赤き魔女の封印 10

「食事は……またいらないと?」
 ほとんど手をつけられていないテーブルの上の料理を見て、エルズはベッドに寝転んでいるザックに視線を移した。
 仰向けに天井を見つめながら、ザックは答える。
「ああ、いい」
「ハンストのつもりかい?」
 エルズが問うと、ザックはそのままの姿勢で首を振った。
「……そんなつもりはない……ただ」
 食べる気がしない、そう呟いて片腕で視界を覆う。エルズはため息をついて、使用人に食事を下げさせた。
 青い天井を見つめる黒い瞳はどこか虚ろだ。
(あの影の精霊のことだな)
 目の前で消滅する瞬間を見たのだから、気持ちは分からないでもない。
 しかし、エルズは別段ザックのことを心配しているわけではなかった。食事を取っていないといっても、まだ捕らえて三日目の朝――食事数で言えば二日分にもならない。ハンガーストライキでないというのら、気持ちが落ち着けば食事はするだろうし。体力もありそうな男だ。今は放っておいた方が静かでよいかもしれない。
 エルズはふと嘲笑を浮かべた。
 それにまるで人形のようなこの状態が、王妃にとっては喜ばしいことなのかもしれない。
「では、私は職務に戻るから。何かあったら、そこのベルを鳴らしなさい。どこにいても聞こえるから」
 そう言って、ベッドサイドのテーブルの上にあるベルを指差す。
 ザックの瞳が横に動き、また元に戻る。それだけで返事はなかったが、理解はしているようだ。エルズは他に言うこともないので、そのまま部屋を出た。
 廊下に出て、茶髪の壮年の男とすれ違う。エルズは軽く会釈をした。相手も返してくる。
(フェルビッツだ)
 エルズは頭の中で相手の名を呟いた。
 ファーストネームなどは知らないが、確か数年前まで金獅子にいたはずだ。前団長が今の団長に地位を譲った時に、まださして年というわけでもないのに一緒に辞めた男である。
(金獅子のことなど興味はない)
 エルズはさして気にすることもなく、その場を後にした。
 去っていく金鷹の副団長補佐を、元金獅子の男は肩越しに見つめた。
(あちらの宮から渡ってきたようだな)
 エルズが出てきた渡り廊下の向こうの建物を見やる。
(……噂のザック・オーシャンとやらはあそこか)
 茶髪の男は場所を確認し、そのまま空を仰いだ。秋の高い青空が広がっている。
「いい天気だ」
 一人で呟き、彼は再び歩き始めたのだった。

         *       *       *

 グィンはフレイムに許可を得て、シヤンの森に来ていた。
 光り輝く神の森の前に立ち、深く息を吸う。マクスウェル家からの返事が届き次第、出発するというから急がねばならない。
(敵は……闇音を倒すほどの……)
 きっと顔を上げると、グィンは森の中へと入っていった。
 この森の奥に神の住む泉があるという。グィンが生まれたのもそこだ。大地の女神――森を守る一族はシヤニィと呼んでいる――がいるところなのだ。
 朧な記憶を頼って、進んでいく。深い緑の大気は濃く、零れる陽光が美しかった。今日は巫女は現れる様子がない。グィンに気づいており、しかし正体は知れているので気にしていないのかもしれない。
(女神様……)
 森の奥に進むに連れて、辺りを覆う神気が強まっていくのを肌が感じ取る。
(女神様、僕に力をください)
 飛んでいくうちに、ばっと視界が開けた。
 さらさらと輝く水面(みなも)。岸辺には白い花が咲いている。緑の影が落ち、降り注ぐ光の柱を描いていた。
「……女神様」
 呆然と呟き、グィンは湖の側まで寄った。
「僕に力を……」
 フレイムを守れるだけの力を。
 水面を覗き込みながら呟くと、耳にふわりと気配が感じられた。すうっと体を静寂が包む。
『時は来ぬ――……』
 それは生き物の声ではなかった。いや、声ですらない。
 漠然とした気配が、グィンの頭の中で言葉という形で処理されていく。
『まだ、お待ちなさい』
「そんな!」
 グィンは両手を広げて叫んだ。
「今じゃないと! 力のないまま付いて行っても、僕は足手まといになってしまう!」
『時はいつか必ず来る』
 声ならぬ声は変わらぬ単調なトーンで続ける。
『水はとどまらず、高きより落つ。雲は流れ、空の色は変わり、光は闇にもなる』
 分かっている。待てば、いつかはグィンも中級精霊になり、上級精霊になることも出来るだろう。
 だが、今はそれを待てる状況ではないのだ。
 グィンは震える手を握り締めて、その声を聞いた。
『小さき者よ、時はまだ来ぬ。――だが、遠くはない』
 最後の一言にグィンは目を見開いた。
「本当ですか!?」
 返事はなかった。
 光と影の間をしらしらと小さな蝶が飛んでいく。
 女神は口を閉ざしたのか、先ほどまで静かだったのが、途端に音に目覚める。小鳥の鳴き声が甦り、風が葉を鳴らした。
「ありがとうございます!」
 グィンは思い切り頭を下げた。
 そのまま意気揚々と振り返り、帰路を辿る。
(時は来る)
 グィンは葉の上を飛び跳ねた。
(僕はフレイムを守る!)
 そして――
(闇音のために、フレイムと一緒にザックを助けるんだ!)
 どういった戦いがあったのかは知らない。だが、闇音はザックを守るために戦って死んだはずだ。
 いや、精霊に死の概念はない。彼女が真にザックに仕えていたなら、彼女の霊子はいまだ次の生へと形取る事はなく、ザックの側にあるだろう。
 主人のために戦い、身を滅ぼす。
 それは精霊にとっては、一つの最高の形でもあった。そうなることに憧れている精霊も、決して少なくはない。
 だが、グィンは思う。
(ザックは死んでまで守ってもらいたいなんて思ってない。闇音だって分かってたんだ)
 だが、そうはできなかった。
 闇音はあのザックの笑顔をいつまでも見ていたかった筈だ。母のように、見守っていたかった筈だ。
 彼女は感情を露わにすることは少なかったが、それでもグィンには彼女はいつも微笑んでいるように見えていた。同じ精霊だから、分かったのかもしれない。
 グィンは零れてきた涙を拭いながら、飛んだ。
(闇音……)