受話器から聞こえてきた声は意外にもクラングのものであった。
 切羽詰った気配を感じ、ジィルバはリヒトのほうをちらりと見やった。人との会話には聞き耳を立てない方針らしく、窓の外へ目を向けている。それを確認してから受話器に向かう。
「なんだ?」
 二人だけのとき、ジィルバはクラングに敬語を用いない。それはもともとジィルバがクラングに力を貸してやる、そういう理由でできた関係だからだ。
 どうせ盗聴もできない最新鋭の機器にも関わらず、クラングは声の調子を落としていた。
「救済の天使は、どうした……?」
 問いかけに、一瞬目を見開く。ジィルバはため息を聞かせてみせた。
「……まだ見つけてない。午後から悪魔の処理が入ったからな」
「そうか。では、そちらはしばらく放っていい。所詮は救済の天使だ」
「……なぜだ?」
 URを途中で破棄することは今までにはなかったことだ。
 何か渋っているような間を置いて、クラングが苦々しく告げる。
「……断罪の天使が一人足りない」
「何?!」
 思わずあげた大声に、リヒトが驚いて振り返る。だが、ジィルバは構わず続けた。
「どういうことだ。なぜ今まで気がつかなかったんだ!」
「ついさっきまできちんと揃っていたからだ」
 クラングの言い返しに、ジィルバは眉を寄せた。
「幻術、だったんだな」
 幻術。天使の使う幻覚を見せる術である。あるはずのないものを見せることのできる技だ。断罪の天使はこれを戦闘に用いて相手の視界を歪ませ、その隙に攻撃することもある。
「……おそらくそうだ」
「非常警告は発したのか?」
「あたりまえだ。君はまたラジオを切っていたな」
 クラングが呆れた口調で指摘してくる。ラジオは全世帯に一台ずつ設置されている。常に起動させていることが義務付けられており、おもに悪魔が発生した際に避難警告が放送される。他の用途と言ったら朝に一度天気予報が流れるくらいだった。
 だが、その天気予報が寝起きのジィルバにとって耳障りであるために、この家のラジオはほとんど使用されていない。
「あれはうるさいんだ――分かった、今から捜す」
 それだけ答えて、ジィルバは受話器を置いた。目をぱちくりさせていたリヒトを振り返る。
「出かけてくる」
「えっ、こんな時間に?」
 リヒトは窓の外の暗闇とジィルバを交互に見た。
「大仕事が入った」
 答えて、書斎の引き出しを開く。中は空だ。ジィルバはその底板をはずすと、奥から一丁の銃を取り出した。
 銀に輝く、拳銃。
 今どきは見かけなくなったリボルバー式の銃。銃身には細かな模様が描かれている。芸術的価値もありそうな銃だ。
 だが、どんなに美しくても、それは武器である。リヒトは表情を曇らせた。
「……なんですか、それ」
 不安げに聞いてくる少年を銃と同じく冷たく光る瞳が一瞥した。
「天使を殺せる銃だ」
 リヒトの顔が青ざめる。
「家から絶対に出るな。命の保証はないからな」
 外はすでに武装した兵が出ているはずだ。闇夜に輝くリヒトは見つかれば有無を言わさず、撃ち抜かれるだろう。
 ジィルバは天使の光沢とは違う、人口の光を含んだ軍のコートを着込んだ。
 何も言わない、いや、言うべき言葉が見つからないのだろう呆然としているリヒトに一度視線を投げ、ジィルバはそのまま書斎を出た。

薔薇の下 5

 冷えた夜風は感覚が鋭くなるような錯覚を与えた。実際は一日の疲れが出て、あとは休むだけの時間帯である。
(錯覚でも構わない)
 ジィルバは公道の真ん中に立ち、星と街灯が輝く闇に目を凝らした。
 軍の部隊とは合流していない。大人数でいては天使が出てくるはずがないのだ。完全武装した軍隊に一人で向かおうとするほど浅はかな天使ならば、そもそも軍を脱走できるはずがないだろう。
 そして、一番の理由は一人のほうが気安いからである。人に囲まれているのは落ち着かない。
 ジィルバは小さく息をついた。
 普段なら交通量も少なくない道なのだが、今はしんと静まり返っている。避難警告――避難と言っても、内容は自宅待機である――のせいで誰もいない。信号だけが無意味に働いていた。
(断罪の天使。最悪の――悪魔だ)
 今の世界には必要ない、天使時代の廃棄物。
 両手で銀の銃を握り締める。
(来い……!)
 声に出したわけではないが、それは大気を震わせて街を駆け抜けた。
 ジィルバの特性。天使との導通。
 反応はなかった。
(いや、隠してる)
 息を殺した肉食獣の緊張が伝わってくる。
 街のどこかに、闇に溶け込んだ天使がいるのだ。
 断罪の天使は救済の天使と比べて、本当に同種族なのかと疑うほどの巨体を誇る。それが可視の状態で騒ぎにならないはずがない。脱走した天使は身を潜めているのだ。
 疑問があった。
 そう、天使はその肉体を不可視の状態にできるのだ。
 そのため、天使の監視にはジィルバ同様、特に対天使の感覚が鋭い人間が選ばれている。天使の法術、幻術に対する特別な訓練を積んだ者たちもいる。
(なぜ、気づかれずに脱走することができたんだ?)
 考え事は長く続かなかった。
 風を感じて、戦慄する。咄嗟にジィルバは後ろに跳んだ。
 びしっ!――唐突に、先ほどまで立っていた地面が砕ける。
(来た!)
 ジィルバは前方に向けて銃を構えた。全神経を見えない敵に向ける。
「一人か……」
 闇が話しかけてくる。見えないはずの大気が揺れているように見えた。
「おまえは、かの銀闇の使者か……私を殺しに来たのか」
「おとなしく軍にいればよかったのにな。逃げ出したお前は馬鹿だったんだ」
 ジィルバは静かに言い返し、闇の中の天使を睨んだ。
 これほど近ければ、姿は見えなくても、相手の立ち位置は完全につかめた。敵は前方、自然体でこちらを見下ろしている。高さは三メートル程あるか。
 肉で作った戦闘ロボットだ。そう皮肉ったのはクラングだっただろうか。確かに断罪の天使は人型ではあっても人間には見えない。“完璧な美しさを持つ人間の姿”をした救済の天使とはやはり異なるものなのだ。
「私は愚かではない。我々に比べて脆弱であるのに独りで行動するお前こそが愚かなのだ」
「その過信がお前たちの敗因だ」
 吐き捨てながら、ジィルバは引き金に指をかけた。
「……人間の反乱時における天使の過信は認めよう。そう、団結した人間の力は確かに強い」
 天使は自由戦争を自由戦争とは呼ばない。
 彼は続けた。
「私はお前を排除しようと思う」
 片足を引いて、構える。隆々とした筋肉に包まれた断罪の天使の構えは、爆発しそうな弓だった。
「お前は今までもこれからも我々の障害になる」
 銃を構えたまま、ジィルバは片目を細めた。
「……そうだ。俺は全力でお前たちを妨害する」
「分からんな」
 呟いて、天使の足が地面を蹴る。
 同時にジィルバは引き金を引いていた。天使の法力で覆われた肉体を貫く特殊な弾丸。反動で一瞬のけぞりそうになりながら、それでも銀の瞳は不可視の天使を捉えていた。
 こちらに向かってくる速さは変えず、天使は軽く首をひねる。眉間を狙った弾丸は天使のこめかみを掠めただけに終わった。
 舌打ちする暇もなく、ジィルバは体をひねった。人の頭ほどもあるこぶしが隣接する空気を切り裂く。
 反転しながら、こぶしを打ち下ろした後の膠着状態(こうちゃくじょうたい)にある天使に向かって、再び銃声を響かせる。光を内包した天使独特の双眸が一閃した。
 どくんと天使の体が大きく脈打ち、次の瞬間には七メートルほど後方に敵は跳んでいた。
 間合いが開いて、ジィルバは止めていた息を吐き出した。
 また自然体に戻って、天使はこちらを見つめてきた。こめかみの傷はもうない。
「……人間にしては速い。そして、その銃……、変わっているな」
 ジィルバは銀の拳銃を顔の横に掲げて見せた。
「自由戦争時代にお前の仲間を何人も殺した銃だ。弾丸は天使の肉体に入れば、その法力をゼロに収束させる」
 法力なしでは天使は傷を癒せない。つまり、この銃で急所を撃たれたらそのまま死ぬしかないのだ。
 天使の表情が変わった。
 銀闇の使者とその銃とを見つめる。
「それは人間の科学力では不可能な技術だ」
 ジィルバは小さく笑みを浮かべた。
「……そうだな」
「どういうことだ」
 天使はもはや実体としてジィルバの目の前に現れていた。その体の発光が公道を照らしている。
 分かっていたのに、改めてそれを目にして、ジィルバはじくじくと背中の傷がうずくのを感じた。
「ひとりの天使が作った銃だ。お前たちは裏切られたんだよ。その天使はお前たちに疑問を感じていたんだ」
 早口になっていくのを自制できない。
 ジィルバは銃を構えたまま、声を大きくした。
「お前たちは法力を使いすぎたんだ。神の創ったこの世界の法則を捻じ曲げてしまった。お前たちが、天使が、世界を壊したんだ!」
 しゅうぅ……食いしばった断罪の天使の口元から白い息が漏れている。蒸気だ。
 力の源、熱。天使の肉体は高温を保ち、その爆発エネルギーが人間の四肢を両断する力を生むのである。
「塵から創られた土人形が……」
 唸る声は地響きのようだった。
 発熱した天使の肉体が赤く光っている。ジィルバは構わず最後の一言を発した。
「その土人形をただの人形だと思ったのが間違いだったんだ!」
 言い終わるが早いか、巨躯が眼前に迫る。
 あっという間に肉薄してきた天の使徒に、ジィルバはためらわず引き金を引いた。先ほどの話を受けてか、天使は弾を掠らせもせず、完璧によけた。だが、それは予想していたことだった。
 作ったのはわずかな間。ジィルバは後ろへ跳び、銃を右手だけで構えると、左手をポケットに突っ込んだ。
「手榴弾でも投げるのか!」
 嘲笑いを含んだ天使の声が耳障りに聞こえる。
 ジィルバはさらに後退しながら、左手に握ったものを押した。とたん、闇夜を引き裂くけたたましい警報が鳴り響いた。
 天使が止まる。
「基地の非常警報も鳴っているはずだ」
 長い警報のあとジィルバは持っていた警報機兼発信機を投げ捨てた。
 ため息をつく。
「天使にしては気が短い。そしてその口、よく喋る」
 ほんの先刻、相手が言ったことを皮肉を込めて言い返す。
 だが、頭は切れるようだ――とは口には出さなかった。
(せっかくの機知を『補って余りある』短気さだ)
 胸中でさらに皮肉を述べて、ジィルバは断罪の天使を見つめた。
「天使時代を復活させるためには、そうだ、最初に俺を殺しておけ」
 前後から多くの足音が聞こえてくる。遠くにはヘリの音もある。
「だが、まだ無理だ」
「――いや、今だ!」
 叫んで断罪の天使が飛び掛ってくる。
 やはり気が短い。どこか他人事のように感じた。
 避けられない。
「やめてーっ!!」
 高く澄んだ声に耳を打たれ、ジィルバははっとして一歩足を引いた。
 下がらなければ衝撃だけで鼻くらいは潰れていたかもしれない位置で、巨大なこぶしが止まる。――天使は動けないようだった。
 大きく見開いた瞳がこちらを凝視している。
 動けないと分かるとジィルバはそれを無視して、声の出所を捜した。
 公道の横、並木のある歩道、そのさらに奥の細いわき道を駆け去っていく金の髪を彼は見逃さなかった。
(リヒト!?)
 呼びかけは声にならず、かわりに背後から別の声がかかった。

