第三章 翠の証

翠の証 1

 白い砂浜。何処までも広がる青い海。緑の木々が生い茂る美しい島。
 ――私はこの海を渡ってこの島へやってきた。
 愛する人と共に暮らすために――。
 金の美しい髪を潮風になびかせ、その女性は海を見つめていた。胸に生まれて間もない我が子を抱き。日がわずかに傾き、徐々に赤みを増してきた空は海の青とあいまって、夢のような情景を編み出している。
 昼寝から目を覚ましたばかりの赤子はまだぐずっていた。黒にうっすらと翠のさす瞳は涙で濡れている。
 ――この瞳はこの子が私とあの人の子供である証――。
「ザック……」
 女性は愛しい我が子の名を呼んだ。まだ言葉を理解しようはずもない赤子は、美しい母の呼びかけに首を捻ってみせるだけであった。紅葉のような小さい手を精一杯開いて、母の輝く髪を掴もうとする。
 年若い母は椅子を揺らし、子に優しく話し掛けた。
「おまえの父さん、今日は帰りが遅いね……。何処で道草を食っているのかしらねぇ……」
 その数時間後であった。
 彼女の元に、愛する夫の――死の知らせが届くのは――。

         *       *       *

 黒い肥沃な大地の広がる、農業の都市コウシュウ。地平線まで畑の広がるこの街に、フレイムたちはやって来ていた。畑の間を走る畦道にはたまに木が生えており、農民たちがその木陰で休んでいる姿が見うけられる。
「綺麗なところだね」
 シェシェンの町で買った白い帽子を手で押さえながらフレイムは呟いた。フレイムは暖灰色の髪に、薄紫の瞳を持つ、線の細い少年である。その彼の精霊であるグィンが、気持ちよさそうに深呼吸をしてうなずく。
「ねぇ? ザック」
 フレイムは広大な大地を見渡すザックを振り返った。ザックは高い身長に黒い髪と瞳を持つ、美男だ。しかし彼は畑を見ていると言うよりも、空の彼方を見つめていた。フレイムは黒髪の青年の表情を窺うように覗きこんだ。
「ザック?」
 目の前で視界を遮るように手のひらをひらひらと振ってみせると、ザックは驚いた様子でフレイムを見下ろした。
「……何だ?」
 今までの話は聞いていなかったらしい。フレイムが小さくため息をつく。
「綺麗なところだね、って言ったんだよ」
「あ、ああ、そうだな。良いところだ」
 ザックは気のない返事をした。
「何か、気になることでもあるんですか?」
 ザックの精霊である闇音が、彼の肩を叩く。影の精霊である闇音は性別を持たず、いでたちも黒を基調とした素っ気無いものである。しかし美しい容貌を持つ彼には、それだけで十分だと言えた。
「雨でも降るんじゃないかと思って……」
 ザックはまた空を見上げ、そう言った。フレイム達もつられて空を見上げる。
 雲一つない、快晴。伸びやかに広がる青い空は、永遠の時を象徴しているかのようだ。
「雨……降るの?」
 グィンがフレイムを見て、小さく尋ねた。フレイムは首を捻ってみせるだけだった。彼にも雨が降る兆候は窺えない。二人は一心に空を見つめる青年に目をやった。
「……風が……重い」
 独り言の様に呟き、ザックは睫毛を瞬かせた。フレイムとグィンは顔を見合わせた。なるほど、島育ちであるザックは二人には感じることの出来ない、風を読んでいるのだ。
 闇音が彼の肩をポンポンと叩き、首を振った。
「海と違って、内陸の、しかも平地の天気はそう簡単に変わるものではありませんよ。それに私達が船に乗って進んでいるわけではないですしね」
「ああ、そうか。……そうだな」
 ザックは輝く太陽を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「ザック、疲れてるんじゃないの?」
 フレイムがそう言って、ザックを見上げる。いつもの彼はもっと口数が多い。シェシェンとコウシュウの間は長く、ここしばらく歩き通しだった。しかも彼はシェシェンでのガンズとの一戦で、左腕に深い傷を負っていた。今だ腕に巻かれている白い包帯は痛々しい。
「そんなことは……」
 ザックはゆっくり首を振った。
「……ないよ」
 そう言って、フレイムの帽子に手を置くと、優しく笑った。フレイムは納得がいかないように、眉をわずかに寄せた。

         *       *       *

 重厚な金の輝き。尋常ならざる財力を持って揃えられた調度品に囲まれ、一人の男は椅子に腰掛けていた。後ろは全面ガラス張りの壁で、室内は明るい雰囲気を保っている。しかし、男の眉間には深い皺が刻まれていた。
 イルタシア現国王、イルタス六世。年はまだ三十を越えたばかりで、鋭い灰色の瞳は燃えるような光を湛えている。その彼の目を見て、鷹の目ようだと言った者もいた。金に近い茶髪の持ち主で、削いだように痩せた容貌をしている。
 彼は嫡出の王ではなく、前国王の正妃の娘パスティア皇女と結婚することで、王室入りを果たした。元は王家に親密で、血筋も高貴な貴族の息子である。剣士であった彼が王家主催の剣試合で、その見事な腕を振るったのがパスティア皇女の目に止まったのだ。
 今や一国の王となった彼の手には、一枚の紙が握られていた。文の最後にはイルタシアのある豪族のサインと印が押されている。
 イルタス王は深いため息をついた。その時、細かい装飾が施された重い扉が開かれた。
「まあ、我が君。ため息などつかれて。いかがなさいました?」
 透けるような銀の巻き髪が揺れる。海よりも深い青い瞳。
「パスティア……」
 イルタス王は低い声で、現れた自分の妻の名を呼んだ。パスティア王妃はにこりと笑い、傍に仕えていた従者を外におき、扉を閉めた。彼女は稀に見る美貌の持ち主で、人々から王家に咲く神の華だと称えられている。
「シェハード侯からの御手紙が、ため息の原因かしら?」
 王妃は優雅な身のこなしで夫に近づいた。王は手にしていた紙を渡し、机の上で手を組んだ。
「フレイム・ゲヘナの捕獲を阻む輩がいる。よほど剣の腕が立つらしい。シェハード侯の抱えていた、名高い剣士は敗れた」
 王は苦い物を噛んだような口調で手紙の要点を妻に教えた。王妃は手紙を広げ、羅列された文字を目で追った。赤い唇の端がわずかに上がる。
「……ザック・オーシャン……」
 王妃は楽しむかのように、その名を口にした。手紙をたたみ、王の机の上に置く。
「この男にも、賞金を掛けて差し上げたら?」 
「……いかほど?」
 王は灰色の瞳ではかるように王妃の美しい顔を見上げた。
「……とりあえずはじめは五億……」
「五億か…。少し高いが悪くはない。しかし彼は生死問わず…」
「いいえ、彼も生け捕りで……」
 王妃は笑みを浮かべ、その白い手で王の痩せた頬に触れた。
「十億もの賞金首を前にしておきながら、彼はその者を助ける。……きっと二人は親密な関係にあるのですわ。もし、彼が先に捕まれば、フレイムは案外のこのこと現れるかもしれません」
 王はしばらく考え込んだが、深くうなずいた。
「一理ある」
 王妃は王の唇に接吻した。
「ご英断ですわ」
 王は見ていなかったが、王妃の青い瞳はぞっとするほど、鮮烈な輝きを帯びていた。
 その後イルタス王は書記を呼び、新たに賞金首を増やす令状を作らせた。フレイム達がコウシュウに入る三日前のことであった。

翠の証 2

 昼頃になって彼らは、昼食をとるべく近くの飲食店に入った。余計な出費を重ねる必要はないと、食事をとらない闇音はザックの影に消えた。
 ご飯時というだけあって、飲食店内はもう九割がた埋まっていた。食器の触れ合う音と、和やかな会話の入り混じる店内は温かみがある。ザックが給仕を呼び、二人分の食事を頼んだ。給仕は二人にお冷を出し、しばらく待つように言って、厨房のほうへ戻って行った。
 コップの中で、からんと氷がぶつかる音がする。喉が乾いていたフレイムは、一息に冷たい水を干した。ザックはその様子を黒い瞳に淡い笑みを湛えて見ていた。
「俺のも、飲んでいいよ」
 そう言ってまだ口を付けていないコップを差し出す。フレイムは眉を上げて、やや驚いたような顔をした。
「いらないの? ……だって、外暑かったし。朝ご飯の後から、ザック何も口にしていないだろ?」
 よく見ているもんだと、ザックは唇の端を下げる。それから今度は、小さな妖精のほうにコップを進めた。
「お前はいるだろう?」
 グィンは嬉しそうにうなずくと、傍においてあったストローをさして、冷水を飲んだ。
 フレイムは訝しげに眉をしかめてザックの方を見た。
「ほんとに何ともないの? またなんにも教えてくれないってのは、もうなしだよ」
 シェシェンでの一騒動の後、ザックはどうしても言いたくない事以外は隠さないと約束してくれた。そのことがあったので、ザックは肩をすくめて口を開いた。
「お前って奴は勘がいいんだな……。ああ、確かに疲れてるよ」
 フレイムが微かに口を曲げるのを見て、ザックは含み笑った。
「でも、大した事はない。だって、今日はもうこれ以上進まないんだろ?」
 フレイムはうなずいたが、その目はまだ諦めていない。水を飲むグィンを目で示していった。
「緑の精の魔術では、疲労は癒せないんだよ。神腕でだって無理だ」
「肝に銘じておくよ。闇音もうるさいしな」
 ザックは両手を上げて、降参の意を示した。
 しばらくして、給仕が食事を運んできた。だが、やはりザックはその半分も手をつけなかった。食べ盛りであるフレイムは綺麗にたいらげたが、残してあるザックの料理を見て、顔をしかめた。ザックは眉を下げて、笑ってみせるしか出来なかった。

 とうとうザックが道端に座りこんでしまったのは、日も暮れ始める頃だった。
「わりぃ……」
 傍の木にもたれ掛かり、ザックは弱々しく謝った。フレイムが首を振りながら、近くの農業用水を流す用水路で濡らしてきたタオルで彼の額を拭った。
「いいよ。宿は近いし……」
 昼食の後、ザックは決して無理をするようなことはなかった。しかし、彼にはすでに歩くことも辛くなっていたのだ。
「熱が高いですね……」
 闇音が呆れたような面持ちでに、ザックの額に手をあてた。
「……大丈夫だ。宿までは歩ける」
 そう言って立ち上がろうとするザックの腕をフレイムが慌てて掴む。彼の腕は思いのほか熱かった。思わず眉を寄せる。
「何言ってるんだよ。無理に決まってるだろ。待っててよ、誰か呼んでくるから」
「そうですよ。これ以上動き回って容態悪くしたりしたら怒りますよ」
 闇音も厳しい口調でたしなめる。ザックは苦笑した。
「じゃあ、頼む……」
 そのまま彼は瞼を伏せてしまった。グィンがその頬を突ついてみたが、ピクリともしない。
「気、失っちゃった……」
 グィンが心配そうにフレイムを振り返る。
「なんで、もっと早く気づけなかったんだろう……」
 フレイムは拳を握り締めて、歯噛みした。一度でもザックに触れていたら、熱があることに気づくことができただろう。
「ザックは嘘をつくのが得意なんです。あとフレイム様に心配かけたくなかったんですよ。ま、裏目に出ましたがね」
 闇音は両手を広げて笑った。今になって思えば、闇音は何度かザックの体に触れていた。彼女はザックの容態に気づいていながら、主人の意志を尊重したのだろう。
 フレイムがこれからどうするかについて口を開こうとした、その時だった。
「その人どうしたんだい? 動けないの?」
 太い声が背後から響いてきた。三人が振り返ると、背の高い、がたいのいい男がこちらを心配そうに見ている。そう若くはなく、四十手前のようだが、その瞳にはまだ衰えは窺えない。黒い髪と黒い瞳をしている。農夫のようで、服の所々に土汚れがあった。
「ええ、少し熱を出したようで。宿まで運びたいんですが、何処へ行けば手を貸してもらえますかね?」
 闇音が男に尋ねた。農夫はぐったりして木に寄りかかっているザックに目をやった。心配そうに眉を下げる。
「宿はもうとってあるのかい?」
「いいえ、これからですが……」
 農夫は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「じゃあ、家へ来なよ。宿より近いし」
「でも、ご迷惑が……」
 農夫は手を振った。
「いいんだよ。この町じゃ、出会いというものを大事にする。その人が倒れて、私が通りかかったのは縁というものだ。な、家においでよ」
 闇音が困ったようにフレイムを振り返る。フレイムも同じような顔をしている。
「これは願ってもない申し出ではあるけど……」
 フレイムはイルタシアの国王イルタス六世によって高額の賞金をかけられている。あまり知らぬ人と関わりを持つことは避けたい。
 グィンがフレイムの袖を引っ張った。
「でも、早く休ませてあげないと……」
 グィンにしては珍しい事を言った。彼女がフレイム以外を心配することはほとんどない。それほどグィンの目から見ても、ザックは弱っているのだ。
 フレイムは眉を寄せて、ザックを見下ろした。もしこの立場が逆だったら、ザックは迷わずこの男の言葉に従うだろう。自分だって、それは同じである。
「では、お願い……できますか?」
 フレイムはためらいながら、頼んだ。農夫は笑ってうなずき、ザックに近寄った。そしてその太い腕でザックの身体を軽々と抱え上げてしまう。フレイムがその様子を呆気にとられて見ていると、農夫が気づいて片目を閉じてみせた。
「力仕事は慣れているんだ。これくらい、軽いものだよ」

翠の証 3

 農夫の家は本人の言う通り、近くにあった。小さな庭があり、白い壁の二階建ての家だ。庭には物置だろう小屋があり、その前に植木鉢が逆さに二、三個置かれていた。彼以外に住人はいないらしい。
 農夫ははじめ二階へ上がり、客室のベッドにザックを寝かせてくれた。フローリングの客間は特に目立つ装飾はなかったが広く、ベッドが二つ置かれている。
「うん、ひとまずはこれでいいだろう。明日になっても熱が高かったら、医者に来てもらおう」
 農夫は洗面器に水を汲み、ザックの額に湿らせたタオルを置いた。
「何から何まで……、本当にありがとうございました」
 フレイムが深く頭を下げると、農夫は腕を振った。
「ああ、よしてくれ。そんな風に礼を言われると、くすぐったいよ」
 くだけた話し振りを初めて聞いたフレイムが、やや驚いたように眉を上げた。
「あなた……イルタシアの人ですか?」
 農夫のほうも驚いて、フレイムの顔をじっと見つめた。フレイムが思わず後ずさる。
「確かに私はイルタシア人だが、八年も前に国は捨てたよ。今はここに暮らすただの農民だ。なんで、君分かったんだい?」
 フレイムはほっと安堵の息をついた。八年前にイルタシアを出たのなら、フレイムの事は知らないだろう。
「訛りが少し……」
「ああ、そうか」
 農夫は納得がいったように笑い、フレイムたちを一階の部屋に招き入れた。フレイムと闇音はすすめられた席に腰を下ろした。板張りのダイニングキッチンで、男の一人暮しにしてはきれいに片付けられている。
 農夫は二人にお茶を出し、向かいの席に着いた。グィンにはエルフィンベリーを差し出す。
「自己紹介がまだだったな。私はシギル・マリン。君たちは?」
「……フレイム」
 フレイムはためらい、フルネームは言わないことにした。続けて、闇音とグィンもそれぞれの名をシギルに教えた。
「上の人は?」
 シギルは、指で天井を指した。フレイムが口を開いた。
「ザックです」
 その瞬間、シギルは凍りついたように固まった。三人が怪訝に思い、顔を見合わせる。
「……どうかしましたか?」
 フレイムがおずおずと尋ねると、シギルは弾かれたようにフレイムの顔を見た。
「あ、ああ、すまない。その……私はイルタシアの……グルゼ島の出身なんだ」
 シギルの口から漏らされた言葉に今度はフレイム達が驚かされる。グルゼ島はザックの出身地である。
「ザックって、ザック・オーシャンのことかい?」
 シギルの口調は夢のようだっと言っているようだった。フレイムは慌てて首を縦に振る。
「はい。ザック・オーシャンです」
「なんという……なんという巡り合わせだ……」
 低い男の声は祈りにも似ていた。片手で顔を覆い、天を仰いで首を振る姿にフレイム達は息を呑みこんだ。
 シギルはゆっくりと息を吸い、落ち着こうとしたが、その声は震えていた。
「私がザックを……彼を……育てたんだ」
 フレイムが勢いよく立ち上がり、座っていた椅子が倒れる。机に両手をつき、フレイムはまっすぐに男の目を見つめた。ザックと同じ黒い瞳。
「ザックの……お父さん?」
 フレイムの呟きに、シギルが慌てて首を振る。
「いいや、あの子は、ジルの……私の友人の子だよ」
 シギルは天井を見つめて言った。
「ジルが死んで、ほかに親戚のなかったザックの母とザックを私が養ったんだ。……そうか、あの子が……」
 シギルの目には涙が浮かんでいた。フレイムはもちろん、闇音もグィンもただ呆然とその涙を見つめていた。

 シギルの話によれば、ザックの両親は父がジル、母がマリーといった。父はザックが生まれて間もなく病に倒れ、母もその三年後に天に召されたと言う。その後ザックが十三歳になるまでの十年間、シギルが一人で彼を育てたということらしい。
 闇音もはじめて聞くことだったらしく、いくらかショックを受けたようで、何も言わず黙っていた。今は、フレイムの横に身を小さくして眠っているグィンの影に入っている。おそらくグィン同様、眠っているのだろう。
 フレイムは隣りで眠る黒髪の青年を見つめた。シギルの事をザックに教えようと三人は言ったのだが、シギルは首を振って、こう断わった。
「私は彼が一人で暮らせるようになると、彼をおいて島を出たんだ。捨てたようなものだ。今すぐには、会えない。せめて彼が目を覚ますまで、時間をくれないか……」
 彼の声には罪の意識があった。
 フレイムはベッドから出て、ザックの額のタオルを取り替えた。幾分伸びてきた前髪のかかる額はまだ熱い。
(ザックの育ての親……か)
 月の青い光が南向きの窓から差し込んでいる。
 夕食はシギルの手料理で、大変おいしかった。彼はとても親切で、明るい性格の男だった。ザックを育てたのは彼だと言われれば、確かに納得のいくところである。
 フレイムはザックの髪を撫でた。
(ザックは喜ぶかな……。それとも自分を置いて行ってしまった、あの人のことを怒っているのかな……)
 シギルはザックをおいて島を出た理由は話さなかった。フレイムもあえて追及しようとはしなかったが、胸が痛んだ。身よりもない状態で一人にされたザックはどうしたのだろうか。一人で生活できる基盤は出来ていたとはいえ、十三の子どもだ。少なからず、寂しい思いをしただろう。
 静かな寝息をたてるザックをフレイムは見つめた。思えば、眠っているザックをこんなふうにじっと観察するのははじめてだ。
 瞼を縁取る黒い睫毛は、普段の記憶よりもずっと長く感じる。無意識にフレイムはその目元に触れた。日に焼けた彼の肌は熱を帯びて、微かに汗ばんでいる。
 フレイムは傍にあった、シギルが予備にくれたタオルを濡らして、ザックの顔を拭こうとした。タオルを彼の頬に押し当てると、厚手の布から水が滲んだ。
「……ん」
 冷たい水が肌をのろのろと伝う感触に、ずっと閉じられていた瞼が重そうに持ち上げられる。
「……ザック?」
 フレイムは起こしてしまった罪悪感と、やっと目を覚ましてくれた喜びの入り混じった声で、その名を呼んだ。
「フレイム?」
 寝起きの掠れた声が、耳を撫でる。まだはっきりと覚醒していない様子で、ザックはフレイムを見上げた。それから、自分が目を覚ますきっかけとなった、頬を濡らした水を煩わしそうに拭った。
「……お前、もうちょっと……ちゃんと絞れよ」
 フレイムが手にしているタオルに目をやり、ザックはいくらか呆れた様子で呟いた。
 熱で潤んだ黒い瞳を見とめ、フレイムは思わず泣きたいような衝動に駆られた。しかし息を呑みこんで、堪える。
「ここは……宿か?」
 ザックはそんなフレイムの様子には気づかず、首を捻って部屋を見まわそうとした。フレイムは首を振った。
「近くを通り掛った農夫に助けてもらったんだ。その人の家だよ」
「そうか……。礼を言わなきゃな……」
 フレイムはじっと、ザックを見つめた。ザックはまだきつそうに息を吐いたが、フレイムの視線に気づき眉を寄せた。
「……何だ?」
 フレイムは口を引き結ぶと、声を落としてザックに囁いた。
「この家の持ち主はね、シギル・マリンさん」
 ザックは睫毛を瞬かせた。
「え?」
「……呼んでくるね」
 フレイムは立ち上がり、身を翻すと部屋から出ていった。
 ザックは閉められた扉を見つめた。
(シギル……?)
 その名は親しみのないものだった。

