赤き魔女の封印 6

 影の精霊は、剣士に逃げろと言っていた。だが、剣士は地面に膝をついて動こうとしない。
 ディルムはやはり彼は愚か者なのだと思った。
(ああ……馬鹿野郎、だ……)
 結局、自分は傍観することしか出来なかった。このことで師が苦しむことになるであろうことは分かりきっていたのに。
 沈痛な気持ちでイルフォードを見上げると、彼は感情を見せない顔で剣士を見つめていた。やがて口を開く。
「あれが、ザック・オーシャンだな」
「……はい」
 問うというよりは、確かめる口調にディルムは頷いた。イルフォードはエルズを振り返る。
「キセット君、彼を城まで運びたまえ。それで任務完了だ」
「そうですね」
 気楽に答えて、エルズはザックの側に歩み寄った。
 微動だにしない青年の肩に手を置く。
「眠りの籠に」
 短い呪文はあっという間に効力を発揮し、ザックはそのまま地面に倒れた。エルズは嘲笑を浮かべた。
「なかなか楽しかったよ」
 聞こえるはずもないのにそう囁いて、エルズはイルフォードのほうを向いた。
「一緒に飛びますか?」
「いや、いい。リルコに少々用がある。こちらに来たのはそのついでだ」
 イルフォードは淡々と答える。
 「ついで」で上級魔術師の結界内に空間移動してくるというのか。エルズは片眉を上げてその意を伝えた。イルフォードはそれを当然のように無視する。
 エルズは肩をすくめると、錫杖を振って魔術陣を敷いた。
「さあ、目が覚めたらイルタシアだよ」
 聞く者のいない言葉を呟いて、エルズはザックとともに転移した。
 金鷹の魔術師と剣士が消えるのを見届けて、イルフォードはウィルベルトを抱えなおした。肩に担ぎ上げて、先ほどまでエルズとザックがいた場所へと歩む。
 怪訝に思いながら、ディルムはその後を追った。
 イルフォードは上半身を屈めて、地面に手を伸ばしていた。
「団長?」
 首を傾げて覗き込むと、彼の手に青い石の付いたネックレスが輝いていた。
「それは?」
 問うと、身体を起こしたイルフォードは目を眇めてそれを見つめた。
「……必要なものだな」
「え?」
 ぽつりと呟いた団長に、ディルムは目を瞬いて見せるしか出来ない。イルフォードは候補生の疑問には答えず、石を懐にしまった。
「帰るぞ」
「え、あ、リルコの役所ですか?」
「イルタシアだ」
 思わずディルムは唇を曲げた。団長は金鷹の副団長補佐にリルコに用があると言わなかったか。
 イルフォードは小さく笑った。
「あいつは好かん」
 その一言にディルムは目を丸くした。「あいつ」とはやはりエルズのことだろう。
 イルフォードは候補生の背を叩いた。
「さあ、まずはスフォーツハッド家だ。この荷物を奥方にお届けしよう」
 ウィルベルトのことを目線で示す。それからヴァンドリーは片腕を上げた。
「リュエン」
 ふわりと赤い髪の精霊が現れる。ディルムは団長の火の精霊を見つめた。美しい女性の姿をしたリュエンは先ほどの影の精霊とは似ていないが、それでも彷彿とさせるだけの雰囲気がある。
「イルフォードときたら、あいかわらず人が悪い。候補生殿が目を白黒させている」
 リュエンは切れ長の目を細めて笑いながら、主の手をとった。イルフォードは唇の端を上げる。
「なんだ。お前は主人にそんなことを言うのか」
「そこが好きです」
 耳元で囁いて、リュエンは三人を空間移動の魔術陣で包んだ。
 そしてスウェイズからシヤンへと向かう道からは、一つの人影もなくなった。