薔薇の下 6

「ジィルバ!」
 クラングの声だ。
 この夜中にどうやってと思うほどの軍勢を率いて駆けてくる。駆けるとはいっても、彼自身は車の中だが。
 ぶはっと天使の息吹が顔にかかった。
「おのれ、おのれ……っ」
 憤慨に表情を歪ませ、断罪の天使の体が震える。
 ばしんと空気が破裂したような音が響いた。金縛りを解いたのだ。ジィルバは思わず顔面をガードした。
「銀闇の使者! 背徳の大罪人! 必ず、裁きを下してやろう!」
 叫び声だけを残して、天使の姿は消えていた。
 幾度か目を瞬き、ジィルバは発光体が消えて暗くなった道路を見つめた。
「ジィルバ、無事か!?」
 クラングが車から降りて駆け寄ってくる。
 振り返るとジィルバは不機嫌そうに眉を寄せて答えた。
「……無事じゃない。天使が逃げた」
「構うか! 君の安全のほうが優先だ」
 先に駆けていってしまった大佐を追いかけてほかの兵も続々と集まってくる。
「大佐!」
 少佐が怒りの形相で走ってくる。栗色の短い髪をカールさせたブルーメン少佐は、ジィルバより年上の美女である。
「ヒンメル大佐! 指揮を放り投げて、一人勝手に走るのはやめてください!」
 喚き出した彼女に、とりあえずジィルバは敬礼の姿勢をとってみた。すると彼女はこちらを振り向き、さっと礼を返してきた。
 甘い笑みを見せる。それは軍服とは合わないものだったが実に魅力的であった。
「ヴァント中尉、お疲れ様。天使の発見は相変わらず迅速ね。――なのに我々の到着が遅れ、取り逃すことになってしまった事は深くお詫びしたいわ」
 ブルーメンはジィルバの過去さえ知らないものの、URであることを知る数少ない人物であった。そしてそうにも関わらず、人懐こい笑みで彼女はジィルバと接してきた。
「でも無理はしないでよ。天使に殴りかかられたあなたを見たときは正直ぞっとしたわ」
 目を瞬くジィルバに、少佐は肩をすくめて続ける。
「顔面スプラッタは今はもう映画だけで十分よ」
「ああ……」
 ジィルバは苦笑してみせた。
 自由戦争時、そうして死んだ兵は多い。顔がない、胴がない、体の左半分がない……天使の凄まじい力は哀れな死体の山を築いた。
「……少佐が私の言いたいことを全部言ってしまった」
 クラングが二人の背後でぽつりと呟く。
「あら、申し訳ございません」
 少佐はそれだけ言って、軍隊のほうを振り返った。
「天使は逃げた! 引き続き、捜索を続けよ! 単独行動は慎め!」
 高い声が響き渡る。びっと全員が敬礼の姿勢を取る。
「では、解散!」

 ぞろぞろと兵たちが去っていくのを見ながら、ジィルバは前髪をかきあげた。
「……ついに指揮まで」
 クラングが恨めしげに少佐を見ている。
「間違っていませんでしたでしょ? 大佐は声を張り上げるようなことはしなくてもいいんです。その分、働いてください」
 意地悪な笑みに、クラングはため息をついた。
「分かった。そうしよう。――ジィルバ!」
 呼ばれて、ジィルバが振り返る。
「私は基地に帰る。君は自宅待機だ」
「……天使の捜索は?」
「今は他の兵に任せて休め。いざというときは、君がいれば五分で呼び出すことが可能なのは分かったしな」
「……分かった」
 正直ありがたかった。リヒトのことが気にかかるのだ。一度家に帰りたいと思っていたところである。
 去ろうと足を踏み出すと、クラングが声をかけてきた。
「その銃、無駄撃ちするなよ」
 青年の足が止まったのを見止め、クラングは続けた。
「弾丸がもう残り少ないだろう」
「……分かってる」
 呟くように返事をして、ジィルバはまた歩き出した。
 暗闇に去っていく中尉を見ながら、クラングはため息をついた。
「手元で監視しておきたいんだがな」
 少佐が笑う。
「鑑賞でなくて?」
「それもいいが。怖くて言い出せないな」
 笑みを返す大佐に、ブルーメンは目を細めて茶色の瞳を光らせた。
「彼は危険です。まるで死を厭(いと)っていないようで……」
「そのとおりだ」
 クラングは天を仰いだ。街の星の瞬きは弱い。
「……実に危険だ」

      *      *      *

 玄関をくぐると一直線に廊下の明かりが灯った。
(疲れた……)
 オレンジの柔らかい光に思わず徒労感を覚える。首を振ってジィルバは見慣れた家内に視線をめぐらせた。
 そして声を大きくして呼ぶ。
「リヒト!」
 すぐに一室から金の頭が覗く。
「な、何?」
 水色の瞳が不安げに揺れている。ジィルバは嘆息した。
「どうせ隠し事はできない性格なんだろう?」
 おもむろにリヒトは涙を浮かべた。
「だって、怖かったんです! 彼があなたを殺すんじゃないかと思って……」
 ジィルバは眉を寄せた。
「『彼が』?」
 首を振って、リヒトはジィルバに駆け寄ってきた。
「ごめんなさい! 僕、僕が……っ」
 感じていた違和感。
 これだ。
「リヒト、お前……幻術の使い手か?」
 少年天使は目にたまった涙を手の平でぬぐった。こくんと頷く。
「得意なんです」
 視界が白く明滅した。
「え?」
 ジィルバは体をひねって周りを見回した。
 赤、黄、橙、青、色の洪水。輝く花々。丸い地平線の向こうまで、万の色が波打っている。風が吹いて、無数の花びらが舞い上がった。芳香に包まれ、体の力が抜けていく。
 目を閉じかけると、ぴしゃんと水が頬を打った。
 宙に散った花びらが、水滴と化し、風に吹かれて更に舞う。
 光の反射から虹ができ、水の網の間を泳いでいく。光の尾を引いて――。
「……見張りの人間を幻覚に引き入れて、その間に彼の偽者を作りました」
 少年の柔らかい声が耳を撫でる。
 ジィルバは目を開けた。目を閉じた覚えはないのだが、閉じていたらしい。天井灯が目にしみる。
 リヒトはすまなそうな笑みを見せた。
「人間は……あなたたちは断罪の天使の幻術には慣れています。断罪の天使の幻術は相手を惑わし、その間に敵を滅するもの。僕らのとはまるで違います」
「……なぜ……」
「心に疲労を抱えた人を癒すために……。相手が不安に思うところが微塵もない完璧な幻術。救済の天使の術は断罪の天使のそれを大きく凌ぐんです」
 ジィルバは頭を抱えて首を振った。
「違う。なぜ、断罪の天使に加担したのかと聞いているんだ」
 リヒトは目を逸らした。
「それは……」
 ――頭痛がする。
 ジィルバは片目を閉じた。もう一方の目でリヒトを捉えようとするが、視界が霞む。
「僕は……ジィルバさん?」
 ふらりと影が揺らいだかと思うと、長身の男が倒れる。
「ジィルバさん!」
 リヒトは床を蹴った。
 戦う術などなくても、動きは人間より速い。
 どしんっ
 リヒトはジィルバを抱えながら、尻餅をついた。
「……った……いたた」
 体を起こして、ぐったりと脱力しきった男の額に手をやる。
(……熱い!)
 熱がある。少年は猛然と立ち上がった。

薔薇の下 7

 時計は午後十一時を回った。天使捕縛の連絡はまだ受けていない。
 クラングは一息入れようと椅子に座ったまま背を伸ばした。
 立ち上がって、窓辺に歩み寄る。空に輝く星々よりもきらびやかな街の明かりが足元に広がっている。
(あれから二時間、か。ジィルバはまだ使えないな)
 ――天使の捜索は?
 そう聞いてきた青年の声が頭を過ぎる。
(……まだ動くつもりだったのか。馬鹿が)
 己の身を省みない。危険な青年だ。
 ジィルバの身体能力は確かに抜きんでたものがある。不可視の天使の動きを捉え、その攻撃をよけ、さらに反撃までする。
 だが、長時間は無理だ。体への反動は大きい。
(ジィルバは初手から限界を超えた動きをしているだけだ)
 超人が限界を超えてやっと天使と対等。
 自分の考えに、クラングは思わず苦笑を浮かべた。特別仕様の強化ガラスに触れる。街の光を撫でるように。
「超人などと言う呼び名は無粋か。……銀闇の使者」

      *      *      *

「……肩と、腰が痛いな。あと足も」
 ベッドの上で、ジィルバはリヒトにうろんな視線を向けた。
「引きずっただろう?」
 リヒトが表情を引きつらせる。どうやら図星らしい。
「……だってジィルバさん僕より重いのに」
「救済の天使は使えんな」
「そ、そんな言い方……っ」
「助かった。ありがとう」
 空色の瞳をぱちくりさせる。
「え……?」
 ジィルバはくすくすと笑った。はじめて見る裏のない笑みだった。
「二度は言わないからな」
 リヒトはぐっと息を呑んだ。
「っずるい!」
「……熱は引いたな」
 自分の額に手を当て、ジィルバは上体を起こした。リヒトが慌ててとめようとする。
「ちょっ、まだ無理ですよ」
「今、何時だ?」
 問われて、ついリヒトはぱっと時計のほうを振り返った。
「十一時二十三分です」
「もう動ける」
「だめです!」
「……」
 ジィルバは黙ってリヒトを見つめた。
「……なんですか」
 銀色の瞳は絵画の中の眼差しに似ていた。動かないのに、動いているもの以上の生命力で見る者を惹きつける。
 そして短い一言。氷の破片が耳に刺さるようだった。
「どけ」
「はい」
 固まった表情でリヒトは体を横にずらした。
 ジィルバがすたすたとクローゼットへ向かう。
「って、あ、ちょっと、ジィルバさん! なんですか、今の!」
「何って……」
 ジィルバは記憶の糸でも捜すかのように頭をめぐらせた。やがてリヒトの方を向いて口を開く。
「相手が言うことを聞かなかったらこうしろと上官に言われた」
「はい?」
 リヒトが片眉を寄せる。しわだらけのシャツを脱ぎながら、ジィルバは首を傾げた。
「天使には効かないと言われたが、そうでもなかったな」
(……ジィルバさんの上司は変な人だ)
 だが、よく分かっている。
 あの瞳に見つめられて、動ける人間は少ないだろう。
(でも、それって女の人相手にそうしろってことなんだと思うんだけど……)
 リヒトはため息をついて、きびきびと着替える男を見つめた。
 その無感情な横顔に、公道での戦いを思い出す。すべてを見たわけではないが、ジィルバは確かに怒りをあらわにしていた。
「……彼を見つけたら、殺すんですか」
 小さな問いかけに、ジィルバは振り返って手を止めた。
「捕縛を拒むなら、処分してもいいことになっている」
 テーブルの上に置かれたコートと制服の上着、そして銃のホルダーをつけたベルト。それらを一瞥する。
「……たった一人の断罪の天使が人を殺すのは、ただの殺戮とでしか終わらない」
 そのとおりだろう。大天使さえも討った軍の支配する世界で、一天使の足掻きは無駄なものだ。そして、その無駄な足掻きで人が死に、当の天使も死ぬ。
 死は苦手だ。リヒトは胸元を握り締めた。
「それでも……、捕縛では済まされないんですか?」
「捕縛できないから殺すんだ」
「……殺さなくても、動けなくすればそれで……」
 ジィルバは腰に手を当てて、少年天使を睨んだ。
「手加減しろと言っているのか。人間が天使に? それは自殺しろと言っているのと同じだ」
 突き放した声。
 顔を上げて、リヒトは必死に首を振った。
「違います。僕は、あなたにも誰にも何も、殺して欲しくないんです!」
 言い終えて、リヒトはジィルバの表情が歪むのを見た。
「では、なぜ、断罪の天使を外に出した!? あれが外に出なければ、誰も死なない。誰も死なないんだ!」
 責められて、リヒトは唇を震わせた。
「天使は……自由戦争で敗れたときに、天に帰るべきだったんだ!」
 叫び終わって、ジィルバは肩を上下させた。
 リヒトが涙を溜めて床に座り込む。地上で生を受けた自分は、空の上の世界を知らない。
「……受肉した天使は……天には帰れません」
 掠れた声で告げられて、ジィルバは目を伏せた。じわりと、握り締めた手が汗ばむのを感じる。
 元来、天使はひとつのエネルギー体である。霊体とでもいうのか、そのままでは人間界では何もできないのである。そのため天使は地上に降りる際に肉体を得るのだ。
「……そうだ、知っている。……人間と同じ肉をまとった時点で、天使は天使の理想を失ったんだ……」
 目頭が熱い。
「……神の意志を遂行していると信じながら、聞こえなくなった神の声を必死に自分たちで紡いだ……」
 愚かな天使。
 その愚かさに多くの人命が奪われた。
 リヒトの空の瞳から涙がこぼれる。彼の瞬きに合わせて。
 それを見つめならが、ジィルバはゆっくりと息を吐いた。天使の涙など、見たのは何年ぶりだろうか。
「……リヒト……軍へ帰れ。誰の死も見たくないなら、ここはだめだ」
 悪魔の存在する世界だ。
 うなだれたジィルバを見上げて、リヒトは鼻をすすった。
 彼は怒りと悲しみに疲れている。世界を壊した天使を憎みながらも、天使の嘆きを解しているのだ。
「……軍にいれば何も見えないんですか。軍の行いが。……軍の内部では見えないんですか」
 少年の声にジィルバは目を見開いた。
 ――秘密を隠すなら薔薇の下。華やかさに目を奪われて、誰も土の下には気づかない。
 「UR」はクラングが気まぐれにつけた呼び名だ。そう本人から聞いて、彼は自分をからかっているのだと悟った。
 忘れてしまえと言いながら、記憶を揺さぶる名をつける。
「……ああ、見えない。天使の保護施設は軍事自体には関係ない」
「白い壁を見つめているだけ……僕はそれが嫌で、外に出たんです」
 争いのない壁の内。あるのは花々と同族だけ。
 断罪の天使から外の話を聞いた。
 外の世界は我々天使を犠牲にして成り立っている、と。
「外に出て分かった。天使は犠牲じゃなかった……」
 こちらを見ようとしない銀髪の青年を見つめる。
「犠牲になっているのは、疑い続けているあなたです」
 天使は間違っていると思いながらも、同じように手を汚す自分を信じることができない。
 正しい答えを導き出せないでいる。
「僕はあなたを救いたい」
 のろのろとジィルバが顔を上げた。引きつった笑みを向けてくる。
「……救って欲しいなんて言ってない」
 愕然と、リヒトは青年の顔を見上げた。
 ジィルバは顔を背けるとベルトを締め、制服を羽織った。乱れた髪を手櫛で整える。
「一度基地による。一緒に行くか?」
 尋ねてくる声は、もはや平静を取り戻しており、冷たい。
 リヒトは首を振った。床の上で拳を握る。
「嫌です」
「……ここで何をするんだ?」
 準備を終えたジィルバが自分を見下ろしているのが気配で分かる。ため息を尽きたげな、きっとそんな表情。
「最初に引き止めたのはあなたでしょう」
 何のために引き止めたのだろう。
 それが分かりかけそうだったのに、一気に崩れてしまった。崩されてしまった。
「そうだな」
 感情のない声。
 拒絶されてしまったのだと改めて悟り、リヒトは再び涙をこぼした。
「ごめんなさい」
「……なぜ謝る」
「僕はあなたを裏切ったんだ……あなたの期待に応えられなかった」
 助けられた自分は、助けを求められていた。
 青年が何かを言いかけて、しかし口を噤んだのが気配で知れた。
 そしてそのまま振り返ると、部屋を出て行く。遠ざかる足音を聞きながら、リヒトは唇を噛んだ。