翠の証 4

 シギルは眠っていたが、フレイムのドアを叩く音にすぐに目を覚まし、客室に赴いた。闇音もグィンも起きている。
 ザックは目を見開き、ゆっくりと体を起こした。現れた背の高い男に上から下へと目をやる。
「……シィ?」
 疑問形で呟かれた呼び名。フレイム達は直感的にそれがシギルの愛称なのだと悟った。シギルが涙を浮かべて、うなずく。熱でまだ動きが鈍い青年に近づき、その肩を抱きしめた。
「ザック」
 シギルの震えた呼びかけに、ザックは睫毛を震わせた。シギルの首に腕を回す。
「シィ……」
 透明な雫がザックの頬を流れる。
 フレイムも、闇音もグィンも声を出せず、黙って、その光景を見つめていた。闇音がフレイムの袖の肩口を握り締める。フレイムは闇音を見上げたが、その瞳はザックの涙を凝視している。無意識にフレイムの袖を掴んだのだろう。
 だがフレイムにもその気持ちはわかった。ザックがこんなふうに泣く人間だとは知らなかった。養父の厚い胸に額をあて、声もなくすすり泣いている。
 シギルが重く口を開いた。
「ザック……、私を許してくれるのか?」
 ザックは顔を上げ、真摯な面持ちで彼を見つめるシギルを見つめ返した。
「許すって……何を?」
 軽く首を傾げる。シギルは唇を震わせて、みるみるうちに涙を溢れさせた。
 他人の子とはいえ、十年間育てた子どもは、自分が彼をおいていったことを責めてはいなかったのだ。
 シギルはザックをきつく抱きしめた。首を捻りながらも、ザックはその抱擁を受け入れた。

 シギルが部屋を出ていったのは、ザックの熱がまた高くなり始めた頃だった。彼はこれ以上、負担を掛けるわけにはいかないと、ザックの額に接吻して、自室へ戻って行った。
 ザックはまた布団の中に寝かされた。だが彼はすっかり目を覚ましてしまったらしく、闇音が横に座って話し相手になっている。フレイムはベッドに横になってはいたが、二人のやりとりを聞いていた。グィンも起きていようと頑張ったが、今は一人で夢の中だ。
「シィは、俺と母さんと一緒に暮らしはしなかったが、生活費やら何やら全部、世話してくれた。母さんが死んでからは、俺を引きとって、面倒見てくれたんだ。読み書きも、家事も、なんでも彼に習った」
 闇音が柔らかい笑みを湛えて彼の話を聞いている。フレイムがためらいがちに口を開いた。
「ねぇ、ザックのお母さんてどんな人?」
 ザックは眉を下げて笑ってみせた。
「悪いが、覚えてない。父さんもな。どっちも俺の小さいうちにいなくなったからな」
 フレイムの瞳が罪悪感を覚えるを見て、ザックは優しい笑みを浮かべた。
「でも、すごい美人だったとは聞いている。島の人間じゃなくて、大陸の女だって。父さんもなかなか、色男だったようだな。海の向こうから嫁を連れてきたんだ」
 ザックはにやりと笑ったが、その額を闇音が軽く叩いた。
「父上に向かって、失礼なことを言うものじゃありません」
「褒めたんじゃないか」
 ザックが不服そうに訴える。フレイムがくすくすと笑うのを聞きとめ、ザックはわずかに眉をしかめた。
「……でも、その父さんも病気で死んだんだよな。生前は健康で、とてもそんなふうに死ぬ男には見えなかったって……。世の中、何が起きるかわかんないよな……」
 天井を見つめながら、ザックは静かに呟いた。
「あなたが寝込んでいるだけでも……。本当に、世の中何が起きるかわからないものです」
 闇音が嫌味に言うと、ザックがそうかもなと笑った。
 ザックは、あまり父母の死を悼んでいるようには見えない。人の死を理解するには、彼は幼すぎたのだ。
「母上はどうして……?」
 闇音が尋ねると、ザックはわずかに首を捻った。
「多分、母さんも病気で……」
 その様子に、闇音とフレイムが顔を見合わせる。
「よくわからないんだ。三歳の時の事なんてろくに覚えてないし。いちいち確かめるのも、なんだか気が咎めてさ……」
 ザックは笑みを浮かべて、続けた。
「でも俺、シィが優しくしてくれたから、もうそれだけでいいと思った。シィに、嫌なことは思い出してほしくないと思ったんだ」
 闇音が目を細めて、彼の髪を撫でた。
「幼い時は随分と素直で可愛らしかったんでしょうね。ザックは……」
「……どういう意味だよ」
「人は年をとるごとに純真さを失っていくんですよ」
 闇音は悟った者のように胸に手を当てて天井を見つめた。ザックが片眉を上げる。
「それは精霊にも言えるんじゃないか」
「失礼な」
 闇音が心外だと言うように、眉を寄せる。それから小さく息をついたザックの布団を、彼の肩まで掛けなおした。
「さあ、もう寝なさい。疲れたでしょう」
 そう言いながらザックの額に、熱を計るように手をあてた。闇音は目を伏せると、洗面器の中に放置されていたタオルを絞り、彼の額の上に置く。 
  「ああ、疲れた。もう、ぶっ倒れるのはご免だ……」
 気だるそうに答え、ザックは睫毛を落とした。静かな寝息が聞こえる。
「もう寝ちゃったの……?」
 ほんの数秒の事に驚いて、フレイムが小さな声で闇音を尋ねた。闇音が片目を閉じて、いたずらそうに笑う。
「ええ。さすがのザックも熱には勝てないようで……」
 フレイムは笑みを浮かべ、しばらくして寝息をたてはじめた。

 闇音はザックの寝顔を黙って見つめていた。
 白く長い指で、彼の唇に触れる。
 その様子を見ているのは青い月だけだった。
 背をかがめ、そっと唇を重ねた。

 マリーはジルが連れて来た、美しい女性だった。島の者は誰も持たない、金の髪。綺麗な声。優しい笑顔。
 島の男はみな一目で彼女に恋をした。しかし、彼女の瞳にジル以外が映ることはなかった。
 もう二十年も昔のことだ。
 シギルは眠れず、自室の椅子に腰掛けていた。脚の上で手を組み、窓から月を眺めている。
 ザックが、自分の前に現れた。彼は十三歳のときより、更に母親に似て育っていた。
 神を恨むべきか、それとも悪魔に感謝すべきか。
 シギルは深いため息をついた。何の為に彼の傍から離れたのか。
 月は死んだ女の横顔のように蒼白で、美しい。今も、目に焼き付いて離れないあの死に顔。白い花の様に、清楚で儚かった。
 シギルは片手で目を多い、きつく目を瞑った。
 彼女はあっけなく死んだ。たった一人の息子を残して。三年前に死んだ夫を追うように。
 ――いや、無理やり追わされたのか。

翠の証 5

 イルタシア国のほぼ中央に位置するホワイトガーデン。人口面でも広さでも国内一の規模をもち、国王イルタス六世の住まう都市、つまり王都である。
 ホワイトガーデン内に居住、滞在している魔術師や剣士など戦闘能力を持つ者達の間では、「それ」はすでに噂になっていた。彼らの集う場所では、ここ二、三日その話題で持ちきりだった。
 このパブも例外ではなく、狭いテーブルに三人の剣士が頭を寄せ合ってある。昼間のため、彼ら以外には店主しかいない。客が集まりだすのは夕暮れからだ。
「ガルバラの剣士、迷彩のガンズが破れたらしい」
「まさか……、ガセじゃないのか?」
「しかし、この男には例の賞金首もついていると言うし……」
 と、そこで彼らの話は止まった。パブの扉が押し開かれ、新しい客が入ってきたのだ。
「……なんだありゃ」
 一人の剣士が呟く。新しい客は彼らの知らない異国の衣裳を身に纏っていた。ボタンのない上着を重ね、だぶついたズボンのようなものを穿いている。その上着が長着、ズボンが袴という民族衣装であることを、剣士たちは知らなかった。
 髪は白くけぶるような薄い茶色。その男はちらりと店内を見回し、店主の方へ向かって歩いた。
「聞きたい事がある」
 男は至って普通の口調で店主に話しかけた。しかし店主は訝しそうに目を細めて、男を見返した。
「あんたどこの国の人間だい? この国にはそんな妙な格好の者はいないし、ましてやそんな…」
 赤い瞳。言おうとして、店主の口は閉ざされた。
 店主の顎を掴んだ男がその血の色の瞳を光らせる。
「聞いているのはこっちだ」
 店主は青褪めて、満足に動かせない首を縦に振った。それを見ると男はあっさりと手を離し、薄い笑みを浮かべた。
「三日前更新された犯罪者リスト……。その中の大物首のことを知りたい」
「それなら、俺たちが知ってるぜ」
 声を上げたのは剣士の一人だった。酔っているのか、顔はほのかに染まっている。横の者が慌てて肘で小突く。しかしかまわず剣士は続けた。
「例の剣士の事だろう?」
 和服の男が剣士の方を振り返る。剣士の口元が笑みの形に歪んだ。
「入ってきたときも思ったが、やっぱり別嬪さんだ……。なあ、こっちで酌でもしてくれたらいくらでも教えてやるぜ」
 すると、男はふわりと微笑んだ。横でおろおろしていた残りの剣士もはっと息を飲む。
 柔らかい日差しを受けて綻ぶ花の笑みだった。


 爽やかな外の風が吹き込んでくる。無残にも足を失ったイスを、和服の男は放り投げた。目の前には剣士が尻餅をついている。
「俺に気安く触るな」
 怒りを含んだ低い声が漏らされた。
 店の半分が吹き飛んでなくなり、店主は泡を吹いて倒れている。残りの剣士もだ。ぽっかりとあいた壁からは灰色の空が見える。
 男は魔術師だった。桁外れの。それはパブの壁を壊すときに、長い呪文を用いなかった事で容易に知れた。魔術師は力が強いほど、その呪文は短くてすむのだ。
 腕を組み、高慢な瞳で剣士を見下す。
「酌してもらうのはこっちだ。だが、おまえらの汚い手で注がれた酒を飲む気はない。そのままでいいから、話せ」
 慣れた命令口調。すっかり酔いの覚めた剣士はがくがくと震えながら頷いた。そして一人の男の名を呟いた。
 反逆者、ザック・オーシャン。

     *   *   *

 翌朝、フレイム達は昨夜同様シギルの手料理を食べた。ザックもふらふらと起き上がり、なんとか食卓についている。
「腹はすいているんだが、……どうも、食べる気が起きない……」
 ザックは疲れた口調でそう言い、目の前に置かれたハムをナイフで突ついた。切るだけは切っているが、どれ一つ口に運ぼうとはしない。ただ、コップの中のミルクだけが減っていく。
「無理する必要はない。……そうだ、粥でも作ってやろうか?」
 シギル自身はすでに食事を終え、食の進まない養子に気を掛けている。
「いや、いいよ。食べたくなったら、一人でパンでも焼いて食べるよ」
 ザックは眉を下げて笑った。
 その横でフレイムは、ぱくぱくと出された食事をたいらげていった。成長期である彼は、今までの食の細さを補うかのようによく食べた。しかし、横に太る気配は今のところない。
「まあ、俺もおまえの年頃は四六時中、腹を空かせてたな……」
 フレイムの食欲に、今ばかりはいくらかうんざりした様子でザックは言った。
「このまま、身長伸びつづけてくれると、うれしいんだけど……」
 最後のパンの一切れを飲みこんで、フレイムは自分の額の前に手をかざした。
「俺を追い越すかどうか、楽しみだな」
 現在、フレイムより十五センチほど、背の高いザックはにやりと笑った。
「追い越された時の悔しがるあなたの顔が、容易に想像できますね」
 闇音は無表情でそう言い、ザックを見やった。ザックは笑って、彼を振り返った。
「ああ、そりゃまあ、悔しいけどな」
 普段なら、毒の一つでも吐くところだが、ザックには今、そんな気力はないらしい。闇音は眉を寄せながらも、主人に笑みを返した。
 グィンはシギルの出したアルムという肌色の果実にかじりついている。周りの話には頓着せず、無心にアルムを貪っている。
 午後からフレイム達は泊めてもらったお礼を兼ね、シギルの畑でドワーフ追いをすることになっている。ドワーフはつくし筑紫ほどの身長の小人族で、畑の作物を引き抜いては自分たちの食料庫へと盗んで行ってしまうのだ。間もなく収穫を向かえる畑から、彼らを追い出してしまうのである。
 もちろんザックは一人留守番を言いつけられたが、彼は外に出たいと言い張った。闇音が叱り飛ばそうとしたが、その前にシギルがあっさりと許可を出してしまった。
 フレイムたちも薄々気付いてはいたが、シギルはどうもザックに甘い。他人の子を預かって育てていたのだから、自分の子のように厳しくできないことも分からないでもない。
 しかしシギルの場合はそうではなく、ザックを溺愛しているように思えた。
 そして昨日からずっと世話になり続けているシギルに対し、さすがの闇音も何も言えなかった。
 結果、畑仕事に手を出さないまでも、ザックは畑の傍の木陰でフレイム達を見ていることになったのである。

翠の証 6

 太陽は昨日同様、節操もなくぎらぎらと輝いている。その陽光をそっくり写したかのような金の麦穂。フレイム達は汗を流しながら、ドワーフを追い掛け回した。
 もともと、フレイムの運動神経はお世辞にもいいとは言えない。直線を走るだけなら同じ年の子らにも負けない自信はある。しかし植えられた作物を避けながらの作業はもちろん、ドワーフ達はすばしっこく、実に骨の折れる仕事であった。
「捕まえた!」
 フレイムは黒い土の上に転がりながらも、やっと一匹目を両手で捕らえた。手の中でじたばたと小人が暴れる。
「離せよぅ! 人間!」
 ドワーフはしわがれた声で喚いた。鼻は鷲鼻で、小さい目がじろりとフレイムを睨む。
「……そんなこと言われても……。君達、放っておいたら農作物荒しちゃうだろ?」
 フレイムは小人が逃げないように注意しながら、ぺたんと地面に座りこんだ。
「おいら達だって、食わなきゃ生きてけないんだ」
「……でも……」
 フレイムは唇の端を下げて、ドワーフを見つめた。そこへ上から白い手が伸び、小人の首根っこを掴んで持ち上げた。闇音はそのまま、ドワーフをぽいと籠の中へ入れてふたをした。
 まるで携帯の監獄に放り込まれたようかのに、ドワーフは竹の柵を握り締めた。
「なんだよぅ。出せよ!」
「食べなきゃ生きていけないなんて、自分達で畑をこしらえてから言いなさい。人様のおこぼれにあずか与ろうなんて百年早いですよ」
 闇音は小人を叱咤して、そのまま籠を抱えると、グィンのほうへ行った。フレイムはその様子を呆気にとられて見ていた。
「……闇音さん、強い……」
 グィンは虫籠の中に捕らえられたドワーフ達と、世間話をしている。小さい者同士、話があうのかとフレイムは思ったが、あえてそれは口に出さなかった。
 ザックは二本の細い広葉樹の下で、シギルの水筒の見張りを言い渡された。今のところそれを忠実に守り、じっと木の下に座っている。実際、動き回ろうにも彼はそれほど回復していなかった。熱が尾を引いているのだ。
 闇音もその様子を見とめ、別段彼に気を掛けはしなかった。
 シギルの畑は広大で、麦の丈は高く見通しが悪い。そのとき、もうフレイム達の目にザックが座っている広葉樹は捉えられなくなっていた。
 樹の作る深い緑の影。時折吹いてくる風が心地よい。
 久しぶりに安穏な空気を得て、ザックはぼんやりしていた。
 そばには剣が転がっている。暇があれば磨こうと思って持ってきたのだが、暇があっても今は武器の類には触れたくない。
「お前は加勢しないのか?」
 ふと、頭上から声が降ってきてザックはそちらを仰いだ。
 白っぽい茶色の髪。ボタンがないくせに前の開いた上着、だぼついたズボンは布のベルトで固定してある――つまりは、変な民族衣装。目に入ったものを頭の中で整列させながら、ザックはきょとんとその男を見つめた。
 男は目の前に広がる麦畑を見渡した。
「みんな畑仕事をしているんじゃないのか? お前はさぼっているのか?」
「……病み上がりは必要ないんだとさ」
 ため息混じりに答える。正確には病み上がりだと言えるほども回復はしていないのだが。
「おまえは?」
 続けてザックは質問し返した。男はどう見てもこの国の人間ではない。
「俺? ちょっとした理由で今は海外旅行の真っ最中さ」
 男はあっさりと、笑み付きで答えた。
 その時、やや強い風が二人の間を割った。ザックは風の吹いてきた方を見つめた。空の彼方がどんよりし始めている。彼が昨日読んだ風がやっと雲を運んできたのだ。しばらくすれば今の晴天は嘘だったかのような曇天になるだろう。
「雨になれば、野良仕事も終いだな」
 ぽつりと呟く。
「ああ、けれどお前には雨が降っても付き合ってもらいたいな」
「は?」
 間抜けな声がザックの喉をつく。男はそんな彼を見下ろして、面白そうに笑った。
「なあ、ザック・オーシャン」
 囁かれた名前。ザックはさっと身を翻して、傍の剣を掴もうとした。
 が、できなかった。
 体が上手く動かせない。それを悟っただけだった。男もそれに気付く。
「ああ、病み上がりだと言っていたか。じゃあ、無理かな?」
 ザックは男を睨んだ。
「なんだ、お前」
 険悪な声にも臆せず、男は笑った。
「飛竜」
「……ひ、りゅ?」
 男の名は聞いた事のない響きだった。どこの国の言葉なのか分からない。
 上手く反芻する事ができず、ザックは眉を寄せた。
「それで、俺に何の用だ?」
 何とか掴んだ剣に頼って立ち上がる。飛竜は片眉を上げた。
「その様子じゃ、まだ知らないんだな。まあ、リスト更新が行われたのは三日前の事だ。隣国まで伝わるにはもう二、三日いるな」
「……なに?」
 飛竜の言いたい事を量りかねて、ザックは首を傾げた。
 赤い瞳が陽に輝く。
「ザック・オーシャン。重犯罪者フレイム・ゲヘナを庇ったため、反逆罪適用。その身柄を拘束した者に五億フェルの恩賞を与える」
 飛竜はすらすらと暗唱してみせた。言い終えて、ザックを見やる。十分に衝撃を受けてくれたらしい。じっとこちらを凝視している。
「三日前にイルタシアの犯罪者リストが更新された。お前は最新で最高の賞金首だ」
 犯罪者。
 その一言が頭の中で増幅していくのをザックは感じた。それはフレイムを庇うと決めた時に覚悟した事だ。
 けれど五億と言う高額を吹っ掛けられるとは思っていなかった。誰がそこまで事を大きくしたのか。
 過ぎったのはシェシェンで壊滅させた私兵団。迷彩服のガンズ。――彼ではない。彼の雇い主の仕業だ。そう確信して、ザックは奥歯を噛んだ。
 と、そこまで考えて。では、この目の前にいる男は?
「……賞金稼ぎ……」
 呆然と呟く。
「当たらずとも遠からず」
 飛竜は笑った。
「別に賞金稼ぎを生業としているわけじゃない。ただやっぱり犯罪者のうちの幾人かは闘って面白い奴らだ。犯罪者リストは俺にとっては、遊び相手リスト、かな」
 ザックはぐっと剣の柄を握る手に力を込めた。
 射るような眼差しを、飛竜は静かに受け止めた。一歩、ザックの方へ寄る。
 ザックはおぼつかない足元で重心を変えた。剣を振り上げても倒れないように。
「……美男だな」
 ぽつりと一言。
「……は?」
 先ほどよりも間抜けな声を上げてしまった。
「ガンズを倒したと言うから、それ相応の豪傑だと思っていたんだが」
 真面目な顔をして飛竜がますますこちらに近づきながら続ける。しかしザックは引くことができなかった。いや、引くことを忘れていた。
 眼前に赤い双眸。
「俺好みの顔をしている」
 その瞬間、ぞっと全身に鳥肌が立つのを、ザックは自覚した。
 飛竜はにっと笑った。尻尾を膨らませて警戒する猫のようになってしまったザックを見下ろす。
「……でも、遊べないんじゃダメだ」
 麦畑のほうを振り返る。
「フレイムと遊ぼうかな……。いるんだろ? ここに」
 その言葉にザックは我に返った。
 変態だろうと、賞金稼ぎは賞金稼ぎ。ここでフレイムと闘えば、被害を被るのはシギルの畑だ。それは許さない。
「……遠慮しなくていいぜ」
 ザックが口を開く。
「俺と遊ぼう、ヒリュウ」
 やや驚いたような顔をして飛竜がこちらを向く。それはすぐに笑みに変わった。
 おもちゃを目の前に差し出された子供の瞳だ。
「本当に?」
「ああ。けれどここは、ダメだ」
 目で麦畑を示す。
「ん? そうか、畑だものな。じゃあ、森の前の空き地へ行こう。あそこなら誰も邪魔しない」
 そう言って、まるで遠足にでも行くかのような足取りで飛竜が踏み出す。
 案外、簡単に要求を受け入れてもらえたことにザックはほっとした。
 畑を振り返る。フレイムも、闇音もグィンも見えない。シギルも。
(……これでいいよな)
 眩しい麦穂の波を見つめて、目を細める。
 こうしてじっと視線を送っていたら、闇音が気付くのではないかと思った。
 ザックは首を振って、歩き出した。飛竜のあとにつく。
(足手まといが仕事の邪魔までするのは、なし、だろ?)

