赤き魔女の封印 20

 鏡の迷宮。映るのは真実でも幻でもない、ただの光の反射だ。それでも人は、そこに虚構の世界を見る。
 ふわりと銀色のドレスが暗銀色の床の上を滑る。
 パスティアは倒れた青年を静かに見下ろした。
 内側から破られた封印は、魔力を持たないただの文様に戻り、床面に散っている。封印が解けた瞬間の鮮烈なまでの赤は、徐々に変色し、今はどす黒い。神臓を使った「赤き魔女」の封印はもはや効力を失ったのだ。
 マリー・マクスウェルは身の内に、大量の魔力を抱えていた。その魔力の波動は緩やかで、寄せる波のような静けさがあった。神に与えられた美しい姿、思い出すだけでも心が震える崇高な存在。
 彼女を蝕んでいた封印は解かれた。そう感じて、パスティアは満足げな笑みを浮かべた。
「マリー、お帰りなさい」

         *       *       *

「明日から金獅子の副団長が復帰する」
 そう言うのはザークフォード。
「どうもしゃきっとしない男だが、剣の腕は団長と伯仲。彼がいると金獅子の空気が変わるのだ。動きにくくなる」
 アーネストは元金獅子の男を見つめた。現副団長は先代団長、つまりザークフォードが現役だった頃の団長の息子である。
 その視線に気づいて、ザークフォードは笑った。
「金獅子と私の仲については心配はいらない。若い者との手合わせの機会かと思うと、むしろ楽しいくらいだよ」
 本当に心から楽しみにしている様子を見せるザークフォードに、フレイムは小さく笑った。
(性格もザックみたいだ)
「そういえば、フレイム君は彼と顔見知りだったね。見つかるのはまずいな」
 アーネストの言葉に、ザークフォードは目を大きくする。
「スフォーツハッド公と知り合いなのか?」
 フレイムは慌てて手を振った。
「知り合いは知り合いですけど、話もほとんどしてません。彼はザックの剣の師匠だったんです」
「それは本当か?」
 ザークフォードは驚き覚めやらぬ表情で、さらに問う。
「彼がスウェイズでの任務で規約違反をしたというのは、ザックが関わっているのか?」
 フレイムは分からないと首を振った。アーネストが代わりに答える。
「ネフェイル・ホライゾ殿の過去視魔術では、『魔術師に掴みかかかった赤い髪の剣士が、背の高い男に倒された』という結果だったそうです。過去視では音声まで得ることはできませんから、詳細は不明なのです」
 説明すると、ザークフォードは視線を宙にとどめ、黙り込んでしまった。スウェイズでの様子を想像しているのだろう。
「赤い髪は間違いなく、スフォーツハッド公。背の高い男……いや、その男はさておき、スフォーツハッド公がザックのために規約違反をしたとなれば、あるいは」
 そう言いかけた時、前触れもなく、アーネストの影がゆらりと揺れた。同時にグィンが身を震わせるのが、フレイムの視界の端に映る。
 突然のことにフレイムは身動きもできず、男が仰け反って後方へと倒れるのを見た。一方、ザークフォードの反応はさすがのもので、咄嗟に隣の席から腕を伸ばし、アーネストを支える。
「どうした!?」
 ぐったりと目を閉じたアーネストにザークフォードが声をかける。そして、やっとフレイムは青褪めて立ち上がった。
「グィン!」
「う、うん!」
 呆然としていたグィンも主人の声を聞くや、アーネストの側に駆け寄る。彼女は小さな手でそっとアーネストの頬に触れた。
「……やっぱり」
 分かっていたと言うような顔で頷き、グィンは続けて呪文を唱えた。ふわりと両手に光が宿る。彼女は、その白い光でアーネストの額をそっと撫でた。
「強い魔力の波に当たったんだ。気付けだけで目を覚ますと思うよ」
 グィンが振り返って、フレイムに言う。
「僕もちょっとだけ感じた。アーネストは相性かな? 強く響いたみたい」
「それって、どういう……?」
 眉を寄せるフレイムに、瞼を持ち上げたアーネストが応じる。
