赤き魔女の封印 28

 フレイムはお茶のセットがのったトレーを手に、扉の前に突っ立った。
(えーと、どうやって開ければ……)
 グィンは泣き疲れて眠っている。彼女とは明日また話をしようと思う。アーネストは家人に事情を説明してくると言って、フレイムに使用人が用意したお茶だけを渡すと、どこかに行ってしまった。
 トレーには四人分――使用人はグィンも数に入れたのだろうか――のお湯とカップ、ティーバッグが積まれている。重い上にバランスが悪い。トレーを片手に持ち換えるべきか否か悩んでいると、内側から扉が開けられた。
「あ、わ、す、すみません」
 相手が通れるように、扉の前をあける。そんな少年を見下ろして、扉を開けたウィルベルトが微笑んだ。
「いや、君のために開けたんだよ」
 そう言う男を見上げて、フレイムはぽかんとした。それからはたと気づいて、礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
「持とうか?」
「いいえ、大丈夫です」
 首を振り、フレイムはトレーを持って室内に入る。背後でウィルベルトが扉を閉めた。
 部屋の中は暖かい。暖炉に火が入っていた。時季的には少し早いが、雨に濡れた来訪者のために用意されたのである。
 暖炉の前のテーブルにトレーを下ろしながら、フレイムは男を振り返った。
「……あの、お休みにならなくて大丈夫ですか?」
「一眠りしたから大丈夫だよ」
 マクスウェル家に迎え入れられてから、熱のあったウィルベルトは一度眠りについた。今日はこれで終わりかと思ったが、彼は存外に早く起きたのだった。二時間も寝ていないだろう。現在、時計は真夜中の四時間前を指している。
「無理は駄目ですよ」
 そう言ってみると、ウィルベルトは小さく笑んだだけで、ソファに腰を下ろした。眉を下げて、フレイムもその向かいに座る。
 そういえば、ザックも無理をする人だった。困った師弟だ。そう思いながら睫毛を伏せた白い顔を見つめる。と、ふいに青い瞳がこちらを見た。
「フレイム君」
「うあっ、あ、はい?」
 変な声をあげる少年にウィルベルトは苦笑しながら問う。
「あの……グィン君、だっけ? あの子は?」
 フレイムはティーカップを並べながら、遠慮がちに答えた。
「今日はもう眠っちゃいました。ちょっと……疲れてるみたいです」
「……そう」
 呟いて、再び目を閉じる。
(やっぱり、辛そうなんだけど。大丈夫なのかな、精霊もそばにいなくて)
 ウィルベルトの精霊は彼が差し出した魔法剣に宿っているのだと聞いた。その剣は今はアーネストがどこか別の場所にしまってある。その人の体調に一番聡いのは常からそばにいる精霊なのだ。この状態でそれを引き離してしまうのは少し酷なようにも思えた。さらに、ウィルベルト自身の右手首にも魔力封じの極細い銀の鎖が二重に巻かれている。
 アーネストはウィルベルトが十年前にザックを守ったことについては認めているようだが、それでも彼が金獅子の団員であり、王の親友だという点が引っかかっているらしい。
 だが、アーネストを責める事は出来ない。万が一の場合、彼はこの館に住む人間の安全を守らなければならないのだ。慎重にならざるをえないことは、フレイムも、またウィルベルトも承知している。
 二人分のカップに湯を注ぎ終えて、フレイムはもう一度ウィルベルトを見つめた。自分も聞きたいことがある。
 胸元を撫で息をつく。そして意を決して、口を開いた。
「ウィルベルトさんは……どうしてザックを捕まえようとしたんですか」
 リルコの関所では見逃してくれたのに、わざわざザックを追ってやってきたのはなぜだったのか。
 ウィルベルトは一瞬眼を見開き、それから決まり悪そうに視線を下げた。
「陛下から命令が下って」
「……陛下って国王陛下ですか?」
 頷いて、ウィルベルトは肘掛に頬杖をつく。そのときのことを思い出しているのか、視線はどこか遠い。
「でも、実際はそうではなかった。彼とほとんど変わらない権限を持つ者がもう一人いることを、私は失念していたんだ。今思えば、指令が突然のことで動揺していたんだな」
 情けない、と小さく零す。フレイムは眉を寄せた。
「王と同じ?」
「そう。でもそれはマクスウェル公爵がいるときにまとめて話すよ。彼にも知ってもらわなければ」
 確かにそのほうが効率がいいだろう。喋るだけでも体力は消耗される。フレイムは頷いた。素直な反応を示す少年に、ウィルベルトは微笑を浮かべて続ける。
「それより、私は君の王に対する誤解を解きたい」
「誤解?」
「……神腕を利用しようとしている、と」
 フレイムはびくりと肩を跳ねさせ、自分の右腕を押さえた。手が震える。
「王陛下は神腕を利用しようとは考えていない。彼の頭にあるのはアシール火災の犯人だと言われている君を捕らえて、事件の真相を明らかにすることだけだ」