薔薇の下 8

 外の闇は深くなっていた。
 街灯の数が減り、人々のざわめきは静まりつつある。
 天を仰ぎ、ジィルバは息を吐いた。わずかに白くなる。
「……もう十分だ」
 リヒトの謝る声が頭にこだまする。
 彼はジィルバの言葉を理解した。まるで聞く耳持たなかった今までの天使とは違い、天使のあり方に少なからず疑問を覚えた。
 それだけでもう十分だった。これ以上を望む気はない。
「リヒト……期待を裏切ってなんかいない……」
 呟きながら、なぜ自分の言葉はリヒトに届かないのだろうかと思った。
 自分は今も彼の声が聞こえているのに。

「ジィルバさん?」
 ふいに響いた声に、リヒトは驚いて顔を上げた。
 だが、扉は閉められたままで誰もいない。
(……でも、ジィルバさんの声……だった)
 期待は裏切られていないと、そう言った。
(嘘……なんで……)
 空耳だったのかと自分を疑う。
 天使同士は特に波長の合う者となら離れていても会話をすることができる。リヒトは母親とならばそれが可能だったが、狭い敷地内でその能力は必要なかった。
(……人間とも、可能なの?)
 ジィルバは天使の居場所が分かるらしい。彼の特殊な能力によるものだろうか。
 リヒトは抱きかかえた彼の感触を思い出した。戦っているあの姿を見たあとでは、意外なほど軽く感じられた。
 人から外れた美貌、肢体、能力。
 彼は本当に誤った天使を裁くために生まれてきた人間なのだろうか。
 銀闇の使者。
 彼の通り名が頭の中で舞った。

      *      *      *

 硬い扉をノックすると、すぐに返事があった。
 ジィルバは扉を押し開き、机に腰掛けたクラングを見つけた。天使が脱走したせいだろう、書類を何枚も机上に広げている。
 大佐の執務室は広い。応接用のテーブルとソファがあり、その奥に大佐自身の机が置いてある。絨毯は毛の短い重厚な赤で、壁にはひとつ風景画が掛けられていた。
「……ジィルバ……もういいのか?」
 驚いた顔でクラングが立ち上がり、歩み寄ってくる。
 ジィルバは頷いて見せた。
「……天使は?」
「まだだ……――ふむ、熱はないな」 
 答えながら、クラングが額に触れてくる。ジィルバは首を背けてその手から逃れた。クラングが苦笑する。
「私が嫌いか?」
「好きだと思うのか?」
「そう思っていたが?」
 クラングは笑うと手を振って、机に戻った。先ほどまで書いていた書類をわきにどけて、机の上で手を組む。そして青い瞳がよそを見ている銀髪の青年を真正面に捉える。
「……天使を一体、与えようか?」
 突然の発案に、驚いた表情でジィルバが振り返る。
「何?」
「例の拳銃の弾、そろそろ切れるんだろう? そして、それを補充できるのは天使だけだ」
 ジィルバは眉を寄せた。
「……天使が軍の命令を聞くはずがない」
「さて、どうだろうな」
 クラングは唇の端を吊り上げた。
 怪訝な顔をするジィルバをじっと見つめる。眩しい天井灯を弾き返す銀の瞳。光を含有する天使の瞳にも劣らないとクラングは常から感じていた。
「君がその美しい唇と美しい声で切なる願いを訴えれば、救済の天使の情は得られるんじゃないか?」
 ジィルバが即座に顔をしかめる。
「冗談じゃない」
「冗談、と思うのか? 私はこれでいけると思うよ」
 黒髪の男は軽く首を傾げて見せた。
「君の願いを叶えるためには、その銃は欠かせないんだろう?」
 ジィルバは舌打ちをした。大佐の机まで近寄って、足を止める。
「俺の願いを叶えるためには、別に軍にいる必要はないんだぞ」
「それでも、軍にいるのはなぜかな?」
「都合がいいからだ」
 即答する青年にクラングは苦笑した。
「いっそ清々しい答えだな」
 立ち上がる。
 と、視線の高さが逆転する。クラングはジィルバを見下ろして、右手をその頬に伸ばした。ジィルバがはっと息を呑んで後退する。
 クラングはURを仕切ると同時に自身もURである。その法力に対する感度はジィルバに劣ろうとも、他の人間とは比べようもないほど高い。そして一般に法力感度の高い人間は感性が鋭く、人心に敏(さと)いと言われている。ジィルバはそんな彼に触れられると、隠している事すべて見抜かれてしまいそうな気がしたのだった。
 クラングは拒まれた右手を見下ろし、それから青年に視線を戻した。
「……君はどうも潔癖でいけないな」
 腰を低くした体勢で、ジィルバは無言でこちらを見つめてくる。彼の行動を案への拒絶と判断したらしいクラングは肩をすくめた。
「だが、それでも天使を殺したいのだろう? 君は……」
 微かに笑いを含んだ声はどこか威圧的だ。
 ジィルバはばれないように息を呑んだ。捕獲命令が出ている脱走天使であるリヒトを匿っていること、それが彼に知れた場合、自分は、そしてリヒトはどうなるだろうか。
 佐官の最高位、クラング・ヒンメル大佐の一言は彼らのこれからを簡単に左右することができる。
 こつ、と薄い絨毯に硬質な足音をたてて、机の横を周るとクラングはジィルバの目前に立った。
 油断のない銀の瞳がひたとこちらを見据える。
「美しい瞳だな……」
 囁いて、クラングは今度は両手を伸ばした。ジィルバの頭を包み込むようにする。
 両腕に視界を遮られてしまう圧迫感にジィルバは肩をすくめた。
「……離せ」
 震える声を無視して、クラングは青年を抱き寄せた。
「もっと早く君と出会いたかったよ」
「離せ」
 青ざめた顔でジィルバがクラングを押し返そうとする。
 すっと手が背中を撫でた。傷跡がぞくりと冷える。
「あ……」
 小さく声を漏らして、ジィルバは相手の制服を握り締めた。
 抵抗する力を失ったその耳元で、クラングは囁いた。

「君の純白の翼を見たかった」

 激しい眩暈。
「白い光を背負った君は、きっと誰よりも美しい天使だっただろう」
 腕の中で銀の髪がのけぞる。そのまま倒れそうになるのを支えながら、クラングは長い、これまた銀の睫毛を見つめていた。
 白い喉を晒して、ジィルバは気を失っている。
 受肉した天使は人間より軽いつくりになっているらしい。見た目よりも軽い体を抱えあげ、応接用のソファに横たえる。
 ジィルバの体調がまだ万全でないことは無論気づいていた。だが、それでもジィルバは天使への捕縛へ向かうつもりだっただろう。
 弛緩した目元を撫で、クラングは一人で呟いた。
「死に急がないでくれ」
 ソファの背もたれに腰をかけ、睫毛を伏せる。
 戦争のさなかに見つけた銀色の青年。瞳と同じ色の銃を片手に、こちらを見返してきた。足元に巨躯の天使の死体を転がして。
 もし、そのときのジィルバにあの壮麗な翼が生えていたなら、自分はおそらく相手が男であることにも構わず恋に落ちていただろうと思う。
 天使は美しい。
 彼らの時代が終わった今も、それだけは変わらない事実だった。

薔薇の下 9

 神の声が聞こえない。
 神の声が聞こえない。
 だが誰の口からもそのことは漏らされなかった。
 そんなことがあるはずはないからだ。あってはならないはずだったからだ。
 二世紀に及ぶ地上の統制。天使時代は何の問題もなく続きそうだった。それこそ普遍の命を持つ天使のように。
 だが蜂起は起こった。
 ――間違いがあったからだ。
 少なくとも自分はそう思った。
 人間世界において、何かが崩れるのは必ずどこかに原因がある。
 ビルが崩れるのは土台作りが杜撰だったせい。大地が砂と化したのは、過剰な森林伐採のせいだ。
 だが天使は――他の天使は、人間の反乱を認めようとはしなかった。必ずや鎮圧せよ、大天使の粛然とした声に従い、断罪の天使たちが法力を使う。
 地面を裏返し、砕き、大気を切り裂く力。その圧倒的な力によって反乱は鎮まると誰もが信じていた。
 しかし、神話の時代において知恵を得た人間の抵抗は激しかった。数千年かけて解きほぐした世界の法則。人間の科学技術は天使に反撃するほどの力を彼らに与えていた。
 凄まじい攻防戦。
 世界が燃える。

 ジィルバは悲鳴を上げた。
 仲間を止めようと伸ばした手が、空しく宙を泳いでいる。その先が、見知った絵画がぶら下がった壁であることに気づいて、数瞬戸惑う。
「随分エキサイトな目覚め方だね」
 苦笑いを含んだ声が背後から響いて、ジィルバは息をついた。
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「途中からうなされていたから起こそうかとも思ったんだが……迷っているうちに君が目覚めてね」
 ソファの背もたれに腰掛けたクラングが肩をすくめて見せる。
 先刻のクラングの仕打ちに関しては何も触れず、ジィルバはソファから立ち上がった。襟元を正す。
「時間を無駄にした。今、何時だ」
「午前一時をまわった。時間を無駄遣いできないのは天使の損な性格のひとつだね」
「俺は天使じゃない」
 振り向かずに吐き捨てる。
 その後姿にクラングは嘆息した。
「ああ、法力の使えない天使は天使とは呼べないな」
 ベルトのホルダーから拳銃を抜き取り、ジィルバはそれを握り締めて目を閉じた。
「断罪の天使は夜明け前に処分する」
「できるかね?」
「できる」
 歩き出す元天使を見送りながら、クラングは声をかけた。
「無理はするな。翼を失った君に残されたのは、その銃と、体温調節のきかなくなった身体だ」
 そしてその美貌、と冗談を付け足した男を無視して、ジィルバは大佐の執務室をあとにした。