翠の証 7

 フレイム達がザックがいなくなった事に気づいたのは、それからしばらくした後だった。雨がぽつぽつと落ちてきたので、彼らは木の下に戻ってきた。
 しかし彼らを待っていたのは水筒一つだけで、いるべき病人の姿がない。
 雨が降り出す前に家へ戻ったのだろうか。ザックの性格を考えれば、みんなを置いて一人で帰ることはないだろうが、なにぶん今の彼は熱がある。濡れることを避けても無理はない。
 しかしフレイムは眉を寄せた。辺りに残る、わずかな気配。
「魔力……」
 闇音がぽつりと呟く。彼女もフレイムと同じ事に気づいたようで、その瞳には険しい光が浮かんでいる。
 辺りに気配が残るほど、ザックに魔力はない。彼の他に魔力を持つ者がここへ来たのだ。
 二人は顔を見合わせ、うなずいた。
「シギルさん、グィンと一緒に家へ戻っておいてください」
 フレイムの声に、辺りを見まわしていたシギルが顔を上げる。
「しかし……」
 彼の顔にも不安の色がある。
「ザックは家に戻っているかもしれないし、いなくてもそのうち戻ってくるかもしれません。誰かが家にいないと……」
 フレイムがそう言うと、彼は仕方なくうなずいた。水筒を抱えると、ドワーフの入った籠を持ち、家へと足を向ける。
「グィン、ザックが戻っていたり、戻ってきたら知らせて。それまでは家にいるんだ。いいね?」
 グィンは主人の命令に従い、シギルの後に続いた。
 フレイムは空を見上げた。雨はこれから激しさを増すだろう事が窺える。もしザックが雨に濡れれば、ただではすまない。不安に胃の辺りがきりりと痛む。
「フレイム様、行きましょう。雨で気配が消される前に」
 闇音が沈痛な面持ちで、フレイムを待っている。フレイムはうなずき、魔力の気配がする方へと二人で駆け出した。

         *       *       *

 熱のせいで頭が痛む。
 ザックは太い木に背を預けていた。手には剣が握られているが、力なく切っ先は地面についている。
 飛竜と戦い始めてすぐ、彼は森の中に駆け込んだのだ。元より、こんな体調で闘うつもりなどなかったのだ。不意をつかれた飛竜を振り切り、木の陰にこうして隠れているわけでいる。
 汗があごを伝って地面に落ちる。まるでそれが合図だったかのように、ぽつぽつと雨が降り出した。
 ザックは眉をしかめ、空を見上げた。
 あんなに輝いていた太陽は隠れ、どんよりと厚い雲が空を覆っている。首筋に雨が落ち、思わず身震いをした。
(……寒い……)
 汗もかいているし、まだ残暑の名残もあるのに、全身総毛立つ程の悪寒が背を駆け上がる。また熱が高くなり始めているのだと知らされる。
(闇音が来ないだろうか……)
 普段は主人に向かって毒も吐くし、扱いも丁重なものではない。だが彼がザックを見放したりすることはない。事実、彼は何よりも先にザックの安全を優先すると宣言している。
 しかしザックは闇音に何も言わずにここまで来た。闇音は自分が森にいるなど思いつくだろうか。
 胃がひっくり返りそうな吐き気が断続的に突き上げてくる。たまらず膝をついて、奥歯を噛み締めた。忌々しい事に雨は強くなるばかりで、しばらく止みそうにもない。頭の芯から冷やされているような感覚に、こめかみの辺りから意識が奪われていくようだった。
 雨音に紛れて、足音が近づいて来る。
(――最悪だ……)
 緊張に、胸が気持ち悪く焼ける。目を瞑り、苦しく、息を吐いた。
「見つけた……」
 ぞっとするほど、穏やかな声音。赤い瞳がこっちを見ている。
「鬼ごっこは終わりだ」
 ザックはゆっくりと立ち上がった。ずきんと頭が痛む。
 しかし、動きは遅くともザックは剣を構えた。飛竜の唇がにやりと歪む。
「俺はそんなに青い顔をされて手を出せないほど、優しい人間ではないぞ」
 ザックの鋭い瞳に臆することなく、飛竜は彼に近づいた。
「……寄るな。間合いに入れば、斬る」
 唸るように声を絞り出す。
 はったりではない。体調は悪くとも、間合い内で太刀筋を違えたりはしない。
 二人の身長はたいして変わらなかったが、木に背を預けている分、ザックの目線のほうが低かった。飛竜は自分を睨み据えるザックを見下ろした。
「いい目をしている。ますます、気に入ったぞ」
「……変態が」
 ザックは眉を寄せて、吐き捨てた。飛竜が片眉を上げて笑う。
「よく言われるな。何が悪いのか、俺はわからんのだが?」
 ザックが鼻で笑う。
「いらないことを口にするからだ」
 薄い笑みを浮かべて、飛竜はザックの元に足を進めた。
 息を呑み、目を細める。
 ぱきんと、枝を踏む音が響いた瞬間。
 ザックは剣の柄を握り締めた。銀の切っ先が弧を描いて、振り下ろされる。
 金属同士のぶつかる音が重く響いて、雨の中に消えた。

「――見事な一振りだ」
 ザックは目を見開いた。
 飛竜は袖から引き出した小刀で、彼の剣を受け止めていた。小刀の白い刃はわずかに欠けている。
「とても熱にやられているとは思えん」
 言いながら、小刀でザックの剣をさばく。普段ならそんなことは出来ないのだろうが、熱に冒されながらも放った渾身の一撃を防がれたザックの腕に、力は入っていなかった。支える物を失った剣の切っ先が地面に落ちる。
「俺は本来、魔術の方を得手としているが……。武芸は学んでおくものだな。おかげで一命をとりとめた」
 放心したように自分を見つめるザックを見、唇の端を吊り上げる。
「まあ、おまえが本調子なら、今ごろ俺の体は真っ二つだったんだろうな」
 飛竜はザックがもたれ掛っている、木に片腕をついた。もう一方の手でザックのあごを捕らえ、自分のほうに目線を向けさせる。
 そうして間近に捉えたザックの瞳が、淡い翠を含んだ黒であることに気づいた。その意外な美しさに、満足げな笑みを浮かべる。
 突如、雨足が激しさを増した。けたたましいまでの雨音に森中が包まれる。
 ザックは身震いし、たまらない嘔吐感に襲われた。頭の奥をえぐ抉られているような、痛みががんがん響く。脳みそが溶けてしまうんじゃないかというほど、熱があるのを感じるのに全身が寒さに震えた。
 飛竜の赤い目が真っ直ぐに自分を見下ろしている。だが、もう目を開けていることも辛い。頭がぼんやりして、自分が何をしていいのか、わからない。
 身体から力が抜け、握られていた剣が水を跳ねて地面に転がる。
 ずるりと滑ったザックを、飛竜は抱きとめた。見上げる黒い双眸は朦朧としている。
 飛竜は血のような瞳を細め、冷たい水の滴るザックの髪に指を差し込んだ。
「――これで、おまえをどうしようと、俺の勝手だな」
 雨音の中、耳元で囁かれた言葉に、ザックは抗うことが出来なかった。

翠の証 8

 森の入り口までやってきたフレイムと闇音は、そこで足を止めた。確かに木の下で感じた魔力のそれと同じ気配がする。
 地面から――雨が瞳に入るので顔をしかめながら――空へと視線を移す。
「結界……?」
 呟いたのはフレイム。闇音は厳しい顔でそれを凝視した。
 それは一見、赤い鳥篭だった。細い魔力の線が地面に魔術陣を描き、森をぐるりと囲む位置から天へと伸びている。まっすぐに伸びた線は途中から緩やかに曲がり、頂上で結ばれていた。
 これほど美しい姿をした結界を見たのは、フレイムは初めてだった。
(これは……、俺には破れないかも知れない。力はあっても技術が足りない)
 結界を造ることは簡単な事ではない。いちばん簡単で粗っぽいものは、紙状に伸ばした魔力で空間を包む事である。ただ、もちろん大きな容積を包む事は難しい。
 結界の精度を上げるのならば、魔力を紙ではなく糸状に伸ばしそれで「編む」のだ。糸状に伸びた魔力を魔力線といい、それらは互いの距離が近いほど反発力を強める。反発が強くなりすぎて互いを弾きあうギリギリ一歩手前で、結界を造るのである。
 その距離は魔術師の力量で変わる。ただしそれは魔力の許容量ではない。精度だ。
 集中力と持って生まれた抽象を具現する力。それを活かし、極細い魔力線を紡ぎ、精密な模様の結界を編む。それが出来ないなら紙状結界のほうがまだ役に立つだろう。
 今、目の前にそびえる結界は、それまでに見た誰のものよりも緻密であった。そう、つまりは自分のものよりも。
「破れそう?」
 フレイムは隣りの精霊に目をやった。
「……素晴らしい精度ですね」
 闇音は感情の表われない声で答えた。
「しかもこれほどの大きさのものを造るとなれば、持っている魔力も半端ではないでしょう」
 頭ではそう分かっていても、実際他人の口から聞くと、息を飲まずに入られない。
「――破れない事はありません」
 闇音はじっと森の奥を見据えて続けた。
「ただし、開けられる穴は一人分。それも三秒ほどです」
 言い終えてフレイムを見つめる。
 暗い瞳は沈痛だ。こんな目は見たことがない。
「ザックをお願いします。フレイム様」
 雨音が大きくなる。
 濡れた白い肌の精霊。その美しい顔を、フレイムは凝視した。
「え?」
 思わずうめく。闇音はうつむいた。
「結界を破るのにかなりの集中力と魔力を使います。その後にこの結果の持ち主と対峙しても、私は勝てないかもしれません」
 淡々と並べられる言葉。その声がどこか叫びだしそうな響きを持っていることを、フレイムは感じた。
 本当は、闇音は自分が行きたいのだ。
「……私では助けられないかもしれません……」
 声が震えた。
 思わずフレイムは闇音の手をとった。
「結界に入ったら中から破るから。待ってて」
 確かに結界は外よりも内の方が脆い事が多い。それでも闇音は首を振った。
「いいえ。ザックを早く……」
 フレイムはぐっと喉が痛むのを感じた。
「ザックは闇音さんを待ってるよ」
 そう言うと、影の精霊の顔が大きく歪んだ。一瞬泣き出すかと思えるほどに。
 それを見て言葉を継ぐ。
「一緒に行こう」
 長い睫毛を伏せて、闇音は黙った。
 雨に濡れて頬に張り付いた髪。それから滴が流れ落ちるのをフレイムは見つめた。
 しばらくしてから、闇音は彼の手をそっと解いた。
「無理はなさらないで下さい。ダメだと思ったらそのままザックを探してください」
 落ち着いた声音で言いながら、赤い結界へと手を触れる。その動作に一瞬どきっとしたが、幸いにも――闇音は分かっていたようだが――、結界に他者を攻撃するような機能はなかった。
 ふぅ、と小さく息を整える気配がした。
 続いて凛とした声が紡がれる。
 フレイムは胸の奥に澄んだ空気が流れ込むような心地でその声を聞いた。
 グィンとは違う。影の精霊の呪文。それをまともに聞いたのは初めてだ。
 やがて結界に触れた手に光が宿る。青紫の夜光虫のような輝き。それが彼女の手の中で揺らめき、力を増していくのが分かる。
「開け」
 最後の一言だけが、人間の言葉だった。そして同時に、それまでの神聖な雰囲気は一転し、木が引き裂かれるような音がけたたましく響いた。思わず耳を塞ぐ。
 赤い鳥篭に亀裂が走る。闇音の手を中心に。
「フレイム様!」
 叫び声が耳を打つやいなや、フレイムはその裂け目へと飛び込んだ。結界を通り抜ける瞬間、例の空調の変化による痛みに似たものが鼓膜を襲った。
 とん、と濡れた地面に着地し、振り返る。
 と、そこには森が広がっていた。
「鏡?」
 フレイムは目を細めた。そこにいるはずの闇音の姿がなかった。かわりに背後とまるで同じの風景がある。
(こういう事をする必要ってあるのかな?)
 疑問ではあったが、考えたところで術者の真意などわからない。会った事すらないのだから。
 凝るのが趣味なのかもしれない。こんな鳥篭のような結界を編み出すのだから。そう思いながら右手を掲げる。
 神腕。呪文を唱える必要などない。思うだけで未曾有の力が溢れ出す。
 目を閉じて、見えない結界に触れる。その構成を感じて、フレイムは賭けに勝った気分になった。結界は対外敵用でひたすら外からの侵入だけを拒むものであった。これなら破れる。
 そう確信して、触れた手に力を込めた。
 わずかだったが、抵抗はあった。が、されるがまま、すぐに結界は緩んだ。くしゃりと紙を丸めるような感覚。数秒後には目の前に闇音の姿が見えた。
 安堵ともとれるその表情を目にして、フレイムは我知らず微笑んだ。

 飛竜は天を仰いだ。
「ふむ」
 結界に誰かが侵入した。それを理解するのは容易いことだ。
「問題はそれが神通力の持ち主である、ということだ」
 何かに説明でもするかのように、呟く。先ほどまで対峙していた人物が気を失っているので、完全に独り言ではあるが。
 ちなみにその人物は現在自分が抱えている。目を覚ましたら、まずはじめに拳が飛んできそうな気もするが、いわゆるお姫様抱っこである。
 その顔を見下ろして、飛竜は苦笑した。熱を出して倒れる賞金首を相手にしたのは初めての事だった。
(しかも非常に興味深い、ときた)
 それは見たことのない事例であった。
(さて、ちょっとした実験でもするかね。……怖い賞金首が来る前に)
 遊び半分に造った結界が破られるのを感じながら、飛竜はザックを草の上に降ろした。

翠の証 9

 シギルは窓から激しくなる雨を見つめていた。丘陵のない広大な平野。遥かは雨にかすんでいる。
 家に養子は帰ってきていなかった。この雨の中にいるのだ。
 不安が彼の心臓を鷲掴みしている。
 一緒に帰ってきた妖精はフレイムと闇音が行ったんだから大丈夫だと言った。
「ザック……」
 外に出て、彼を捜しに行きたい衝動に駆られる。しかし少年が言ったように、ザックはいつ帰ってくるか分からない。家にいなければ。
(なぜ、こんな事に……。いや、分かる気がする。これが私の罪か……。見捨てたあの子といることを神が許さない……)
 この罪悪感は、豊穣の雨にさえ流す事はできない。それでも、それでも彼が帰ってくることを祈っている。温かく迎えてやりたいと思っている。
 シギルは風呂を沸かして、三人が揃って帰ってくるのを待った。

(……近い……? こちらが当りだったか……?)
 濡れた小枝を掻き分けながら、闇音は進んでいた。
 森が意外と深かったために、フレイムと二手に分かれて少し経つ。はじめは何も感じられなかったが、今や自分の目指す先に主人の気配を感じる事ができた。
 しかし、はっきりと感じられるものは、あとひとつあった。
 ――もう一人、いる。
 闇音は我知らず、唇を噛み締めていた。
 こんな事になるなんて。ほんのわずかばかり目を離したばかりに。
 まだ熱があったのに。まだ傷が癒えていないのに。
(どうして私は彼から目を離した!?)
 自分のを罵り、はたと闇音は足を止めた。
 漂う魔力の気配が濃い。それはザックの気配までも覆うほどで。闇音は焦燥に駆られながら、左右を見回した。
 集中しようと目を閉じると、雨の音が耳障りだった。葉を叩き、地面を打つその音。
 呼吸を整えながら、闇音は落ち着くように自分に言い聞かせた。
(命をかけても守ると誓ったのだ……)
 目を開き、闇音は真っ直ぐに足を踏み出した。そのまま走り出す。
 その数秒後だった。離れたところで爆音が轟いたのは。