「ふうむ……、気づかなかったのか、見逃してもらったのか」
 一人でそう零して、飛竜は葉を茂らせた広葉樹から顔を出した。
 ザックはイルタシアに連れて行かれ、闇音は消えてしまった。彼はその一部始終を黙って見ていたわけである。
「さて、これからどうしようか」
 どうにも――面白いことになってしまったものだ。

         *       *       *

 ネフェイルが突然椅子を蹴って立ち上がり、フレイムはぎょっとして顔を上げた。緻密な制御を目指すべく、手に溜めていた魔力は集中力の途切れと同時に飛散してしまった。
「ネフェイル?」
 ネフェイルは窓辺に駆け寄り、外を眺めている。彼は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
「……魔術だ」
 場所はシヤンではない。もっと手前だ。
「この気配は火の精霊か……」
(なぜだ。先ほどまでは何の気配もなかった。なぜ、突然……)
 心当たりはすぐに浮かぶ。結界だ。魔力の気配を消す結界を張れば、ネフェイルにも知れずに魔術を使うことが出来る。
 そしてそれはつまり、それほどの使い手がいたことを示している。
「フレイム……」
「何?」
 ネフェイルはしばらく思案する顔を見せてから、弟子のほうを向いた。
「いや、いい。少し出掛けてくる。お前はそのまま制御の修行を続けなさい。ただし、疲れたら休むことだ。集中力を欠けば、どうやっても制御は上手くいかない」
「……はい」
 なぜ急に出掛けるのだろうかと不審に思いながらも、フレイムは頷いた。ネフェイルがそうした方がいいと判断したのなら、自分は従う方が賢明だろう。経験も何も彼のほうが上なのだから。
 ネフェイルはそのまま部屋から出て行った。
 出際にグィンに声を掛ける。
「君はフレイムと一緒にいなさい」
「あ、うん」
 修行中は邪魔をしないように普段は別の部屋にいる。グィンは不思議に思いながら、それでも素直にフレイムのところへ飛んだ。

         *       *       *

 ネフェイルは細い道で足を止めた。大量の残留魔力が辺りを覆っている。
(……一体何があったと言うのだ)
 ネフェイルは左腕の袖を捲くると、魔力を抑える封印布を解いた。神腕――呪文は要らず、思うだけで神界の魔力を導くことが出来る。
 その腕で静かに地面を撫でる。
 水の溢れるように魔力は溢れ広がり、絵の具のように大地の記憶を鮮明に描いた。
 ネフェイルはすべてを知った。
「なんということだ……」
 彼は素早く立ち上がると、辺りを見渡した。そして一方向を見定め、声を張り上げる。
「出てきなさい、そこにいるだろう」
 間もなく、一人の青年が茂みから姿を現した。白っぽい、色の淡い茶髪をした青年だ。
「さすがだ」
 年老いた魔術師に飛竜は微笑んでみせた。
 ネフェイルは飛竜を注意深く見つめながら、口を開いた。
「なぜ、ここにいる。お前は何かを企んでいるのか?」
 油断のない相手に飛竜は腕を組んだ。空を仰いで考えながら、同時に言葉を並べる。
「いや、俺さ、ザックを気に入ってるんだよね。それを横取りされてちょっと滅入ってるわけ。できれば、彼をイルタス王から取り返したいんだけどな」
 ネフェイルは双眸を細める。
「それは、つまりザックを救出する際には手を貸すと、そういうことか」
「好意的に取れば」
 飛竜は意味ありげに笑う。
 どうにもはかり難い男だ。ネフェイルはそう思った。
「では、悪意を持って言えば?」
 飛竜は肩をすくめる。
「そうだな。俺はザックを助けたい、そのためにあなたたちを利用しようとしている。そんなとこかな」
 言葉を意地悪くしただけで、結果的に得られるものは同じだろう。ネフェイルは顎を撫でた。
「君は面白い人間だな」
 飛竜は少しばかり驚いた顔をして、それからすぐに相好を崩した。
「俺のことをそういうふうに形容する人間は、なぜだか頭がいい奴ばかりなんだよね」