赤き魔女の封印 26

「ウィル、剣を教えてくれ!」
 ザックがそう言って、木の棒を掲げる。期待に満ちた眼差しに、しかしウィルベルトは眉を下げた。
「でも……」
 呟いて、シギルを見やる。彼はザックのほうを見ていた。少年の養父であるその男は自分のことを良くは思っていないようだった。彼はウィルベルトが剣士だと聞いた時、眉根を寄せてしばらく黙り込んでいた。
 当たり前だろうとウィルベルトは思う。この静かな島で、人を傷つける道具を持つなど、場違いにも程がある。まして、その武器でシギルの友人の命は奪われたのだ。
 だが、一方で、やはり何か戦う術(すべ)を与えたほうがよいのではないかと言う考えがあった。
 ウィルベルトはマリー・マクスウェルの消息を追ってこの島へ来たのだ。彼女の血を引くザック・オーシャンを王都へ連れ帰らなければならない。
(私がやらなくても、また別の追っ手が差し向けられるかもしれない)
 ウィルベルトがザックに答えられずにうつむいていると、シギルが口を開いた。
「まあ、男の子だからなあ。よければ、相手をしてやってくれないかな」
 ウィルベルトは驚いて顔を上げた。
「いいんですか?」
 シギルは頷く。ザックは喜んで、家の外へ飛び出した。ウィルベルトは席を立ちながら、もう一度シギルを振り返る。
「あの」
 その言葉を遮って、シギルが呟く。
「必要になるかもしれない」
 そのまま視線を窓の外に投げる。小さな島は森の中でなければ、どこからでも海が見えた。遠い水平線の向こうにはイルタシアの王都がある。
 シギルはザックの両親と王宮の因縁についてどれほど知っているのだろうか。気になったが、尋ねることは出来なかった。シギルもまたウィルベルトに対して、グルゼへ何をしに来たのか聞いてこない。聞いてしまえば「知らない」と言えなくなるからだ。
 ウィルベルトは頭(かぶり)を振ると、黙ってその場を後にした。

 剣など教えなければ良かった。
 そうしたら、今頃ザックは島で友人達と笑って過ごしていたかもしれない。
 頭上の光から顔を逸らすように、ウィルベルトは首を傾(かし)いだ。
「……ウィル?」
 遠くで名を呼ぶ声がした。だが、瞼が重くて、目を開けられない。喉も重かった。腕も足も、体のすべてが重く、もう自分の意思ではどうにもならないように思えた。
 声の主は溜息を零し、それからそっとウィルベルトの額の髪を撫でた。熱がないか確かめるように手を当てる。腕の動きにあわせて、袖から香の香りが漂った。深い森を思わせる落ち着いた香り。
 手を離すと、もう一度、名を呼んだ。
「ウィル」
 この声。普段は硬めで高慢そうな雰囲気さえ感じさせるのに、囁くと、甘く、痺れるような声になる。
 ウィルベルトはやっと瞼を持ち上げた。
「……エイルバート」
 ぼやけた視界に、痩せた相貌が映る。涙が出そうだった。
「ウィル……」
 エイルバートは驚いたような安堵したような声を上げると、もう一度ウィルベルトの髪を撫でた。
「気分はどうだ?」
「……ここは?」
 天上と壁の一部しか見えないが、スフォーツハッドの館でも王城の一室でもないことは分かった。
 こちらの問いに答えない友人に、エイルバートは何も言わずに答える。
「郊外にある私の別宅だ。執務が煩わしくなった時の隠れ家とも言うがな」
「なに、なんで……」
「馬鹿者が。最初に来たのが私でなければ、今頃お前は牢獄だったぞ」
 あのとき、扉を破ったのはエイルバートだったのだ。謁見の予定だったのにウィルベルトが来なかったから、その時点で彼は事態を予想して動いていた。
「この私との約束を破るとはいい度胸だな」
 エイルバートはにやりと笑う。
 ウィルベルトも笑おうとしたが、眉が歪んだだけだった。
「ウィル」
 思わず身を乗り出したエイルバートの袖を掴む。重い腕はそれだけで震えた。
「ザックは……」
 エイルバートの表情が強張る。あいた手でウィルベルトの腕を引き剥がすと、相手の間近に顔を寄せた。
「他の者を心配している場合か。食らった魔術をただの目眩ましだと思っているんじゃないだろうな。ここまで何度吐いたか覚えているか」