 爆煙が上がって間もなく、それは雨にかき消された。炎はもとより上がっていない。
 飛竜はくすりと笑って、首を傾げた。
「これはこれは……」
 目の前の地面にはぽっかりと穴があいている。直径十メートル、深さは三メートルほどあるだろうか。つい先ほど、自分であけたものだ。
 その中心にザックはいた。相変わらず意識はない。
 ただ、彼の横たわる大地だけはまるで傷ついていない。何かに守られたように、彼の周りだけが飛竜の攻撃を防いだ。
「凄いな、ザック。こんな鳥肌立つ思いは久し振りだ」
 明るい声で言いながら、地面を蹴る。魔術を使う彼の体は、たった一度の軽い跳躍でザックの側に到達した。
「お前を守っているのは誰だ?」
 返事をしようはずもない青年の側に腰を下ろし、飛竜はあごを手に乗せた。
「いや、“守っている”と表現していいものかな。これじゃあ、治癒魔術も受けつけないだろうに」
 雨に濡れた相手の頬に触れる。冷えているかとも思ったが、熱に侵されているせいで存外に熱かった。
 赤い瞳を細める。
「ザック……、ザック・オーシャン……。本当にただの賞金首なのか」
 否。
 飛竜は自分の中でそう答えた。
(……他の誰に見えなくても、俺には見る事ができるはずだ)
 魔力を眼に集中させる。血の色の瞳が光を帯びる。
 ――魔眼。
 それは神通力にも劣らぬ魔力を引き出す、媒介。
 沸き溢れる魔力を、飛竜は完璧に御した。
 それは誰のものでもない、彼の天性の力だった。何の訓練も受けず、飛竜は魔力を制御する術(すべ)を心得ていた。生まれた仔馬が誰に言われるまでもなく、立ち上がるように。

「なるほど……」
 しばらくして、飛竜は小さく微笑んだ。
 それから再びザックを抱き上げた。その頬に顔を近づけて、囁く。
「ザック……、おまえが欲しいな。――おまえの」
 言いかけて、飛竜は口をつぐんだ。顔を上げて見据える。
「いいところを……。無粋な輩だな」
「これは……」
 驚きの声を漏らしたのは、闇音だった。
 木々を掻き分け、辿り着いた場所には大穴があいていた。しかも爆薬などではなく、魔力であけられたものだ。魔力のほどは今の自分と互角か。
(いや、その上か……? 結界を破るのにかなり消費した。そしてその結界を編んだ男だ……)
 目の前の男に視線を向ける。ザックはその男に抱えられ、こちらから顔色を窺うことはできなかった。ただ外傷はないように見える。
(この男が……)
 口を引き結んで、闇音はザックを抱える男を見つめた。
 白くけぶるような茶髪。見慣れぬ異国の衣服。そして、血の滴ったような赤い瞳。
 粒の細かい雨のせいで、視界がぼやけるなか、彼の瞳だけが鮮烈な光彩を帯びている。
 闇音は息を呑んだ。
 外見だけではない。この男が纏う空気は異質で冷たく、他者を寄せ付けないものがあった。
「……ザックを、その人を返して下さい」
 ゆっくりと声を絞り出す。飛竜は冗談めかしく肩をすくめて見せた。
「そう怖い顔をするな。なに、まだ何もしちゃいないさ」
 と、飛竜はほんのわずかだが目を見開いた。
「何だ、おまえ精霊か。ザックの女かと思えば」
 闇音は眉を寄せた。自分を見て、これほど短時間で精霊だと見抜いたのは彼が初めてだった。上級精霊は極めて人間に近い姿を持つというのに。
 警戒もあらわな闇音に、飛竜は気楽に笑って見せた。
「ザックを返して欲しいのか」
「……ええ」
 静かに闇音は答えた。できるだけ、相手の神経を逆撫でしたくはない。
 どこに武器を持っているとも知れないのだ。彼がその気になれば、針一本でザックの首を切り裂くこともできる。
「断る」
 飛竜はあっさりと言って、ザックを抱き寄せた。
「俺はこいつに勝った。これは俺のものだ」
 闇音は奥歯を噛み締めた。嫌悪を感じる。
「ザックは熱があったでしょう。そんな人を倒して、よくもそういう事が言えますね」
「なぜ? 戦いに応じたのはザックだ。熱なんて関係ない」
 全く通じ合わない。
 闇音と飛竜はじっと相手を睨んだ。
 雨は止まない。冷たい雨。それは騒々しさを含む静けさで森を包んでいる。
 沈黙を破ったのは、闇音でも飛竜でもなかった。
 空気が震え、次いで閃光が天を目指した。

翠の証 10

「神腕の結界か、これが」
 天を目指した光を飛竜は見上げた。
 勢いよく駆け上った光は空中で弾け、森中に降り注いだ。落下する過程で長い光の尾を帯び、それが結界を形成する。
「編む、と言うには及ばない。稚拙な結界だな」
 飛竜はからかうように笑いながら分析した。
「けれど、あなたの魔力は封じられたでしょう」
 冷たい口調で闇音が告げる。指摘されて、飛竜は自分の手を見つめた。淡く光が宿り、しかしすぐに消える。
「ほう。さすがだな」
「私の方はそうでもないみたいですけど?」
 小さく笑って闇音は右腕を振って見せた。紫暗の光がたなびく。
「仲間の魔力だけは制限しなかったのか。なるほど。神腕の使い手も伊達ではないと言う事か。見た目よりも機能的な結界だな」
 さほどの動揺も感嘆もなく飛竜は淡々と告げる。
(だが、やはり未熟だな。機能重視で強度は低い結界だ)
「つまらないな。この場は引くか」
 あっさりと言う。一瞬闇音は言葉を失った。
 飛竜は笑みを浮かべ、抱え上げていたザックの足を地面に下ろした。
「受け取れ」
 その背をとんと突き飛ばす。気を失っているザックは為す術もなくその衝撃に身を任せた。のけぞるように倒れこむ。闇音が慌てて腕を伸ばした。
「ザック!」
「もちろん、タダではないぞ」
 闇音の声に重ねるように飛竜は囁いた。
 倒れてくるザックを受けとめながら、その向こう、飛竜の手に光が宿っているのを見て、闇音は驚愕した。
(馬鹿な!)
 見開いた闇音の視界に光が閃いた。

「消えろ!!」
 濡れた空気を震わせて、少年の声が響き渡った。
 瞬間、飛竜の放った直線の衝撃波は不可視の壁にぶつかったように弾け、消滅した。
 赤い瞳が面白そうに細められる。
「フレイム・ゲヘナ……」
「……そうだ」
 赤目の魔術師に右腕を掲げたまま、フレイムが答える。木々の間から現われた彼は、細い肩を上下させていた。走ってきたためか、神通力を引き出したためか。もしくは両方が原因か。
「フレイム様……」
 ザックを支えたまま闇音は少年を呼んだ。明らかに疲労している。
 フレイムはこちらを見ない。色の薄い瞳は神腕の光を受け、凄絶な輝きを浮かべていた。
「君はだれだ?」
「飛竜」
 淀みのない低い声。年はザックと同じくらいだろうか。
「何が目的でザックに近づいた?」
 その一言で、闇音は自分が怒りに我を忘れていたことに気がついた。ザックを取り返す事にばかりに躍起になっていて、相手の目的は考えもしなかった。
「そうだな。目的はついさっきすり替わったばかりだ」
 静かに飛竜は答えた。彼自身思案しながら。やがておもむろに指差す。ザックを。
「それが欲しい。その見えざる向こうにあるもの全てを」
「見えざる向こう? 何を言って……?」
 フレイムが眉を寄せる。
 それを見て飛竜は目を見開き、それから笑った。嘲笑だ。
「はっ。なんだ、おまえは気がついてないのか? まさかおまえもか?」
 笑いながら闇音の方を見やる。
「馬鹿な! 神腕の持ち主と上級精霊の両方が!? あははっ、はははははは!」
 叫び声のような笑いが森の中に響き渡る。
 不快感を覚え、フレイムは口を引き結んだ。顔を覆い、狂ったように笑う男。これがあの鳥篭の結界を編んだ男なのか。
 繊細で美しかったあの結界を編むには、この男はあまりにも軽薄そうに見えた。
 ひとしきり笑った後、飛竜はそばの木に背を預けた。
「……なんてこった。なんて滑稽譚だ」
 独り言のように早口に呟く。それから彼は黙った。手で顔を覆ったまま。
 ――ぞっと、背筋に悪寒が走る。思わず、闇音はザックを抱きしめる手に力を入れた。
 血の瞳が指の間からこちらを見ている。飢えた瞳。まるで闇の深淵で底光る魔物のそれだ。
「たまらないね……」
 小さな声だったが、闇音の耳には届いた。
「俺が手に入れる。俺のモノだ」
「ザックはあなたのものではありません!」
 射るような眼差しで相手を牽制する。しかし飛竜は怯まなかった。
「その心意気で大事にお守してくれよ? 俺だけじゃあないんだ、これからは。なんと言っても五億の賞金首だ」
「なっ」
 驚きの声を上げたのはフレイムだった。
 なんと言った? 賞金首? 誰が?
「そう、賞金首だ。お前を庇ったからな」
 笑みを浮かべたまま、飛竜はフレイムを見つめた。
 少年の瞳に自責の色が浮かぶ。
(俺のせい……)
 それを見て飛竜の顔から笑みが消えた。その顔に「馬鹿馬鹿しい」と書いてあるように、闇音には見えた。
「後悔する暇があったら、せめて魔術を上手く使えるように訓練したらどうだ」
 腕を組んで、遠くからフレイムを見下ろす。
「その腕、宝の持ち腐れと言うものだ」
 指摘されてフレイムはさっと顔を上げた。青褪めている。
「魔術の制御がへたくそ過ぎて話にならん。それでは魔術を使うたびに疲労して仕方がないだろう」
 全てが事実だった。言い返す事もできず、フレイムは飛竜の冷たく整った顔を見つめた。
 飛竜は軽く肩をすくめて笑みを浮かべた。
「そうだ。話にならん」
 赤い双眸が細められた。前触れもなく、飛竜の前方の空間で一気に魔力密度が高まる。
(神通力の結界の中で!?)
 闇音は信じられない思いで、渦巻く魔力の波を見つめた。
「っあ!」
 フレイムが頭を抱えて、悲鳴を上げる。
 一瞬だった。飛竜の放った極細の鋭い魔力の針が四散する。フレイムが、神通力を持つ者が造った結界が音もなく――崩れた。
 支えていた糸が切れたように、少年が膝をつく。しかし、その瞳はしっかりと飛竜を捉えていた。
「待て……」
「待たない。止めたかったら、止めてみろ。その腕で」
 フレイムは右腕を伸ばした。飛竜に向けて、集中する。しかし視界は霞み、焦点はぶれていた。
 飛竜は鼻で笑い、背を向けるとそのまま歩き出した。振りかえる事もなく、その後ろ姿は森の奥へと消えていった。
 それはフレイムにとって既視感のある光景だった。くたびれたコートに身を包んだ男が音もなく去っていく。燃え盛る炎をものともせずに。
「……ッ」
 歯を食いしばって、フレイムは拳で地面を打ちつけた。濡れた前髪から水が滴る。
(なんで俺は……)
 沈黙が雨音を際立たせていた。
(いつだって……守りたい人を守れるだけの力がない)
 最強無比と言われる力を携えていながら、自分は無力だった。
 天から降ってくる水滴が打ち出す音。その音はまるで自分を嘲笑っているようだった。
 頭の中で響くそれは、飛竜の狂った笑い声だった。

翠の証 11

 シギルの家に戻ってからもザックの熱は依然、高かった。
 闇音が彼の傍に付きっきりで看病している。
 フレイムも傍にいたかったが、雨に冷やされた体を温めるよう、シギルに風呂を進められた。確かに自分まで、ザック同様に寝込むわけにはいかない。彼は不承不承、風呂に足を向けたのだった。
「飛竜……」
 フレイムはお湯に浸かり、湯気で曇った天井を見つめながら、その名を呟いた。
 不気味なくらい赤い瞳をした男だった。そして信じられないほどの魔力を持っていた。それこそ神通力の使い手であるような。
 湯の中から、自分の右腕を上げる。
(――宝の持ち腐れ……か)
 自分で制御しきれない神の力。シェシェンの街でも暴走させてしまった。
 フレイムも神腕がなくともいくらかの魔術は使える。だから神腕は出来るだけ、使わないようにしていた。
 しかしザックにまで賞金が掛かった以上、これまでのようにはいかない。悔しいが、飛竜の言うことには正しい。
 だが神腕をうまく使いこなすための修行なんて、知らない。
(ザックみたいに早朝練習しなきゃかな……)
 フレイムは自嘲を浮かべた。それから背を浴槽の壁に預けると、深く息をついた。
(ネフェイル……。彼を訪ねてみようか)
 三年前、自分を救ってくれた人物。そして彼は偉大な魔術師でもあった。
(ただ……リルコのどこかの街にいる、としか知らないんだよね)
 リルコはここコウシュウの東に位置する州である。ガルバラで二つしかない州のうちの一つで、広大な大地には山脈が横たわり、わずかな街が点在するだけの土地である。リルコの南には巨大な森があり、その向こうは砂漠である。人間の踏みこまない魔境の砂漠。そこでは魔物も原始の姿をとどめていると言う。
 眉を寄せ、ちゃぷんと音を立てて、フレイムはお湯に沈んだ。

 雨足は幾分弱まってきたようだった。風が吹き、不気味な闇が窓の向こうに広がっている。時折、室内の光を受けた木の影が闇に浮かんだ。
 フレイムは窓の前で足を止め、外を睨んだ。

 食事を終え、フレイムが客室に戻ると、闇音が疲弊しきった面持ちでザックの傍にいた。その横顔に鈍い胸の痛みを覚える。
 出来るだけ足音をたてないようにしながら歩み寄り、フレイムは囁くように声を掛けた。
「闇音さん、少し休んだほうが……」
 心配する少年を振り返り、闇音は弱々しい笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、これくらい」
 シギルも彼女を心配して温かいスープを持ってきたのだが、闇音はそれを丁重に断わった。彼女の体は食事を受けつけないのだ。そのことでザックに人生の楽しみの半分を知らないようなものだと言われたこともあった。
 フレイムは静かに自分のベッドに腰を下ろした。
「でも、ザックが起きた時にそんな顔してたら、ザックは心配するよ」
 闇音は首を振った。
「それでも……こうして傍にいないと。飛竜の言った事を思い出すと……」
 そう言って、横に眠るザックを見下ろす。
 雨の森で見たときは今よりも蒼白だった。熱にうなされ、寒さに震えていた。
「不安になります」
 ザックが反逆罪を負った。
 フレイムがうつむくのを闇音は横目に見た。少年が自分を責めている事は分かっていたが、慰めの言葉も思いつかない。頭の中はザックの事だけで精一杯だった。
 鮮烈な赤い瞳を思い出し、闇音は目を伏せた。ひとつため息をつく。
「飛竜には……なんといっていいのか……嫌悪、を覚えます」
 フレイムは顔を上げて闇音の横顔を見つめた。
「彼の持つ力……あれは単なる魔力だとは思えません。神通力とはどこか違う……けれど、それと似た感じはしました」
 そこまで言って、フレイムの方を見やる。フレイムは首を振った。
「俺には分かりません。神通力は神腕以外のものを見た事がないから。……それに俺、魔術に関する知識は中級魔術師並みだし」
「……大火災の罪を犯してから学校に通われていないんですから、それは仕方のない事です」
 闇音はわずかに笑みをつくって見せた。
 自分は役に立てない。力不足だ。その瞬間、そう悟ってフレイムは目を閉じた。頭の中をネフェイルの事が過ぎる。
「……闇音さん」
 口を開きかけた少年を闇音の声が遮る。
「フレイム様こそ、今日は神腕を使ったから、もうお休みにならないといけませんよ」
 闇音は静かに睫毛を伏せ、そう言った。話ははぐらかされたがフレイムはうなずいた。
「……うん」
 自分の右腕を見下ろし、それから闇音の方にその腕を伸ばした。
「――ごめんなさい、闇音さん」
「フレイム様?」
 フレイムの声に闇音は振り返ろうとしたが、それを阻むかのように目の前に鋭い光が閃いた。そのまま少年の方へ倒れこむ。
 受けとめた影の精霊を見下ろし、フレイムは呟いた。
「だって、やっぱり休まないといけないよ」
 フレイムは気を失った闇音を抱えると自分のベッドに横たえた。軽い羽布団を掛け、窓の方を見つめる。それから左手をこめかみにあてると、煩わしげにため息をついた。
 立ち上がり、フレイムは窓を開けた。
「何の用? さっきから家の周りをうろうろして……」
 冷たい声を外に投げかける。その窓に一番近い木の枝が揺れた。
「なんだ、気づいてたのか。面白くないな」
 白っぽい茶色の髪が暗闇に浮かぶ。
「折角の夜這い計画がおじゃんだ」
 からからと喉の奥で笑いながら、声の主は窓の桟に飛び移った。部屋の中に水が滴るのを見て、フレイムは顔をしかめた。傍にあったタオルをとり、相手に投げやる。
「床を濡らさないでよ、飛竜」
 飛竜は言われるがまま、ぐっしょりと濡れた髪をタオルで掻き回した。フレイムはその様子を見ながら、壁に背をもたれさせ、腕を組んだ。
「何をしに来たの? ザックにまた害を成すようなら、この場で始末するから」
 あながち冗談とも言えないような口調で言い放ったフレイムに、飛竜は肩をすくめた。
「だから、夜這いだって」
「……誰に?」
 フレイムはあまり健全でない言葉に眉を寄せながら、飛竜を睨んだ。彼は奥の方のベッドを指差した。
「ザック」
 フレイムは思わず、目を見開いた。飛竜は口元に薄い笑みを浮かべて、少年の方を見た。
「その影の精霊や、あんたみたいなのは好みじゃないんだ。ザックみたいに可愛げのある奴がいい。苛めがいがある」
 フレイムはこともなげに吐かれた言葉に絶句した。どうやら自分はとんでもない男を部屋に入れてしまったらしい。
 闇音が彼を嫌う理由のひとつが分かった気がした。
「……出ていけ」
 苦々しく呟く。飛竜は両手を上げて笑った。
「すまん。冗談だ」
 その言葉にフレイムの眉間の皺を消すような効力は、なかった。飛竜は続けて謝罪した。
「分かった、悪かったよ。すまん。――夜這いは相手が元気な時にするべきだな」
 フレイムはげんなりと肩を落とした。ザックが元気な時にそんな事を仕出かしたら、剣で微塵切りにされてしまうだろう。自分の想像に首を振りながら、あっちへいけと飛竜に向かって手を振る。
「帰れ。二度と来るな」
「まあまあ、待てよ。俺もさ、疲労は癒せないが……」
 もったいぶるように一度区切り、相手を上目使いに見て続ける。
「熱を取り除いてやることくらいは、出来るぞ」
 フレイムは驚いて、飛竜を見つめた。赤目の魔術師は片目を閉じて、笑った。
「追い返す気、なくなったか?」