 ずっと恐れていたイルタス六世の話。早鐘を打ち始めたフレイムの心音とは裏腹に、ウィルベルトの声は淡々としている。
「陛下は優しい方だよ。自信家で誤解を与えることもあるかもしれないが、身を削って働いておられる」
 今更のように思えた。王を恐れてイルタシアを逃亡し、ザックと出会ったのだ。フレイム自身からすべてを奪った神腕を、利用されることが恐ろしくて逃げていた。
 なのに、違うと言う。王はただ職務に忠実なだけだったと。それ以上のことは人々の邪推に過ぎなかったと言う。
 耳に遠く雨音がざわつき、フレイムの心を乱した。
「そんなこと言われても……俺は」
 声を絞って、膝の上で手を握り締める。
 確かに、イルタス六世がウィルベルトの親友なのだと知ったときから、これまでの考えを疑い始めていた。それでも、すべてを受け入れるには唐突過ぎるようにも思えた。
「陛下はね」
 静かな声が雨音を覆って響く。
「あろうことか、ザックの友人の座に納まっているらしい」
 その言葉を理解するのには数瞬を要した。
「……え?」
 目を白黒させて、唖然呆然といったふうの少年に、ウィルベルトは笑って頷いてみせる。
「私も驚いたんだ。王城に軟禁されていたザックに、王ではなく個人として知り合ったらしい。ザックが彼を王だと知らなかったので、儀礼抜きで話せて楽しかったと仰っていたよ」
 ザックが誰かと容易く打ち解ける様はすぐに想像できた。だが、その向かいに座る人物を思い描けない。
 きっとその人物も笑顔でザックを見ているはずなのに。
 フレイムは涙が出そうになるのを堪えて、笑った。
「国王様って見た目はどんな感じですか?」
 少年の笑顔に、ウィルベルトは安堵した様子で目元を緩ませる。
「髪は金に近い茶髪で、短い。目は鉄色でちょっと釣り目。睨まれると怖いよ。背は私と同じくらいだけど、彼は痩せてるんだ。働きすぎなのに、休めと言っても聞かない強情者だよ」
「それって類友ってやつなんじゃないですか?」
 フレイムが口を挟む。きょとんとするウィルベルトに、湯気のたつティーカップを差し出す。
「ウィルベルトさんだって休んでって言ってるのに聞いてくれません」
「……いや、それはだね」
 ウィルベルトが反論しようとしたその時、扉がノックされた。
 アーネストとザークフォードが入ってくる。遅いと思っていたら、ザークフォード・フェルビッツにも連絡を取っていたらしい。
「談笑中でしたかな」
 アーネストはそう言いながら近寄ってくる。が、扉から入ったばかりのところでザークフォードは硬直していた。赤い髪の男を凝視して、頬を引き攣らせている。
「な、なんで、ここに、ウィルベルトがいるんだ」
「新しい協力者が見つかった“かもしれない”と言ったでしょう」
 アーネストは感慨もなさげに返事をする。ウィルベルトは笑ってソファから腰を浮かせた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。お久しぶりです、ザックさん」
 その声に打たれたようにはっと目を瞬くと、ザークフォードは大股で近寄ってきた。握手のために差し出された手には目もくれず、相手の肩を掴む。その勢いに気圧され、ウィルベルトは背筋を逸らした。
「いいのか!? お父上に知られでもしたら、大変なことに……うわ、だめだ、恐ろし過ぎる」
 何を想像したのか、ザークフォードは首を振る。一体どういうことなのか、混乱して何も言えないフレイムに、傍らに立ったアーネストがこそりと囁く。
「スフォーツハッド公爵の父親は前の金獅子団長で、フェルビッツ様の上司だったお方だ」
 ああ、とフレイムは呟く。ザークフォードの様子を見る限りはその前団長とやらはおそらくとても厳しい人なのだろう。
 しかし、ウィルベルはにこやかに答える。
「大丈夫ですよ。どうせ、あの人は私についてはもう諦めてますから。今更反逆罪を被ったところで呆れるだけだと思いますよ」
 まるで緊張感のないかつての上司の息子に、ザークフォードはがっくりと肩を落とす。
「お父上はさぞかしお嘆きになるだろう」
「あの人はこれくらいじゃ微動だにしないと思いますけど……。まあ、それはさておき、座って話しましょう。フレイム君が淹れてくれたお茶が冷めてしまいます」
 遅れてきた二人分の紅茶をせっせと準備し始めた少年を目線で指して、ウィルベルトはやはり朗らかに笑う。ザークフォードは顔を覆った。
「やっぱり話し合いは暢気(のんき)なものになるんだろうか……」
「別にまだ仲間と認めたわけではありませんよ」
 先に腰掛けたアーネストはしれっと口を挟んだ。優雅に足を組んで、偽とも真ともつかない笑みを浮かべる男を挑戦的に見上げる。
「さて、話をお聞きましょうか」