 陸軍第三司令部の基地。その巨大な要塞を背後にジィルバはその敷地を横切った。
 守衛に身分証を見せながら、ふと門外に目をやる。
「えっ……」
「? どうかしましたか?」
 証明カードを返しながら守衛が怪訝そうに首を傾げる。
「……いや……」
 カードを懐にしまいながら、ジィルバは駆け足で外へ向かった。
 基地は郊外にあり、深夜は人の気配がまるでない。軍用を兼ねた広い道路を突っ切り、歩道に入る。ツツジの植えられた石畳に立ち、ジィルバは声を潜めた。
「……何をしているんだ」
 一株のツツジの陰から少年が顔を見せる。勝手に家内を荒らしたのか、フードつきの上着を着込んでいる。
 目深にかぶったフードの下から空色の瞳を覗かせ、リヒトは白い息を吐いた。
「その……ジィルバさんが心配で……すぐ断罪の天使の捕縛に向かっちゃうのかと思って……」
「……ずっとここにいたのか?」
 呆れるジィルバに微苦笑を浮かべて頷いてみせる。
「はい。でも、余計な心配だったみたいです」
 笑むリヒトの目元が赤く腫れている。
 眉を歪めて、ジィルバは手を伸ばした。冷えた頬。
「……ジィルバさん?」
 少年が首を傾げる。
(罪悪感か……)
 ジィルバは胸中で呟いた。
(同族を裏切った罪悪感とリヒトを傷つけた罪悪感……)
 比べようもないはずなのに、同じくらい重くのしかかってくる。
(どちらにせよ……)
「すまない。言葉が足りなかった……」
 苦しげに謝られて、リヒトはかぶりを振った。男の手に自分の手を重ね、にこりと笑ってみせる。
「いいえ。大丈夫です。聞こえましたよ、ジィルバさんの声」
「……声?」
「……期待は裏切ってないって……僕の幻聴じゃないですよね……?」
 はにかみながら聞いてくる。
 ジィルバは目を見開いた。聞こえたのか。
「それで僕、分かりました。最初にジィルバさんが言ってた『なぜ俺に話しかけてくるんだ。安眠も阻害された』っていうの」
 リヒトは足元に視線を落とす。
「僕、初めて施設を出て、何も考えてなくて……、往来をたくさんの人間が歩いてるのを見て怖くなったんです。今はまだ、天使を迫害する人間もいるっていうのを思い出して……」
 ずっと頭の中に響いていた、助けを求める声。
 ジィルバはその声を思い出して、目の前の少年と重ねた。
「誰かに助けて欲しいって……。最初は逃がした断罪の天使を頼ろうと思ったんですけど、彼とは繋がらなくて……。ずっと叫んでたらジィルバさんに届いちゃったみたいで」
 顔を上げ、すまなそうに眉を下げる。
「それで寝てるのを邪魔しちゃったんですね。ごめんなさい」
「……別に……」
 そのことはもういい、と言いかけて、ジィルバは不意に辺りを見回した。
(……近い)
 断罪の天使がいる。
 言い残した言葉どおり、自分を殺しに来たのか。
「ジィルバさん?」
 言葉を途切れさせた青年を仰ぎ見て、リヒトが不思議そうに首を傾げる。
「……ここから離れろ」
「え……なんで……」
 肩を押されて、リヒトは眉を寄せた。焦燥の滲んだ銀の瞳。
「……彼がいるんですか? 近くに」
「そうだ。逃げろ」
「逃げろって、そんな……」
 踏みとどまる少年を自分の陰に隠すようにしながら、ジィルバは左右に視線を動かした。見えない、が、感じる。
 遠くから近くへと怒気をはらんだ大気が動いている。
「いいから早く走れ!」
「でも、僕はっ」
「俺と一緒にいるのを見て、黙っている天使がいるか! 殺されるぞ!」
 怒鳴られてリヒトが肩をすくめる。
 これ以上は待てない。舌打ちして、ジィルバは駆け出した。
「ジィルバさん!」
「来るな!」
 振り向きながら叫んで、ジィルバは断罪の天使の気配がする方へ向かって走った。
 あっという間に小さくなっていく男の背中を見ながら、リヒトはおろおろと足を揺らした。
(どうしよう……どうしよう……)
 来るなと言われた。行けば、自分は邪魔になる。
 冷えた風が不安を煽る。
(でも、何か……できるかもしれないのに……)
 辺りを見回すと、嫌でも軍の基地が目に付いた。総本部ではないとはいえ、世界を支配するその権力を示すに十分な、巨大で堅固な要塞。
 圧迫感のあるシルエットは幾何学的で温かみが感じられない。じっと見つめていると、その暗い影が近づいてきているような錯覚を覚えた。
 呑まれて見つめていると、いつの間にか実際にひとつの影が近づいてきていた。ぎょっとする。
(人だ!)
 リヒトは慌てて、ツツジの陰に飛び込んだ。座って、フードをぎゅっと押さえる。
 しかし、足音が真っ直ぐに近づいてくる。革靴がコンクリートのブロックと擦(こす)れてたてる硬い足音。
(……見つかってる?)
 唇が震えた。リヒトは息を殺して、じっと自分のつま先を見つめた。
 やがて、足音が止まる。
「出てきなさい」
 響いたのは低い男の声だった。想像していたより柔らかく優しい声だ。
「昨日、脱走した救済の天使だね」
 すべて知られている。
 リヒトは観念して立ち上がった。だが、おとなしく捕まるつもりはない。
(ジィルバさんと断罪の天使がどうなるか確かめるまでは……)
 声の主は若い男だった。それでもジィルバより年上であることは間違いないだろう。
 黒い髪、青い瞳、背の高い男だ。真っ黒い制服の胸元に長く連なる略章を見つけて、リヒトは息を呑んだ。目を凝らすと袖章が四本入っているのが見えた。
(大佐……?)
 こちらの検分を待っていたのか、男はゆっくりと笑んだ。
「クラング・ヒンメルという。大佐をやらせてもらってるよ、一応ね」
 リヒトは一歩下がった。
(なんで、大佐なんかが一人で……)
「執務室から君が見えてね」
 大佐はそう言って基地を振り返った。リヒトもつられて彼の視線の先を見つめた。間をおいてクラングが再び、少年に視線を戻す。
「……ジィルバと……うちの中尉と話をしていた、ね?」
 心臓が跳ねた。見られていた。
 ジィルバはリヒトを発見したことを軍に黙っていたのだ。それが知れたら一体どうなるのか。リヒトは目を逸らした。
「何を話していたのかな?」
 聞いてくるクラングは笑みを浮かべているが、その青い瞳には隙がない。何かを探っている目だ。
 リヒトは手を握り締めた。手の平に指先を冷たく感じる。
 答える様子のない天使に、クラングはさらに相好を崩した。
「では、聞き方を変えよう」
 すっと右腕を上げる。
 リヒトは空色の瞳を見開いて、息を詰めた。
「答えろ。ジィルバに何をした」
 口調が鋭いものに変わり、青い瞳が不穏な色に染まる。
 掲げられた拳銃が、基地の光を受けて、無表情に輝いた。ぴたりとリヒトを見つめて。

薔薇の下 10

「止まれ」
 背後、いや真横から声が聞こえる。
 ジィルバは足を止めた。口元に笑みを浮かべて、声のほうを振り仰ぐ。
「不意打ちはしないのか?」
「必要ない」
 自信に満ちた声が響き、闇に巨躯の天使の姿が浮かぶ。
 断罪の天使。驕れる人間を裁く者。彼らは自らの正義を信じ、自ら正しく判断し、行動する。その彼の目には迷いが見られない。
(……驕れてるのはお前のほうだ)
 ジィルバは銀の拳銃を天使に突きつけた。天使はぴくりとも動かない。
「一応尋ねておこう……。軍に戻る意志はあるか?」
「あるならば、すでに帰っている」
 答えて天使が両のこぶしを打ちつける。火花が散り、闇を一瞬照らす。
「では、処分だ」
 引き金を引く。
 乾いた破裂音とともに天使が高速で移動する。発光した肉体は移動の軌跡を残しながらぽつりと呟いた。
「……本当に変わった銃だ……」
 ジィルバはその動きを目で追いながら、何かを吟味するような声を聞いた。
「その銃に仕込まれた法力は……お前によく似ている」
 思わず瞳を見開く。
 動揺の一瞬を狙って、こぶしが打ち下ろされる。
「……っく」
 体をのけぞらせるようにしながら、地面を蹴って避ける。こぶしはアスファルトを砕き、跳ね上がった破片が制服の袖を裂いた。
「ふむ……」
 こぶしを持ち上げながら、天使の双眸がジィルバを捉える。
「……これで三度、天使の攻撃を避けた。人間の動きではない、な」
 背筋を伸ばし、目の前の青年をじっと見つめる。
 ジィルバは息を呑んだ。
 短気だが、この天使は聡い。救済の天使をうまく利用しただけのことはある。
「おかしいとは思っていたのだ……」
 光を内包した双眸が、おもむろに怒りに満ちる。がばっと開いた口から蒸気が漏れた。
「銀闇の使者! ……貴様こそが、あの裏切り者か……!」
 熱気が顔に吹き付けてくる。
 ジィルバは拳銃を握り締めた。断罪の天使の声が増幅しながら、脳内に響き渡る。
 ――裏切り者! 裏切り者!!
「……黙れ」
 声を絞る。手が、震えた。
 死の裁きを与える天使の瞳は激しく燃え上がり、筋肉に包まれた体は脈打ってそれだけで盾にも砲弾にもなる。
「よくも同胞を裏切ったな!」
「黙れ」
「貴様の行為は神を裏切ったも同然だ!」
「黙れ!」
 ジィルバは頭を振って、肺の空気をほとばしらせた。
「神を裏切ったのはお前らのほうだ!!」
 まぶたの裏を焼く、過去。
 大地の割れ目に人が呑み込まれていく。津波が街を流した。
「人間の自由を理解できなかった天使に非があるんだ!」
「貴様も天使だろうが!!」
 天使の怒号が胸を貫く。
 ジィルバは喉を引きつらせた。
「――っ黙れ!」
 叫んで照準も合わないまま、銃を撃つ。
 弾は掠りもしなかった。
 天使が目を剥く。
「未熟者がぁっ!」
 叫んでから彼は両腕を前方へ突き出した。重ねた手の平を胸元へ引き戻す。ぶわっと蒸気が吹き上がった。
 体中の光が手の平へと向かう。まるで血管を流れているかのように幾つもの筋を作って、集まっていく。
 法力だ。
「やめろ!!」
 ジィルバの制止の声は半分掠れた。
 びりびりと空気が震える。全身を覆う緊張に、総毛立った。 
「……翼を捨てた背徳者……お前には防げぬ」
 天使が赤く輝く両手を、何か球を持つように胸の前に固定する。
(……殺せるか……)
 ジィルバは銃を構えた。
 当たれば、終わる。――無論外しても、終わりだ。
 そして、夜のまだ明けない暗い空に銃声が響いた。

 ジィルバは目を見開いた。
 硝煙を上げている、黒い拳銃。その銃をこちらに向けた黒髪の男。
 そして、もうひとつ硝煙を上げているものがあった。
 ――目の前の断罪の天使の背中だ。
「撃て!」
 聞き慣れた声が短く命ずる。
 ジィルバは引き金を引いた。

