赤き魔女の封印 29

「どこから話したらいいだろうか?」
 そう言ってウィルベルトが小首を傾げる。
 真正面にはアーネスト、その両隣にフレイムとザークフォードが座っている。これからウィルベルトの話を聞こうというのだ。
 フレイムはつられて首を傾げた。そもそも自分はウィルベルトが失踪していたという話も聞いていないのだから、いっそはじめから全部話してくれると助かる――と思いつつ、年少の身では、何も言えないのがフレイムだった。
「では、とりあえず」
 アーネストが応じる。
「あなたは誰を敵だと想定していますか?」
「おや、いきなり重い話でいいのかい?」
 ウィルベルトが問い返すと、アーネストは唇の端を持ち上げる。
「軽いところからいくと、あなたのペースになりそうなので」
 一見は優美な笑みを受けて、ウィルベルトもまた笑う。
「マクスウェル公爵は怖い」
「お褒めに預かり光栄です」
 フレイムは肩をすくめた。最後までこの調子で進みませんようにと内心で祈る。
 ウィルベルトはふっと息をつくと、海色の双眸でアーネストを見据えた。
「パスティア・ユンセイ・イルタス」
 それはイルタシア王室の直系、王家に咲く神の華と謳われる者。
 ザークフォードが身じろぎするのが、視界の端に映る。ウィルベルトはそのまま続けた。
「ザック・オーシャンに操作魔術をかけたのは彼女で間違いない。ケルダム団長の反応からして、金鷹の助力はないと考えてよい。ただし、個人で行動している者がいるかは未確認だ。まあ、いたとして、キセットだろうな」
「エルズ・キセット?」
 アーネストが口を挟むと、ウィルベルトは頷く。
「ザック・オーシャンの精霊処分の件を任されたのは彼だ」
 フレイムは瞠目した。
 エルズ・キセット――ザックから闇音を奪った魔術師の名前。
 少年の変化を見てとり、ウィルベルトがそちらを向く。
「彼とまともに戦おうなどとは考えないことだ。金鷹の副団長補佐、影の上級精霊を打ち倒す実力者だ。神器を制御しきれていないのなら、負ける」
 きっぱりと告げられて、フレイムは赤い髪の男を見た。予想外に厳しい双眸とぶつかる。
「中級魔術では話にならないだろう。――君が殺すつもりで挑むと言うならまた別だが」
 フレイムは息を詰め、身体を強張らせた。
 神腕は人を傷つけるためには使わない。守るために使う。そう決めたのだ。
 ザックとグィン、闇音の顔が次々に頭を過ぎった。その大切さをもう一度胸に刻む。そうして、衝動的に湧き上がったエルズに対する怒りを抑え付けると、息を震わせて吐き出した。
「意外と、手厳しいですね」
 アーネストがそう言うと、ウィルベルトはフレイムから視線を逸らした。笑みを消した横顔は一目で憔悴していることが見てとれる。
「失うよりいい」
 小さく漏らされた言葉は、正面にいたアーネストだけに聞こえ、彼はうつむいてしまった男の右手首を見つめた。銀の鎖は冷たく肌に噛み付いている。
(……必要ない、か……)
 アーネストは嘆息する。
 もとより、信じるに値する人となりの持ち主だとは分かっていたのだ。ただ、その男の忠誠心を疑わずにはいられなかったのである。
「しかし、なぜ王妃が?」
 続けて問うと、ウィルベルトは下を向いたまま口を開いた。
「……『あれ』はパスティア様ではないのだ」
 アーネストは訝しげに眉を寄せた。ザークフォードもじっと聞き入っている。
 雨音はだいぶ遠くなっていた。今は軒から落ちる雨粒の壊れる音のほうが耳に残る。
「私は今でもあの目を覚えている。夏は危険だというのを行けと言い放った、女の、目を」
 青い、青い青い青い目。思い出すたびに意識が遠のく。
 馬鹿なとザークフォードが声を絞った。
「正気で言っているのか」
 ウィルベルトがのろのろと顔を上げる。
「……フェリーチェ・ユンセイ・イルタス……」
 静かな声でゆっくりと並べられたその名前は、何かの呪文のようにも聞こえた。
「誰……?」
 聞いたこともない名前なのに、寒気すら感じながら、フレイムが問う。
 アーネストが目を見開いたまま答える。
「前王后」
 暖炉の中で薪が爆(は)ぜたが、その音さえも耳に冷たく響いた。
「九年前に、お亡くなりに」
 アーネストの言葉にフレイムは息を呑む。
「それってどういう……」
 どういうこと――頭の中で繰り返し、フレイムは真相を握っているはずの男を見やった。
 手を組んで額に押し当てている。祈っているのか、懺悔しているのか、そういった姿勢だ。
「ウィルベルト」
 ザークフォードが声を掛ける。
「お前はもう休め。酷い顔色だ」
 弾かれたようにウィルベルトが顔を上げる。
「いや、まだ……」
「いいから。前王后のことは私でも説明できる」
 有無を言わせぬ口調で告げると、ザークフォードは立ち上がって、アーネストを振り返った。
「構わないだろう?」
 短く思案し、アーネストは頷く。
「ええ」
「アレスもつけてやってくれ。このまま一人にしたら朝まで祈り倒しそうだ」
 溜息交じりに肩をすくめる男に、アーネストは苦笑を浮かべて席を立った。
「分かりました。ええ、いいでしょう」
 そして、不満げな顔をしている男の腕をザークフォードが掴んで立たせる。
「じゃあ、こいつを休ませてくるから、ちょっと待っていてくれ」
「あ、はい」
 何か手伝おうと立ち上がったフレイムはソファに座り直した。それをウィルベルトが見下ろす。
「さっきはすまなかった。きついことを言って」
 フレイムは力いっぱい首を横に振った。謝られるようなことではなかったはずだ。
 ウィルベルトは疲弊した面持ちで、それでも優しく笑った。
「キセットと戦うことではなく、君にはもっと他にやってもらいたいことがあるんだ」