翠の証 12

 飛竜はザックのベッドの脇にある、闇音が腰掛けていた椅子に座った。目の前に横たわるザックを見下ろす。
(……やはり、間違いないな……)
 雨降る森で見つけたもの。これを他人に渡すのはもったいない。
 思わず口元が笑うのをこらえる気はなく、飛竜は笑みの意味をすり替えることをした。
「うん、やっぱり好みだな」
 にまにまと笑う彼の後ろ髪を、フレイムが勢いよく引っ張る。
「ってぇ! ……何するんだ。女みたいな顔してるのに、全然優しくないな」
「女顔は関係ないだろ。ザックに余計な事しないでよ」
 フレイムが眉をしかめながらたしなめる。
「これ以上闇音さんに心配を掛けるわけにはいかないんだから」
 飛竜ははいはいと誠意のこもらない返事をした。それからザックの額の上に手をかざし、はじめて顔をしかめる。
「……馬鹿みたいに熱が高いな」
 その言葉に、思わずフレイムは息を詰めた。不安が募る。
 飛竜が赤い目を細めた。彼の手に赤い光が輝く。夕焼け色の、しかし温かみのない光だ。その状態で飛竜は小さく息をついた。
(魔力密度を高く維持したまま、極細に絞る……。大仕事だ。髪の毛なんて太すぎる)
 そう、相手は自分の衝撃波をことごとく遮ってしまうほどのものに守られているのだ。
(まあ、緑の精霊が使う光魔術、しかも低級の弱い魔術だったら、その振幅が極めて小さいから効くんだろうけど……。それじゃあ、回復魔術もたいしたものが使えないからなあ)
 結局は大魔力を強引に細く束ねてしまうしかないのだ。
 飛竜はもう一度、しかし今度は短く強く息をついた。意を決し、飛竜は手に集めた魔力を細く絞り始める。あっという間に額に汗が滲んだ。引き結んだ唇は苦痛に歪む。そうして、やがて赤い光がザックの額に降り、薄く全身を覆った。
 フレイムは黙って、その様子を見ていた。解熱魔術は初めて見る。
 しばらくして光はまた飛竜の手のひらに戻った。
「……水を……」
 手に光を宿したまま、低く呟く。押し殺したその声には焦燥すら滲んでいるように思えた。フレイムが慌てて傍にあった洗面器を差し出すと、飛竜はその手を洗面器の水に突っ込んだ。じゅっという音がし、湯気が上がる。
「これで、だいぶ落ち着くはずだ」
 そう告げて飛竜は脱力した様子で肩を落とした。
 息を呑み、フレイムは洗面器の水に恐る恐る触れてみた。――温い。冷水のはずだったのに。
 それからザックの方を見やる。熱にうなされ、引き攣っていた顔はもう緩んでいた。安らかな寝息が耳に届く。フレイムはほっと胸を下ろし、洗面器を台の上に戻した。
 椅子に座ったままの飛竜は疲れた肩をほぐすように回していた。ため息混じりに口を開く。
「ああ、疲れた……。普段はこんな魔術使わないからな」
「どうして? すごく役に立つと思うけど……」
 フレイムの問いかけに、飛竜は肩をすくめた。
「無償の人助けなんて性に合わん。俺は俺のためにしか、力を振るいたくはないんでな」
 自己主義的な言葉に、フレイムがわずかに眉を寄せる。飛竜はそれを見て、含み笑った。
「偽善的な説教はよしてくれよ?」
 フレイムがますます顔をしかめた、その時だった。
 ザックの黒い睫毛が揺れた。うっすらと、瞼が持ち上げられる。
「ザック!」
 フレイムがザックのほうに身を乗り出しす。飛竜は笑みを浮かべてそれを見ていた。
 ザックはぼんやりした様子で、間近にある少年の顔を見つめた。
「ここは……?」
「シギルさんの家だよ」
「でも、俺……」
 森にいたのにという言葉は空に消える。
 ザックの瞳が赤い双眸を捉えている。飛竜は笑顔で片手を上げた。
「その節はどーも」
 ザックは思わず起きあがり、飛竜から身を引いた。が、急に動いたことで頭痛に襲われる。たまらず頭を抱え込んだザックに飛竜が手を振ってみせた。
「熱が引いただけで、体調が良くなった訳じゃないんだ。無理して動くな」
 フレイムがザックをもう一度寝かせる。ザックは眉を寄せて、突き刺すような視線で隣りに座る男を見上げた。
「なんで、おまえ……」
「なんでって、夜ば……じゃない、おまえの解熱に出向いてきたんだ」
 飛竜はフレイムに横目で睨まれ、言いかけた言葉を訂正した。
「一応、五億の賞金が掛かってるしな。折角勝ったのに、そんな調子で他のやつらに横取りされちゃかなわん」
 ザックが小さく舌打ちする。にんまりと笑って、それから飛竜は眠っている闇音を肩越しに振り返った。
「さてと、俺はもう帰ろうかな。あんまり長居してもな、そっちから見れば俺は忌々しい賞金稼ぎだろうし」
 飛竜は立ち上がり、ベッドの端に手をつくと、上体を倒した。
「医療費、な」
 短く告げ、ザックの唇に自分のそれを重ねる。
 フレイムは口を開けたまま、それを見ていた。受け入れてしまったザックは、フレイム同様、驚きに目を見開いている。二人ともそんな調子だったので実際それがどのくらいの時間だったのかは分からない。すぐに――もしくはしばらくして、飛竜は唇を離した。
 満足そうに赤い瞳を細め、自分の唇をちろりと舐める。
「ご馳走さま」
 そのまま身を翻すと、軽やかな身のこなしで窓から出ていった。
 重い沈黙が残された二人の間に流れる。
「……大丈夫?」
 やっと口を開いたフレイムが――こういう尋ね方で良いのかは分からないが――とりあえず、尋ねた。
 ザックはのろのろと掛け布団で顔を覆った。
「……気持ち悪い」
 布団の下から絞られた言葉は、どこか泣き出しそうな響きすらあった。
 慰める言葉も、慰めていいのかさえも分からず、フレイムは唇を曲げた。飛竜が開けっ放しにしていった窓からは弱い雨音が聞こえている。
 やがて、かぶった時と同じ速さで顔を出し、ザックはフレイムを見上げた。
「闇音は?」
 フレイムは目で隣りのベッドを目線で指した。
「眠ってる。疲れてるみたいだったから、俺が眠らせた」
「……魔術で?」
 フレイムはうなずいた。ザックはゆっくりと体を起こして、闇音の寝顔を見た。
 静かに整っているだけの寝顔に、ため息をつく。
「頑張り屋だからな、顔に似合わず。たまには強制休息も悪くないだろ」
 そう言って、もう一度ごろんと寝転がった。むっつりと顔をしかめると、手のひらで口を覆う。
「……飛竜は何しに来てたんだ?」
 フレイムは肩をすくめた。
「本人が言ってた通り、ザックの熱を下げに来てくれたんだよ」
「……本当に?」
 疑うようなザックの視線にフレイムは居心地悪く、苦笑した。
「余計なことも言ってたけど、本音はやっぱり解熱だと思うよ」
「でも、俺、あいつと闘ったぞ」
「『気まぐれ』という言葉がこの世には存在するんだよ」
 フレイムは両手を上げて笑った。自分だって飛竜とは全部合わせても、一時間も一緒に過ごしていない。彼の真意など掴めるはずがないのだ。
 ザックは眉をわずかに寄せた。考え事をしているようで、視線は虚空を凝視している。
「……気まぐれ……ね」
 重いため息混じりに呟く。指で唇を撫で、嫌な事を思い出したように、また眉をしかめた。

翠の証 13

「――まだ、夜中じゃないよな?」
 ふと、ザックが口を開く。フレイムは時計に目をやって、うなずいた。
 ザックは傍においてあった上着を羽織るとベッドから出た。
「シィと話してくる。折角会ったのに全然喋ってないからな」
「大丈夫?」
 フレイムが首を捻ってザックを見上げる。彼は柔らかい笑みを浮かべると、少年の頭を撫でた。
「……高くついたが、熱は下がったからな」
 その言葉にフレイムは眉を下げて笑い、そのままザックの後ろ姿を見送った。扉が閉まるのを見届けて、欠伸をする。
「俺は寝よう……。もう限界だよ」
 そう独り言を漏らし、自分のベッドに眠る闇音を見下ろした。
「今更、起こすわけにはいかないよね…」
 さっきまでザックが寝ていたベッドに潜り込む。布団に残された温もりに、フレイムは淡い笑みを浮かべて目を閉じた。

 足元はまだふらつくが、だいぶ楽になった。不本意ながらも、飛竜に感謝しようとザックは思った。今回の事で健康が一番だと思い知らされたわけである。
 シギルの部屋は客室の二つ隣にあった。ノックするとすぐに返事が聞こえ、扉が開かれる。
「ザック?」
 シギルが驚いて、声を上げる。しかしそれは無理もないことであった。彼の養子は雨に濡れて、高熱にうなされていたはず。起き上がって自分の部屋を訪れるなどありえないことだ。
「大丈夫なのか?」
 おろおろと尋ねる男に、ザックは苦笑した。
「ああ」
 本当のことを言うわけにはいかないだろう。納得できない表情を浮かべている養父に首を傾げてみせる。
「部屋、入れてくれよ。それともここで、立ち話?」
 冷たい廊下を指差すザックの言葉にシギルは我に返り、彼を部屋に通した。
 シギルの部屋は小綺麗に片付いていた。そしてよく見てみると、本の並びから筆立ての位置までに何かしらの規則性が窺える。
「かわんないな……。相変わらずの几帳面さだ」
 背が高く薄いものから、低く厚い順に並べられた本棚を見てザックは笑った。
「ああ、そうじゃないと、落ち着かなくてな」
 シギルはザックを椅子に座らせた。そして自分も腰を落とすと、まっすぐに養子を見つめた。
「大きくなったな」
「そりゃ……、あの後、成長期に入ったからな」
 ザックは恥ずかしそうに眉を下げた。シギルが言いようのない笑みを浮かべる。
 シギルは端においていた椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。ザックは普通に座っているのが辛いのか、椅子の背もたれを前にして、そこに体をあずけた。
「おまえはやんちゃでいたずら坊主だったな」
 笑いを含んだシギルの口ぶりに、ザックは思わず肩をすくめた。
「あの頃はその元気さに、父親のジル似だと思っていたが……。いや、実際性格はそうなんだろうが」
 そう言いながらザックの目尻に触れる。
「マリーによく似てきた」
 その言葉にザックは息を呑んだ。
「……どの辺が?」
 ほとんど顔も覚えていない母に自分が似ているというのはなんだか変な気分だった。
「目元や、鼻の形かな。……いや、全部だ」
 思い出に目を細める養父をザックは見た。彼は今、自分にマリーの面影を見ているのだ。
「でも、俺は母さんも父さんも覚えてないよ」
 自分の足元に視線をおとし、ザックは低く呟いた。彼らはザックにとって最も近しい血筋の他人であった。知らない人間は他人だ。
 シギルは肩を落とした養子に優しく微笑んだ。
「おまえはジルとマリーの子だよ。間違いなくな」
 力強くそう言いきる。ザックは首を傾げた。
「なんで?」
「その目の色だよ」
 シギルはザックの瞳を指差した。
「その黒色はジルから、翠はマリーから受け継いだものだ」
 ザックは驚いて目を見張った。
「母さんて、目、翠だった?」
「なんだ、知らなかったのか?」
 今度はシギルが驚く。ザックはうなずいた。
「なんて事だ」
 シギルが大仰に首を振る。それからザックの肩を掴んだ。
「ちゃんと知っておかんとダメだぞ。島で一番美人だった母親なんだ」
 ザックはその勢いに気圧されながらうなずいた。それからシギルは椅子に腰掛けなおすと、どこから話すか思案している表情を見せ、ゆっくりと口を開いた。
「……マリーが大陸の人間だったことは知ってるな。グルゼは知っての通り、みんな黒髪黒目だ。だからジルがマリーを連れてきた時は、みんなでジルの家へ押しかけたよ」
 シギルは脚の上で手を組み、天井を仰ぎながら語った。
「覗いてみたらどうだ。綺麗な金色の髪に、翠の目だ。彼女はびっくりして、ごったがえした村人たちを見ていた。その驚いた顔までが可愛らしい人形のようでな、若い男達はみんな彼女に一目ボレしたんだ」
「シィも?」
 ザックが興味深そうに、養父の話に口を挟む。シギルは思わず吹き出した。問いに対する驚きと答えることに対する困惑の入り混じった顔で養子を見る。そして是非を答えることなく、彼は続きを話し始めた。
「……まあ、そうして、美男美女の若夫婦が出来たわけだ。結婚してすぐ、おまえが生まれた。おまえのその目を見て、マリーはたいそう喜んでたぞ」
 シギルがザックのほうに身を乗り出す。
「二人の瞳の色が両方入ってたんだからな。まさに愛の結晶というわけだ」
 まるで自分の事のように嬉しそうに話すシギルに、ザックは眉を寄せた。
「父さん以外の男だったら?」
 ザックの言葉にシギルが目を剥く。
「おまえは何て事を言うんだ。彼女が貞淑な妻であったことは間違いないし、おまえは二人が島にやってきてから七ヶ月弱で生まれたんだ。計算してみろ、島の男が彼女に手を出してる暇なんかないぞ」
「マイナス三ヶ月だ」
 ザックは指を折って数え、笑った。 
 ふと、外の雨音が聞こえなくなっている事に気づき、ザックは窓のほうに目をやった。切れた雲の間から星が見える。月もじきに顔を出すだろう。
「……こういう夜って、寂しくなって、……たまらないんだ」
 椅子の背もたれに顔をのせ、静かに呟く。
「雨上がりの夜は静か過ぎて……、潮の音が耳にこだまするんだ」
 シギルは養子の神妙な面持ちに息を詰まらせた。青い影の横顔には既視感がある。
「……怖かったよ。……一人の夜は怖かった……」
 ザックの声は震えていた。窓の外、暗い紺の空を見つめながら、彼は故郷の空を見ている。
 シギルは愕然とした。一人残された子どもが、毎日笑顔で過ごしてきたはずがないのに。
「……ザック」
 シギルの呼びかけを遮って、ザックは笑った。
「俺の怖がりは、どっちに似たんだろうな」
「……わからん」
 シギルは重い息を吐いて、うつむいた。
「ジルはもとより、マリーも意外と肝の据わった娘だった」
「じゃあ、シィに似たのかな?」
 軽く告げられた言葉にシギルは顔を上げた。翠の混じった黒い瞳が、優しい光を湛えて自分のほうを見ている。
「シィは怖がりだろ? 雨漏りの水が跳ねる音にも、跳び上がってビックリしてた」
 意地悪そうに笑いながら、ザックは自分の記憶を掘り下げた。
「血はつながってなくったって、十年も育てられたんだ。シィに似てもおかしくはないだろうな……」
 そう言うと、笑ってザックは空を見上げた。
「……もう寝るよ。宵も更けてきた」
 シギルがつられて窓の外に目をやると、青い月が輝いていた。
(あの夜も、月はこんなふうに輝いていた……)

翠の証 14

 青い月は死んだ女の顔だ。哀れにも、若くしてこの世を去った、美しい女の。
 横で椅子から立ち上がる音がする。シギルはのろのろとそちらへ目をやった。
 翠の瞳が輝き、金の髪が揺れる。
 ――青い月の女だ。
「おやすみ、シィ」
 呆然と自分を見上げる養父にいくらか困惑しながらもザックは扉の方へ歩んだ。
 しかし突然、目次に戻る進めなくなった。
 シギルが後ろから抱きしめてきたのだ。
「すまなかった……」
 低く呟かれる謝罪。
 ザックは首を捻るようにして、シギルを見上げた。だがうなだれる養父の表情は窺えない。
「すまなかった。許して欲しいなんて思ってない……」
 今更な台詞。
 開いていない筈の窓から生ぬるい、雨上がりの風が吹き付けたような錯覚。それに不安を覚えながら、ザックは声を絞った。
「シィ、俺は独りにされたことなんて……」
 語尾は途切れた。シギルの腕に力がこもる。
「痛……」
 ザックはたまらず、その腕から逃れようとした。しかし病み上がりの体に力は入らない。
「マリー……」
 耳元で囁かれた名前にぎょっと目を開く。
「シィ? 俺は母さんじゃない」
 だが、シギルにはザックの言葉など耳に届いていないようだった。罪悪感に満ちた声で言葉を続ける。
「……ジルが死んで、一瞬、私は……喜んだ」
 ザックは自分の体の力が成す術もなく抜けるのを感じた。
(――裏切りじゃ、ない)
 理性が心の中で喚く。
 シギルとて一人の男だ。相手が人妻でも、愛してしまったのなら仕方がない。
 けれど叫びは虚しく、たった一言が頭の中にこだまする。
 ――喜んだ……。
「……嘘だ」
 自失した状態で呟く。
 しかし瞳に深い絶望を映したザックは、いまやシギルの前には存在しなかった。彼の腕の中にいるのは、金の髪を持ったひとりの女である。
「許してくれ。マリー……」
 シギルは一体、「いつ」に立ち戻っているのだろうか。
 ジルが死んだ夜か。それとも別の夜か。
 やがてザックは静かに呟いた。
「シィ……、離して」
 胸の奥から言いようもない感情が湧き上がってくる。
 顔を知らなくても、声を知らなくても、何も知らなくても、それでもジルは最愛の父親だった。母がこの世で愛した、たった一人の、自分の父親だ。
 それは、嫌悪だった。
「離せ!」
 この自分がシギルに嫌悪を覚えるなんて、夢にも思っていなかった。ジルよりも、明らかにシギルと共に過ごした時間のほうが長いのに。
 ザックはシギルの腕を爪で引っかいて、その身を引き剥がすようにして彼から離れた。
 シギルは血の滲んだ自分の腕を見、そしてザックを見つめた。
「ザック……?」
 驚いたように養子の名を呼ぶ。ザックは眉を寄せてその様子を見た。
 今までの態度を一変させ、シギルは目をしばたいている。まるで何も覚えていないようだ。
「どうした、ザック?」
 心配そうに伸ばされた腕に、ザックはびくりと肩をすくめた。シギルの瞳に驚きの色が浮かぶ。
「ザック?」
「あ、……ごめん。俺、もう寝るから」
 ザックは早口にそう言うと、シギルの部屋を飛び出した。
「あ……」
 呼び止めることはかなわず、シギルは扉が閉まるのを何も出来ずに見た。腕に残った傷跡。
 月光が独り残された彼の影を床に照らし出していた。

 客室のドアを後ろ手に閉め、ザックはそのままずるずると座り込んだ。窓から銀に輝く青い光が差しこんでいる。ザックは忌々しくその光を睨んだ。
(――狂わせたんだ)
 青白い不気味な月が。
 月は魔力を持っている。力は引力。人々を過去に引き付けて止まない。
 シギルはその魔力にあてられたのだ。月の魔力が、彼を過去に立ち戻らせた。
 ザックは青い月が嫌いだった。
 青い夜。
 海も空も輝く月までも、青で統一されて。もういなくなった筈の人達が、波の狭間から顔を出していそうだ。物欲しげに。虚ろな瞳さえ、青く。
 風のない静かな夜は、独りで震えていた。眠ってしまえば、楽になれるのに。潮騒が彼から逃げ場を奪う。
 ザックは髪を縛っていた紐を乱暴に引っ張った。落ち着くように、ゆっくりと深呼吸をする。
(……違う。一瞬だ。一瞬だけ喜んだって……。完璧な人間なんていない。……俺はシィと一緒に暮らした。俺はシィが好きだ)
 ザックは首を振った。
(父さんの事なんか知らない。知らない人のために、一緒に暮らした人を嫌うなんて……。そんな事……)
 夜の闇に響く潮騒は信じる心をざわつかせた。安らかな心を掻き乱した。
 歯を食いしばり、ザックはふらふらと立ち上がった。ベッドの傍に置かれていた鞄を開き、その奥の隠しに手を突っ込んだ。
 色褪せてしまった写真を手に取る。写っているのは三人。笑みを浮かべた男女、そして赤ん坊。そのうちの一人は自分だ。
 他の二人は?
(……知らない。こんな奴ら、知らない)
 しかし、ザックはこの写真を手放すことができずにいた。知らなくても、誰なのかは分かっていた。
 写真をもとの場所に戻し、ベッドに足を進めた。
 そして、彼のベッドで夢の世界へ旅立っている少年を見つける。
「あれ……?」
 もう一つのベッドに目をやれば、闇音の寝顔が見える。
 ザックはしばらく、一人で途方に暮れた。

