一条の銀の光 5

 雪は用心深く辺りを見まわした。
 周りには誰もいない。ガンズという男はまだ来ていないのだろうか。それとも、すでに――悪い想像に雪は首を振った。
 フレイムが言ったとおり、一本道をしばらく行ったところにやや小さい宿があった。灰色の壁に木枠の窓。雪は勇気を出してその扉を押した。軋んだ音をたて、重い木の扉が開かれる。中に人は見あたらなかった。
 雪はカウンターに置かれているベルを鳴らしてみた。ほどなくして宿の主人が出てくる。黒い蝶ネクタイを締め、上着を着ておらず、禿頭の男だ。
「あの……、ザックという人は何処に泊まっていらっしゃるかしら?」
 雪が努めて明るく尋ねると、宿の主人は雪を上から下に眺め、宿帳を取り出した。
「ちょっと待ってくださいね。……ザック……、家名は?」
 主人は宿帳の真ん中辺りで目を止め、こちらを見やった。
 だが、ザックという人物のフルネームはもちろん、顔すら知らない。
「あ、ごめんなさい。ザックさんの家名は知らないの」
 首を振った雪を主人は訝しげに見つめた。雪は慌てて身を乗り出した。
「あの、フレイムって人と泊まっている筈なんだけど……」
 主人はかぶりを振った。
「悪いね。代表で一人の名前しか聞いてないんだ」
 そんな、と、雪は肩を落とす。美しい娘が失望する姿に、中年の主人はわずかに罪悪感を覚えた。
「……二階の右端の部屋だ。ザックって名前の男は今一人しか泊まっていないよ」
 雪は眉を上げて、希望を見出したように表情を明るくした。
「ありがとう」
 雪は美しい笑みで主人に礼を言い、軽やかな足取りで階段を駆け上がっていった。
 主人はその後ろ姿を黙って見つめた。ザックという男はなかなかの美男子であったと、彼は記憶している。
「ふむ……」
 主人は満足そうに頷くと、また自室に戻っていった。
「右端……、ここよね」
 雪は白く塗られた扉の前に立ち、深呼吸をした。ザックという男はどんな人間だろうか。
 フレイムとの会話から、彼よりは年上だと考えている。そのくせに、わがままで意地っ張り。きっと心の狭い男だろうと雪は想像していた。
「すみません」
 控えめにドアを叩いてみる。
「……」
 何の返事もない。もう一度、今度は力を込めて叩いてみるが、やはり何の反応もない。
 まさかと思って彼女はドアを押そうとした。人に押し入られた後なら鍵は掛かっていないと考えたのだ。
 一階の扉が重かったので、彼女は力を込めて押した。しかし、思いがけず扉は軽かった。いや、軽すぎた。誰かが中からドアを引いたのだ。
「きゃ……」
「おっと」
 小さな悲鳴を上げた雪の細い腕を力強い手が掴み取った。そのまま倒れそうになる肩をもう一方の手が支える。
「ん? あんた誰だ?」
 低く、人の良さげな声が頭上から降ってくる。雪はおそるおそる顔を上げた。
 彼女を支えた男は思っていたより背が高かった。黒い髪、同じ色の瞳は驚きの色を浮かべている。
「やだ……、いい男じゃない」
 雪は無意識に呟いた。どうやら彼に対する、想像を改めなければいけないようだ。
 彼女を救った腕はたくましく、女性一人の体重に彼の身体は、よろめきはしなかった。顔は端整で美男だと言える。切れ長の瞳は意志が強そうだ。
 不機嫌だと聞いていたがそうは見えなかった。実のところ、それは彼が突然の来客に驚いているせいだったのだが。
 自分をまじまじと見つめる異国風の女性に、ザックは怪訝そうに眉を寄せた。
「あんたは誰だ?」
 同じ質問を繰り返す。雪はその声で我に返り、相手の腕から手を離した。
「あ、私、雪(シュエ)っていうんだけど」
 ザックは耳慣れない発音に首を捻ったが、雪はそんなことには気づかずに続けた。
「……フレイムくんに女装させたのが私……」
 いくらか気まずそうに肩をすくめる。
「ああ、服屋の姉ちゃんか……」
 ザックは髪を掻き、合点がいったように雪を見下ろした。
「フレイムならいないぜ。さっき出ていった」
「知ってるわ。あなたが泣かしたんでしょう」
 外を指差され、雪は責めるように詰め寄った。ザックは思わず息を呑む。
「な、何で……あんた。……泣いてた……?」
 ザックは手をあごにあて、眉を寄せて、扉にもう一方の腕で体重を預ける。その苦渋の表情に雪は目を見張った。
 彼はフレイムのことを気にしていたのだ。悪い男ではない。雪はそう確信し、彼の胸倉を掴んだ。
「フレイムくん、連れていかれちゃったの」
 ザックが目を見開く。
「……何だって?」
 唸るように問い返され、雪はわずかにたじろいだ。
「金髪の……、セルクって男が来て…」
 黒髪の青年の目が険しい光を浮かべる。彼は雪の言葉を相当重く受け取ったようだ。
「私を逃がすためにフレイムくんその男に……」
 言葉は不意に途切れる。雪はぽろぽろと涙を溢れさせた。無理もないことだ。すでに窮地に立たされているかもしれない、しかも顔も知らない男を頼ってここまで一人でやってきたのだ。彼女のために敵に自らを差し出した少年を助けたい一心で。
「……ごめんなさい……。私のせい……で……」
「わ、泣かなくていいよ」
 ザックは慌てて雪の肩を撫でた。彼女はしゃくりあげて、ザックを見上げた。彼は優しくうなずく。
「わかった。大体の事情は呑みこめた。あんたが気に病むことはない」
「でも……」
 ザックは雪の言葉を、手を振って遮った。
「大丈夫だ。まず、フレイムが殺されることはない。悪かったな、とんでもないことに巻き込んじまったみたいで」
 見上げる雪の頭をまた優しく撫で、肩をポンポンと叩く。彼女はザックを黙って見つめた。
 彼は身を翻して隣の部屋に行き、上着を羽織ると剣を帯びて出てきた。
「あんたはもう帰っていいぞ」
 雪ははっとして首を振った。
「ここには、剣士が来るって……。あなたが邪魔だから始末するとか……」
 こんな不吉な言葉を当人に伝えても良いのか、わずかに戸惑いながらも雪はザックを引き止めた。
「ガンズか……」
 ザックは顔をしかめて、黙った。しばらくして、ふと驚いたように雪を見つめる。
「あんた、危ないかもしれないって分かっていて、ここまで来たのか?」
「え、ええ」
 雪はうなずいた。ザックはしばらく呆然と彼女を見つめていたが、おもむろに笑みを作った。その綺麗な笑顔に思わず雪が頬を染める。
「あんた、いい女だな。勇気のある女は好きだ」
 大きな手で頬を撫でられ、雪は胸が高鳴るのを覚えた。
「先にあんたを無事に送らないとフレイムに恨まれるだろうな。家は何処だ?」
「商店街の服屋」
「そんなに遠くはないな。――よし、行こう」
 ザックはそう言って雪に手を差し伸べる。彼女は激しくなる動悸に目を瞑り、彼の手を握った。