「魔力の波動が私の一族のものと似ていたから……振動を増幅させてしまったんだ」
「大丈夫か?」
 背を支えたまま、ザークフォードが窺う。
 アーネストは頷いて、礼を言った。頭が痛むのか、額を押さえながら言葉を紡ぐ。
「魔力の波動……封印が解けたかのような強い衝撃でした」
 グィンはフレイムを見上げたまま、首を振った。
「僕にはそこまで分からなかった。あ、揺れたなーってくらい。でも、少なくともこの都にいた精霊はみんな振動に気づいたと思うよ」
「精霊の霊的知覚は人間の数倍に及ぶというからな」
 ザークフォードが頷く。
「場合によっては、上級魔術師も気づいたかもしれない」
 アーネストは唇を歪めて、震える自分の手を見下ろした。
「気づいても、異常だとは考えていない……と思います。魔術を使えば、波動が起こるのは当たり前のこと。確かに強い振動でしたが、ほんの一瞬でした。あの程度なら、金鷹の候補生でなくても起こせます。誰かが少し強い魔術を使った、その程度の認識でしょう」
 ただ、と続ける。
「私には分かった。あれは確かに、封印のような最上級の魔術を使った波動です……」
 ザークフォードは腕を組んだ。
「この国に上級魔術を使える者は少なくない。だが、封印となれば数は限られるな」
「あの……、封印って結界のひとつ上の魔術ですよね?」
 フレイムが遠慮がちに問う。学院で封印について学ぶのは中級免許取得以後である。その授業を受ける前に、学院から除籍されたフレイムは首を傾げた。ザークフォードは封印についての知識はある。アーネストはフレイムに向けて説明をした。
「そう、封印は結界の高等応用だ。誰にでも使えるものではない。自己保持機能を持った擬似封印である結界ならばともかく、『半永久持続』の封印となれば、ネフェイル・ホライゾ、シヤンの巫女、金鷹の団長、バルタ港の占星術師……指折りの魔術師、設置には彼らと同等の力量が必要とされる」
「設置と解除は同一人物でなければ不可能ですか?」
「そうとも限らない。もちろん容易くはないが、封印も結界と変わらず、内側からは幾分解きやすい」
 フレイムは頷き、説明されたことを覚えようと頭の中で繰り返した。それを見ながら、アーネストは付け加えるように投げやりに首を振った。
「先ほどの波動が、擬似封印か封印かまでは分からないがね。本当に一瞬だった」
「場所は分かるのか?」
 ザークフォードの問いに、アーネストは双眸を揺らし、天井をぐるりと追った。そして首を左右に振る。
「波動は一瞬でした。方角はあちらだとしか……」
 アーネストは腕を伸ばして、その方向を示した。グィンも同意して頷く。
 腕の先に目線を投げ、ザークフォードが立ち上がる。彼は席から離れ、アーネストが指し示した方角にある窓辺へと寄った。時は夜、カーテンは閉められている。
 彼はカーテンを開け、フレイムたちを振り返った。
 闇に点々と浮かぶ貴族、商家の館の光。その向こう――
「城がある」
 白くそびえる城がある。
 フレイムはぞくりと背筋が冷えるのを自覚した。
 アーネストも双眸を細める。
「しかし、城内での許可のない最上級魔術の使用は禁止されている。もとより、金鷹の拘束結界によって、魔術は行使できない」
 ザークフォードは淡々と述べる。
「確かに最上級魔術師ならば、拘束結界も打ち破るだろう。だが、そうであれば、もっと巨大な波動が生まれていたはずだ」
「そうですね。それに私の魔力に似ていたとはいえ、ザックは魔術を使えないので、関係ないと思います」
 アーネストは同意しながら、自分の手の甲を撫でる。震えが止まっているのを確認しているようだ。フレイムは彼の気持ちが分かるような気がした。
 ザックとは関係ない、そう考えながらも、なぜか胸がざわつく。
「ですが、どうにも嫌な気配を感じますね」
 夜の闇が見えるせいか、アーネストの声は不吉な予言のようにも聞こえた。