一条の銀の光 3

「フレイム? いつまで遊んでるの?」
 服で作られた、彼女にとっては十分な迷路を抜け、グィンがひょっこり顔を見せた。少女が驚愕の色を浮かべ、こちらを振り返る。グィンは瞬きをして、その少女を見つめた。
「……フレイム?」
 ぽつりと尋ねれば、少女は泣き出しそうなほどに顔を赤くする。
「フレイム!」
 グィンは確信して、少年の名を呼んだ。
「見ないで!」
 悲鳴にも似た声を上げ、フレイムは傍にあったスカーフを掴み、グィンがまるで害虫であるかのように振り回した。
「あははは! 可愛いよ!」
 小さな妖精は笑いながら巧みに主人の攻撃を避ける。
「闇音を呼んでくる!」
 絶望的な一言を残し、飛び去っていった。フレイムはふらりとよろめき、床にぺたんと座りこんだ。
「あらあら、大丈夫?」
 雪が手を差し伸べる。彼女の美しい顔を見上げ、諦めたようにため息を吐くとその手を掴んだ。

「……はあ、なんといいますか。よくお似合いで……」
 闇音が首に手をやりながら、しみじみとフレイムを見下ろす。
「……闇音さん……」
 想像通りの反応で、フレイムは情けなさに込み上げてくる涙を呑みこんだ。
「では、このままお買い上げと言うことでよろしいでしょうか?」
 闇音は柔らかい笑みを浮かべ、チャイナ服を着たフレイムを示した。ぼうっと突っ立っていたフレイムはその言葉の意味を理解し、闇音を見上げ、酸素を求める魚のようにぱくぱくと口を動かした。
「あら、それは構わないけど。フレイムくんはいいの?」
 雪が頬に手を添え、フレイムのほうを見る。フレイムはとんでもないと首を振った。
「でも、ザックに見せてみたいんですが……」
 闇音がとどめと言わんばかりに、フレイムにとって最悪の案を出す。
「ザックって、もう一人の旅仲間?」
 雪が面白そうに声を弾ませる。その声にフレイムは軽い眩暈を覚えた。
「それは素敵なことだわ」
 にっこりと笑う雪。
 ――終わった。
 意識が飛ぶような感覚。このあと自分がどうやって宿に戻ったのか覚えていない。