     *     *     *

 ウィルベルトを休ませてから、再び三人でテーブルを囲む。
「なんでしょう? フレイム君にやってもらいたいことって。私には出来ないのかな?」
「ずるいな、君だけ頼りにされてみるみたいだ」
 アーネストとザークフォードは好き勝手に言って、フレイムに注目する。
「俺にはなんとも……」
 居心地悪そうに身じろいで、フレイムはうつむいた。目元を赤らめる少年に大人二人は笑いながらも、温かい眼差しを向ける。
 ザークフォードは紅茶を一口飲むと、「さて」と口を切った。
「先ほどの話の続きだが、フェリーチェというのは現王妃の母君でな。病があって九年前に崩ぜられた」
 当時はまだ学院生だったアーネストもその程度のことならば知っている。白い王都が喪服で埋まった日は子どもの目にも印象的だった。
「……二人とも、ウィルベルトとザックがどうやって出会ったかは知っているか?」
「あ、はい。船が難破したところをザックに助けられたとウィルベルトさんが言ってました」
 ザークフォードはフレイムの答えに頷く。
「その事故で生き残ったのはウィルベルトだけなんだ」
 フレイムは絶句した。アーネストも口を噤んでいる。
 一呼吸おいてさらに話は続けられる。
「グルゼへ渡るには船で二日かかる。大海原で嵐に遭い、乗員全員が荒れた海に投げ出された」
 泳いで岸に辿り着ける距離ではなく、無論、泳げるような波でもなかった。
「ウィルベルトが助かったのは、従っていた風の精霊が死力を尽くして彼をグルゼ島の入り江まで運んだからだ」
 胸に重いものが詰まるような感覚。フレイムは眉根を寄せて、端に片付けられたティーカップを見下ろした。こんな話を彼は自らするつもりだったのか。
 一人だけ助かってどんな思いをしただろう。
「もとより季節は晩春。嵐は近かった」
 それでも慎重に行けば、そう判断された。だが、予想は裏切られ、突然の嵐に船はなすすべもなかった。
「秋まで待つという選択は?」
 秋や冬、春でも嵐が全くないわけではない。だが、夏よりもその発生がはるかに少ないのは事実だ。
 アーネストの問いにザークフォードは首を振る。
「もちろん提案はあった。だが、『行きなさい』、その鶴の一声で出発が決まった」
 ウィルベルトが言ったのはことのことか。フェリーチェ前王后の顔を知らないアーネストは、パスティア王妃の青い双眸を思い浮かべた。美しい、だが、奥の見えない眼差し。
「つまり臣下の安否も意に介さないほど、フェリーチェのマリー・マクスウェルに対する執着は強かったというわけだ」
 ザークフォードは深く息を吐くと、ゆっくりと目を伏せた。
 指先を組んで、アーネストは宙を睨む。
「しかし、それでも亡者が敵だと言う話はにわかには受け入れがたい」
「……まあな」
 同意して、ザークフォードは紅茶を口に含む。
 フレイムは両手で包み込んだティーカップの持ち手を撫でた。確かに信じがたいし、本物のパスティア王妃はどうしたのかという疑問もある。だが、ウィルベルトの言葉から嘘や冗談は聞き取れなかった。
 ふいにザークフォードが視線を上方に移す。フレイムも上を見上げたが、アラベスク模様の天井があるだけだった。ウィルベルトが休んでいる部屋は、その上である。
「あ、あの……ウィルベルトさんが行方不明だったっていうのは……」
「うん? グルゼでの数ヶ月のことか?」
 首をかしげるザークフォードの横で、アーネストがああと頷く。
「すまない、ここ五日間のことだね。ザックのこともあったし、心労を増やすのも忍びなくてね。君には話してなかったんだ」
「ああ、話してなかったのか。あべこべになってしまったな」
 目を眇めて笑い、ザークフォードはティーカップを置いた。
「月例会のあとからウィルベルトは行方不明だった。同時に城の一室が破壊されて、侵入した賊に攫われたんじゃないかという噂もあるが、そんな目撃情報はないし……」
「ホワイトパレスを破壊できる人間なんて、魔術師でなければスフォーツハッド公爵本人くらいでしょう」
 アーネストがつまらなそうに言葉を繋ぐ。目線を上方に向けながら。
「攫われたのでなくて、誰かが匿っていた、そういうことじゃないですかね。真相は本人に聞くよりありませんが」
「まあ、それが妥当なところかな。……ところで君はウィルベルトのことが嫌いなのか?」
 ザークフォードの単刀直入の質問に、フレイムは唇を曲げた。そろそろと視線をアーネストに移す。確かに彼のウィルベルトに対する態度はそっけない。
 アーネストは指の腹でこめかみを押さえるようにしてため息をついた。
「嫌いじゃあないですよ。ええ、いい人じゃないですか。ですが、それ以上に」
 らしくもなくふてくされて。
「悔しいじゃないですか」
 魔法剣を扱うウィルベルトは国内有数の剣士でありながら、魔術師にも劣らない魔力制御の技を持つ。無論、魔術で勝負すれば、アーネストが上をいくはずである。だが、そのプライドの高さゆえにそんなことでは彼は納得しないのだろう。
 ザークフォードは膝を叩いた。
「ははは、素直だな。ウィルベルトにも言ってやるといい。照れるところを見られるぞ」
「そういうのは私の趣味ではありません」
 腕を組んで顔を背けるアーネストに、フレイムも眉を下げて笑った。
 雨ももう止んでいる。明日はきっと晴れるだろう。