赤き魔女の封印 24

「お前が怒るのは勝手だが」
 イルフォードは釘をさす。
「一人で先走るんじゃないぞ」

「度し難いことだと思うんだがねえ」
 無言で団長の執務室を退出した主人を見上げて、アレスは笑う。むっつりとした顔で、それに応えてウィルベルトが呟いた。
「……私のことか?」
「他に誰を指すってんだ。よもや話の流れを見失うほど、逆上してるんじゃなかろうな」
「いや」
 否定する主人をまた笑い、アレスは剣から抜け出して人型をとった。他に人影のない廊下に並んで立ち、相手を覗き込むように首を傾げる。
「イルフォードの忠告はちゃんと聞いたか? これからエイルバートと面会の予定だが、暴れたりしないか?」
 からかう口調で尋ねてくる剣精を、ウィルベルトは不満げに見上げた。
「エイルバートには会わない」
「なぬ」
「王妃に会う」
「おいおいおいおい」
 アレスは相手の視界を遮るように、眼前で手のひらを振った。
「正気か?」
 その手を払いのけながら、ウィルベルトは言う。
「無論、正気ではない」
 アレスは動きを止めた。海色の双眸は険しい色をしている。
「ウィル」
 ウィルベルトは視線を逸らし、そのまま歩き出す。アレスはすぐにあとを追った。横に並び、囁く。
「付き合うぜ」

 パスティア・ユンセイ・イルタスは先王の一人娘。輝く銀の髪と海の双眸で、幼い頃から王城の人々を虜にしていた。
 彼女とエイルバートの婚約は突然のことで、当時ひどく驚いたことを覚えている。金獅子の正団員になったエイルバートをパスティアが見初めたのだと聞いた。
「婚礼の式では白い花びらがたくさん撒かれて……綺麗だったな」
 白い廊下を進みながら、ウィルベルトは呟く。鞘の中で、アレスはそれを黙って聞いた。
「私は王妃のことを疑ったことはなかった」
 王家の血を継ぐ、美しい王女――ウィルベルトにとっては、言ってしまえば、ただそれだけの女性だった。
「今日までは」
 王妃は普段は内殿の奥深くで過ごす。だが、今日は月例会のために、外殿に滞在していた。部屋の前には三人の警護。突然現れた金獅子の副団長に一人が向き直る。
「副団長殿、何かご用ですか」
「ああ、急なことで申し訳ないのだが、王后陛下と面会することは可能だろうか」
 警護の者は他の二人と顔を見合わせる。事前の申し入れがなくとも、無下には追い払われない。ウィルベルトは珍しく自分の地位が役立つことを実感した。
「少々お待ちください」
 一人がそう言い、扉を開けて中を覗う。それを待ちながら、ウィルベルトはぎゅっと拳を握り締めた。
(無理に押し入ってもよいが、本題を問う前に邪魔されては意味がない……)
 イルフォードが来るだろう。金鷹もやって来るに違いない。
(怪我人が出る。……アレスは屋内で使うには危険すぎる)
「副団長殿、よろしいです。お入りください」
 心臓が強く脈打つ。目の前の扉がやけに遠く感じられた。
 一礼して、踏み入れる。正面の椅子に王妃は腰掛けていた。
 白い石を磨いた床、王妃の斜め後ろにはソファがある。奥には東洋風の意匠を取り入れた衝立。窓は開いているようだが、カーテンが閉められている。
 そして、長い銀の髪が薔薇模様の壁紙を背景に、ふわりと広がっていた。二対の青い瞳が対峙する。
「扉を閉めてちょうだい」
 椅子に腰掛けたまま、王妃が指示する。ウィルベルトの背後で、扉が閉められた。
「突然、申し訳ありません」
「構いません」
 頭を下げる男に優しい声で王妃は応じる。
「いらっしゃると思っていたから」
 ウィルベルトが顔を上げると、王妃はいつもの静かな笑みをたたえていた。
「ウィルベルト・スフォーツハッド、いつもそうなのですね。大切な人が傷つけられるのが怖いのかしら」
「……何のことでしょうか」
 自身の質問を切り出すタイミングを失って、ウィルベルトは眉を寄せた。
「グルゼ島でのこと、黙っていましたね」
 風が吹いて、レースのカーテンがさらりと揺れる。潮の香りがするかと思ったが、それは錯覚だった。
「十年前、マリー・マクスウェルの消息を追って、グルゼ島へとあなたは向かいました。嵐に遭い、部下をすべて失い、……帰っていらしたのは数ヶ月も経ってから」
「……夏のグルゼは嵐が多く、船で渡ることは容易ではありません」
 十年前もそう答えた。ウィルベルトは呆然と王妃を見詰めた。
 桜色の唇が優雅にさえずる。
「『マリー・マクスウェルとジル・オーシャンはすでに死亡しており、身内も残っておりませんでした』と、そう嘘をつきましたね」
「嘘ではありません。島の者にそう聞いたのです」
「あら、では、ザック・オーシャンは何者なのでしょうか。あなたは島で彼にお会いしなかったのですか?」
 いいえ――、答えようとしたが声にならなかった。
 王妃が背後を振り返る。二人きりだと思っていたが、そうではなかった。衝立の奥から、長身の影が伸びる。
「ザッ……」
 思わず呼びかけようとして、口を閉じる。
 動揺する公爵を横目に、王妃はくすりと笑って立ち上がった。ザックに寄り添ってその手をとる。
「会ったことがないのならば、あなたとは無関係ではなくて?」
「陛下、何をおっしゃるのですか」
 ウィルベルトは声を絞った。虚ろな眼差しを前に動悸が早くなる。
「その者の意識は確かなのですか。国民の上に立つ者が、人の心を弄ぶような真似をしてはなりません」
「まあ、かまびすしいこと。たかが公爵の分際でそのようなことを言うのですか」
 王妃の語気が強くなる。だが、ウィルベルトも引かない。
「これも陛下のためであればこそ。私は不興を買うことも厭(いと)いません」
「黙りなさい」
 わずらわしそうに己の髪を手の甲で払う。苛立ちを隠さず、王妃は憎らしげにウィルベルトを睨んだ。
「ああ、嫌だ。なぜ、あなたはそうなのかしら。私の邪魔ばかりして。消えてしまえばいいのに」
「……陛下?」
「消えてしまえばいいのに。私からマリーを奪うものなんて、消えてしまえばいいのに」
 呪詛のようにも聞こえる声。
 思わず、ウィルベルトは一歩足を引いた。
 確信する。
 この部屋の中に正気の者などいないのだと。