赤き魔女の封印 16

 「銀の竜」だと名乗った男はたびたび部屋を訪れるようになった。それも決まって夜半過ぎ になってから。
 しかし、精霊と人間の見分けが出来るようになったザックは、相手が自ら主張する類のものではないことに気づいていた。
(でもまあ、嫌な奴じゃないんだよなあ)
 銀の竜ことエイルバートは「私は長く城に住み着いてきた竜の化身だ」と嘯(うそぶ)くだけあり、確かに物知りな男だった。話も上手いし、たまに気障(きざ)なことを言うが、嫌味ではない。
 本来は饒舌なのであろう金鷹の男は必要以上にザックとは喋ろうとしないし、王妃などは顔を見ただけで寒気がする。そんなものだから、ザックは平常であるとき以上にエイルバートに好感を覚えていた。
 テーブルの上にエイルバートが持ってきてくれた本を広げて、頬杖をつく。
(しかし)
 気になることが一つある。
(エイルバートって名前、どっかで聞いたことがある気がするんだよなあ……)
 以前にもこういうことがあった。ネフェイルが「マクスウェル」の名を出したときだ。その時は思い出せなかったのだが、今は分かる。ウィルベルトがリルコの関所を通過するときに、ザックの偽名として出したのだ。
 やはり、ウィルベルトはこちらのことをすべて知っていたのだ。
(俺が公爵の血筋だから、剣を教えたのかな……)
 そんなつまらないことで。
(いやいやいや)
 ザックは頬杖を外して首を振った。
(今はそれより、エイルバートの正体……いや、ここからどうやって抜け出すかだ)
 部屋にはバルコニーがついている。しかし、バルコニーの手すりには魔術がかけられており、どうにも手すりから先には指一本出すことが出来ないようだ。
 扉はもちろん鍵と魔術の二重施錠――エイルバートにどうやって入って来るんだと尋ねたら、「偉大な竜はフリーパスだ」とはぐらかされてしまった。
「ちぇっ、俺も魔術が使えれば話が早いんだけどな」
 一人でごちて、背伸びをする。横を見やれば空は鮮やかに赤く染まっていた。
 そして、そのままザックの思考は停止した。
 夕日を背に、バルコニーの手すりの上で手を振っている男がいる。にこやかに。
 ザックは無言で目を擦った。もう一度見る。
 やはり、手すりの上で男がさもおかしそうに笑っていた。
「…………馬鹿がいる」
 思わず口から零れたのはそんな言葉だった。
 ――飛竜がいる。
 夕日よりもなお鮮やかな赤い瞳を楽しそうに細めて、こちらを見ている。
「久しぶり」
 一言そう言うと、手すりを蹴って飛竜はそのまま室内に降り立った。
「何が久しぶりだ。神出鬼没の変態魔術師め。さっさと帰れ。でなけりゃ人を呼ぶぞ、この不法侵入者」
「素敵なお迎えの言葉をありがとう」
 ザックの毒舌をものともせず、飛竜は笑顔で応じ、更に言う。
「なんだ、つまらないな。もっと落ち込んでいるかと思ったのに」
 ザックは不愉快げに片目を細めた。
「そりゃあ、悪かったな」
「この城で友人でも出来たか?」
 間髪入れずに帰って来た問いに、ザックは息を呑んだ。飛竜は赤い瞳を真っ直ぐに相手に向ける。
「危険なことだ」
 きっぱりとそう言う。
「ここは敵地だ。お前は何を期待している?」
 いつもの飄々としたものとは違う口調に、ザックはいささか違和感を覚えた。
「……飛竜には関係ないだろう」
 試しに言い返してみる。飛竜は一瞬目を見開き、それから唇の端を吊り上げた。
「馬鹿だな」
 その一言からあと、彼はあっさり調子を戻した。
「お前は俺に負けたことを忘れたのか。本来ならお前をこの城に突き出すのは俺であるはずだったのだ。金鷹なんぞが手出しをしたせいで懸賞金もパアだ。それもこれもお前が弱いからだぞ。その上、捕えられた後もそんな体たらくでどうする気だ」
 べらべらと、一気に喋る。要するに、不機嫌だったと言うことだろうか。ザックは呆れ顔で口を開いた。
「なんなんだ。お前は愚痴を言うためにわざわざここまで来たのか」
「もちろん」
 飛竜は優雅に笑うとベッドに腰掛けた。絹のシーツを撫で、眉を下げてもう一度笑みを浮かべる。
「お前、油断するなよ」
 静かに漏らされた言葉に、ザックは小さく首を傾げた。飛竜はそのまま続ける。
「そうだ、愚痴と忠告のために来たんだ。お前の中の魔力……、それ俺が狙ってるんだよね」
 知ってたのか、ザックがそう呟くと飛竜は笑みを嘲笑に変えた。
「生憎と」
 赤き魔女の遺産。それは二十年もの間、緑の島に封印されていた。
 しかし、第一の封印は解けた。遺産を抱えた器は青い海を渡り、大陸を踏んだ。
「俺はすべてを自由にするだけの力が欲しい」
 既にそれに近しい力を持っていながら、そんなことを口にする魔術師。悪魔のような赤い瞳にその真意が映ることはない。
「なんで?」
 臆した様子もなく、極単純な疑問のようにザックは問う。
 飛竜は笑った。
「それは俺にも分からん。だが、欲するものを我慢するほど、俺は理性的には出来てはいないらしい」
 分からん、と一言で片付けられてザックは唇の端を引き攣らせた。
「お前って変だな」
「よく言われる」
 飛竜は立ち上がる。
(でも、お前みたいに俺の視線を受け止める奴は、そんなにいない)
 血塗れた双眸だと言われるこの両眼にまともに目線を合わせてくる者など、滅多にいない。ザックを合わせても片手で余る。
「それだけで、俺に気に入られるには十分だ」
 飛竜はそう言って、ザックの肩を叩いた。しかし、ザックにその言葉の意味が分かるはずもなく、彼はまた首を傾げるだけだった。
「さて、そろそろ、帰るかな」
 沈みかけた太陽が沈まないうちに、飛竜はそう言った。
「結局……油断するな、と、それだけを言いに来たのか」
 バルコニーに立って、ザックはこめかみを押さえながらそう言った。
「何? このままここから助けて欲しかった?」
 手すりの上の飛竜は意地悪に聞く。ザックは悔しそうに口を開いた。
「まあ、恥を耐えて言えば、そういうことだ」
「あっはっは。素直、素直。でも、だめだ。面白くないからな」
 膝を叩いて――何がそんなにおかしいのかはザックには理解できなかった――、飛竜は笑った。兵に見つかるとか、そんな発想はこの男にはないらしい。
「面白くないとかそういう話じゃないんだがな」
 苦虫を噛み潰したような顔で零す男に、飛竜はからっと答えた。
「俺にとってはそういう話だ」
 そして、手すりを蹴り、眩暈がするほどの高さから宙に踊る。ザックはそのまま急降下する飛竜を追って、結界に額を擦りつけながら下を見下ろした。
 地面に達するよりも早く、赤い魔術陣が煌き、あっという間にその中に飛竜が消える。
「……どういう仕組みなんだ」
 何度見ても理解しがたい魔術の超常現象に、ザックはため息を零した。