一条の銀の光 17

 フレイムは目の前の怪我人兼病人を見下ろした。窓しかない白い壁をザックは見つめたままだ。
「俺がさ、お前に八つ当たり……みたいなの? ……したからさ」
 自信なさげな口調でザックは続けた。
「……怒ってるのか?」
 なんと答えてよいのか、と言うよりむしろその誤解はどこから生じたのか。フレイムはともかく彼のカン違いをただそうと思った。
「俺は怒ってないけど? というか、謝りたいと思ってたんだけど……」
 ザックはわずかに身じろいだが、こちらを向こうとはしなかった。
「俺さ……」
 声が震える。フレイムは謝ろうという決意がくじけないようにこぶしを握り締めた。しかしザックの声がそれを遮る。
「いいよ。オレが悪かったんだから……さ」
「でも……ッ」
 フレイムが身を乗り出そうとするより早くザックが起きあがった。
「いいって! 俺が寝不足で機嫌が悪かったのが悪いんだから!」
 フレイムはきょとんとした。
「寝不足?」
 その疑問符には答えず、ザックは眉を寄せた。右腕を押さえる。
「……ってー……」
 言いながらうつむいて身体を折る。
「ザ、ザック…!」
 フレイムは慌てて彼の肩を支えた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃないけど、大丈夫だ」
「何訳の分からないこと言ってるんだよ。ほら、寝てよ」
 肩を撫でながら、ゆっくりと青年の体を倒す。仰向けになってザックは息をついた。
「……わりいな」
 フレイムは首を振った。
 それからザックはしっかりとフレイムを見つめた。
「――だから。お前は謝らなくていい」
 先ほどの続きを繋げる。
「……だからって……、ザックって寝不足だったの?」
 フレイムは困ったように眉を下げてみせた。と、青年の顔が紅潮する。
「だっ、だってお前……。……知らなかったのか?」
 訳が分からずフレイムはまた首を振った。ザックはぐっと息を呑んだ。ショックを受けたらしい。片方の手はぎゅっとシーツを握っている。
「朝早くから剣の修行してるのは知ってたけど?」
 フォローになるのかは分からないが、そう告げてみる。ザックは決まり悪そうに、唇の端を曲げた。
「だからだよ。だから、……寝不足だったんだよ」
 これで彼は何度「だから」という単語を使っただろうか。思わずフレイムはそんなことを考えた。
 ザックはその事には気づかず、――仰向け状態なのであまり意味もない事だが――うつむいた。
「自分から修行しようと思って始めたのにさ、それで寝不足なんて恥かしいだろ」
「不機嫌の原因ってそれだったの?」
「他に何があるんだよ?」
 ザックはあっさりと答えて、少年を見上げた。
「そりゃ、早起きできるお前からすれば朝練なんて簡単なものかもしれないけどな。俺は結構必死で起きてたんだぞ」
 フレイムは目眩すら覚えた。
(寝不足が原因……。ガンズに勝てない事を悩んでたんじゃなかったの……?)
 確かにガンズの事も多少干渉はしていたのだろうが、ザックの言う事を信じる限り寝不足が一番の原因らしい。
「昼寝をしようとかそういう事は考えなかったの?」
 声が呆れた響きを帯びるのを抑える事は出来なかった。
「だめ。昼寝すると夜に寝つけなくなるんだよ」
 いたってマジメな声でザックが答える。フレイムはついに大きくため息をついた。
「なんでかなあ……」
「なんだよ。やっぱり、怒ってるのか?」
 ザックがわずかに肩をすくめながらこちらを見上げる。少年は首を振った。
「ううん。ほっとした」
 ザックはきょとんと目を瞬いたが、フレイムは気にせず笑った。
 夏のあたたかい風が吹きこむ。白いカーテンが揺れるさまは涼しげだ。
「ほんと、ほっとした……」
 フレイムはぽふっとザックの布団に頭を預けた。見下ろすザックを上目使いに見上げて、もう一度笑う。
「暑さにやられたんじゃないだろうな?」
 訝しげに、しかし笑みを浮かべたザックがそう言ってフレイムの頭をくしゃくしゃと撫でる。
 その大きな手が気持ち良くて、フレイムは本当に心からの安堵を覚えた。
「次は何処に行こうか……」
 皆でそろって。
 ザックは撫でる手を止めて宙に指で地図を描いた。
「ここがシェシェン……。ケルドか、……コウシュウか。コウシュウは農業都市だな」
 フレイムは体を起こしてザックが描いた地図を自分の頭にも思い浮かべた。
「ザックって、グルゼの……漁民の島の出なんだよね」
「ああ」
 ザックが頷く。フレイムは唇に小さく笑みを浮かべた。
「地平線まで広がる畑なんて見たことないよね?」
 ザックが目を大きくする。
「……海じゃなくて?」
「それじゃ、水平線だよ。ぐるりと一周大地なんだ。そういうところだよ」
 フレイムは一度だけ見たことのある大きな畑を思い出した。あの時は収穫後で畑は何処か寂しかったが、今は収穫前。きっと青々しい作物が風に揺れているはずだ。
 ふとフレイムは青年を見上げた。
 黒い瞳がじっとこちらを見つめている。おねだりを始める一歩手前の子どもの目。フレイムは苦笑した。笑われたと悟ったザックが片目を細める。
「……それだけ言うってことは、お前はコウシュウに行きたいんだよな?」
 そう言われてフレイムは肩をすくめて笑ってみせた。
「うん。いいでしょ?」
「……ああ」
 ザックが半仏頂面で応じる。風に髪をなびかせながら、フレイムはにこにこと笑った。
「じゃあ、決まりだね」