 脅すような低い声で問う。憔悴した相手はそれでも引かなかった。
「そんなことはどうでもいい」
「馬鹿を言うのもたいがいにしろ。そんなに知りたいなら教えてやる。奴は無事だ。相変わらず意志はないがな」
 海色の双眸が僅かに伏せられる。エイルバートは苛立たしげに短く息を吐いた。立ち上がって両手を広げる。
「すぐ感傷に浸るその癖をどうにかしろ。そんなに泣きたいのなら、いくらでも詰(なじ)ってやるぞ。もう嫌だと言わせてやろうか。お前もザック・オーシャンも無事で何が悪い。助かって良かったと、そう思えばいいだろうが。だいたい、お前のほうが重症なんだぞ。医者も簡単には呼べないから、夜中にヴァンドリー家の者が来てくれたんだ。イルフォードに感謝しろ。お前が案じてならないザック・オーシャンは打撲だけでピンピンしている。パスティアなんてお前のことなど忘れて、奴と一緒に観劇に行ったぞ。滅入るだけ時間の無駄だと悟れ」
 弾幕のように言葉を放ち、エイルバートは唖然としている男の赤い髪を引っ張った。
「こら、聞いているのか」
 ウィルベルトは目を瞬く。
「『こら』なんて久しぶりに言われた」
「……聞いてなかったな」
「エイルバートの説教は長い」
 言い返して、ウィルベルトは笑った。それから立っている相手を見上げて、眉を下げる。
「ごめん」
 エイルバートは腕を組んで、唇を曲げた。
「ごめんじゃない」
「うん、ありがとう」
「素直に礼など言うな。気持ち悪い奴だな」
 言いながら、後ろを向いて座っていた椅子の位置を直す。照れているのだ。ウィルベルトは声には出さずにまた笑った。
 首を反対に向けると窓から白い空が見えた。何も変わっていないように見える。
「あれからどれくらい経った?」
「今日で三日目だ」
 三日も経つのか。ウィルベルトは息をついて、目を伏せた。まだ起き上がれそうにもない。
 テーブルの上にあったティーポットからお茶を注ぎながら、エイルバートが続ける。
「……パスティアのこと、いつから疑っていた?」
 ウィルベルトは息を呑んだ。何も考えず、エイルバートに助けられたことを当たり前のように受け止めていた。だが、彼はパスティアの夫なのだ。
 本来なら気安く名で呼んではいけない友人の、その背中を見つめる。国を背負う広い背中だ。
「三日前。定例会でザックを見て」
 正直に答える。
 エイルバートはポットを置くと、カップを手に持って振り返った。
「そうか。……飲めるか?」
 差し出された紅茶にウィルベルトは軽く首を振る。椅子に腰を下ろして、エイルバートは自分でカップに口をつけた。
「そういえば、金鷹のケルダム団長が嘆いていたぞ。お前が拘束結界をものともせずにアレスを使うから」
 ウィルベルトは記憶を辿るように視線を巡らせ、最後に睫毛を伏せて答えた。
「……あの部屋ははじめから結界の外だったよ」
 だからアレスも魔力密度の小さな変化に気づいたのだ。操作魔術は拘束結界の外で施術してしまえば、結界内でも効力はある。しかし、それだけではザックがアーステイルを使えない。魔法剣まで扱わせるのは容易なことではないのだ。
「だが、そうは言えまい。拘束結界はお前が破ったことになっている。と言っても、今回のこと、お前が関わっていると知っているのは、衛兵と私とイルフォード、ケルダムだけだがな」
 干したカップをサイドテーブルに置き、指を組む。考え事をしているときの双眸は鋭い。
「誰もパスティアについては言及しない。できない」
 ウィルベルトはもう一度視線を外に向けた。窓が開いていないので風は感じないが、雲は流れている。
「……他人みたいだ」
「ん?」
 首を傾げて、しかし、エイルバートはすぐに苦笑した。
「ああ。まあ、その程度だということだ」
 彼の王妃に対する言葉は、ウィルベルトと同じ立ち位置から見たものだ。
「最近はむしろ彼女を恐ろしいと思うこともある。お前が無事でよかった」
 ウィルベルトは視線を戻し、エイルバートの灰色の双眸を見上げた。陽光を反射して、金色に輝いている。
 白い城の主、その妻。
「あの人は……」
 銀色の髪、青い瞳――もう一人知っている。
 十年前にその失望の眼差しを見た。