赤き魔女の封印 5

 ウィルベルトはエルズの放った魔術がなんなのか瞬時に理解した。
「やめろ!」
 思わず叫ぶ。
 だが、エルズはウィルベルトのほうを見やり、唇を愉快そうに歪めただけだった。
「任務遂行だ。黙っていたまえ、スフォーツハッド君」
 ウィルベルトは剣柄を握り締めた。
「殺す必要はないはずだ!」
 その叫びにザックはびくりと肩を跳ねさせた。
「……殺す?」
 エルズの魔術がなんなのか分かっていない様子の剣士に、ディルムは憚(はばか)るような声で囁いた。
「霊子分解だ。精霊を……消滅させる魔術だ」
「……なんだって……」
 白く輝く紫の魔術陣の上に立つ闇音の姿が目に入る。ザックは地面を蹴った。剣を拾う。
「ザック!」
「魔術を解け!」
 ウィルベルトの制止を振り切り、剣を構えて、エルズのもとに駆ける。
「赤き騎士よ!」
 エルズはザック目掛けて炎を放った。
「ぅらああ!」
 ザックは片腕を振って、炎を払った。袖が焦げることなどどうでもよい。
 止まらない剣士に、エルズは笑みを深くした。さらに呪文を唱える。
「穿て、赤き砲弾よ!」
 先ほどの比ではない、矢のごとき炎がザックを目指した。
 ウィルベルトが跳び、ザックに体当たりをする。二人で地面に倒れこみながら、ウィルベルトは剣で空を切った。
「アレス!」
 主人の声に反応して、魔法剣が唸る。衝撃波が炎を掻き消した。
 ザックを庇うように自分の陰に隠し、ウィルベルトはエルズを睨んだ。
「キセット! ザックを殺す気か!」
 金獅子の副団長の怒声に、エルズは頬を引き攣らせた。
「まさか! 君が助けると分かっていたからさ」
 答えて、エルズは姿勢を正した。涼やかに二人の剣士を見下ろす。
「そこでおとなしく見ているといい。影の精霊の最期をね」
 ザックはウィルベルトを押しのけて立ち上がった。
「てめえ!」
「ザック!」
 ザックは動きを止めた。
 呼んだのは闇音だった。
「闇音?」
 ザックは闇音のほうを見た。
 指先を霊子分解の光に巻き込まれながら、闇音は手を伸ばしていた。
「ザック……」
 主人を求めて呼ぶ。
「闇音!」
 ザックは闇音のもとに走った。
 駆けていく弟子の後姿を見て、ウィルベルトは立ち上がってエルズを向いた。
「……霊子分解をやめろ」
 低く漏らすと、エルズはわざとらしく目を見開いた。
「精霊を殺さなければ命令違反だよ?」
「私は聞いていない! 今すぐやめろ!」
 叫ぶ、がエルズは怯みもしない。
「何度も言うように、僕へは命令が下っている。金鷹へ金獅子が口を出すのは越権行為だ。規約に反故するんじゃないかな?」
 落ち着いた声が逆上を煽る。ウィルベルトはエルズの襟首を掴んで詰め寄った。
「戦いも知らない文官の作った、阿呆のような規約など知ったことか」
「……スフォーツハッド君、規約違反は反逆罪だよ」
 満足げなエルズの声。
 その言葉がすべて耳に届くと同時に、後頭部に衝撃を感じる。
 打たれた。
 そのことを理解する意識もろとも深く沈む。ウィルベルトはエルズの襟を掴んだまま、気絶した。
 割り込むことも出来ずに二人を見守っていたディルムは、突如起こった事態に体を強張らせた。
「まさか、こんなところまで来るとは思ってなかったよ」
 エルズはウィルベルトを昏倒させた男を見上げて、笑って見せた。男は答えず、その銀に近い極薄い水色の双眸でエルズを一瞥するだけで終わる。
「噂に勝る無愛想ぶりだね。金獅子の団長様」
 イルフォード・ヴァンドリー。エルズの結界内に空間移動してきたその男は金獅子の若き長だ。
 見上げるほどに背が高く、淡い色の金髪は短く揃えられている。冷たい瞳はそのまま彼の沈着さを表しているようだった。
 崩れ落ちる部下の身体を片手で支え、イルフォードはウィルベルトの手から落ちた剣をもう一方の手で拾い上げた。そのままディルムに渡す。
 そして、イルフォードは消えていく精霊の腕を掴んでいる青年を見つめた。
 魔術陣より立ち上がる紫の光は、彼らを分かつ壁だ。
 ――永遠に分かつ、壁だ。
「闇音!」
 ザックは自分には全く影響を及ぼす様子のない魔術を忌々しく思った。闇音の身体だけが光の渦に巻き込まれていこうとしている。
「どうしたらいい? どうしたら、お前を助けられるんだ?!」
 闇音はうつむいて首を振る。痛みはもうなくなっていた。
「私はもう助かりません」
 あとはただ消えるに任せるだけなのだ。
 ザックは闇音の腕を掴んでいる。なのに、すでに形無き者を掴んでいるような錯覚に襲われた。
 足元から、何かが這い上がってくる。凄まじい速さで、不吉に笑いながら。
「なに、言ってるんだよ……」
 声が震える。
 闇音は顔を上げて笑った。
「精霊は人間とは違います。私は腐敗することなく霊子に分解され、人の言うあの世というところには行くことなく、この世で次の生を待ちます。だから、あなたが悲しむ必要はないのです」
「なんだよ、それ。お前がいなくなるなら同じだ!」
 声を荒げて、ザックは闇音の腕を握る力を強くした。
「どこにも行かない。お前はどこにも行かないんだ!」
 闇音は目を伏せた。
 もう、彼の命令に答えることは出来ない。痛みが消えてから、更にすべての感覚が失われつつある。
「ザック、逃げてください」
「お前も一緒に逃げるんだよ!」
 腕を引く主人を闇音は突き飛ばした。しりもちをついて、唖然とするザックを見下ろして叫ぶ。
「逃げなさい! 馬鹿でないなら分かるでしょう!」
「馬鹿で構うか!!」
 怒鳴り返して、ザックは立ち上がった。
「俺は馬鹿だ! 怒ってるお前が、泣いてるようにしか見えないんだからな!」
 闇音は口を噤んだ。光に包まれた体が震える。
 この主人はどうしようもない馬鹿だ。
「……ザック……」
 顔を覆う精霊の肩をザックは揺すった。
「お前、どこにも行かないって言ったんだぞ! 嘘をついたら許さないからな!」
 ずっと側にいると約束した。
 闇音は頷いて顔を上げた。ザックの顔に手を伸ばす。
「……ええ。霊子になっても、私はあなたの側にいます」
 黒い髪、日に焼けた肌、翠を含んだ美しい瞳、張りのある笑い声、ころころと変わる表情。人を信じることを忘れず、人を助けるために迷うことなく駆け出す。
 ――その魂すべてが、愛しい。
「あなたは私が愛した唯一の人だから……」

 光が。

 ザックは闇音の手を掴み返そうとしたが、手はするりと宙を掴んだだけだった。手の平に輝く粒子が残る。
「……闇音……?」
 きらきらと。
「闇音!」
 光の渦が空へと舞い上がる。竜巻のように柱となって。
「闇音! 闇音!!」
 喉が裂けるほどに叫ぶ。
 ――霊子ってなんだ。そんなものは知らない。そんなものは。
 そんな――
「うわあああああ!!」

 音を残すこともなく、光は風の中に消えた。