 ぱんっとあっけなく響いた銃声のあと、断罪の天使の体が揺らいで、倒れた。

「どうして……」
 ジィルバが呆然と呟く。視界の端に、金髪の少年の姿を捉えながら。
 リヒトはこちらを見ない。クラングの後ろに立って、動かなくなった天使を見つめている。
「それは、こちらのセリフだな」
 クラングが歩み寄ってくる。
 戸惑いながらそれを待っていると、平手が飛んできた。頬に乾いた痛みが走る。
 リヒトはその音に驚いて顔を上げた。大佐がジィルバを睨みつける。
「……天使を匿ったな」
 唸るような声など耳に入らず、ジィルバは目を瞬いた。
 その襟首を掴み、クラングはジィルバに詰め寄った。彼の耳元で声を厳しくする。
「捕まえる以外、殺す以外、天使には関わるなと命じていたはずだ」
「……クラング……」
 ジィルバはやっとクラングの声を受け止めた。
「……俺は……」
 答えかけて、黒髪の背後の少年が目に入る。
 空色の瞳がこちらを見ている。失望に揺れる眼差し。
「……天使を一体与えようとは言ったがな」
 クラングは視線を逸らした銀の瞳を見つめながら続けた。
「子どもはダメだ。情が移る」
 ジィルバがクラングに視線を戻す。
「俺は……別に……」
「ではなんだ、その目は。……子どもを裏切って後悔している目だ」
 指摘され、ジィルバが口を噤む。
 うつむいた青年の襟を離す。クラングはため息をついた。
「命令違反だ。罰は受けてもらうぞ」
「……そんな!」
 声を上げたのはリヒトだった。
 何か弁解しようと足を踏み出すと、青い瞳が、憎しみさえ滲んだクラングの瞳が刺すように振り返った。
 その双眸の冷たさに怯えて、踏みとどまる。
「天使は黙っていろ。お前の処遇はそのあとだ」
 怒りを帯びた低い声に、リヒトは思わずあとずさった。
 それからクラングはもう一度ジィルバの方を振り返った。 
「残念だよ」
 一言そう告げ、彼は銃声を響かせた。
 ジィルバは動かない。リヒトが目を覆いながら悲鳴を上げる。
「ジィルバさん!」
「……っ……」
 小さく呻き、左足を押さえながらジィルバが倒れる。押さえた手とズボンが見る間に赤く染まっていく。
「……ひどい」
 リヒトは涙をこぼした。力が抜けて、道路に膝をつく。
「……どうして、……こんな簡単に……」
「……簡単に、人間を殺してきた天使に言われる筋合いはないな」
 冷たい声が頭上から降ってくる。
 リヒトはこぶしを握って、クラングを睨んだ。
 クラングはそれを無視し、懐に銃をしまうと代わりに携帯電話を取り出した。発信ボタンを押して耳に当てる。
「ブルーメン少佐か? ――ああ、断罪の天使を処分した。死体の処理を頼む。……あとジィルバが負傷した。救護班も……分かっている、では、早く来たまえ」
 電話を切って、ひとつ息をつく。携帯電話をしまい、クラングはジィルバの傍に膝をついた。
「……ジィルバ」
 負傷している青年に手を伸べると、それは打ち払われてしまう。苦痛に顔を歪ませたジィルバが、掠れた声を絞る。
「……触るな」
「救護班を待っている余裕が、私にはない」
 どこか悲しそうに、クラングはそう告げて、銀髪の青年を抱き上げた。抱き上げる瞬間に、痛みが走ってジィルバが声を上げる。
 息を乱して、ジィルバは相手の黒い制服を握り締めた。
「……リヒトには、何もするな……」
 息だけの声で訴えられ、クラングは片眉を上げた。
「随分とご執心のようだな。……安心しろ。どうせしばらくはリヒトとやらよりも、そこの死体の処理のほうに手をとられることになる」
 一連のやり取りを黙って見ていたリヒトがおもむろに立ち上がる。空色の瞳は困惑に似たものが占めている。
 クラングは笑みを浮かべて見せた。
「軍に帰るぞ」
 優美と言えなくもないその微笑に、リヒトは眉を寄せた。

薔薇の下 11

 白い天井、白い壁。遠近感に乏しいその室内は常に清潔に保たれていた。
「……ジィルバ」
 クラングは呟いて、眠っている青年の銀の髪に触れた。
 軍の医務室である。
 背後のカーテンを巻くって、一人の女性がため息をついた。
「見つけた。サボらないでくださいよ、大佐」
 ブルーメン少佐に囁きに、クラングは振り返らずに微笑を浮かべた。
「勤務時間外だろう」
「断罪の天使のことで他の者は皆働いてますわ」
「……頼むよ」
 ブルーメンはカーテンから手を放した。
「はやく戻ってくださいね」
 布の向こうからそう声が響き、足音が遠のいていく。
 気配が消えて、クラングは嘆息した。ジィルバのほうに視線を戻す。
「……あの金髪の天使……、リヒトと言ったかな。隔離保護してある」
 銀の瞳がゆっくりと開かれる。
「……あいつを匿ったのは俺だ。……隔離などせず、もとの施設に戻してくれ」
「……ふむ? それでいいのか?」
 いつもより白い顔をしてジィルバは口元に小さく笑みを浮かべた。
「そうでなければ、殺すんだろう? どうせ天使だから」
 クラングは軽く首を振ってみせた。
「まさか。救済の天使を理由なく殺せば問題になる。脱走天使だから隔離だってできるんだ」
「……問題を揉み消すほどの力を持っていてそれを言うのか。お前は、殺せる人間だよ」
 青い瞳を細めて、クラングはジィルバの頬に触れた。こちらを見つめるように力を入れる。
 抵抗するわけでもなく、ジィルバは静かに黒髪の男を見上げた。
「私に逆らわないでくれ」
 クラングがジィルバに外傷を与えたのは初めてのことだった。それはつまり、ジィルバがクラングの命令に逆らったのが初めてだということでもある。
「君は美しい。翼を失ってなお、天使よりも神聖だ」
「……言いたいことが分からない」
 逆らうことはなくても、この銀の瞳が服従することは一度もなかった。
 クラングは目を伏せた。
「悲しいことだがね、結局私は君を力でしか縛れないんだよ」
 ジィルバは自分の頬に触れるクラングの手を取った。
 今までなかったことに、男が目を見開く。
「……縛ろうとすれば、人は逆らうものだ」
 その静かな声は、舞う花びらのようにクラングの耳を撫でた。
 花びらは白く、清楚だった。
 ――ジィルバにあの壮麗な翼が生えていたなら、自分はおそらく相手が男であることにも構わず恋に落ちていただろう。
 澄んだ銀の瞳。
「……あ……、ああ……」
 クラングは青い目を左右に動かしながら、うつむいた。ジィルバから手を取り上げて、口を覆う。
(翼がなくても……? ……それは……病気だ……)
 平常心を取り戻そうと、二度ほど深呼吸をする。
 それからクラングは眉を下げた。
「言うことが、随分と天使じみている気がするが?」 
 ジィルバは視線を動かして、屋内では見えないはずの天を仰いだ。
 ゆっくりと口を開く。
「そうだな。……やはり、そういう性分なんだろうな」
 天使だから――……
 涙が出そうだった。
「……また一人殺した……」
 手の甲で顔を覆う青年を見下ろして、クラングは膝の上で手を組んだ。
「それでも、あの銃を他人に託す気はないのだろう?」
「……ああ」
「天使の後始末は、天使である自分がする。そう決めたのだろう?」
「ああ、そうだ」
 ジィルバはゆっくりと手を掲げた。
 光らない、手。
「天使が歪めたこの世界……。俺は現れる悪魔をすべて滅ぼす」
 クラングは促すように首を傾げた。
「悪魔ならばあの銃でなくとも殺せるだろう」
「……大天使が斃(たお)れて、天使の役割は終わった。これ以上、無駄な足掻きをする天使は悪魔と同じだ……。何も分かっていない、この世の歪みだ」
「……なるほど」
 頷いて、ふと窓に目をやる。
 すでに夜は明けて、外は明るい。ここ十年、何の変わりもない朝だ。
「悪魔と考えても、殺すのは悩むか。……やはり、君は天使なのだな」
 ジィルバは上体を起こした。左足の太ももに痛みが走るのを堪え、クラングの視線を追って外を見やる。
 明るい青空は金髪の天使の瞳を彷彿とさせた。
「クラング……」
 名を呼ばれて、男が振り返る。
 朝日の逆光を浴びる上官をジィルバは見つめた。
「……軍を辞めたい」
 一言紡ぐ。
 クラングは目を見開いた。青い双眸に驚愕がありありと浮かんでいる。
 長い沈黙の後、クラングは唇を震わせた。
「……今、逆らうなと命じたばかりだぞ」
「……すまない」
 ジィルバは目を伏せた。
 忘れたい過去がたくさんある。それらはすべて薔薇の下に埋めたつもりでいた。
 埋めたつもりで、自分はその棘のある茎を掻き分けていたのだ。手を血で汚しながら。
「天使は間違っていた……。軍に力を貸したことに悔いは、ない」
 翼を捨て――天使の力を捨て、人間とともに大天使を目指した。銀の銃を手に、断罪の天使を退けながら。
 だが、純白の宮殿、翼を大きく広げた大天使を前に、ジィルバは動けなかった。
「悔いはないのに……、大天使が倒れる瞬間を忘れられない……」
 舞い散る白い羽根。
「……軍人ではなく、個人として悪魔の処理にあたりたいんだ……」
 クラングはジィルバの手を取った。眉を寄せて、苦渋の表情を見せる。
 ジィルバが罪悪感に苛まれていたことは知っている。体温を調節できず、高熱を宿す体は、まるで灼熱の業火で焼かれているようだった。
 それを知っていてなお、今まで自分の配下に置いていた。
「……考え直せ」
 じっと訴えるように見つ返してくるジィルバに、クラングは首を振った。
「私情だけではない。UR……軍の内部処理を行っていた君を、私の独断で辞めさせることはもう……できないんだ」
 ゆっくりと言葉を紡ぐクラングを見つめながら、ジィルバは瞳を揺らした。
 上からの許可が下りない。では、軍を抜けるためには脱走しかない。だが、それはリスクが大きい。
 視線を落とした青年に、クラングは苦しげに漏らした。
「……君の翼をもいだのは、私たちか……?」

      *      *      *

 病室は静かだった。
 定時に医療班の者が具合を尋ねに来るくらいだ。クラングもたまに菓子やら持ってやって来るのだが、大抵はすぐにブルーメンに連行されていってしまう。そうしてたまった菓子箱がサイドテーブルに山を作っている。
 ベッドに腰掛けたまま、窓の外をぼんやりと眺める毎日。
 その間、ジィルバはずっと軍でのこれからの自分のありようについて模索していた。
 悪魔を処分するには、悪魔に関する情報が最も速く正確に伝わる軍部にいることは、とても効率のよいことだと言える。
 だが――。
 大天使は美しく気高い人だった。彼でもあり、彼女でもある彼(か)の人は神のために人界を清く保とうと、誰よりも心血を注いでいた。
(……俺は愚かだ。人間の味方をしておきながら、後悔している)

薔薇の下 12

 隔離施設から一般保護施設に戻されてしばらくたった後、第三司令部から呼び出しがあった。リヒトは不安で胸を塞ぎながら、闇の中で見ただけだった要塞に足を踏み入れた。
 施設の職員に連れられて、長い長い廊下を進み、階段を上る。不思議な世界だった。誰もが灰色か黒の軍服に身を包んでいて、立ち止まって見慣れない挨拶を交わすのだ。軍も、外界とは違うところなのだとリヒトは感じた。
「入りなさい」
 大きく頑丈そうな木の扉の前で、職員が声をかけると穏やかな声がそう指示してきた。
(……大佐だ)
 その美しいけれど、身を切るように冷たい双眸を思い出して、リヒトは息を呑んだ。
 扉が開かれて一番初めに目に入ったのは、床一面を埋める赤い絨毯。それから真っ直ぐに上昇した視線の先にヒンメル大佐はいた。
「久しぶりだね」
 金髪の少年天使を見て、クラングはそう告げると、付き添いの職員に部屋から出ておくように指示をした。リヒトの背後で扉が閉められ、静寂が残された二人の間に漂う。
 居心地悪そうにする少年に、やがてクラングは嘆息した。
「……なぜ、今頃呼び出されたと思う?」
 どこか投げやりな感を含む声色に疑問を覚えながらも、リヒトは小さく答えた。
「施設脱走の件の処分が決まったから……ですか?」
「……普通はそう思うな。ああ、私もそうしたいところだよ」
 さらには肩までも落として、クラングは側に置いていた書類を片手に持って振って見せた。
「特別外出許可証だ」
 一瞬、大佐の言葉の意味が分からず、リヒトは目を瞬いた。
「……え?」
「まったく、何で私がこんなものを拵(こしら)えなくちゃならないんだ」
 ぶつぶつと呟きながら、クラングはさもどうでもいいように紙片をリヒトのほうへ投げやった。反射的に腕を伸ばしながら、紙面を読み取り、リヒトは驚愕に目を見開いた。
 許可される者として書かれた自分の名前、施設登録ナンバー、許可期限、注意事項……そして――
 監視員、ジィルバ・ヴァント。
 両手でしっかりと許可証を受け止め、リヒトは何度も見直した。
「驚いているだろう? 私だって信じたくないさ。足まで撃たれておきながら……、どうも彼は痛覚が鈍いらしい」
 両手を広げて、クラングは首を振る。
「女性陣からの憎悪のオーラを謙虚に受け取りたまえ――、一日デートのご指名だ」
「えぇっ!? あ、あの、どういうことですか?」
 あわあわと呂律も怪しく問うと、きっと鋭い視線を向けられた。思わず後ずさりをする。
「私が知るものか。私の仕事はその書類にサインをするだけだ。分かったら、さっさと出て行いけばいい」
 そしてぷいっとよそを向かれて、リヒトは彼が悔しくてならないのだということに気づいた。
 重傷を負わせてまで、天使と関わらせまいとした部下が、天使の外出許可を求めてきたのだ。やり切れぬ思いであることは、リヒトにも容易に知れる。
「えっと……、あの、どうもありがとうございました。……じゃあ、失礼します……」
 いいのかなーと思いつつ、ぺこりと頭を下げ、扉に手をかける。その瞬間、挑戦的なクラングの言葉が背中に突き刺さった。
「存分に、楽しんできたまえ」