翠の証 15

 フレイムが目を開けると、目前にザックの寝顔があった。
「わっ」
 慌てて身を起こし、自分がいる場所を見下ろした。そうだ。自分は昨日ザックのベッドで寝てしまったのだ。
 ほっと安堵の息をつき、横に眠る男を見た。随分と顔色も良くなっている。
 警戒心の欠片もない、緩んだ寝顔にフレイムは思わず微笑んだ。
「そうやっていれば、ザックも可愛いんですけどね……」
 背後からしみじみと呟かれ、フレイムは驚いて振り返った。闇音がぬる温くなってしまった水の入った洗面器を抱えている。
「私も、ついさっき起きたんですがね」
 そう言いながら、昇ったばかりの太陽を眺める。雨上がりの朝日は一層眩しく感じられた。
「あ、闇音さん、昨日は……」
 フレイムが肩をすくめ、闇音を上目使いに見上げる。闇音はフレイムを見て、優しく笑った。
「いいんですよ。少し、落ち着く必要がありました。柄にもなく、動転してしまって……」
 闇音は片手で前髪を掻き上げながら、小さくため息をついた。それからふと、洗面器に目を落とした。
「そういえばフレイム様、この水に何かしましたか? やけに温くなってるんですけど」
 フレイムはぎくりと肩を跳ねさせた。飛竜がやって来て使ったなんて、とてもじゃないが言えない。
「さあ? 俺にはわかりません」
 フレイムは爽やかな朝にふさわしい笑みをみせた。軽やかに嘘をつく自分に、内心で驚きながらも。
 闇音は眉を下げ、水に映る自分を見つめた。
「まあ、いいですね」
 そう結論付けると、洗面器を抱えて部屋から出ていった。見送って、フレイムは胸を撫で下ろした。
 それから、横で幸せそうに夢の世界に浸っている男に目をやる。
「ザックは朝に弱いんだよね……」
 フレイムは青年の横に寝そべり、その耳元で起きろーと囁いてみた。
 のろのろと黒い瞳が開かれる。フレイムはびっくりして声も出せずに、ザックの視線を受け止めた。
 ザックはぼんやりとフレイムを見やると、ゆっくりと微笑んだ。裏のないその笑みは、見る者すべてを魅了するかのようだった。
「おはよう……」
 掠れた声でそう言うと、また瞼を閉じる。フレイムは呆気にとられて、再び眠りについたザックを見つめた。
「おはようって……、寝る前の挨拶じゃないよ……?」
 ためしにザックの頬をつついてみたが、もうぴくりとも動かなかった。彼は寝ぼけていたのだろうか。
 ――可愛げがある。
 昨夜、飛竜が言った言葉が頭をよぎる。フレイムは肘をつき、ザックを見下ろした。
(『可愛い』って形容詞が当てはまる人だとは、思ってなかったんだけどな……)
 身長は高く、それに見合った長い手足は攻撃的な雰囲気がある。その白銀の剣を振るう姿には、同性のフレイムでもかっこいいと思うことがあった。
(本人に可愛いなんて言ったら、どんな反応するかな?)
 きっと顔をしかめるに違いない。ザックが不機嫌になる様子が容易に想像できたことに、フレイムは苦笑した。

 日もだいぶ昇った頃、ザックはくしゃくしゃになった髪を掻きながら、のんびりと起きあがった。寝ぼけまなこ眼を擦りながら、ベッドの横の台に手を伸ばす。最初は櫛を探していたようなのだが、手探りで見つけることができず、先に指に触れた紐を取ると、そのまま髪を結った。
 その寝起きの行動を、黙って見ていた三人――グィンもあとから起きてフレイムたちに加わった――は顔を見合わせて、肩をすくめた。
「まったく、あなたは何をやってるんですか」
 闇音は立ち上がると、台の端っこに載っていた櫛を取った。手にした黒い櫛をザックに差し出す。
「ああ、おはよう」
 ザックは闇音を見上げて笑ってみせた。しかしもう髪をいじる気はないらしく、櫛を受け取ろうとはしない。闇音は頭痛でも堪えるかのように片手をこめかみにやって、ため息をついた。
「私に髪の毛を引っ張られたいんですか?」
「……結ってくれるって事か?」
 ザックは首を傾げて、影の精霊の表情を窺った。闇音は無表情で彼の横に腰を下ろした。いささか乱暴な手付きで紐をほどく。ザックはわずかに眉をしかめたが、何も言わなかった。
 闇音が丁寧に彼の黒い髪を梳く。
「闇音、僕のもあとで結ってくれる?」
 グィンが彼の肩のそばで尋ねる。闇音は頷いた。
「いいですよ」
 そしていつも縛っている部分だけが他よりも伸びてしまった主人の髪を手に取りながら、窺うように首を傾げる。
「変な伸び方してきてますけど、切ったらどうですか?」
「だって、伸びかけの時期が暑くてさ。もう、このままでいいよ」
 ザックは面倒くさそうに答えると、睫毛を伏せた。闇音は器用に髪を結い、ザックの頭をぺチンと叩いた。
「終わりましたよ」
「サンキュ」
 ザックは頭にくっついたしっぽ尻尾に触れながら礼を言った。
「なんか二人って、そうしてると恋人みたいだよね」
 フレイムが唐突に呟いた。闇音が目を見開き、ザックが絶句する。フレイムは二人の過剰な反応に思わず目を見開き、それからおずおずと口を開いた。
「だって、闇音さん綺麗だし……。女の人に見えるから」
「きつい冗談だな……」
 闇音の事を男としてみているザックがうんざりと肩を落とす。飛竜の事を思い出したらしい。
「まったくです。私だって冗談じゃありません」
 闇音がため息混じりに言う。ザックが横目に影の精霊を見やる。
「おまえは俺の事を獣か何かだと思ってるからな」
「人間の男性はみんなそんなものだと思いますけどね」
 闇音が冷ややかにザックを一瞥する。フレイムは自分もそんな風に見られているのだろうかと、内心どきりとした。
「男がみんな同じだって見るのは、差別だぞ。現にあいつは、いつまでも一人の女を想ってるじゃないか」
 ザックがフレイムを指差す。
「え?」
 自分に矛先が向けられたフレイムは、あっという間に真っ赤になってしまった。グィンがくすくすと笑うのが聞こえ、フレイムは眉を困らせたままながらそちらを睨んだ。
 闇音はというと、話にならないとザックに首を振っている。
「私が言ったのは一般論ですよ。フレイム様は純情な方です。そう言うあなたはどうなんですか? 美人と見れば、すぐ声をかけて」
 ザックはむっつりと顔をしかめた。窓に目をやり、青い空を睨む。
「――俺だって……」
 ふて腐れたような声。翠を刷いた黒い瞳に、甘く寂しげな光が浮かぶ。フレイムは喉の辺りがひやりとするのを感じた。この続きは聞いてはいけないような気がする。
 闇音の気持ちには、うすうす気が付いていた。色恋沙汰に詳しいわけではない。第三者の勘である。しかしフレイムには、ザックが誰か一人を特別に見ているようには、見えなかった。
「ザック……」
「腹減った」
 フレイムの呼びかけは無視され、かわりに気の抜けた言葉が漏らされる。
「俺、一昨日から何も食べてねぇよ」
 伸びをしながらザックはぼやいた。
「飯にしようぜ。空腹でぶっ倒れるなんて、同情の引ける話でもないしな」
「ああ、うん。そうだね……」
 フレイムはしどろもどろに答え、立ち上がる。ザックはドアノブに手をかけながら、闇音を振り返った。
「おまえは来ないのか?」
「どうせ、食べれませんから。この部屋で待ってますよ」
 闇音がいつもと変わらない感情の表れない瞳で主人のほうを見る。ザックはうなずくと部屋を出た。
「じゃあ、僕今から髪を結ってもらうね。朝ご飯はいいや」
 ザックの後に続こうとするフレイムに、グィンが言う。
「いらない? なんで?」
「へへへ。昨日さ、二人でフレイム達のこと待ている間にシギルさんがアルムの実をいっぱいくれたんだ。それがまだ残ってるの」
 そう告げると身を返し、闇音の傍へ飛んでいく。
 フレイムは闇音の方を見た。彼女は静かにベッドに腰掛けている。
(闇音さんは気が付いたのかな……?)
 ザックの短い言葉の端に滲んだ、感情。

翠の証 16

「フレイム?」
 階段の下から、ザックが呼びかける。フレイムは慌てて階段を駆け下りた。
「何やってたんだ?」
「うん、ちょっと……」
 フレイムはザックを見上げ、ためらいがちにうつむいた。
「……ねぇ、ザックは好きな人いるの?」
 思いがけない質問に、ザックは目を見開いた。こめかみに手をやりながら、柱にもたれかかる。
「んなこと、聞いてどうするんだ?」
「え、いや……」
 何か良い理由はないだろうか。フレイムは視線を泳がせた。
「うん、……だって、ザックは俺の好きな人、知ってるのにさ……」
 思いつきで答え、フレイムは顔を上げた。ザックは眉間に皺を寄せて、自分を見下ろしていた。フレイムは再びうつむいた。
「おまえがそんなことを気にするとは、思っていなかったが……」
 青年の声音には、苦いものが混じっている。
「……いないと言えば、嘘になるな」
 フレイムは弾かれるように顔を上げた。その瞳に驚愕の色が濃く浮かんでいる事に、ザックはわずかにたじろいだ。
「……これ以上は、言いたくない」
 そう言いながら、ザックは背を向けてダイニングルームへ歩いていった。フレイムはその後ろ姿を、木偶の坊のように突っ立て見つめた。

 ほとんど快復したと言ってもいいザックは、この日の朝食は完食した。
「食べれるって事は、それだけで贅沢だよな」
 しみじみと呟きながら、ザックはテーブルの上で手を組んだ。シギルが食器を片付けながらうなずく。
「だから、食事の前の祈りは欠かしちゃならんのさ。日の神様にも、大地の神様にも、すべての豊穣の神様に感謝しなくちゃならない」
 食物だけに言えることではない。風も、水も、火も、何もかもがこの世界にはなくてはならないものである。神の力を行使する魔術師だけが、神の恩恵に与っているわけではないのだ。
 フレイムは神腕の事を考えた。神腕も神に感謝しながら使えば、少しはましになるだろうか。ふと、昨夜風呂で考えていたことを思い出した。
「ねぇ、ザック。誰か、魔術に詳しい人いないかな?」
 突拍子もないフレイムの問いにザックは首を捻った。
「お前の頭の中はおかしな風に回路が繋がってるんだな」
 フレイムは言われた意味が分からずきょとんとした。ザックはその様子に笑みを浮かべて、肩をすくめた。
「闇音もグィンも、お前だって俺より詳しいんだ。それ以上に詳しい奴なんて、知らないな。しかし今更、魔術の詳しい奴をどうしようっていうんだ?」
「うん、これをうまく使いこなせるように、なりたいかな……って」
 フレイムは右腕を上げて見せた。ザックは頬杖をついて、神腕を見つめた。
「今のままでも、不便はないだろ。あんまり使わないし」
「今のままじゃだめな状況が、これから先ありそうなんだよ」
 フレイムは苦笑した。ザックが眉を寄せる。
「俺の事なんか気にしなくてもいいんだぞ。体調が悪くない限り、自分の身を守る事はできるつもりだ。闇音もいるしな」
 フレイムは首を振った。
「確かにザックは剣じゃ、もう簡単に負けたりはしないだろうけど。でもやっぱり、魔術師が相手だと圧倒的に不利だよ」
 ザックは窓の方に目をそらした。外では露が弾いた陽光が、木々の緑を輝かせている。
「……飛竜か」
 フレイムは小さくうなずいた。
「森で会った時は、結界の中だったから分からなかった。ザックを助けなきゃって必死だったし…」
 ザックの整った横顔を見つめて続ける。
「でも昨日、解熱魔術を使ったとき飛竜は呪文を……、唱えなかったんだ」
 ザックはゆっくりとフレイムの方に目を戻した。フレイムのガラス玉の瞳には、わずかに畏怖の色がある。
「呪文を唱えないのって……、え?」
 ザックはフレイムの言葉がよく分からず、首を捻った。ただ、わずかな不安が次第に大きくなっていくのは分かる。フレイムはゆっくりと説明を始めた。
「『神腕』とは限らない。神の領域から直接引き出す魔力『神通力』は、腕にだけ宿るとは限らないんだ。……例えば目だったり……」
 不気味な血の双眸が頭をよぎる。魔力の光は同じ色をしていた。
「あと神通力じゃなくても、魔力が非常に強ければ、呪文は要らないんだ」
 ザックは慣れない魔術の話に眉を寄せた。
「……つまり、あいつは強い魔術師だって事なんだな」
 フレイムの話を要点だけに絞ってみる。フレイムはうなずいた。
「やっと、ガンズを倒したと思ったら、今度は変態魔術師か……。たまんねぇな」
 ザックは憮然と吐き捨て、深くため息をついた。しかし、事をフレイムほど深刻に受け取っているようには見えない。
「それでお前はあいつに対抗すべく、その腕を使いこなしたい訳だ」
「うん」
 ザックは天井を仰いだ。上の階には闇音がいる。
「まあ、この中で一番魔術に詳しいのは、闇音だろ」
 フレイムも同じように、天井を見上げた。
「そうだろうね……」
(でも闇音さんは精霊だ。人間の魔術とは根本的に違う……)
 フレイムは視線を落として自分のコップの水を見つめた。
 ――今、お前に必要な事は休息だ。
 そう言ってコップを指し出してきた男。渋い緑の髪をした魔術師。
 頼るなら彼しかいない。フレイムは決して顔を上げた。
「ザック、次に行きたいところがあるんだけど……」
「ん? どこだ?」
 会話が途絶えてぼーっとしていたらしいザックは目を瞬いて顔を上げた。
「リルコ州」
 ザックはえーっとと顎を掻いた。コップの水を指に取り、テーブルに地図を描く。フレイムはその南端を指で示した。
「南の砂漠に隣接する州だよ」
「……でっかい森があるところだな?」
 ザックの問いにフレイムは頷いてみせた。
「会いたい人がいるんだ」
 翠の混じった黒い瞳がじっとこちらを見つめる。険しい瞳だった。
「……魔術師だな。……そいつを頼るのか?」
 慎重に尋ねてくる。彼らは今やどちらも賞金首だ。気楽に構えている方がおかしいだろう。
「ネフェイル・フォライゾ……。俺を助けてくれた人だよ」
 ふむ、と頷いて――、しかしザックは眉を寄せてフレイムに見なおった。水で描かれた地図。広大な土地を指先で叩いてみせる。
「リルコの、どこだ?」
 指摘にフレイムは苦笑しか出来なかった。ザックは更に顔をしかめた。
「お前もずいぶん計画性のない奴だな」
「仕方ないよ。また頼る事になるなんて思ってもいなかったんだから」
 ザックは長いため息をついた。諦めた顔で少年を見やる。
「いいよ。好きにしな」

翠の証 17

 雨上がりで畑に出れないため、シギルは今日一日家にいることにした。
 これを機に、話してしまわなければならない。
 あまりに幼かったため、彼が覚えていないであろう、事実を。
 シギルは客室の扉を叩き、押し開いた。同時に中にいた四人の視線が自分に向けられる。シギルはそれに構わず、自分の養子の方を見た。
 ベッドの上で本を広げている。読書家なところは変わっていないらしい。だが今は旧懐に浸っている場合ではない。シギルは小さく呼吸してから、声をかけた。
「ザック、大事な話がある。私の部屋に来てくれ」
 思わぬ指名にザックはいくらか戸惑った。昨夜の事が思い出される。
 ザックはためらいながらも、立ち上がった。
「ああ……」
 短く返事をして、彼の後について部屋を出ていく。扉が閉められて、残された三人はそれを見つめた。
「なんだろうね?」
 グィンが横に座るフレイムを見上げる。フレイムは首を傾げた。
「さあ……」
 窓際に立っていた闇音は、外に目を戻した。
(島を出た理由かもしれない……)
 言い換えれば、ザックを捨てた理由、だ。
 外は雨によって、すべてを浄化されたかのように、美しく輝いている。闇音は恨めしげにそれを見つめた。
 間もなく残暑もやわらぎ、秋が来るだろう。

 風に揺れる金の髪。優しい笑顔。
 ぼんやりと、曖昧に覚えているのはそれだけだ。家族の温かさは、すべてシギルに教わったようなものだ。あの美しい島で。
 だが、なぜか自分はあの島を離れたくて仕方なかった。いや、島を出たかったというよりは、大陸に渡りたかったという表現のほうが正しいか。
 ザックは冷たい板張りの廊下に目を落とした。
 ――母の血か?
 海を越えてやってきた母の血が、再び大陸の大地を踏みたいと願ったのか。
 分からないことだらけだ。自分の気持ちなのに。
 ザックは口元を厳しく結んだ。シギルと再会してから、両親の事ばかりが気になる。
「ザック」
 シギルに呼ばれて、ザックは慌てて彼の部屋に入った。昨日と同じ椅子に、落ちつかなげに腰掛ける。シギルは机の前に静かに立った。
「あの三人と旅をするのは楽しいか?」
 シギルは笑みを浮かべて、養子を見下ろした。予想していなかった質問にザックはやや気後れした。
「あ、ああ。……楽しいよ」
「……そうか」
 シギルは組んだ手に目を落とした。
「なぜ、島から出る気になった?」
 ザックは息を呑んだ。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……大陸に憧れて……」
 今のところ、自分の中で納得のいく理由はこれだ。
 シギルは小さくため息をついた。
「島の友達と離れるのは辛くなかったか?」
「そりゃ、寂しかったけど……。二度と会えなくなるわけじゃないし」
 ザックは軽く肩をすくめて見せた。
「父さんだって、島に戻ってきた」
 シギルは瞼を伏せた。
「私は島に戻る気はない」
 硬い声で告げる。ザックは驚いて、まじまじと養父の顔を見つめた。わずかだが、確実に刻まれ始めた皺が目に付く。彼ももう他の者達と変わらず、後は老いていくばかりなのである。ザックは何処か切ない印象を受けた。
「生まれた島なのに?」
「あの島には私の罪が、眠っている」
 思いがけない言葉にザックは目を見張った。こめかみに手をやり、シギルが重く息をつく。
「……今更な事を話すつもりだ。聞く気はあるか?」
 そう言ってから、シギルは目を開いた。黒い瞳に沈痛な光が浮かんでいる。ザックは眉根を寄せた。
「辛い話は聞きたくないし、話して欲しくもない」
 低く呟いて、養父の瞳を見つめた。シギルは微かに笑った。
「ジルにそっくりだな。奴もそう言うだろう」
 目を細めて、床を見つめた。忌まわしい過去を脳裏に浮かべる。
 彼はうつぶせに倒れていた。土で汚れた顔は真っ白で、まるで別人のようだった。
「……ジルは殺されたんだ」
 視線を静かに養子に戻す。ザックは瞳を大きく開いて自分を見つめていた。日の光を弾いて、黒い瞳の中の翠が光る。シギルは眩しそうに、その翠を見つめた。
「夕日が落ちる頃だった。海からお前の家まで続く細い道の上に、ジルは倒れていた。貝の破片を蒔(ま)いた白い道を真っ赤に染めて」
 ザックはふらりと立ち上がり、シギルの傍に歩み寄ろうとした。しかし、足がもつれて蹴躓(けつまず)く。シギルが彼の肩を支えた。
「大丈夫か?」
 ザックはのろのろと顔を上げた。その顔は衝撃に青ざめている。長い睫毛を震わせ、何かを懇願するように、シギルの顔を見つめた。
「気を確かに持って、聞くんだ。大事なことだ」
 ザックは弱々しく首を振って、うつむいた。
「……聞きたくない」
 泣き出しそうな響きのある声音が、絞り出される。
「お前の父親のことだ。辛いかもしれないが、知らずにこのまま旅を続けるのは危険だ」
 励ますような口調で告げ、シギルは養子の髪を優しく撫でてやった。
「ジルの傍にもう一人、男が倒れていた。島の者ではなく、誰もその男の顔を知らなかった」
 ザックはうつむいたまま、睫毛を伏せた。冷たい汗が背を伝うのが感じられる。深く息を吐いた養子を見下ろし、シギルは続けた。
「分かった事は、その男はジルが持っていた短剣で殺したという事。そしてその男の胸に縫い付けられた紋章が、イルタシア軍のものだということだけだ」
 ザックは顔を上げた。
「……なんだって?」
「お前の父親は、イルタシア兵に殺されたんだ」
 シギルは声を潜めて、低く呟いた。ザックはわずかに眉を寄せた。
「……三日ほど経って、島の裏でもう一人のイルタシア兵の死体が見つかった。おそらく、そいつがジルを殺したんだ。ジルも剣の腕は周りの誰にも劣らなかったが、あの日は短剣しか持ってなかったんだ。二人から挟まれて、一人を仕留めるのが限界だったんだろう」
 シギルはゆっくりと説明した。ザックはしばらく呆然としていたが、おもむろに口を開いた。
「……じゃあ、父さんを殺した奴は誰が殺したんだ?」
 極自然な疑問を投げかける。しかし、シギルは険しく眉間に皺を刻んだ。その様子にザックは訝しげに首を捻った。シギルは一つ息をつき、ザックの瞳を見つめた。
 その、母から受け継いだ翠を宿す瞳を。
「――マリーだ」

