一条の銀の光 1

 音もなく、半分に切られた葉々が舞う。
 一本の枝は身に着ける物すべてをなくし、風に寒そうに震えた。ザックは剣を鞘に納めると、どさっと、あぐらをかいて地面に座りこむんだ。そして頭をがしがしと掻くと、落ちている葉を拾う。
「こんなへたくそに斬られちゃ、お前らも浮かばれないよな……」
 辺りはまだ薄暗く、遠くの山には白い靄(もや)がかかって幻想的な印象を与えた。

 ガルバラ国、カルセの二つ隣りの町シェシェン。その宿に、フレイム達はいた。
 季節は夏。日差しはすでに高くなり、青い空に眩しく陣取っている。猛暑とはいかずとも、少し動いただけでも汗が出てくるのでたまらない。
 街は王都にいくらかは近づいただけはあり、貴族のためか、宿によっては室内を涼しく保つための魔術が掛けられた高級客室もあった。
 もちろんフレイム達の部屋は一般人の泊まる暑い部屋である。それでも主人は高い金は払えずとも、宿を利用してくれる客のためだろう、日陰の部屋を割り当ててくれた。
「ザックはまだ寝てるの?」
 グィンがコップの中に砂糖を溶かしながら、硬い木の扉を見た。向こうの部屋にはザックが寝ている。
 ザックが朝に弱い事は、共に旅を始めてすぐに明らかになった。それが最近、今まで以上にひどくなっているように思えた。フレイムは多少、その原因に心当たりがある。焼いたパンにジャムを塗りながら答える。
「うん……。きっと疲れてるんだよ」
 闇音は白い陶器の急須から紅茶を注ぎながら、フレイムを見た。長く色の淡い睫毛をわずかに伏せた少年。線が細く、暖灰色の髪を持っている彼と出会ったのは一ヶ月と少し前のことだ。
(フレイム様は気づいているのか……)
 その少年に桃色の花が描かれたカップを渡し、ザックの部屋へ足を向ける。影の精である彼はドアを開けることなく、その下のわずかな隙間をするすると通った。
 部屋には二つのベッドが置かれており、壁の仕切りの向こうに洗面台、浴室がある。隣の部屋とは違い、カーテンが締め切られた室内は意外なほどに涼しい。
 白い清潔なシーツが張られたベッド。埋もれるようにザックは眠っていた。
「ザック」
 やや伸び、尻尾のように括られた黒髪を持つ青年はわずかに身じろいだだけで、うんとも寸とも言わない。
 感情の表れない瞳で、夢の世界に意識を置く主人を見下ろすと、闇音は敷布団の端を持ち上げた。軽い羽の掛け布団は音もなく床に落ちる。
「うわ! わっ」
 危うくベッドから落ちかけたザックは闇音が掴んでいる端の反対側を握った。闇音はふっとわずかに唇を吊り上げると、掴んでいた手をぱっと開いた。どすんと派手な音を立て、ザックがベッドから落ちる。
「……ってぇー。お前、俺に何の恨みがあるんだよ」
 ザックが肩を撫でながら、ゆっくりと身体を起こす。闇音はずれた敷布団を直し、腰を掛けた。
「フレイム様が心配なさってますよ」
 ザックは自分もベッドに座った。二人分の体重を受け、ベッドが軋んだ音を立てる。
「……誰を?」
 自分との関わりを無視するかのように尋ねてくるザックの耳を闇音が引っ張る。その耳元で声を大きくする。
「あなたを、です。フレイム様はあなたが早朝、一人で剣の稽古をしてるのに気が付いてますよ」
 引っ張られた耳を押さえ、ザックは聞き取れるか否かの声で呟く。
「……なんで……」
「正直に伝えてお上げなさい。『この四人の中で一番役立たずな俺でもお前を守りたい』と。フレイム様はそれで納得されるし、大変喜びますよ」
 ザックは闇音を振り返ると、顔を赤くして声を荒げた。
「誰が『一番役立たず』だって? そんな恥かしい台詞吐けるか!」
 闇音は深く息を吐いた。
「こんな素直でない相棒を持って、フレイム様は二十四時間、心配し通しですよ」
 ふんとそっぽを向くと、ザックはあごに手を添えた。
「すっごい音。格闘でもしてるのかな。あのふたり」
 グィンは扉を見ながら、フレイムから貰ったパンの切れ端を口に運ぶ。フレイムもカップを置き、扉の方に目をやる。
「うん、怪我とかしてないといいけど」
「そんな心配しなくてもいいって。ザックはじんじょーじゃないくらい丈夫だもん」
 小さな妖精の言葉にフレイムはため息をついた。
 確かにザックは先日、人にぶつかられた末に派手に壁に頭をぶつけたが、たんこぶ一つが出来ただけであった。本人はもうだめだと喚いていたが。
 しばらくすると、ザックは闇音に連れられ、ボタンも適当に留めたシャツを着て現れた。むっとする暑さにわずかに眉をしかめる。
「まだ寝てなくていいの?」
 フレイムは隣りの席に腰掛けたザックを心配そうに窺う。話しかけてきたフレイムを見、ザックがばつの悪そうに顔をしかめる。
「ああ、大丈夫だ」
 短く答えると、パンを取り、バターを塗り始めた。フレイムは何か言いたげに口をわずかに開いたが、音にするには至らなかった。
 ここしばらく、どうにもザックの虫の居所は悪い。
 会話も短い受け答えのみで、全く弾まない。加えて、彼の高さから睨まれ、唸るように返事をされることは、フレイムにとって恐ろしいこと他なかった。
 このまさに蛇と蛙の状態は、今もなお継続中である。
 食器を手に、フレイムは静かに席を立った。闇音はその細い後ろ姿を見送りながら責めるように口を開く。
「いいんですか?」
 かちゃんと鋭い音を立て、ザックはバターナイフを置いた。
「いい」
「何をそんなに意地になっているんですか。特訓は秘密にしておきたいとでも? 子どもじゃあるまいし」
 闇音は紅茶を注いだカップをザックの前に乱暴に置いた。白いカップの中で、茶色い液体がたぷたぷと揺れる。
 ザックは、その波に映る、円の形に歪んだ自分を見た。
「……そうじゃない」
 闇音が怪訝そうに眉を寄せる。
 ザックは机に肘を立て、手を組んだ。黒い瞳は紅茶の向こうを睨みつけている。
「そろそろ、ガンズとのけりをつけたいんだ」
 迷彩服の賞金稼ぎ。身の丈の半分もある大剣を操る大男のガンズとの勝負は、カルセでの二戦以来三度ほどあった。だがそのどれもが尻切れトンボで、ザックが不利な状態で打ち切られていた。 
「焦っていては勝てませんよ」
 なだめるように闇音は言った。ザックは疲れを含んだため息を長く吐いた。

