赤き魔女の封印 11

 静かだった。ドアの開く音も、閉まる音もしなかった。
 ただ、気づいたら人の気配が増えていて、ザックは目を見開いた。
「だっ」
「静かに」
 白い指先が宙を切る。
 ぴたり、と、口を縫い付けられたかのように声が出ない。
 ザックは無言で相手を見詰めた。
 二人。茶髪の壮年の男と、白い指の――ドッペルゲンガーである。白い肌、翠の瞳と肩の下まで伸ばした金髪、相違はそれだけで、相手は自分と同じ顔をしていた。
「ジオルド様」
 茶髪の男が、金髪のドッペルゲンガーを振り返る。
「一目瞭然、とはこのことですね」
 ジオルドと呼ばれたドッペルゲンガーは、神妙、というよりは不機嫌そうな顔でうなずいた。ベッドに腰掛けているザックを見つめる。
「確かに。だが、どうにも……間抜けそうですね」
 失礼なことを呟いて、ジオルドは最初と同じように、指で宙に何かを描いた。
「ザック・オーシャンだな」
 確信を持った問いにザックは頷いた。
「……そうだ」
 声が出た。
 喉を撫でながら、警戒気味に問う。
「あんた達は誰だ?」
 ジオルドは茶髪の男と顔を見合わせた。それから語り出す。
「君の敵ではない。しかしまあ、まだ味方といえるわけでもない。君が愚か者ではないと判断できたら、改めて味方であると宣言しよう」
「……意味が分からないんだが……」
 ジオルドはにやりと笑った。冷たい刃を感じさせる笑みだ。
 思わず怯むザックに、ジオルドは威圧的に命じる。
「素早く理解しろ。考えない人間は嫌いだ」
 ザックは息を呑んで、うなずいた。そして目の前の男を見つめる。
 ジオルドの翠の瞳は光を豊富に含んで美しい。母の瞳もこうだったのだろうかと思う。
 それに艶やかな金の髪――
 ザックは目を見開いた。
 金髪、翠の瞳、自分とよく似た顔。まさか、と思う。
「……あんた、何者なんだ」
 ジオルドは今度は満足そうに笑った。
「お前の考えはおそらく八割方は正解だろう」
 あえて答えは言わない。
「さて、一つ聞きたいのだが」
 ジオルドはそう言って、部屋に一つだけ置かれているソファに優雅に腰掛けた。茶髪の男はドアの側に立っている。外に注意を払っているようにも見える。
「お前は悪人か?」
 ザックはどきりとして自分の胸元を掴んだ。
「俺は……」
「お前はフレイム・ゲヘナを庇うに値する人間だと判断したのか?」
 村を焼いた悪魔の子、そう言われる少年を。
「フレイムは……」
 ザックは目を閉じた。
 泣いていた。人に裏切られて、人を信じたいのに信じられなくて、泣いていた少年。
「あいつは人を殺せるような奴じゃないんだ」
「しかし、事実は」
「事実は村が焼けたことだ。火をつけたのは確かにあいつだ。だが、火を広げたのもあいつか?」
 ジオルドの言葉を遮って、ザックは顔を上げた。不思議と頭が冴え渡る。
「もう一人いたんだ。火が燃え上がったとき、フレイムと同じ場所にもう一人いた」
 フレイムの恋人を殺した男が。
 そうだ、なぜ気が付かなかったんだ。フレイムじゃない。そう思うなら、もう一人必要だったんだ。
(ああ……、でもフレイムは犯人のことを忘れてて……)
 眩暈がした。思考の失速が始まる。
(ネフェイルは最初から知っていたんだ。フレイムじゃないと……。だから、助けたんだ)
 それでも、そうだと教えてやらなかったのは、フレイムが火をつけたという事実があるからか。少年は確かに、すべてを燃やしてしまいたいほどに、憎しみを抱いていた――。
 そして完全に思考は止まる。
「……ふむ」
 ベッドに倒れこんだ青年を見下ろして、ジオルドは顎を撫でた。顔色の悪さから、おそらく食事を取っていないのか、そんなことだろうとは思っていた。興奮して喋るには体力が持たなかったようだ。
 ジオルドはドアの側の男を振り返った。双眸を細めて笑う。
「なかなか面白い話でしたね。アシール村で確認された残留魔力は一つ。さて、『もうひとりいた』とはどういうことでしょう?」
 それまで黙っていた男がぽつりと呟く。
「……『犬』」
 それはいまだ一般には知られていないこと。
「極秘情報ですね……、魔力以外の力を持つ存在」
 翠の瞳はその頭脳の明晰さを表すかのように冴え冴えと輝いている。ジオルド――アーネスト・マクスウェルはソファから立ち上がった。
「フェルビッツ様、どうやら私の仕事は終わらないようです」
 ザークフォード・フェルビッツは頷いた。
「ザック・オーシャンとフレイム・ゲヘナは力を貸すに値するでしょう」
