白銀の王妃 1

 誰かが名前を呼んだ。
 それが誰の名前なのかは分からなかった。
 いつのことだっただろうか。昨日だったか、一週間前だったか、夢だったかもしれない。
 白い視界に赤と青がちらついて、頭が酷く痛かった。
 でも、月が昇って沈んだら、元通りになっていて。もう、そんなことはどうでもよくなったんだ。

     *     *     *

 内殿の空き室、その窓際の椅子に腰掛けた青年を見つめて、イルタス六世は嘆息した。
 気だるい昼下がり、ザック・オーシャンはただじっと外を見つめている。執務がひと段落したイルタス六世は、離れた席に腰掛け、その様子をじっと観察していた。
 空は青く高く、窓から入ってくる風は少し冷たいが、陽があるので寒いほどではない。空気の流れに合わせて、黒い髪が揺れる。
(変化なし、か)
 パスティアは仕立て屋の相手をしており、この場にはいない。彼女はザックを易々と平民の目に晒す気はないらしい。
(独占欲が強くて助かる)
 だが、たまに羨ましくも思えた。
 欲しいものは力ずくでも手に入れる。自分も若い頃ならば、そうだったかもしれない。だが、今はそこまでする気にはなれなかった。疲れたのか。もう諦めたのかもしれない。
 ずっと欲しいと思っていたものを手に入れる、そのことも考えて今の地位を手に入れた。
「笑い話だ」
 ぽつりと声に出すと、ザックがこちらを見やった。しかし、すぐにまた視線を外に戻す。イルタス六世は独りで苦笑してうつむいた。
 欲しいと思っていたものは、地位を手に入れたことで、かえって遠ざかってしまったのだ。溝ができたとも言える。
 王位を手に入れて、目の前に並んだのは跪(ひざまず)く友人達だった。かつて、ともに国を守ろうと肩を組んだ仲間は、今はもう自分がよしと言わなければ、顔も上げられないのだ。
(あんなものが欲しかったんじゃない)
 頭を振り、脳裏に浮かんだ光景を追い払う。代わりに、久しぶりに傍で過ごした親友のことを思い出す。体調を崩して混乱した彼は、昔のようにくだけた言葉で話しかけてきた。
 そんなことが嬉しくて、そして自分は王であることを疎み始めているのだと恐ろしくなった。国を守りたいという気持ちは変わらないのに。心のどこかで、そのための地位を放り出そうとしている。
(このままでいいはずがない。何か、考えなければ……)
 イルタス六世は再び溜息を零した。
 問題は山積みである。自分の悩みも片付けたいが、今はやはりザック・オーシャンのことが気がかりだった。既にウィルベルトが動いている。できれば協力したいとは思うが、自分も彼も難しい立場にある。
(そもそも、案が浮かんだとして、私は動けるのか)
 いつの頃からか、ふとした拍子に記憶が飛ぶことがあった。
 パスティアの様子がおかしい。だが、自分はどうすることもできない。気づいたときには事態は次の段階に進んでいる。
「ザック、私はお前と同じなのか……」
 黒い瞳がもう一度こちらを見た。何を考えているのか窺い知れない。感情のない瞳。
 程度で言えば、自分の症状は軽いはずだ。完全に意志を奪ってしまえば、政務が滞る。王が健常だからこそ、王妃に気を留める者もいない。そうして彼女はここまで自身の計画を進めてきた。
 パスティアにとって邪魔者であるはずのウィルベルトを助けることができたのは、マリーほどに優先したい存在ではなかったからだろう。現れた王や護衛団団長達にマリーを奪われることの方が彼女にとっては恐ろしいことだったのだ。
(気を失ったザックを抱えて泣いていたな……。泣きたかったのはこちらの方だ。騒ぎを抑えるのにどれだけ苦労したと思っている)
 ウィルベルトを連れて城を出ることが出来て、自分の意志で動けて安堵した。馬車の中でイルフォードが何か言いたげな顔をしていたが、それは黙殺しておいた。
(イルフォードは鋭い。何かもう察しているだろうか)
 彼なら止めてくれるだろうか。
 魔術による支配が強くなったとき、この手はおそらく刃を掴む。そして、その切っ先が何を見据えるのか、それは考えたくもないことだった。
 息をついて顔を上げると、ザックがまだこちらを見ていた。見慣れない黒髪は青空を背負って、絵画のようにも見える。
 彼もまた刃を手にするだろう。
(フレイム・ゲヘナはザックを止めるだろうか)
 そして、フレイムに協力すると言った赤い髪の親友は――。
(ウィルは、私を止めてくれるだろうか……)
 イルタス六世は立ち上がった。つられてザックが顔を上げたが、彼はすぐに視線を移動させた。王もまた同じ方向を見やる。
 近いうちにウィルベルトはフレイム・ゲヘナを伴って、城へ戻ってくるだろう。
 そのとき、自分は何をするのか。
 エイルバートは、扉を開けて微笑む白銀の王妃を見据えた。