「たっだいまあ!」
 闇音が開けたドアからグィンが部屋に飛びこみ、明るい声を上げた。
 沈黙。部屋には誰もいなかった。
「あれ?」
 グィンは辺りを見まわす。
「ザックはまだ寝てるのかな?」
 闇音は逃げ出そうと構えているフレイムの腕をしっかりと掴んで離さない。
 ザックが外出していることを心底祈る。
 グィンはベッドのある部屋への扉を開いた。
「ザック……?」
 扉の隙間から顔を覗かせ小さく名を呼んでみた。
「なんだよ?」
 相変わらずの不機嫌な声とともに、ザックがベッドの上で振り返る。手には何かしらの本を持っていたが、とりあえず世間様にお見せできない類の本ではないようだ。
 そして、その顔には「鬱陶しいから近寄るな」と書いてあるようにも見えた。
(うーん、こんな奴に会ってもフレイムは気絶しないでいれるかな……?)
 そう思いながら、やや引きつった顔で笑顔を作ると、手を振ってドアを閉めた。
「なんなんだ?」
 ザックがグィンの不可解な行動に首を捻る。
「起きてたよ」
 扉を閉めたグィンが闇音にそう告げる。その言葉はフレイムにとって死刑宣告にも等しかった。
「闇音さん、俺、本当に嫌です」
 扉の向こうにいる人物の機嫌を更に損ねることを恐れ、弱々しく闇音を見上げる。闇音は涙を浮かべる少女の格好をした少年の目尻に優しく触れた。
「泣かないで下さいよ」
 このとんでもない計画を中止してくれるのかと一瞬期待する。
「折角のお化粧が落ちてしまいますよ」
 笑顔とともに告げられた優しい言葉は何よりも残酷であった。
「今、ザックはどうしようもなく不安なんですよ」
 話を変えた闇音にフレイムは首を傾げる。
「何が不安なんですか?」
「それは本人に聞いてみてください」
 闇音はにっこりと笑った。
「では。グッドラック、フレイム様」
 ドアを開けると、油断していたフレイムを放り込んだ。
「闇音さん!」
 フレイムは慌てて閉められたドアを叩いた。
 叩かれる扉の向こうで、闇音は静かにアーメンと十字を切った。
「フレイム?」
 突然部屋に現れた人物のただならぬ声を聞きとめ、ザックが本を閉じ、身体を起こす。
 ドアに縋るように張りつき、フレイムは己が身の不幸を呪った。
「……お前、それ女物じゃないのか?」
 愛らしい桜色と長いスリットが目にとまり、ザックが訝しげに尋ねてくる。
「見ないで……」
 泣きそうな声を出し、祈るように懇願する。
「『見ないで』って……おまえ」
 どうしたんだよとベッドから立ちあがる。
 ザックがスリッパを履いて近づく音が聞こえる。足音は死刑執行へのカウントダウンか。
 硬い木におでこを擦りつける。肩にザックの大きな手が触れた。
 びくりと肩を跳ねさせ、フレイムの限界まで張り詰めていた精神の糸は切れる。
「やだやだやだ! はなしてえ! あっちに行って!」
 激しく首を振り、火がついたように悲鳴を上げる。
 さすがのザックも思わず手を引く。
「……なんつー声出すんだ」
 苦いため息が漏らされる。
 ――怒らせた。そう判断したフレイムは肩をすくめ、うつむく。怯えている時の少年のお約束行動にザックは頭を抱える。
(なんだよ。俺が何したって言うんだ)
 大体、行動がおかしいのはフレイムのほうだ。舌打ちをしたザックがフレイムの細い腰を抱き上げる。
「は、離して!」
「黙れよ」
 頭上から響く低い声。逃げようと足掻いたが脚が床から浮くのを感じ、思わずザックの首に腕を巻きつけた。
 やっとこちらに顔を向けたフレイムにザックが息を呑む。
「おまえ……、化粧までしてるのか」
 呟かれ、フレイムははっと我に返った。そのままうつむき、ザックの肩に額を押し当てる。
「見ないで下さい!」
 出会った頃の言葉使いが知らずに口を突く。
「買い物に行くって言ってたと俺は記憶してるが……?」
 言われるまま、フレイムの顔を見ないように天井を仰ぎながら問い掛ける。一体、何処でどんな買い物をすればそんな格好になるのか、ザックには理解できなかった。
 フレイムは肩を震わせ、ぽつりぽつりと話し始めた。
「服屋に……、そこのお姉さんが……。闇音さんがザックに会って来いって……」
 端的に告げられながらも、大体の事情は呑み込む事が出来た。
「服屋の姉ちゃんに遊ばれた挙句、闇音にここへ放り込まれたのか」
 フレイムは額を擦り、肯定を示した。ザックはふぅとため息をつき、あいつめと低く呟く。
 ザックはベッドに腰掛け、腕だけで支えていたフレイムの体重を太腿に移した。
 腕に触れる桜色のドレスは滑らかな生地で肌触りがいい。顔を見せようとしないが、おそらくは美少女であろう少年。一人で暇をつぶしていたザックは、不本意ながら与えられた玩具で遊びたい衝動に駆られる。
「顔、見せろよ」
 フレイムは駄々をこねる子供のように首を振る。ザックが薄い笑みを浮かべる。
「笑わないからさ」
 ずっと機嫌の悪かった声が和らぐ。ついで、とげとげしかった空気も解け、フレイムは安堵した。「更に不機嫌にさせる」という予想は喜ばしいことに外れたわけである。
 優しく髪を撫でられ、のろのろと顔を上げた。
 透けるような白い肌、桃色の唇。髪についた藤色の石と銀のイヤリングが、眩しい光を反射している。変わらないガラス玉の瞳はわずかに濡れて光っていた。
 思ったとおり、花々も恥らうほど美しい少女が自分の腕の中にいる。
「……なんて言うか、ふつーに女の子で面白くないな」
 ザックが柔らかい暖灰色の髪に長い指を絡める。女装というにはあまりにも自然で、普段の格好のほうが男装なのではないかと疑わしく思えた。フレイムは頬を染め、むっつりと眉を寄せる。
「面白くないって……俺は死にそうなくらい恥ずかしいのに……」
「本当の女の子だったらうれしーんだけどなあ」
 つまらなそうにザックは髪留めを突く。
「というか、もっと爆笑できるようなそんな女装は出来んのか、お前は」
「そんなの、ザックがすればいいじゃんか」
「それは嫌だ」
 軽く、明るい雰囲気。今なら闇音に言われた事を聞けるかもしれない。
「ねぇ、ザックは何か不安なことがあるの?」
 ためらいがちに尋ね、青年の顔を窺う。数瞬、ザックの顔は微動だにしなかった。
 おもむろに、黒い瞳から優しい光が消える。
「……不安なことなんかねぇよ」
 低い、わずかだが苛立ちの滲んだ声。
「それも、闇音に言われたのか?」
 口元に薄笑いを浮かべ、詰るようにフレイムを見返す。フレイムはぐっと息を呑みこみ、震えを押さえた。
「……不安があるとは言われたけど、確かめよう思ったのは俺自身だよ」
「余計なうえに無駄なお世話だな」
 ザックは両手を広げて笑った。今の機会を逃したら次はない、そう思ったフレイムは引こうとはしなかった。彼は精一杯、勇気を奮った。
「じゃあ、なんで最近ずっと機嫌が悪いの?」
 ザックはじっとフレイムを見た。闇音がこの少年は自分の早朝からの所業を知っていると言った。これ以上心配はかけたくない、そう思った。それだけだった。
「……おまえには関係ない」
 短く返す。その瞬間、フレイムの目に失望の色が宿るをザックは見た。
「……なんで? どうして俺には教えてくれないんだよ?」
 ほとんど自問のような呟き。
「……俺ってそんなに頼りない?」
 フレイムは目尻に涙を浮かべ、ザックを見上げた。
「そうは言ってない!」
 怒ったようにザックは声を大きくした。フレイムは力なく首を振った。
「……もう、いいよ。ごめんね。余計な口出して」
 そう言ってのろのろと立ち上がる。
「待てよ」
 ザックがフレイムの細い腕を掴む。フレイムはザックをゆっくり見下ろした。
「離して……」
 弱く、どこか責めるような口調で言われ、ザックは腕を離した。フレイムは扉を開け、そのまま出ていってしまった。
 一人残されたザックはフレイムの腕を掴んで、離した手のひらを睨むように凝視した。
「――畜生っ」
 きつく吐き捨て、履いていたスリッパを扉めがけて投げつける。ぱんっと乾いた音が高く鳴り、スリッパは扉を滑って床に転がった。