赤き魔女の封印 18

 銀の取っ手はとても冷たく感じられた。ひやりと指先から凍るような錯覚すら覚える。
 ザックは意を決して、ゆっくりと静寂色の扉を押し開いた。
 中を覗き、思わず息を呑む。
 正面に人が佇んでいた。自分と同じく目を見開いた顔で。
「鏡……」
 室内は鏡で仕切られていた。迷路のように鏡の壁があり、そのせいで照明の光が隅々まで行き届かず、ぼんやりと薄暗い。
 右を見れば怪訝そうな自分が、左を見れば不安げな自分が、振り返れば、エルズの薄い笑みが、あった。
「なんだよ、この変な部屋は」
 頬に力を入れて笑みを作ろうとしたが、できたのかどうかザックは自覚できなかった。
「陽が差し込むとね、とても綺麗な部屋なんだよ。しかし、今日は曇りで、そのうえ今は夜だ」
 エルズは笑いながら言う。
「君、ついてないね」
 今度こそ、ザックは唇の端を吊り上げた。
「お前と会った日から俺はついてないぜ。疫病神か何かか、お前?」
「神だなんて大それたものになった覚えはないよ。……さあ、陛下がお待ちだよ。こんな所で立ち止まっていないで進みたまえ」
 ザックは剣呑に双眸を細めた。
(食えない奴だな。だが……)
 煽ってくれたおかげで、体内の温度が上がったような気がする。
(『一番の敵は己の心の弱さと知れ』)
 過去に血を分けた者はそう言った。
 右を見ればやる気の出た自分が、左を見れば強気そうな自分が、真っ直ぐに見据えると、じっと見つめ返す自分が、いた。
 大丈夫だ、小さく呟いて、ザックは薄暗い室内へと一歩を踏み入れた。

 先へ進もうとしない剣士を促し、薄闇に消える背中を見送って、エルズは笑みを消した。
(意志を砕くのは簡単なことだよ)
 人は不安定な生き物だ。一本の綱の上を歩くのは難しい。精神的に圧力を感じていればなおさらだろう。
(君に綱を渡るのはまだ無理だろう……)
 あの王妃はザックを――マリーとして――溺愛しているのだから、具合が悪いので起きられないとでも言えば、また日を改めることも許してくれただろうに。
(そうだよ、せめてあと一日待てば、君の師匠が王宮に帰ってきたのにね)
 剣精を従えたかの剣士は、例え友と弟子との板ばさみになろうとも、どちらも守ろうとするだろう。
(自分で大丈夫だなんて言って、どこにも繋がっていない命綱を頼ってどうするんだい)
 それでも、ザックがなぜ勇気を出したのかは知っている。
 赤き魔女の館と繋がる二人の存在があったからだろう。たびたび、あの客室に出入りしていたことは気づいていた。だが、自分に与えられた使命は「ザック・オーシャンが外へ出ないように、また、彼が自らを傷つけないように、見張っていろ」というものだった。侵入者に関しては何も言われていない。だから、知らない。
「それにしても」
 エルズはため息を零した。
「君は本当についてないね」
 それだけを言うと、踵を返し、元の持ち場へと帰っていった。

         *       *       *

 陰で「赤き館」と呼ばれる自宅に帰ってきて、アーネストはザークフォードを招き入れた。
「せっかくですので、フレイム・ゲヘナを紹介しましょう」
 彼はそう言って、客間へと赴く途中で、細君にフレイムを呼んでくるよう言付けた。
「神腕の持ち主か。さすがに少々緊張するな」
 通された品のいい客間でザークフォードは胸元を撫でた。
「何、外見は極普通の、いや、普通よりもおとなしそうな少年ですよ」
 客人の緊張をほぐすかのように、アーネストは笑う。
「どうぞ、椅子におかけになってください」
「いや、ゲヘナもすぐ来るだろうから、このまま待つよ」
「そうですか」
 と、アーネストが頷くと同時に、扉がノックされた。
「本当ですね。――どうぞ」
 入ってくるように促すと、マクスウェル夫人が扉を開け、フレイムとグィンを中へ通した。ザークフォードに微笑んで会釈をすると、夫人は扉を閉めて去っていった。
「噂にたがわず美しい奥方だな」
「しかし、美しい花には棘があるものです」
 こそりと言ってくるザークフォードにアーネストはそう笑って、見知らぬ相手を不安げに見つめるフレイムの肩を叩いた。
「こちらがフレイム・ゲヘナ。親友のためにかの大魔術師を小間使いにする大物ですよ」
「こ、小間使いだなんて……」
 アーネストとの接触をネフェイルに任せたことを言われているのだと悟り、フレイムは首をすくめた。
「はじめまして。私はザークフォード・フェルビッツという。聞いているだろう? 影の協力者のことは」
 微笑んで、ザークフォードが右手を差し出す。フレイムはそれを握り返した。
「はい。王宮でご協力いただいている方ですね。フレイム・ゲヘナです」
 グィンがフレイムの横で興味深そうにザークフォードを見上げる。
「僕はグィン。ねえ、ザークフォードって名前、ザックと何か関係あるの?」
「おや、緑の精か。ああ、ザックという名前は私の愛称をジルが勝手につけたんだよ」
 グィンの身分など気にしない無遠慮な質問にもザークフォードは優しく応じる。
(ザックのお父さんの知り合いなんだ……)
 フレイムは茶髪の男を見上げた。甘い緑の双眸はネフェイルを髣髴とさせる。
 それは信用に値する眼差しだ。
「あの、それで、今日はどうして? お会いするのはもっと先だと聞いていたのですけど……」
 接触する人間を多くすると、王室側に不穏を察知される可能性があるということで、アーネストを介して、フレイムは王宮の情報を得ていた。ザークフォードがマクスウェル家を訪れることは予定になかったはずである。
 問うと、アーネストは言いにくそうに唇を歪めた。
「状況が変わったのだ」
「状況?」
 ザークフォードが答える。
「ザックがいなかった」
 不安を掻き立てるには十分な台詞だった。
 少年の顔色が青褪めるのを見て、アーネストは首を振った。
「部屋が変わったのかもしれない。私たちの事は……あの副団長補佐に知れていた感があるし」
「だが、彼はいたって無関心だった。無関心を装っているのではなく、本当に関心がないのだ」
 ザークフォードが肩をすくめる。
「彼はそういう男なのだ」
 他に形容しようがないと言った様子だ。アーネストは同意を示すかのように小さく溜息をつく。
「おかげで動きやすかったですけどね」
 フレイムとグィンは首を傾げることしかできない。
 アーネストは苦笑する。
「ともあれ、このまま立ち話ではなんでしょう。二人とも掛けてください」
 彼は手で指し、フレイムとザークフォードを席へと促した。