翠の証 18

 その瞬間、ザックは凍りついた。
 美しい母の笑みが脳裏に浮かぶ。薄いすりガラスが挟まれたようにはっきりとしないが、それはあまりにも優しい。
「……嘘だ……」
 掠れた声で否定する。
「嘘じゃない」
 シギルはザックをきつく抱きしめた。押し殺した声で囁く。
「私がその兵の死体が見つかった事をマリーに知らせに走ったんだ。彼女は穏やかな笑みを浮かべて、お前を抱いていた。そして、私に告げたんだ。自分が殺したことを」
 ザックは養父の腕の中で首を振った。
「相手は軍人だぞ? あの母さんに殺せるはずがない」
「……殺せるさ」
 シギルの声は微かに怯えの色があった。
「マリーは『神臓』の持ち主だったんだから……」
 ザックは一瞬、戸惑った。「心臓」かと思ったのだ。しかし今朝のフレイムとの会話が思い出される。ザックは首筋に冷たいものが這うような感覚を覚えた。
 ――「神臓」?
 シギルは瞬きもせず虚空を見つめている養子を見た。優しくその肩を揺する。
 ザックは弾かれたように、シギルの顔を見た。
「その様子だと、神通力の事は知っているな?」
 シギルの声にザックはゆっくりうなずいた。彼にとって、神通力は今でも未知の力であったが、フレイムの魔術にとてつもない気配を感じるのは確かだ。
 シギルは小さく息をついて自分の椅子に腰掛け、ザックにも椅子に戻るよう示した。
「正確には血が力を持っているんだが、血液量の多い心臓から魔力を引き出すようなものらしい」
 シギルは自分の足元に目を落としながら、喋った。
「つまり、実のところイルタス兵が狙っていたのは、マリーだったというわけだ」
 ザックは息を呑んだ。母親が神臓の持ち主だということはもちろん、魔術が使えるということも知らなかったのだ。
 フレイムがイルタス王に狙われている。自分は彼を守りたいと思った。
(何か……、変だ)
 ザックは自分の手のひらを見つめた。
「夫の仇を討つことはもちろん、お前を守るためにも、彼女は自らの手を汚したんだ」
 シギルの声に顔を上げる。
「神通力は遺伝しないというのが、今のところの一般論だ。しかし可能性が皆無でない事もまた、事実だ」
 ザックは睫毛を瞬かせて、養父を見つめた。
「……俺には、魔力なんかない」
 自分は小さな火を起こすのにだって、道具を必要とする一般人だ。闇音と初めて会った時だって、彼自身が話すまで、彼が精霊だと分からなかった。
 シギルはうなずいた。
「ああ……、そうだな」
 ザックは窓の外の青い空に目をやった。今、養父から明かされた事実はあまりにも重かった。何も知らずに自分は育ったのだ。周りにいた友達と同じように、普通に。
 父は母を守ろうと、命を投げ打った。母はその父の命を奪った男を許さなかった。
 耳に遠く、潮騒の音がこだまするような気がした。
 ふと、小さな疑問が甦る。
「……母さんは、何で死んだんだ?」
 ずっと病死だったと言い聞かされていた父は殺されていたのだ。母親も病死だと思っていたが、酷く不安を覚えた。
 シギルはじっと養子を見つめていたが、やっと彼の口から漏らされた問いに眉を寄せた。
 天井を仰ぎ、手のひらで目を覆う。
 祈るように。
「……許してくれるか?」
 ほとんど自問のような呟き。聞き取れるか否かのその声にザックは耳を傾けた。
「彼女は、殺した」
 彼の瞳から涙が溢れる。
「……私が」
 ザックは立ち上がった。養父の顔を凝視する。
 ――何だって?
 口に出したつもりだったが、音にはならなかった。
 心臓が信じられない速さで鳴り響く。無意識に手が震えはじめる。
「愛してしまったんだ。他のものがどうでも良くなるほどに……」
 神に懺悔するかのように中年の男は呟いた。
 ザックは愕然と立ち尽くしたまま、その涙が床に落ちるのを見た。
「……しかし、彼女が一生の伴侶として、ジル以外の者を選ぶ事はなかった」
 その姿は神に愛を誓った女達と変わらなかった。我が子を胸に抱き、死んだ夫の事を悼む女。それは宗教絵画にも似て、美しい光景だった。彼女は子どもだけでも幸せになるようにと笑顔を絶やさず、無償の愛を注いだのだ。
「耐えられなかった……」
 いくら愛の言葉を囁いても、彼女はいつも、淡い笑みを浮かべるだけだった。しかし、その笑顔には強い拒絶が窺えた。
「青い月が輝く夜だった」
 最後までマリーは自分の愛には応えてくれなかった。
 その白い首を締めたのだ。自分でも信じられないほどの、涙を流しながら。
 彼女はその翠の瞳に涙を浮かべ、自分の頬に細い手を伸ばしてきた。
 ――ザックを……。
 掠れた声で訴えられ、背後で泣き声を上げている子どもに気が付いた。
 ――愛してあげて。
 彼女はその長い睫毛を伏せた。
 自分の事を、殺してしまうほど愛した男。その愛に応えられない自分。
 唇だけを震わせ、彼女は謝って、そして息絶えた。
「……とんでもない事をした。自分も死なねばならないと思った」
 シギルは涙に濡れた黒い瞳でザックを見た。
「だが、泣くんだ。火でもつけられたかのように、酷く泣くんだ」
 傍によって腕を伸ばすと、子どもは母親を殺した張本人にわけもわからず縋りついて、また泣いた。理解し得ない恐怖に怯えながら泣いていた子どもにとって、差し伸べられた手は救いでしかなかったのだ。
 まだ幼く、母がなぜ死んだのか分からなかった子どもはすぐに自分に懐いた。他の子どもたちと一緒に遊び、時に喧嘩して、元気に成長していく。くったくのないその笑みに、何度自分の心は安らぎ、そして罪悪感を覚えただろうか。
 シギルはゆっくりと立ち上がりザックに近づいた。伸ばされてきた腕からザックは思わず身を引いた。
 シギルの瞳が喪失の感に揺れる。彼は静かにザックを見つめた。
「でも、やはり耐えられなかった。日に日に、マリーに似てくるお前を育てる事に、耐えられなかった」
 だから、島を出たんだと低く呟く。
 ザックは自分の頬を熱いものが流れていることに気が付いた。手で触れてみると、指先が濡れる。
 シギルは低い声で、訴えた。
「殺してくれ」
 机の上に置いてあった短剣を手に取り、ザックに差し出す。
「ジルの遺品だ。これで、殺してくれ」
 ザックは震える手で、重い銀の装飾が施された短剣を、受け取った。
 奥歯を噛み締め、眩暈すら起こしながら、その剣を抜く。
 白銀の切っ先が鈍く輝いた。
「ザック……」
 シギルは再び彼の傍に歩みより、その肩を抱きしめた。
「お前のためだけに存(ながら)えた命だ。お前の手で絶ってくれ」
 温かい腕の中で、ザックはしゃくりあげた。
 自分はきっと、この男を斬らなければならない。
 父が命を賭して守った母の仇である。父のためにも、斬らなければならない。
 白い刃は、それだけで死の色だった。

翠の証 19

 いまだに見慣れない、人間の血液。
 動脈を切れば信じられないほど鮮やかで、静脈を切ればどろどろとどす黒い。まるでそれ自身が生きているかのように波打ちながら溢れる。
 あっけないことだが、人はそれで死ぬのだ。そしておそらく、父もそのようにして死んだのだろう。
 硬質な音を立て、短剣が床に転がる。
 ザックは力なく床に崩れ落ちた。うつむいた下に涙がとめどなくこぼれる。
「ザック……」
 シギルが驚きにも似た声で彼の名を呼ぶ。その声にザックは弱々しくかぶりを振った。
 死んでいくシギルなど想像できなかった。
 その恐怖は自分がたった独りで残されたときのそれより大きく――。
 銀の短剣はきれいなまま、床に落ちている。
「俺……、俺はシィが好きだ」
 掠れた声が漏らされる。
 その言葉にシギルは衝撃を受けた。
 長く罪悪感に苛まれていた自分と違い、彼はその間ずっと信じていたのだ。母と父の友人を。優しい養父を。
 裏切りを明かすことで、シギルはさらに裏切りを重ねたのだ。
 床についた養子の手はどうしようもなく震えている。思わず手を差し伸べようととすると、その前にザックが口を開いた。
「もし……、もし父さんと母さんがシィに罰を与えろって言うなら……」
 喉に硬い異物を感じるほどの嗚咽(おえつ)
 床に転がった銀の短剣を歪んだ視界の先に映しながらザックは続けた。
「死にたがっているシィを殺すのは、きっと罰じゃない……」
 ごめんなさい――……。
 心の中でザックはただ子供のように謝った。
 自分のこの選択を、父と母は恨まないだろうか。シギルにとって罰にならなくとも、二人は死の償いにこそ満足するのではないだろうか。命での贖(あがな)いは間違っているというのは、生きている者のエゴなのかも知れない。
 答えの出ようはずもない闇の中で、ザックは謝り続けた。
「……それでいいのか?」
 頭上から静かな声が降ってくる。感情を抑えた声だ。
 ゆっくりとザックはうなずいた。
「……そうか」
 罪の重圧を感じながらの生。それが罰、か。
「……ザック」
 呼びかけに応じず、ザックは首を振った。掠れてしまった声を必死に絞る。
「シィ、ごめん……。今は……無理だ」
 これ以上シギルと会話を交わすことは出来ない。
 彼の声を聞いていると、自分の選択に酷く不安を覚えてしまう。顔も知らぬ父と母の叫びが聞こえてきそうで。
「……闇音……」
 縋る思いで、支えてくれる者を呼ぶ。
「……闇音、来てくれ」
 反応は早かった。目を閉じて開けた時には、自分の背後に彼がいた。
「ザック」
 やわらかい低い声。
 肩を優しく支えられたことを悟り、ザックはもう一度目を伏せた。
 ぐったりと自分に体重を預けた主人を見下ろし、闇音は眉を寄せた。それからシギルに目を向ける。
 どこからともなく現れた彼に対し、シギルは畏怖の表情を浮かべていた。
「私はザックと契約を交わした者です……」
 その言葉の意味するところを悟り、シギルは小さく呻いた。
「精霊……。あの小さい子だけじゃなかったのか」
「グィンはフレイム様の精霊です」
 補足しながら、ザックを抱えて立ち上がる。その細腕のどこにそんな力があるのだろうかと、シギルは思わず考えた。
「ザックは休ませます。いいですね」
 主人の安否を第一に動く精霊。反対したところで聞きはしないだろう。無論、反対する余地とてない。シギルは頷いた。
 闇音は目線だけで会釈すると、小さく呟き、手も触れずに戸を開けた。部屋から出て、廊下で一度振り返る。
 感情の読めない漆黒の瞳。見つめられてシギルは息を呑んだ。
 唇は動きさえ優美だった。
「ザックはあなたを愛していますよ」
 思いがけない言葉に目を見開く。
 しかし間を置かず、シギルは重々しく頷いた。

「あれ? ザック、どうしたの?」
 グィンの声にフレイムは顔を上げた。
 扉のところにザックを抱えた闇音が立っている。
「まだ本調子じゃないんですよ」
 病み上がりですから、そう言って彼女はザックをベッドまで運んだ。
「なんていうか、意外と病気には弱いんだね」
 怪我には強いのにね、と付け加えてグィンはベッドのそばに立った。闇音は小さく頷いてみせた。
「大陸の環境にまだ体が慣れきっていないんです。グルゼはもっと温暖だそうですから」
「ふぅん、闇音も苦労するね――フレイムは元気?」
 グィンは振り返って主人を見やった。フレイムは微笑で答える。
「うん」
 そして近寄りながら、闇音にたずねる。
「ザック、大丈夫?」
「大したことはありませんよ」
 闇音は笑みを浮かべた。そして思い出したように告げる。
「ザックが回復し次第、ここを出ましょう」
「え?」
 思いがけない提案にフレイムは小さく驚いた。
「フレイム様もザックも追われている身です。あまり長居するとシギル様に迷惑がかかってしまいます」
「……そうか。そうだね」
 同意してフレイムはザックを見下ろした。そして予想していたとおりの疑問が心中に宿る。
(本当に具合が悪くて倒れたの……?)
 今朝、ザックはもうほとんど元気だったのだ。多少の熱はあったとしても倒れるほどではないはずだった。
(シギルさんは……何を、話した?)
 フレイムはザックの頬を汚す涙のあとを凝視した。

 ――俺はお前を裏切らない。
 暗い淵に座り込んでいた自分を、救ってくれたのはザックだ。
 その彼に自分は何が出来るのだろうか。
 フレイムは家を出て畦道を一人で歩いていた。雨上がりの空が晴れやかさすぎて、気持ちは妙に沈んでいる。
 怪我を負わせ、罪を負わせ、負担ばかりが彼に傾く。
 フレイムは足を止めて青空を仰いだ。
(……どんなに魔力が強くたって……)

 俺は、それだけなんだ――……

 何の役にも立たない力。
 そんなもののせいでザックやグィン、闇音にまで迷惑をかけている。
 目を閉じて、フレイムはこぶしを握り締めた。
(このままではいられない。守ることのできる力が欲しい)
 深く、息を吸う。
(今出来ることは、せめて旅の道のりを短くすることだ)
 そのためには風を使った探索魔術で、ネフェイルの居場所を突き止める必要がある。
 だが、広大な土地のどこにいるとも知れない者を探すほどの魔術を、自分に使うことが出来るだろうか。
「ネフェイル……」
 フレイムは意識を集中した。脳裏に探し人の姿を描く。
 腕から溢れる魔力は高く天へと伸び、風を呼ぶ。世界を駆け巡る強い風を。
 やがて真っ暗だったまぶたの裏に、遠い地の風景が描かれ始めた。高く連なる山脈を望む草原、森……そして南の砂漠。リルコの大地だ。
 ぽつりと、あごを伝った汗が地面に落ちる。フレイムは口を引き結んだ。
 魔力の放出量が多いほど、制御は難しい。
(でも……もう少しだ)
 人の気配を感じる。人里からわずかに離れた森。
 そこへ続く一本道、奥まった木陰から一人の男が歩んでくるのが見える。長い、深緑の髪。
(ネフェイル……!)
 大地の色をした瞳と視線が合った瞬間。
「……ッあ」
 フレイムは頭を抑えて膝を折った。ぼたぼたと汗が落ちる。それを半ば呆然と見つめながら、今起きたことを振り返る。
(……遮断された。ネフェイルに警戒されたんだ。俺だと、伝えることが出来なかった…)
 フレイム以上に高度な魔術を使うネフェイルが、自分を探ろうとする何者かを避けたのである。フレイムの魔術はその魔力ごと弾き返されてしまったのだった。
(もうちょっとだったのに……)
「おしかったなあ」
 からからと乾いた笑い声が背後から響いてくる。フレイムははっとして振り返った。
 赤い瞳が陽光を弾く。
「でも、ま、ギリギリ及第点ってところだな」
 そう言うと、男はにっと笑ってフレイムを見下ろした。

翠の証 20

 独り、だった。
 暗い夜、潮騒に独りで怯えていた。青い亡霊に怯えていた。
 彼女が現れるまで。
「ナキア……」
 自分の呟きで、ザックは目を覚ました。
 ぼんやりと視線を動かす。客室のベッドに自分は寝ている。そう悟って、ザックはため息を漏らした。
(そういや、シェシェンでもナキアの夢を見たな。……ま、海に落とされるしょうもない夢だったけど……)
 再び目を閉じて、その少女の姿を思い浮かべる。空に跳ね上がるような明るい笑い声。
(って、思い浮かべなくていいって)
 自分に突っ込み、上半身を起こす。
「大丈夫ですか?」
 声のほうに顔を向けると、ベッドのそばの椅子に闇音が腰掛けていた。だがフレイムもグィンもいない。
「ああ……。俺、どれくらい寝てた?」
「そんなに長くはありませんでしたよ。一時間ちょっとです」
 そんなもんか、と呟きザックは頭をかいた。ふと、手を止めると闇音に向き直る。
「……俺、寝言言ってた?」
 気まずそうに尋ねてくる主人に闇音は目を細めた。だが隠したところで意味はないだろう。自覚のあるたずね方だ。
「ええ。一言、ナキア、と」
「ああ……忘れてくれ」
 呻きながらザックはうんざりとした様子で手を振る。
「……それは結構ですが」
 言いながら立ち上がって、ザックのそばに歩み寄る。それから床に片ひざを着くと主人に目線の高さを合わせた。合わせたと言っても、闇音のほうがやや見上げる形になっているが。
「シギル様と何を話したのかは教えてください」
 精霊の真摯な眼差しを、ザックは黙って受け止めた。だが、ふいと逸らす。
「だめだ。話す気はない」
 強い口調で言うと、闇音はザックの袖を掴んできた。らしくない衝動的な行動に思わず、目を見開く。
「ザック様」
 出会ってすぐに禁じた呼び名を口にされ、ザックは顔をしかめた。
「闇音……」
 制止しようとする彼を、闇音は首を振って遮った。
「どうして何も話してくれないのですか? いつも独りで背負い込んで、それで私が納得するとお思いですか?」
「闇音……、やめてくれ」
 顔を覆う主人になおも詰め寄る。
「私はたとえ苦しみの捌け口として扱われても、それであなたが楽になるのでしたら、それこそ本望なのです」
 言い切って、闇音はうつむいた。その肩はかすかだが震えている。
 懇願にも似た声に、ザックは胸が痛むのを覚えた。精霊としてではなく、ただの友人として付き合おうとしたのは、人間のほうの驕りだったのだろうか。
(いや……)
 たとえ人間でも、友人の苦しみを軽く出来ないのは歯痒いことだろう。
 島の友人たちを思い出し、ザックは小さく息をついた。
 それからそっと闇音の髪を撫でる。彼ははっとして視線を上げた。
「分かった。悪かったよ」
 ほっと安堵の表情を見せる精霊に、ザックは笑みを浮かべた。それから目を閉じて続ける。
「……でもシィと何を話したのかは言えない。人に言っていいようなことじゃないんだ」
 眉を寄せる闇音に手を振って、ザックは眉尻を下げた。
「怒るなよ。実は相談したいことはちゃんとあったんだ。そっちを頼むよ」
「……なんですか?」
 少しばかり不服そうな顔をしながらも、闇音は納得した様子で聞き返した。
「俺の母親な、神臓を持ってたんだって」
 闇音はゆっくりと目を見開いた。黙ってザックの顔を見つめる。
 完璧な美しさを誇る精霊の驚愕の表情は、どこかぞっとするものがあった。いたたまれず、ザックは先に口を開いた。
「なんだよ。そんなに驚くことか? フレイムだって神腕を持ってるのに」
「驚きますよ!」
 思わず声を荒げた闇音にザックが肩をすくめる。
 闇音は落ち着こうと、深呼吸した。
「――いいですか。神通力とはとんでもない力なんですよ。一億に一人が持って生まれるか否かなんです」
 声を厳しくしてザックに詰め寄る。
「フレイム様を見て分かるとおり、その力を欲しがる者は国王にすら及ぶんです。神通力が遺伝するという確証はありませんが、実際遺伝している者もいるんです。あなたはまだ賞金首をかばった反逆の罪しか被っていませんが、母親が神臓の持ち主なんて知れたら……」
 語尾は虚しく空に消える。闇音は肩を落としてうつむいた。
 それは単なる予感。
 けれど、身体を震えさせるほどの恐怖。
「……だれにも……誰にも話してはいけません」
 押さえた低い声が漏らされる。
「これ以上、危険なことは……、もう……」
 闇音は両手で顔を覆った。
 自分はザックを、命を懸けて守るつもりでいる。しかし守りきれる保証はない。昨日だって、飛竜(敵)の手にザックは落ちたのだ。
 ザックは震える闇音の肩を抱き寄せた。
 思えば、ここ連日、自分は周りの負担になってばかりいた。その中でも闇音への負担は特に大きかっただろう。
「……悪かった」
 腕に優しく力を込める。
「心配、かけたな」
 温かい腕の中で、闇音は首を振った。
「……あなたの意志に、逆らうような事をするつもりはありません。けれど、軽率に身を危険に晒すような真似はしないでください」
「……分かった。心にとめておこう」
 ザックは闇音の流れるような黒髪をゆっくりと撫でた。
(――でも、やはり死なないとは約束できない)
 フレイムにも言ったことがある。
 人はいつ死ぬか分からない。分からないが、いつか死ぬのだ。必ず。
 その冷めた概念は、いつもザックの心の奥底にあった。
(だけど……、いや、だからこそ『今』を精一杯生きなきゃならないんだ……)