 ばくばくと緊張しきった心臓を押さえながら、大佐の執務室の前でリヒトは息を吐き出した。
 手の中の白い紙に目を落とす。
(なんだって、ジィルバさんはこんなもの……)
 今更、なんの用だというのか。施設へ帰れと言ったのは彼のほうである。
「……もう、おかげで大佐さんには睨まれちゃうし」
「……睨まれたのか……」
 ぽつりと呟く声。
 リヒトはぎょっとして顔を上げた。灰色の軍服。綺麗に梳(くしけず)った銀髪。そして、見下ろす銀の瞳。
「ジィルバさん!?」
 思わず叫ぶと、ジィルバはわずかに顔をしかめた。高い声が耳ざわりだったらしい。その様子にむっとして、リヒトはわざと甲高い声で問いながら、書類を相手の胸板に押し付けた。
「これ、なんですか? 今更僕に何の用があるんです?」
 頬を高潮させた少年に、ジィルバは苦笑した。許可証を落とさないように押さえながら答える。
「ああ、急ですまないが少し付き合ってくれ」
「な、なんで、僕が……」
 相手の笑みに怯みながらも、反論しようとする。しかしジィルバは少年の頭に手を置いた。
「嫌だなんて言うなよ? 俺だって、散々クラングに嫌味を言われたんだからな」
 頭を押さえる手に圧迫感を覚えながら、リヒトはしぶしぶ頷いた。満足そうに笑む青年を見上げて、リヒトはせめて一言放った。
「ジィルバさんて、結構卑怯ですよね」

      *      *      *

 少年天使が出て行った後、一人になったクラングに将軍の元へ来るように連絡が入った。
「こんな依頼が来たぞ」
 そう言って白髪の混じり始めた将軍はクラングに数枚の書類を渡した。受け取り、目線を文面に走らせて、クラングは眉を寄せた。
 恰幅のいい将軍が器用に片眉を上げてにやりと笑う。
「さて、どうする?」
 第三司令部を統括する男の問いに、クラングは顔を上げた。
「時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「……ふむ。三分か? 三日か?」
「三日ください」
 慣れた口調で答える部下に笑って、将軍はよしと言った。
「好きにするといい」
「ありがとうございます」
 敬礼して、クラングは笑みを返した。

      *      *      *

 白いセーター、灰色に近い青のジーンズ。羽織ったコートは彩度の低いダークブラウン。全体的にコントラストの低い組み合わせだ。
 だが、それゆえにジィルバの静謐な美貌が埋もれないでいる。
「リヒト?」
 ジィルバがぼうっとしている少年の名を呼ぶ。リヒトははっとして彼の側まで駆け寄った。
「あ、あの、どこに行くんですか?」
 ジィルバが私服に着替えるために、軍から一度彼の家へ帰り、今また彼の家を出ようとしているところだ。
「おまえはどこだと思うんだ?」
 すぐに答えてくれると思っていたのに、ジィルバはそう聞き返してきた。不思議な感じがした。
(もしかして……楽しんでる?)
 リヒトは男の端正な横顔をじっと見詰めた。
「……楽しいところだと……嬉しいです」
 ためらいがちにそう答えると、ジィルバはリヒトを見下ろして笑みを浮かべた。リヒトがぼっと顔を赤く染めるが、ジィルバは既に前に向き直っていて気づかなかった。
「……そうだな。楽しいところだと、人は言う」
 そう呟く彼の双眸はどこか遠い憧憬の地を見ているようだった。

薔薇の下 13

「あの……そういえば、ジィルバさん、足はもう大丈夫なんですか?」
 二人で歩道をとぼとぼと歩きながら、リヒトはジィルバにそう尋ねた。
「ああ、おかげさまでな。術後良好だそうだ」
 振り返らずに答える男を見上げて、呟く。
「……大佐さんはジィルバさんが好きなんですね」
 足に怪我を負ったジィルバを軍へ運ぶ彼の背中をずっと見ていた。自責の渦が、リヒトには見えた。
(彼は……本当は、ジィルバさんに天使殺しなんかさせたくなかったんだ……)
 それはクラングを見ずとも、ジィルバを見ればすぐに分かることだ。彼には天使殺しは辛すぎる。
 断罪の天使に弾丸を撃ち込んだ彼の顔を、リヒトは忘れられそうになかった。
「……別に。クラングは俺が好きなんじゃない」
 静かな言葉が響いて、リヒトははっと目を見開いた。振り仰ぐが、やはり彼はこちらを見ていない。
「そんなこと……」
 ないですよ、と告げる前にジィルバは首を振った。
「クラングの話は終わりだ」
 リヒトは目を細めた。ジィルバの感情の揺れが伝わってくる。
 彼らは互いを信頼しながら、それでも互いを疑っているようだった。いつかどちらからか、決別の申し出があるのではないかと、恐れている。
(どうして……一緒に戦ってきた人間同士なのに……仲間なのに……)
 ふいにジィルバが足を止めた。リヒトもそれにあわせて止まる。
 ずっと考え事をしていたせいで気づかなかったが、辺りは随分と騒がしかった。ざわざわと聞き取れない雑音の群れに混じって、笑い声も響いてくる。
「ここ……、何ですか?」
 思わず、リヒトはそう尋ねた。
 白くて大きな門が自分の前にそびえている。門の中には人が溢れ、派手な格好をした女性が彼らを導いているようだった。
「『リフリーダムグラウンド』……俗に言う遊園地だ」
「りふ? ゆーえんち?」
 聞きなれない単語を並べられて、リヒトは首を傾げる。だが、ジィルバはそれに答えることなく、少年の手を引くと入場門へと足を向けた。

 ”WELCOME RFG!!”――そう書かれたパンフレットを握り締めて、リヒトは広場に立ち尽くした。人の波もさることながら、そこは今まで見た中で一番奇抜な「別世界」であった。
 敷地内を囲むように、上下にうねり、また円を描いている謎の道。遠くでゆっくりとまわり続けている巨大な円。その円周上にぶら下がっている箱はなんだろうか。いかにも人工的な岩山や、華麗な館も気になる。
「……ジィルバさん、ここはどこなんですか?」
 呆然と呟く。
「だから遊園地だと言っただろう。まあ、テーマパークと言ってもいい。……天使時代には存在しなかった世界だ」
 答えて、ジィルバは園内を見渡した。やはり親子連れが多く目に付く。誰もが親に手を引かれながら、遊具を目指している。
「……俺はああいうのには興味がないんだが、遊びたいなら遊んで来い。その券があれば、どれにでも乗れる」
「遊ぶって? 遊ぶところなんですか? ここは?」
 ジィルバは歩き出しながら、自分の分のパンフレットを振って見せた。
「『ようこそ。ここは自由の国。特大級のスリルと興奮が君を待っている』」
 リヒトは青年を追いかけながら、パンフレットを捲るとそこに描かれた地図を見た。細かく紹介されているのは遊具かレストラン、土産屋、そして休憩施設だ。これらすべてが本当にこの地に収められているのか。
「ジィルバさん、待ってください。ここは本当に遊ぶための施設なんですか?」
「ああ。天使が禁じた娯楽施設のひとつだ」
 リヒトは目を見開いた。
 立ち止まって辺りを見回す。視界に飛び込んでくるのはどれも笑顔だ。
(こんなに楽しそうなのに……?)
 しばらくそうしたあと、リヒトはジィルバがさっさと歩いていってしまっていることに気づいて、慌てて彼を追いかけた。
「ジィルバさんっ」
「なんだ? 遊んでこないのか?」
 追いついてきた少年を見下ろして、ジィルバは不思議そうに尋ねる。
(自分こそ遊ばないくせに……)
 子どもは遊びたいものだと思っているのだろうか。リヒトは唇を尖らせた。
「そんなことより、どうして僕をこんなところに連れてきたんですか?」
 問うと、ジィルバはまた歩き出した。歩を進めながら口を開く。
「お前は施設の外に出たことがないと言っていただろう? だから、天使時代を終わらせて人間が手に入れたもののひとつを見せてやろうと思ってな」
 そんなことを考えてくれていたのか、リヒトの胸に喜びが湧いた。足早に彼を追う。
「あの、それでジィルバさんはどこに行くんですか? ずっと真っ直ぐに歩いてますけど」
 何か目的地があるに違いないとは思うのだが、ジィルバは無言で進む。
 なびく銀の髪を見上げながら、リヒトは黙ってついていこうと思った。
 人の列を避け、店の横を通り過ぎ、だんだんと静かなほうへと向かっていく。見かける客も子どもから大人や老人達へと変わっていった。
 そしてやがて、ジィルバが目指していたものはきっとこれだと思わせるものが見えてきた。
 広がる赤。黄や白も混じって彩られた一角。目にも鮮やかなそれはチューリップの花園であった。
「わ……すごい……」
 感嘆の声を漏らす少年の横で、ジィルバも眩しそうに目を細める。
 風に揺れる可憐な花を見つめながら、しかし、リヒトは眉を寄せた。
「あ……、あれ? チューリップって春の花ですよね?」
 この場の「間違い」に気づいて首を傾げる少年に、ジィルバは眉を下げて頷いて見せた。
「ああ、そうだ。外に出てないと言うわりによく知っているじゃないか」
 寒空の下に広がる太陽のような花々。――不釣合いである。
「これは人間が品種改良を重ねて作り上げた冬のチューリップだ」
「……品種改良……」
 繰り返す少年天使を見てから、ジィルバは近くのベンチに腰を下ろした。
「……人間を愚かだと思うか? この花は禁忌だろうか?」
 神の創った姿を変える技。人間達はそうして求める形のものを手に入れてきた。
 リヒトはチューリップの群れを見つめた。優美な曲線を描く瑞々しい花びらは神秘的にも見える。
「禁忌かどうか、……僕には分かりません」
 振り返って、肩をすくめる。
「例え禁忌なのだとするなら、この花を綺麗だって思っちゃう僕はダメな天使なのかもしれませんね」
 微苦笑は切ない。
「……そうか……」
 ジィルバはうつむいて、自分の足元を見下ろした。
 鳩が一羽、うろうろしていた。紫と緑とが不思議に混じり合った灰色の羽を無意識に注視する。
「……あ、鳩……」
 少年の声に顔を上げると、リヒトはジィルバが見ていたのとは違う鳩を見ていた。空を飛ぶそれに手を伸ばす。
「おいで」
 澄んだ声は空へと舞い上がり、翼を呼ぶ。