 歯磨きを終え、先程ザックが寝ていた部屋でフレイムは自分のベッドに寝転んだ。木の天井を見つめ、額に左手を置く。
(ザック、あんなに朝早くに起きて練習しなくてもいいのに。お昼にしたって、俺は気にしないのに)
 昼に剣の稽古などしたら、暑さにやられてしまうだろう。しかし、涼しい部屋にいたフレイムはそのことは失念していた。
 天井からぶら下がる、電燈を見つめ、わずかに目を細める。細い身体に、綺麗な顔立ちをしたフレイムは、長い睫毛を伏せると少女のようだった。
(俺には知られたくないのかな? ……それだったら、剣の練習のことは話せない)
 静かに息を吐くと、グィンがその腹の上に飛び乗った。
「何、つまらない顔してるのさ。この町、変わった服とか売ってあるんだ。闇音連れてさ、楽しく買い物でもしようよ」
 妖精が声を弾ませると、少年は首を振る。
「お金がもったいない……」
「っかあー、もう。これだもんなあ」
 グィンは額に片手をあて、上半身を反らした。
「別にいいじゃん。お金足りないどころか、そのどけちのお陰で余ってるくらいだよ」
「だって、確実な収入源もないのに。そんなむだ使い出来ないよ」
 フレイムは腹の上の妖精を横に降ろしながら倹約の理由を答えた。
「収入源? たまに、賞金首捕まえてるじゃないか。稼いでくれる旦那がいるじゃん」
 ザックのことを軽く揶揄され、少年は眉を寄せた。
「ザックにばかり頼るわけにはいかないよ。俺だって宿代の半分は出さなくちゃ」
 実際、自身が賞金首であるフレイムを連れた一行は、他の賞金首を相手にしている暇などあまりないのだ。額は低いが、簡単に捕まえられる小物をザックが時々倒して、それを金に換えていた。
 本人はいい運動になると言って笑っていたが、フレイムにとっては彼に本来は掛かるはずのない負担を押し付けているようで気が重かった。
「構いませんよ、フレイム様。買い物に行きましょう」
 フレイムが上半身を起こすと、ドアの前に闇音が立っていた。
「でも……」
 フレイムがためらっていると、おもむろにドアが開かれる。食事を終えたザックが、その高い身長でベッドに座っている少年を見下ろした。
「行ってこい。たまには気晴らしもいいだろ」
 顔を背けながらそう言うと、闇音の横を通り、自分のベッドに腰掛けた。フレイムはおずおずとザックの方を見る。いつもなら常に豊富な表情を見せるその横顔は感情が窺えない。あえていうなら、やはり、不機嫌なのだろう。
「ザックは……行かないの?」
「行かん」
 短く吐き捨て、ザックは履いていたスリッパを脱ぎ、ベッドに横たわる。長い身体をくつろがせる姿は、獰猛な肉食獣のそれに似ていた。島育ちの彼にとって暑さ自体はどうとでもなかったが、風がないのは辛かった。これ以上、内陸のむっとする重い暑さに身を晒す気はもちろん、買い物に行きたいような気分でもない。
 フレイムは視線を落とし、小さくため息をついた。闇音がその肩をぽんと促すように叩く。
「行きましょう。旦那様のお許しも出ましたし」
 ついさっき聞いた言葉に似たことを言われ、フレイムは眉を歪めて、息だけで笑った。
 闇音はドアを開け、フレイムを連れ出していった。足音が遠ざかるのを耳にしながら、ザックがむっつりと呟く。 
「誰が旦那だ」
 後に残った妖精がザックの背を突つく。
「ねえ、なんであんた最近そんなに不機嫌なのさ。フレイムが怖がってるよ」
 青年は寝返りを打って、グィンのほうを向いた。
「なんだ、お前は行かないのか?」
「行くに決まってるだろ。でもさ、あんたがそんな調子だと困るんだよ」
 小さな妖精はザックのベッドの上で正座を崩した形で座り、振り返ったザックを見上げている。ザックはグィンのおでこを指で押した。
「精霊ってのは本当に主人のことしか考えないんだな」
「闇音だってそうじゃないか」
 グィンがザックの長い指を捕らえ、自分の脇に抱える。頭の下に手をあて、視線を高くすると、ザックは目を伏せた。
「どうだか」
 グィンはザックの指をぺチンと叩いた。
「あんたって意外と鈍いんだね。まあ、どうでもいいけど。とにかく、その顔、どうにかしておきなよ」
 ザックの指を離すと、飛んで部屋から出って行った。その後ろ姿を見送った後、ザックは自分の頬に触れた。
「顔……?」