「そんなことは最初から分かっていましたよ」
 ザークフォードは答えて笑った。歩み寄ってきて、ザックを見下ろす。
「私の親友の子ですからね」

「起きろ」
 揺さぶられて、瞼を持ち上げる。目の前は人影で暗かった。
「飲め」
「っぶ、ぐ」
 無遠慮にコップがあてがわれ、冷たい水が喉を刺激する。ザックは耐え切れずにむせ込んだ。
「げほっ、……ひでえ」
「何が酷いか。水を飲んで体内を整えろ。そのままでは食事を受けつけないだろう」
 高慢な声でそう言うのは、金髪のドッペルゲンガーだった。その背後には水差しを片手に持った、茶髪の男がいる。
「お前、ジオルドったっけ……?」
 ザックの問いに、アーネストは首を横に振った。
「それは私の名ではない。まだ味方ではないお前に、実の名を明かしたくはなかったのでな」
 きょとんとする従弟にアーネストは、自分とザークフォードをそれぞれ指し示した。
「私はアーネスト・マクスウェル。察しのとおり、お前の従兄に当たる。こちらはザークフォード・フェルビッツ様。縁あって我々に力を貸してくださる」
「ザークフォード?」
 どこかで聞いた名だ。ザークフォードは肩を竦めて見せる。
「愛称はザックだ」
「ああ!」
「馬鹿者、大声を出すな」
 ぽかりと殴られながらも、ザックはザークフォードを凝視した。
 父の親友だ。「ザック」という名はその愛称をそのままつけたらしいと、シギルが言っていた。
「すげえ」
「なんという緊張感のない男だ。愚弟ならば、今後お前との血のつながりは否定するぞ」
 邂逅に感動するザックを横目に、アーネストは呆れた口調でごちた。ザークフォードがフォローを入れてやる。
「それは可哀想ですよ。現に彼は食事も取れないほどに弱っている」
 アーネストはそれでも不満だというようにザックを睨んだ。
「今のお前に要求されるのは意志の強靭さだ。覚えておけ。体力もないまま、敵に勝てるとは思うな」
 ザックは自分と同じ顔の従兄を見た。
「敵って?」
「……これではっきりした。お前はやはり愚弟だ」
 頭を抱えるアーネストにむっとしてザックは言い返した。
「悪かったね。どうせ俺は熟考には向かないんだ。腹が減って頭も回らないしな!」
 そしてふんと顔を背けると、ザークフォードがくつくつと笑うのが耳に届く。思わず赤面する従弟にアーネストはため息を零した。
「しょうがないな……。この状況で敵といったら、お前をここに閉じ込めている者たちだろう」
 両手を広げて説明する。その言葉にザックは、王妃の冷たい双眸を思い出した。思わず、自分の腕を握り締める。
 その様子を見ながら、アーネストはその腕を掴んだ。顔を上げた相手の、翠の入り混じった黒い瞳を真っ直ぐに見据える。
「だが、お前の当面の敵は、お前自身だろう。お前はこのまま自分を飢え死ににするつもりか?」
「……あ」
 ザックは今更驚いたように、目を見開いた。
「一番の敵は己の心の弱さと知れ」
 アーネストはそう言う。
 いかにも高級そうな、手触りのよい美しい衣服に身を包んだ従兄を見上げて、ザックは笑った。アーネストの手は白くて綺麗で、剣だこのある自分のものとはだいぶ違う。
「あんた、剣も持たないのに強そうだ」
 アーネストは一瞬黙り、それからふふんと笑った。プライドの高い猫のようだ。
「お前は戦うのが剣士だけだと思っているのか。私は一族を代表する魔術師だぞ。お前なぞ、剣を持っていても私には敵うまい」
 そうかもしれない。ザックは肩の力が抜けるのを感じた。
 もっと気をしっかり持たなくてはならない。
 アーネストは手に持ったままだったグラスをサイドテーブルに置くと、ベッドから立ち上がった。
「ジオルド」
 仮の名を呟いた男の後姿を、ザックは見上げた。アーネストはそのまま続ける。
「これはお爺様が愛する娘に子が出来たら、その子に与えてやろうと思っていたものだ」
 どくんと、心臓が深く脈打った。
「お前の名だ」
 振り返って、アーネストは翠の双眸を細めた。はじめて会ったはずなのにも関わらず、懐旧さえ滲ませて。
 ザックは魂が震えるような錯覚を覚えた。
 海に囲まれた島で眠っていた自分の、身の内に流れるもう一つの血が、目を覚ます。大地によろよろと立っていた足が、しっかりと土を掴んだ気がした。
 アーネストは体ごと振り返る。
「これからお前のことはジオルドと呼ぶ。これは一つの暗号だ。お前の事をジオルドと呼ぶ者がいれば、それは味方だと思え」
 ゆっくりと、ザックは頷いた。