薔薇の下 14

 リヒトの声に誘われたのか、次から次へと鳩が舞い降りてきた。
 肩に手に降り立ってくる鳥達をリヒトは笑顔で迎える。ジィルバの足元にいた鳩も少年のもとへ飛んでいってしまった。
 翼。飛び交う翼だ。一人の天使を中心に、誰もが彼を愛して。
 遠い情景に心が震えた。
「……リヒト」
 うつむいたまま絞った声は思いのほか小さかった。聞こえなかったかもしれない。もう一度呼ぼうと思って、ジィルバはリヒトのほうへと顔を向けた。
 翼に遮られた視界の向こう、空色の瞳がこちらを見ていた。
「なんですか?」
 ――嗚呼。
 この静かな空間でなら、何もかも手放してしまっていい気がした。

「リヒト、俺は天使だ」

 リヒトは凍りついたように動かなかった。
 鳩たちはその緊張に堪えられないのか、どれからともなく皆飛び立っていく。灰色の空に無数の翼が舞い上がり、その影が二人の上に落ちた。
「銀闇の使者は、裏切りの天使だ」
 そのとき、ジィルバは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。体中が五感を失ったようで、まるで何も感じない。
 宙ぶらりんの人形はきっとこんな気持ちだろう。
「ジィルバさん……」
 少年の声が震えている。
 自分の声も震えていた。
「俺は、天使の言うことが信じられなくて……俺は天使なのに……」
 なぜだかリヒトが大きく歪んだ。
「天使を殺した」
「……ジィルバさんっ……」
 リヒトが駆け寄ってきて、ジィルバの前に膝をついた。彼の頬に触れようとして、一瞬指先が戸惑う。
「ジィルバさん、ねえ、ジィルバさん」
 憚(はばか)るように、けれども必死に男の名を呼んで、リヒトはそのままジィルバを抱きしめた。
「ジィルバさん……泣かないで」
 リヒトの服を握り締めて、ジィルバは嗚咽に言葉をのせた。
「……仲間を裏切ったんだ」
 天使が正しいとは思えず、人間が正しいとも言い切れず、それでも人間に手を貸した。銀の銃を同胞に向けたのだ。
「……誰も俺を裁いてくれない……」
 自由戦争以来、多くの天使が死んだ。
 戦後の処理に明け暮れて、自分は自分のしでかしたことを認められずにいた。
「……俺は、罪を犯したのに……」
 ――そうだ、俺は咎人(とがびと)だ。
 その罪の重さが恐ろしくて、ずっと自分は人間だと言い続けてきた。
 涙に濡れた懺悔を聞きながら、リヒトもいつの間にか泣いていた。
「ジィルバさん……」
 ジィルバは、ずっと自身を断罪してくれる者を探していたのだ。
 そしてリヒトが選ばれた。
 なぜ、それが自分なのかリヒト自身には分からなかった。幼い彼は、金の髪を風に遊ばせて、青空の瞳で下界を見渡していた美しい大天使を知らない。
 ただ、ジィルバは自分を選んでくれた。
 答えたい、彼の懺悔に答えなければいけない。
「ジィルバさんは僕を助けてくれました……」
 服を握る手がびくりと震えて、さらに力がこもった。
「……それはただ……」
 後ろめたかっただけだ、掠れた声が善意を否定する。
 リヒトは頷いた。
 青年の肩口に頭を寄せて、目を閉じる。
「それが償いというものではないでしょうか」
 のろのろとジィルバは顔を上げた。
 首を傾げて、間近にある少年の顔を見つめる。
「あなたは償い続けてきた」
 リヒトは蒼穹の瞳に銀色の天使を映した。
「僕はあなたを許したい」
 同じように少年を映した銀の瞳が何度か震える。
 それから、ジィルバはリヒトを抱きしめた。
 二度と離してくれないのではないかというほどの力で抱きしめられて、リヒトは今更あたふたと頬を染めた。
「じ、ジィルバさん……」
 困ったように名を呼ぶが、ジィルバはしがみついたまま身じろぎすらしない。
 リヒトは肩の力を抜くと、青年の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
(まあ、いいか……)
 風は冷たいし、ジィルバは温かい。
 リヒトは視線を転じて、チューリップの花園を見た。綺麗な花だ。寒さの中において、凛と冴えた美しさを感じる。
 普通の天使はこれを禁忌だというのだろうか。ならば、自分はやはり駄目な天使なのかもしれない。
 裏切りの天使のことさえも、優しい人だと感じてしまうのだから。

 冬のチューリップをぼんやりと見つめるリヒトの耳に、静かに、本当に静かに声が響いた。
 すまなかった、と。
 そして、ありがとう、と。

薔薇の下 15

「やれやれ、ジィルバが休暇なんかとってくれたおかげで、私が出張るはめになってしまったな」
 愚痴をこぼして、クラングは車の助手席から降りた。周りの兵達が一斉に敬礼をしてくる。
 西ブロック第三区四−四にて法定危機生物発生との連絡がクラングに届いたのはほんの数分前のことであった。現場の兵は皆それぞれ火器を携帯している。
 クラングは歩きながら、寄って来た少佐に尋ねた。
「どういった形態だ?」
「三メートル弱の獣人です」
「ほう、二足歩行か。珍しいな」
 クラングは青い双眸を細めて笑った。
「銃を貸したまえ。私がやろう。他の者に手出しをさせるなよ」
 手を差し出してくる大佐に、ブルーメンは目を瞬いた。
 自分の銃を両手に抱えたまま、ぽつりと呟く。車の運転も出来ない上司を見上げて。
「……本気ですか?」
「……本気じゃ悪いのか?」
 疑わしげにこちらを見やる部下に、クラングは眉を寄せた。銃を受け取るべく伸ばした手が空しく宙を泳いでいる。
「少佐、私は別にデスクワーク能力を買われて大佐になったわけではないぞ」
 告げて、少佐が手にしていた銃を取り上げると、そのまま悪魔のほうへと再び歩き始める。
「あ、大佐」
 慌てて上司を追ってくるブルーメンに、クラングは振り返って悠然と笑って見せた。赤い夕日も、シャンデリアの白い光も、どんな光さえも溶かしてしまう漆黒の髪を風が撫でる。
「まあ、見ていろ。銀闇の使者――『闇が連れてきた銀の使者』……、その『闇』の闘いぶりを」

 それはまるで無声映画を見ているかのようだ。
 悪魔に一直線に向かっていく上官からは足音が聞こえない。無音の足運び。一体どれほどの修練の上に立っているのかと考えると、ブルーメンは背筋の冷える思いだった。
 そしてついにその鼓膜を破砕音が揺さぶる。
 クラングはアスファルトを砕く悪魔の腕を蹴って、宙に踊った。そのまま空を足場とした体勢で銃の引き金を引く。対法定危機生物用に改造された抜群の破壊力を持つ弾丸が頭蓋骨を貫通し、地面に着弾した。
 体を半回転させながら地面に降り立ち、背後から更にもう一発浴びせる。弾は心臓を貫いた。
 「舞」とはこういうものだろうか。いままで東洋の舞踏に興味のなかったブルーメンはそう思いながら新しく用意した銃を握りしめた。
 悪魔が地面に伏すのを待ってから、クラングは銃を肩に担ぎ上げた。空いた手を握って開いて、満足げな笑みを浮かべる。
「思ったよりは鈍(なま)っていなかったな」
 それから唖然としている兵達に向けて、手を振る。
「後の処理を頼む」
 言われてからやっと気づいた様子で、兵達は死体の元へと駆け寄って行った。
 クラングはそれを見送ってから、ブルーメンの元へ歩み寄り、銃を渡そうとして、彼女が新たな銃を持っていることに気づいた。
「なんだ、私を信じていなかったようだな」
「……し、信じるも何も援護の必要に備えておくのは当たり前です」
 なんとか言い返しながら、ブルーメンは大佐から銃を取り上げた。二丁の銃を抱きしめて、やっと息をつく。
「私、今まで大佐が自由戦争の第一線で戦ったという話を信じておりませんでした」
 脱力した声で言われ、クラングはがっくりと肩を落とした。何か言おうとするが、それを遮ってブルーメンは続ける。
「もし第一線にいたとしても、きっと物資運搬の雑兵だろうとばかり……」
「……君という人は……」
 片手で顔を覆って首を振る大佐を、ブルーメンは横目に見やった。
「あなたが普段はデスクワークしかしない人だからですよ」
 言い放って身を翻すと、すたすたと歩き出す。クラングはそのあとを笑いを含んだ声で追った。
「安心したまえ。次からもきっと私が出張ることになる」
 ぴたりと足を止めて、少佐は驚いた表情で振り返った。その間にクラングは歩を詰める。間近までやってきた上司を見上げて、ブルーメンは首を傾げた。
「どういうことですか?」
 いつも悪魔の処理は司令部内でも特に腕の優れたジィルバが先頭に立って行っている。今日はその彼が休暇でいないため、数合わせにクラングが引っ張り出されただけであったのだ。
 クラングはどこか恨めしそうに、薄い笑みを浮かべた。
「ヘッドハンティングだ。第三司令部(うち)から一人よこせと言ってきた」
「どこの司令部が?」
 続けて問うてくるブルーメンにクラングは目を閉じた。嘆息する。
「どこもかしこもだ。よほどこちらの好成績が気に入らないらしい」
 クラングの所属する陸軍第三司令部は世界一の法定危機生物処理機能を誇る。悪魔が発生してから処理までの時間、被害の小ささ、どこをとっても他には劣らない。
「まあ、私を第三司令部から外したいのが向こう側の思惑だそうだが、……それは私にとって非常に好ましくない事態なんでね」
 そう言って意味ありげに笑う大佐に、少佐は目を細めた。
「またしょうもないことを考えましたね」
 子どもの悪戯に呆れる母のような口調に、クラングはあえておどけた仕草で答えた。
「そういう性分なんでね」

      *      *      *

 軍の仮眠室で惰眠を貪っている銀髪の青年を見つけて、クラングは嘆息した。たしか数週間前にも食堂でサボっていた彼を見つけた気がする。
 実際、裏でURの任を負う彼にそうほいほいと外回りに出られても非常時に困るわけだが。
(私のほうが随分働き者のようだぞ、少佐)
 内心でブルーメンにそう告げてから、ジィルバの肩を揺する。
「起きろ、ジィルバ」
 秀麗な眉がぎゅっとしかめられる。
「……うるさいな。クラング、何の用だ」
 のろのろと上半身を起こしながらジィルバが、片目で男を睨む。
「ああ、寝起きの君は最悪だな」
 眩暈を堪える真似をして見せてから、クラングは不機嫌そうなジィルバの頭を書類で叩いた。
「私の頭脳に感謝したまえ。君の願いをかなえてやろう」
 単純で傲慢な台詞だが、ジィルバの興味を引くには十分だった。顔を上げて、銀の双眸を細める。
「……何?」
 クラングはジィルバの横に腰を下ろすと、書類をベッドに広げた。それを訝しげに見下ろすジィルバに、クラングは夕食の話でもするかのように軽い口調で告げた。
「まず、君を大尉に昇級させる」

