赤き魔女の封印 15

 日も暮れた頃に舞い込んだ仕事を片付け、イルタス六世は片手を額に当て深く息をついた。執務机に突っ伏して、そのまま寝てしまいたい気持ちに駆られる――それが一国の王にあるまじき不躾だとしても――。
(いや、まだだ)
 鉄色の瞳を開き、国王は何もない空間を睨んだ。今日はもう一箇所行かねばならないところがある。
 それは長らく忘れていた存在だ。しかし、あの頃は確かに憧れていた。
(……ジル・オーシャン……、その息子……)
 ジル・オーシャンは候補生としての経験もないまま、あっという間に金獅子の正団員になった男である。そして、あっという間に王都を去った。
 遠い緑の島からやってきた剣聖は、白い庭で運命の女性(ひと)と出会い、彼女を伴って島に戻ったのだ。
 当時、十歳ほどだったイルタス六世であるが、茶髪、金髪の多い貴族に混じった黒髪の、肌の色の濃い男がいたことは記憶にある。その後、彼がどうなったのかも、聞き及んでいる。
(しかし、禁句だったのだ)
 「ジル・オーシャン」も、「グルゼ島」も、そして赤き魔女「マリー・マクスウェル」も。
 イルタス王の友人が前王后の命を受けて、グルゼに渡ったのは十年前のことである。彼は一人の剣士を育み、しかし同時に酷く傷ついて帰って来た。彼と共にグルゼを目指した同胞十数名が嵐の海に沈んだのだ。
 それ以来、イルタス六世はグルゼ島の話には触れずにいた。だが――
 ――“運命”とは確かに存在するものなのか。
 それは何者だ。
 イルタス王は立ち上がり、背後に広がる王都を振り返った。ほのかな灯りが広がっている。
「団長」
 外を見たまま、イルタス王は広い部屋の入り口に控えていた金獅子団長を呼んだ。
「御前に」
 無音の足運びで王の背後まで近寄り、金獅子団長イルフォードは両手を組んで頭を下げた。イルタス王は団長の方に向き直り、「生真面目な奴め」と小さく笑った。
「イルフォード、二人のときは無用だ」
「王」
 片眉を寄せてたしなめる、かつての上司にイルタス王は首を横に振った。
「頼む」
「……ご命令とあらば、従うまでです」
 イルフォードはため息をつく。そして片手を腰に当て、怒っている様子で口を開いた。
「エイルバート、疲れているなら休め。本当に体を壊すぞ」
「そこまで脆弱ではない。私は今でもウィルと対等に闘える自信があるぞ」
 王――イルタシアを治める者たる証をその頭上に戴く前は、エイルバート・グリツェデンという名だった――は、そう答えて歩き出す。
「行きたいところがある。案内してくれ」
 イルフォードはエイルバートの後を追いながら問うた。
「どこに?」
 エイルバートは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、豪奢な扉の取っ手を撫でた。
「ザック・オーシャンに会いたい」

         *       *       *

「お前はここで待っていてくれ」
 部屋の前まで案内され、エイルバートはイルフォードにそう言った。イルフォードは顔をしかめる。
「相手は一般人ではない。剣士だ」
「私は一般剣士ではない。かつては金獅子にいた剣士だ」
 エイルバートは言い返す。
「国王命令だ。ここで控えていろ」
「……お前は昔から卑怯だ」
 舌打ちをするイルフォードをエイルバートは笑った。白いマントを羽織る逞しい肩を叩く。
「大丈夫だから」
 そして、扉に手をかける。
 扉を押し開くと、ベッドの上で、黒髪の青年が目を丸くしてこちらを見ていた。
「ザック・オーシャンか」
 背後からイルフォードの刺すような視線を感じながら、エイルバートは扉を閉めた。
「……そう、だけど、あんたは?」
 青年は警戒している様子で、ベッドの上で姿勢を変える。下手をすると殴りかかられるかもしれない。
 エイルバートは面白がるように笑みを浮かべた。
「お前は私を知らないのか」
 ザックは眉を寄せた。相手をじろじろと見つめる。
「……あいにくと知らん」
 憮然と答える。エイルバートは笑い声が漏れそうになるのを、手の甲で遮った。
(面白い。私を国王扱いしない者がここにいる)
 エイルバートは遠慮もなくザックに近づいた。ベッド脇にある椅子に腰掛ける。
「私はエイルバート」
 名乗る。もちろん、エイルバートの名を知る庶民はもう存在しないだろう。彼らが知っているのは国王イルタス六世なのだ。
 ザックもその例からは漏れず、不思議そうに目を瞬くだけだった。エイルバートは内心で自嘲を浮かべ、質問を投げる。
「お前は剣を扱うらしいな?」
「そうだけど。……なあ、あんた本当に何者なんだ? ここにはさ、このしばらくで、金鷹の男と王妃様しか来てないんだぜ」
 そんな所に来るなんて、と言う。エイルバートは顎を撫でて、考えを巡らせた。ここで王だと答えるのでは面白くない。
「私は……、そうだな。銀の竜だ」
 銀の竜はイルタス王室の象徴である。紋章はもちろん竜だし、エイルバートが腰に下げる剣の柄にも刻まれている。
「そんなの聞いたこともない」
 唇を曲げる青年に、エイルバートは灰色の双眸を細めて笑ってみせた。
「ふふ。銀の竜とは王宮の奥深くに住む、闇の生き物だ。こうして夜になると話し相手を求めて、王宮の奥から出てくる。お前は暇そうではないか。私の話し相手になれ」
「闇の……? 影の精霊か?」
 ザックが声を震わせる。
 エイルバートは青年の精霊が死んだことを思い出した。おもむろに、相手の頭を撫でる。
「その仲間だ。どうだ、私の話し相手にならぬか」
 温かい手で、頭を撫でられる感覚は酷く懐かしくて、ザックは涙を堪えた。
「いいよ」