赤き魔女の封印 19

 歩くたびにカツンと硬い音が響く。旅をしている間も石畳の上を歩けば、硬質な音がしていた。だが、あの時は他の人間が歩く音も多分に混じっていた。今はとても静かだ。
 ザックは角を曲がるたびに正面に現れる自分の影に息を呑みつつ進んだ。一瞬だが、誰かが立っているのかと思ってしまうのだ。
 そして、もし次の角の先、映っている物が自分でなかったら――そう考えると、少し嫌な気分だった。
(そういえば、国王には会ってないな)
 気を紛らわそうと、別のことを考える。
(どんなヤツなんだろう……。新聞とかでは特に酷いという記事は見たことないけど)
 フレイムのことがあったから、我欲の強い男だと思い込んでいた。
 だが、「彼は強欲などではない」――そう言ったウィルベルトのあの眼差し。
 彼は王と親しいのだろうか。仕えているのだから顔見知りであることは当然だ。
(あの目は……知ってる人を、友人を、侮辱されて怒って……そんな目だった)
 国王イルタス六世は、外交問題に関して強気な発言が多く、また蔓延(はびこ)る魔物の駆逐や犯罪者の追捕にも余念がない。さらに、武学芸を推奨し――学問が軽視されがちなこの国では珍しい王だ――、街道の整備などに国庫を割いている。
(ただ、金獅子や金鷹や、必要以上にも見える兵を揃えて……それが和平主義の奴らにとっては鼻持ちならないんだよな)
 ザックは天井を仰いだ。
 白い天井では目立たないが、確かに白銀の竜が描かれている。薄闇の中、塗料の盛り上がりでほんのりと浮かび上がっている。その竜に勇ましさはなく、雲の合間を優雅に泳いでいる。
 剣と魔術が支配するこの国において、それは平和すぎる情景にも思えた。
(国王……)
 イルタシアの国王は力の象徴。
 だから、一部の反感を得てでも武力にこだわるのだろうか。
 ――大戦でイルタシアを率いた魔法剣士こそがイルタス一世なのですから。
 耳に静かな声が甦る。
(そうだ。国王は力で国を切り開いて、力で国を守って……あれ、誰がそう言ったんだっけ?)
 冷水のような声。しかし、落ち着きのある低音。
 記憶の再生はこめかみに痛みを伴った。
「なんっ……」
 ザックは頭を押さえて、側の鏡に寄りかかった。
(思い出したくない。辛い……辛いんだ)
 涙が出る。
 忘れようとする自分が憎らしく思えた。
「違う……俺は」
『――酷い』
 背後から。
 響いた声に、ザックは全身を凍らせた。
『酷い。私の事を忘れてしまったんですか』
 幻聴だ。思い出そうとしたから、こんな声が聞こえるんだ。
 自分のために命を賭した者を忘れるなど、きっと許されないのだ。
『ザック……』
 名を呼ばれて、ばっとザックは振り返った。
 長くたなびく黒髪。黒い印象の中に浮かぶ白い肌。
『ザック、私はあなたのために……』
「闇音!」
 ザックは薄暗い空間に佇む影の精霊に飛び掛った。鏡に激突する。
 それでもなお、鏡に縋りつき、相手の輪郭をなぞる。
「闇音! 違うんだ! 俺は、お前が……」
 お前が――んだと思ったから。
『酷い』
 鏡の中の闇音は聞く耳持たず、うつむいた。
『私は』
 ザックは瞠目する。
『私は』
 白い白い、銀色にも見える白い頬を涙が伝う。

『私はあなたのせいで、死んだのに』

 肺が、心臓が、喉が、潰れた――潰れたような錯覚に襲われる。
 ずるずると、ザックは座り込んだ。
『私たちは』
 また、背後から別の声が響く。しかし、それは知らない声だった。
 表情をなくしたまま、ザックは声の方を振り返る。
 金の髪をした夢のように美しい女性と、静かな眼差しを持った黒髪の青年が立っていた。まだ少女の幼さを残した女性は、愛らしい唇で言葉を紡ぐ。
『私たちはあなたのために死んだ』
 もう声も出せなかった。
(俺のせいなのか)
 喉は枯れ、眦の水さえ乾くような、絶望感。彼らは皆自分と関わったばかりに死んだのか。
 しかし、それを否定する声が上がった。
 ――違う。
 声は体の内側から響いている。シェシェンの街、極彩色の嵐の中で聞いた、あの声だった。
 ――違う、彼らは本当は――
 懸命に慰めようとする女の声は、太い男の声に邪魔をされた。
『私は』
 顔を上げなくても分かる。
 シギルだ。
『私はお前といると死と暮らしているようで恐ろしかった』
 ――違う、こんなのは違う!
 女は――顔も何も分からないが、きっと泣いている――声を張り上げて叫ぶ。
 だが、ザックにはもう彼女の声は届いていない。
(俺がいなければ誰も死ななかったのか)
 父も母も闇音も……これからの誰かも。
 四方を囲む鏡にはたくさんの自分が映っている。すべてが不吉の姿。
(……俺が、いなければ)
 ――否定しないで。
(……俺は……)
 ――あなたが否定したら……。
(俺は)
 ザックはふらりと立ち上がった。
 いつの間にか手に剣を持っていた。いつ持っただろう、軟禁室を出る際にエルズから渡されただろうか。記憶にはない。
 だが、これは使える。
 これで、斬ろう。
 目の前には自分がいる。
(俺は)
 ――やめて!
 身の内で誰かが泣いている。
 いや、そんなことは気に留めるべきことではない。今はしなければいけないことがある。
(俺はいらない!)
 手にした剣を高く掲げ、勢いに任せて振り下ろす。白銀の軌跡が鈍い闇の中に舞った。
 耳障りな破壊音、続いて金属が崩れ落ちる音が室内にこだまする。鏡はひび割れ、恐怖と絶望に歪んだ己の姿は裂けた。
 息をつき、肩を落とす。ふいに頬に生暖かい滴が触れた。
 無心のまま手で触れると、ぬるりと滑る。触れた手を見ると赤く汚れていた。
 目を瞬く。思考回路は未だに正常ではない。考えようとしても頭は鈍く痛んだ。
「……俺は……何を……?」
 首を傾げるよりも先に、雨のように赤い滴が全身を打った。頬を、髪を、手を、赤く染めていく。
 何を斬ったのか。
 剣を手にしたまま、ザックは小刻みに震えた。
 さっきまで泣いていた女の気配がない。
 誰を斬ったのか。
(死んだ)
 泣いていた。
(俺のせいで)
 ふつりと意識は途絶え、ザックはそのまま、赤い床に倒れこんだ。
 彼は赤い迸(ほとばし)りが床に鏡に、複雑な文様を伴った円弧と魔術文字を描いて散ったことを知らない。
 彼が斬ったのは、彼を守り続けていた「封印」だった。