薔薇の下 16

 突然の昇級宣告にジィルバは目を瞬いた。
「……大尉に? なぜ?」
 URを本業とするジィルバには階級などあまり関係しないのだ。それをわざわざ昇進させるとは一体どういうことだろうか。
「まあ、大尉に上げるのは一種の『見栄』だな」
 そう言って、クラングは書類の一枚を示して見せた。
「悪魔に関して、全軍一の業績を誇っているのはこの陸軍第三司令部だ」
 それは知っている。ジィルバは頷いて見せた。
「それを妬んでか純粋な向上精神かは知らんが、他の司令部でも悪魔処理体制を本格的に整えたいそうだ。それで我々の中から一人、特に腕の立つ者をよこせと幾つかの司令部から言われた」
 クラングが指差す文書には今彼が言ったことを堅苦しくした文が並べられている。
「それで、誰を?」
「……私は君を推そうと思う」
 青い双眸がもう決めたと告げている。
 しかし、ジィルバは眉を寄せた。
「……それならクラングが行けばいい。正直な話、俺よりもお前のほうが腕は上だ」
 俺はすぐに熱を出すからな、と肩をすくめる。
 クラングは顔をしかめた。
「冗談じゃない。私はここを気に入っているんだ。将軍殿も私の好きにさせてくれるしな」
 確かに第三司令部の壮年の将軍はなぜだかいたくクラングを気に入っている。クラングが将軍の戦死した息子に似ているからだとか、同じ戦場で戦ったからだとか、噂は様々である。
「確かに向こう側の希望は私だがな。しかし、それはまさしくこちらで好き勝手やっている私の力を削ぐためだ」
 なるほど、合点のいく話だ。若くして大佐の地位にいるクラングは他の上層部から見れば、鼻持ちならない若造であろう。しかも第三司令部の将軍は彼に甘い――となれば、彼を第三司令部から遠ざけたいと思う者がいないはずがない。
 それにな、とクラングは続ける。
「私はこれを一司令部への異動で終わらせるのではなく、各司令部への巡回派遣にするよう案を出そうと思う。各地を回り、その地に適した法定危機生物対処マニュアルを作成する。……今までにはなかった任務だな。どこかの司令部に属しているわけでもない」
 ジィルバはクラングの言わんとするところを悟った。
「それは、つまり……」
「つまり、軍を辞めずに軍から独立することになる」
 強引な言い方かもしれないがな、と言って若い大佐は形のよい唇の端を吊り上げる。
 ジィルバは目線を落とした。他所の司令部から送られてきた書類の日付と、クラングが準備した書類の日付を見比べる。
「……クラング」
 きっと寝る間も惜しんで仕上げたのだろう。
 顔を覆ってうつむくジィルバの肩をクラングは叩いた。
「上へは必ず通してみせる。任せておけ」
「……すまない」
 気にするな、とクラングは笑う。
「それより少し匿(かくま)ってくれ。一時間でいい」
 書類を揃えて枕元に置くと、クラングはそのままごろんとベッドに転がった。かかとを擦ってくつを脱ぐ。
「……少佐が来たらいないと……」
 呟きながら、眠ってしまう。
 規則正しい寝息が聞こえ始めて、ジィルバは眉を下げた。働く姿からはあまり分からないが、こうして寝顔を見ればクラングが幼い顔立ちであることはすぐに知れる。若造だと言われる彼は、そう、確かにまだ三十にも満たないのだ。
 その若さで大佐の地位まで上がったのは、ひとえに自由戦争での功績の賜物である。
(クラングは俺より多く天使を殺した……)
 ベッドの端に腰掛けて、ジィルバは手を組んだ。
 クラング・ヒンメルの原動力は、憎悪である。
 肉親を殺されて生まれた復讐心が彼を「闇」にした。
(だからこそ……クラングは異常な程に俺のことを気にかける)
 天使に絶望したクラングにとって、人間側についたジィルバこそが、唯一真の天使だと言えたのだ。彼の信仰はジィルバにある。
 お前だけが信じられる、そう言ったクラングの儚い微笑は今も忘れられない。
(……すまない。俺は……)
 ――私はお前に手を貸そう。
 そう言ってジィルバは戦火の中、クラングの手をとった。
(私は、お前を置いて行く)
 だから、せめて、今はまだ。
 ジィルバはクラングの手を握った。

 そろそろ時間だ。夢を見ているのとは違う自分がそう囁く。
 おもむろに目を開けたクラングの耳に銀の声が触れた。
「おはよう」
 クラングはジィルバがまだいたことに少なからず驚いた。どうせもう出掛けているものだとばかり思っていたのだ。
「……あ、ああ、おはよう」
 髪を手櫛で整えながら、起き上がる。ベッドに腰掛けたまま伸びをして、クラングははたと思い出した。
「そうだ、必要ならば、リヒト君も連れて行っていいぞ」
「え?」
 ジィルバは目を瞬いた。クラングが笑う。
「君は私と同じで『死にたがり』だからな。だが、君は誰かが側にいれば死のうとはしないだろう?」
 指摘されて、思わず指先が震えた。
「……俺は、死にたがっているのだろうか?」
 青い双眸を細めて、クラングは裏切りの天使を見つめた。
「……無自覚か。ならば、なお悪い」
 靴を履いて、枕元の書類を取り上げながら、クラングは告げる。
「リヒト君は連れて行け。……あんなのでも救済の天使だ。例の銃の弾丸も作れるかも知れん」
 ジィルバは釈然とせず、クラングを見上げた。
「だが、子どもは駄目だと言ったのはクラングのほうだ」
 それでもリヒトを連れて休暇をとったくせに、それを聞くのか。クラングは嘆息した。
「もう諦めた。……君が少女趣味だとは知らなかったよ」
「は?」
 後半の呟きは聞き取れなかったのか、ジィルバは首を傾げる。クラングは首を振った。
「いや。ただ、あれはもう君が元天使だと知っているらしいから、いろいろと面倒がないだろう?」
 ジィルバはうつむいた。
 確かに少年は外の世界を見たいとは言っていた。しかし、彼はまだ幼い。
「……だが、リヒトは行きたいと言うだろうか?」
 自信なさげに呟く美貌の部下を見下ろして、笑いを噛み締める。
「君は女性を食事に誘ったことがないからそんなことを言う」
「……食事と仕事では違う」
 真顔で眉を寄せるジィルバに、クラングは耐えれず喉の奥で笑った。
「そうだな。だが、それでも動かねば、機を逃すことになるのは同じだ」

薔薇の下 17

「ジィルバさん!」
 面会人だと別室に呼び出されたリヒトは銀髪の青年を見つけて声を上げた。
 パイプ椅子に座ったまま、ジィルバは小さく頷いてみせる。
「では、私は外で待っていますから。終わったら呼んで下さい」
 そう言って施設勤務の職員は部屋を出て行く。
 二人だけになった部屋に沈黙が下りて、リヒトはおずおずと口を開いた。
「……あ、あの一昨日はありがとうございました。その……」
「座ってくれ」
「……はい」
 長机をはさんで、リヒトはジィルバの向かいに腰を下ろした。
 銀の双眸がじっと自分を見ている。リヒトは椅子の上で小さくなった。
(なんだろう。僕、何かしたかな?)
 しばらく間をおいて、ジィルバは口を開いた。
「俺は今度、ここを離れる」
 リヒトは目を瞬いた。
「え?」
「第三司令部から離れて、他所へ行くんだ」
 静かに告げて、ジィルバはリヒトの表情の変化を見た。が、眉を寄せたあと、少年はうつむいてしまった。
「えっと……じゃあ、お別れなんですね……?」
 呟いて、リヒトは服の裾を握った。
 もとより、ジィルバと今後会う約束などなかったのだ。彼がわざわざ別れを言いに来てくれただけでも、喜ばなければならない。
(ちゃんと今までのことをお礼を言って……これからも頑張って……って言わなきゃ)
 目頭が熱くなってくる。
「……おまえが……嫌でなければいいんだが」
 不安を孕(はら)んだ男の声に、リヒトは顔を上げた。ジィルバは机の上で自分の右手を握り締めていた。
「……何が、ですか?」
 何故だか続きが聞きたい気がして、リヒトは促すように問うた。
 こちらに目線を向けた銀の瞳に自分が映る。
「俺と一緒に行かないか?」
 手を握りなおして、ジィルバは窺うように小さく首を傾げた。
 リヒトの蒼穹を封じたような瞳が見開かれる。
 青年の言葉を理解するには時間が掛かった。
 ――嬉しすぎて。
「……いいんですか?」
 か細い声は震えている。
「ああ」
 ジィルバは頷いた。
 リヒトは顔を上げて、笑ってみせた。嬉しいから泣くことなんかないと思ったのだが、不覚にも目じりに涙がたまる。
「僕、行きたいです。ジィルバさんと一緒に」
 はっきりと言葉にすると、ジィルバが笑んだ。
 窓から差し込む光は銀色に弾かれて、室内に溢れる。陽光よりも鈍い、けれど柔らかなその光が、彼の微笑を優しく撫でた。
「一緒に世界をまわろう」

      *      *      *

 空港にて、見送りに来たクラングの言葉を聞いて、リヒトは口をあんぐりと開いた。
 ジィルバが眉を寄せて問い返す。
「なんだって?」
「だから、リヒト君は私の姪という事になっていると言ったんだ」
 繰り返してクラングはリヒトにパスポートを差し出した。
「天使を連れた軍人など、胡散臭さいことこの上ないからな。単なる表向きの間柄さ。それと、ジィルバは天涯孤独という事になっているから、今更姪など増やせないだろう?」
「それはそうだが……」
 なにやら言いたさげなジィルバにクラングはにやりと笑った。
「リヒト・ヒンメルだ。良い名だろう?」
 ジィルバはパスポートを開いて目を瞬いている少年を見下ろし、疲れたため息を吐いた。
「悪くはない。……ただ、まさか天使にお前の名をやるとは思っていなかった」
「意趣返しさ」
 青い双が悪戯さを含めて細められる。
「天使に、天使を恨む者の名を刻んでやったんだ」
 そう言うクラングの優美な笑みは、暗い感情とは全く逆属性のものに見えた。
 もしかしたら、クラングはさほどリヒトのことは嫌っていないかもしれない。ジィルバはそう思った。
 それからクラングはジィルバに小さなピンバッジを渡した。不思議そうにそれを見るジィルバにすまなそうに唇の端を歪めてみせる。
「発信機だ。常時着用してくれ。軍を辞めないとは言っても、元URの君だ。監視下に置かないわけには行かないんだ」
 ジィルバは苦笑してバッジを胸につけた。
「これくらいは予想していた。体に埋め込むタイプのものじゃないのが救いだ」
「君の傷は背中のものだけで十分だよ」
 クラングは告げて、手を差し出した。ジィルバはそれを握り返した。
「……クラングには感謝してる」
 真摯に告げると、クラングはくすぐったそうに笑った。
「気味が悪いからよしてくれ。それにどうせ感謝するくらいになら、言葉でなくて現物で示して欲しいものだよ」
 パスポートを握り締めたまま、リヒトは別れの挨拶を交わす二人を見上げていた。
(やっぱり大佐さんとジィルバさんは仲良しなんじゃないですか)
 クラングとの握手を終えて、ジィルバはじっとこちらを注視している少年に気づいた。
「どうかしたか?」
「いいえ。でも、ジィルバさん、そろそろ時間みたいですよ」
 時刻表を指差してみせる。ジィルバは自分の腕時計に目を落とした。
「そうだな」
 荷物を持ち上げて、もう一度クラングのほうを向く。
「他所でも元気でな」
「ああ」
 リヒトも続けてぺこりと頭を下げた。
「あ、あのありがとうございました。ヒンメルの名に恥じないように気をつけて行動します」
 リヒトにとって真剣に言ったつもりだったその台詞は、しかしクラングに吹き出されてしまった。顔を上げると彼は肩を震わせていた。
「……ああ、ジィルバのことを頼むよ。な、なかなか君のほうがしっかりしているようだ」
 笑いを堪えた揺れる声でそう告げると、クラングは手を振った。
 釈然としないながらも、リヒトも手を振り返す。
 そして自分の荷物を抱えて、ジィルバのほうを見ると彼も笑っていた。
「えっと……?」
 首を傾げる少年に気づいて、ジィルバは姿勢を正した。わざとらしくゲートを指差す。
「出発ゲートは向こうだ」
「はぁ……?」
 もう一度首を傾げて、リヒトは歩き出すジィルバに続いた。
 ジィルバはゲートに入る前に一度クラングを振り返った。人ごみに紛れてもすぐに目に付く黒い軍服。それに身を包んだ若き大佐は静かに笑んでいるだけだった。


「こ、これ、本当に飛ぶんですか?」
 狭い座席に座ってリヒトが冷や汗混じりにベルトを握り締める。
「ああ、飛ぶさ。今日は天気もいいし、揺れはしないだろう」
「ゆ、揺れたりするんですか……」
 更に青褪める。
 ジィルバは笑って、リヒトの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「俺がいるから大丈夫だ」
 説得力に欠けているような気のする言葉を与えられて、リヒトは隣の男を見上げた。ジィルバは首を傾けてみせる。
(……ま、いっか)
「そうですね」
 同意して、リヒトは笑う。
 素直な少年に小さく笑みを浮かべて、ジィルバは窓の外を見やった。なだらかな丘陵とそれに隣接する空が視界を占める。
(世界を回って、歪みを直す。それが俺の使命か)
 いや、償いか。
 そして弔いでもあるのかもしれない。
(……俺は全うしよう。……お前達のために)
 消えていった命と今も息づく命のために――。
 ジィルバは目を閉じた。
 離陸アナウンスに続いて、エンジンの轟音が響く。戦塵渦巻く大地を髣髴(ほうふつ)とさせる音だ。
 ただ、心は静かで、それがどこか遠くのもののように聞こえる。
 そして彼を乗せた翼は大空へと舞い上がった。