翠の証 21

「飛竜……」
 フレイムは袖口で汗をぬぐいながら、現れた男を見つめた。
 相変わらず何を考えているのか読めない笑顔。飛竜はにこりとさらに破顔した。
「ネフェイルの居場所、分かるぜ」
 さらりと告げられた言葉にフレイムは目を見開いた。
「どうして、ネフェイルのこと……」
 飛竜はきょとんと目を瞬いた。当たり前だろうと言った表情で答える。
「ネフェイル・ホライゾだろ? 魔術の世界じゃ有名人じゃないか」
 フレイムは眉を寄せて首を振った。
「そうじゃなくて、なんで俺が彼を捜してることを知ってるのかって言ってるんだよ」
「ああ……」
 飛竜は納得がいったようで頷いた。
「そりゃ、おまえの魔術を追跡すれば分かることじゃないか」
 こともなげに答えられてフレイムは絶句した。
 他人の魔術を追うというのは言うほど簡単なことではない。探索魔術は術者の求めるものを捜して無作為に世界を飛び回る。それを確実に追尾しなければならないのだ。
 集中力と魔術の精度は並以上のものを要求されるだろう。
(まただ……)
 この飄々とした男はいとも簡単に高度な魔術を使う。たとえ神通力を持っていたとしてもそれを制御するだけの技術がなければ役に立たない。魔術は術者の魔力だけによるものではないのだ。
 天賦の才。そんなものが本当にあるのだと改めて思う。
「それでネフェイルの居場所なんだが……聞くか?」
 意地悪そうな笑みを浮かべた男に、フレイムは眉を寄せた。頭を過ぎったのは「医療費」と放心状態のザックだった。
「……なにか、見返りがいるの?」
「いや? ただプライドに触るんじゃないかと思っただけさ」
 そう言うと肩をすくめて笑う。
「まあ、ここはプライドをたてるより親切なお兄さんに頼ったほうが利口だが」
「親切なお兄さんはそんな嫌味なことは言わないよ」
 不機嫌そうに答えて、それからフレイムは一度小さく深呼吸すると、まっすぐに飛竜を見つめた。
「教えて。こんなところでもたついているわけにはいかないんだ」
 藤色の瞳は晴れた空を映して美しい。強い意志を感じさせるその輝きは、何か決意をした者のものだ。
 飛竜はにっと口の端を吊り上げた。赤い瞳が楽しそうに輝く。
「リルコのスウェイズだ」
 フレイムはその土地の名を知っていた。
 聖なる森として名高いシヤンに隣接する町だ。のどかな僻地。
 スウェイズについて考えているのだろう、遠くを見つめる少年を飛竜は観察した。
(ザックたちを守る決意はしたみたいだな。こんなガキがどこまで強くなるかは分からんが……。まあ、守ってもらわなきゃ困る)
 黒髪の青年のことを思い出して、自然と口元が緩むのを飛竜は自制できなかった。
 静かな雨の降る森で見つけた最高のブランド。それは――

 それを手にするのは自分だ。
(フレイムにも影の精霊にも渡さない……)
 どうせ彼らはまだ気づいていない。それならそれでしっかりお守りをしてもらえばいい。
 警戒が必要なのは別にある。
(白き城……その奥で目を光らせてる奴がいる)
 きらびやかな宮殿に潜む魔物。飢えた瞳で世界を見ている。自分の指は動かさず、獲物が捕らえられるのをただ待っているのだ。
 飛竜は目を細めた。
(ザックに賞金をかけてくれたのには感謝してるが、な)
 そのおかげで出会えたのだから。
「ありがとう」
 唐突に耳を打った声に飛竜ははっとした。相手があまりにも驚いたことに、さらに驚かされたのか色の白い少年が目をぱちくりさせる。
「……あの、教えてくれて……」
「あ、ああ……。大したことじゃないさ」
 嫌味ったらしく教えたので、まさか礼を言われるとは思っていなかった。飛竜はこっそりとため息をついた。
(……驚かすなよ)
 耳の後ろがくすぐったい。礼など言われたのは久しぶりだった。こんな少年に感謝されたのは、おそらく初めてだろう。
(まあ、悪い気はしないが……。どうせならザックがよかったなあ)
 翠を刷いた黒い瞳が強く印象的で、耳に触れる低い声が心地よかった。
 いや、心地よかったのはあの身を包む気だ。強気で、真っ直ぐな若木のような空気――本人ですら無意識に、必死につくろった見せ掛けの空気だ。針で裂けばあとは勝手に綻びていくだろう。
 綻びの向こう、たった独りで抱えてきた恐怖。それが、心地よかった。
 飛竜はちらりフレイムを見やった。
(さて、お前はその綻びを修繕できるか?)
 小さく笑うと、飛竜はくるりと振り返って歩き出した。
「じゃあな。早めに行けよ。賞金首がこぞって来る前にな」
 手を振りながら、背後の少年に忠告する。
「分かってる」
 短く、しっかりと答える声。
 それに満足して飛竜はその場から掻き消えた。
「転移……」
 飛竜が去ったのを見て、フレイムはぽつりと呟いた。
 魔術陣が輝いたのはほんの一瞬だった。やはり呪文は唱えず、前振りもなしに魔力を使う。
(……神通力じゃない……。けど似てる。何か媒介があるんだ)
 思い浮かんだのは魔具だった。魔術の発動を補助する道具。それを用いれば確かに高度な魔術も扱いやすくなる。
 しかし。
(そういうのを使うのが好きなようには見えない、よね)
 自分の身一つで生きてきた、気ままな放浪者。そんな印象が飛竜にはあった。
 自己中心的で軽薄、人を傷つけることに躊躇しない冷たい瞳。しかしそうかと思えば、治癒魔術にも長け、的確な助言を与えてくる。
 本当に、気まぐれだけが行動理由のような男だ。フレイムには彼を理解することはまだ困難なように思えた。
 誰もいない道を見つめる彼の前髪を風が撫でた。
 雨上がりの冷えた風。空は高く、雲は細くたなびいている。見上げて、フレイムはまぶしさに目を眇めた。
 秋の始まりだ。

翠の証 22

 フレイムが帰ると、ザックは荷物の整理をしているところだった。ベッドの上に服や本が広げてある。少年に気づき、彼は顔を上げた。
「おかえり。どこに行ってたんだ?」
「えっと……、散歩」
 飛竜に会ったということはなんとなく隠したほうがいい気がした。怒ったりすることはないだろうが、いい顔はしないだろう。
「それでね、ネフェイルのことなんだけど」
「ああ、リルコの魔術師か」
 頷きながら、そばに出していた服を詰め込んで、ザックは鞄のふたを閉めた。
「リルコのスウェイズにいるらしいんだ」
「スウェイズ!?」
 驚きの声を上げたのはグィンだった。
「シヤンの隣じゃん!」
「うん、そうだけど……?」
 何に驚いているのか分からず目を瞬いているフレイムに、グィンは興奮した口調で続けた。
「シヤンは僕の生まれたところなんだ!」
 えっ、と三人がそれぞれ違う声で驚く。
 グィンはフレイムの傍まで飛んで近づいた。
「シヤンに寄れるかな?」
「え、えっと……」
 突然のことにフレイムはすぐに思考をまとめることができなかった。それを見て、ザックが笑う。
「いいんじゃねぇの? すぐ近くなんだろ?」
 グィンが嬉しそうにこくこくと頷く。
 ザックの横で、闇音はグィンに感心した様子で呟いた。
「自分の出身地を覚えてるんですね」
「なんだ? お前は知らないのか?」
 ザックが首をひねって見上げる。闇音は軽く肩をすくめた。
「漠然となら分かりますが……。正直、気づいたらそこにいたというだけで、どれくらい彷徨っていたのかは分からないんです。影の精霊や風の精霊はそんなものなんですよ」
「……そういや、誕生日も分からないって言ってたっけ」
「ええ」
 答える闇音を見上げて、ザックは頬杖をついた。
(だよなあ。誕生日プレゼントとかどうすりゃいいんだ……?)
 悩む彼には気づかず、フレイムはベッドに腰を下ろした。グィンがその肩に座る。
 正面に座った少年に目をやり、ザックは眉を寄せた。
「おまえ、神腕を使っただろう?」
 思いもしなかった問いにフレイムがぎょっとする。確かにネフェイルを捜すために使った。だが、疲れは休憩しながら帰るうちにだいぶ取れたはずだ。顔色でなければ残留魔力に気づいたのだろうが、魔力に敏感な者ならともかく、ザックに分かるはずがない。
「な、なんで?」
「なんとなく」
 根拠のない回答にフレイムは一瞬かたまり、それからため息をついた。
「ああ、そう……」
 しかし闇音は表情を険しくしてザックを見下ろした。
(……魔力の気配に気づくようになってきている?)
 初めて出会ったときには何も知らない青年だった。だがここ最近、彼は魔力の強い者たちと接触している。魔力がどういったものなのか分かるようになってきたのかもしれない。
(……しかしそれでも、魔術を使ったあとの残留魔力に気づけるはずがない……)
 魔力を持ったことのない者にそこまで知覚することは不可能だろう。
 闇音は目を細めて、頭の中を整理しようと努めた。母が神臓の持ち主だと聞いてから、気になっていることがある。
(なぜ、ザックは魔力を持たない?)
 疑問に思いながらも、自分の感覚を信じようとした。それにフレイムもグィンも、ザックは魔力を持たないと言っているのだから。
 だが、科学的根拠はなくとも、長い歴史が証明した「事実」があった。
 ――血を媒介とした神臓。母がその持ち主であるなら……

 それは必ず子に受け継がれる。

「で、結局使ったのか? 使ってないのか?」
 ザックが再びフレイムに問う。
 その声が耳を打ち、闇音ははっと気がついた。森の中で聞いた言葉が脳裏を過ぎる。
 ――おまえは気がついてないのか?
 そして、魔術によって不自然にえぐられた地面――中央だけを残し、堀のようになっていた。
(気づいてない……何に?)
 今更、答えはひとつしかない気がした。
(……ザックの……魔力、に……?)
 静かに、闇音は深呼吸をしようとした。しかし喉は震えて酸素はいかほども得られなかった。
 フレイムが苦笑しながらザックに答えている。
「使ったけど、何か危険なことがあったわけじゃないよ。言っただろ、ネフェイルの居場所が分かったって。魔術で調べたんだ」
「ああ、それならいいけど……無理はするなよ」
 そう言われてフレイムはふと思い出したように瞬きをした。言葉を探して短く思案する。それからにこりと笑った。
「無茶はしないよ」
 言葉遊びのような返答。だが続きには叱咤を込める。
「それにそれはこっちのセリフ。熱があるのを黙ってたり、病み上がりに飛竜と対峙したり、快復したかと思えばまた倒れたり……無理も無茶もしすぎだよ、ザック」
 思いがけず始まった説教に反論できないのか、ザックが唇を歪める。
「ねぇ、みんな心配してるんだから、少しは甘えてもいいと思うよ?」
「いや……だって、もう子どもじゃないしさ……」
 うつむいてもごもごと言い訳をするザックに、グィンは首を振った。フレイムの肩からぴょんと飛び降り、ザックの目の前で人差し指を突きつける。
「バカだなあ。そりゃ子どもと大人じゃ体力に差はあるだろうけどさ、辛いってのは同じなんだから、甘えていいに決まってるじゃん」
 ザックは困ったように眉を下げ、助けを求めて闇音のほうを仰いだ。すると彼は滅多に見せない最上の微笑みを返してきた。
「ええ、いいんですよ」
 綻ぶ花のような笑みにザックはもちろん、フレイムもグィンも思わず見惚れてしまった。本来ならばそれはザックだけが見ることを許されたものだったのだろうが。
(……私の命に代えても守りますから)
 そのとき、誰も想像していないだろう決意を、闇音は改めて固めたのだった。
 まさか闇音にまで甘えていいなどと言われるとは思ってもおらず、頭を掻きながらザックはぎこちない笑みを浮かべて見せた。引きつるようなあいまいな笑み。
 照れるのを隠そうとしているのだ、そう悟ったのはフレイムだけではないだろう。
「……ああ、うん、まあ……努力はしてみるよ」
 か細い声でそう言って、ザックは顔を隠すようにうつむいた。

翠の証 23

 だいぶ高くなってしまった朝日。その光をめいいっぱい浴びながらザックは伸びをした。
 旅立ちにふさわしい快晴だ。
 一人早く準備を終えた彼は、外でフレイムたちを待っていた。
 ふいに、昨日の少年からの説教を思い出し、無意識に表情が緩む。
 実際に甘えようとは思わないが、そう言ってくれることが嬉しく、心はだいぶ軽くなっていた。
「ザック」
 呼ばれて振り返ると、シギルがいた。優しい笑みに寂しさを交えて。
「……何?」
 ほんの小さく笑みを浮かべて、ザックは首を傾げて見せた。足元には闇音がいる。不安はなかった。
 シギルは静かに歩み寄ると、右手を掲げた。陽光に銀が鈍く輝く。
 父の、ジルの短剣だった。
 目を見開く養子に、シギルがその短剣を差し出す。
「持って行きなさい。お前のものだ」
 淡い翠を含んだ黒い瞳が揺れる。
 銀の短剣は柄から鞘にかけて、美しい波の模様が彫り込まれていた。グルゼの海である。
「グルゼの短剣……海を守る戦士の短剣だ」
 それは父から子へ、子から孫へ、代々家を守る長男へと受け継がれるものであった。
 呆然としているザックの手を取り、シギルは短剣を握らせた。
「だいぶ遅くなってしまったな。十八歳の誕生日をもう三年以上も過ぎている……」
 震える指で、ザックは短剣を撫でた。波、そして柄に埋め込まれた青い宝玉。深い深い海の色をしたそれは日の光を弾いて、短剣を青く輝かせた。
「……俺……、俺はもう貰えないんだと思ってた……」
 視界がゆるゆると滲んでくるのを、ザックは必死に堪えた。
 友人たちがそれぞれの父から譲り受けた短剣を腰に携える中で、自分だけが空っぽの手を眺めていた。
「誰かに預けておくべきだった」
 シギルはすまなそうに苦い笑みを浮かべた。
(……だが、私はこの短剣を手放せなかった。これは私を殺すためのものだから……)
 自分はジルに対して罪悪感を覚えていたのだ。
 けれど、もう裁きの刃は必要なくなった。与えら得た罰は生き長らえること。短剣は持つべき者へ引き継がれなければならない。
 シギルはザックを抱き寄せると、その背を温かく叩いてやった。それから離れて真っ直ぐに向き合うと、シギルは改めて養子を見つめた。
 八年前と比べて随分男らしくなった。母の面影をしっかりと残しながら、その瞳に宿る光は父の強さを受け継いでいる。守りたい者もいるだろう――。
「ザック・オーシャン、正しく、強く、そして優しくありなさい。……成人、おめでとう」
 短剣を握る手に力がこもる。ザックは静かに息を吸うと、恭(うやうや)しく頭を下げた。
「誇りと家族と友人を裏切らないことを、この海の剣に誓う――」
 三年遅れの儀式。本来これを行うはずの父も、それを見守る母もいない。
 だが、彼らの子である誇りと、育ててくれたシギル、かけがえのない友人たちがある。
 晴れ渡る青空の下、ザックは泣かなかった。

「何やってるんだろうね……」
 玄関の扉から並んで顔をのぞかせて、グィンはフレイムに話しかけた。
「分からないけど……、うん、邪魔しちゃダメだよ。きっと」
 頭を下げるザックを遠く感じながら、フレイムは目を細めた。
「成人の儀式だそうですよ」
「えっ」
 頭上から降ってきた声に、肩を跳ねさせてフレイムは後ろ向きに仰いだ。真っ黒い精霊が自分たちと同じように扉の隙間からザックを眺めている。
「や、闇音さん……。ザックと一緒だったんじゃ……」
 まだ心配だからと言って昨日から闇音はずっとザックに付き添っていた。
「いえ、あれは一人で受けるものだろうと思いましたので……」
 そう言って彼女は再びザックのほうに目をやった。漆黒の双眸は温かく、しかし憂いも感じられた。成人の儀ならばいいことなのに、どうしてそんな目をするのかフレイムには分からなかった。
(銀の短剣……守る者の証……そうしてまたひとつ、彼の背負うものが増える)
 闇音は腕を組んで、いつになく真摯な顔つきの主人を見つめた。

「……なにやってんだ?」
 扉の隙間に三つ顔を並べたフレイムたちに、ザックが気づくのにそう長くはかからなかった。不審極まりない三人にうろんな視線を向ける。
「あ、いや……」
 フレイムは遠慮がちな笑みを向けた。が、かまわずグィンは飛び出していた。
「ねぇねぇ、それ、見せて!」
 フレイムが気にしつつも何も言えなかった銀色の短剣を気軽に指差す。ザックは特に嫌な顔もせずに、それを掲げて見せた。
「わー、綺麗だね」
 グィンは素直に感嘆の声を上げた。飾り付けられた宝玉の放つ青い光が、銀の波をまるで本物のように輝かせている。
 フレイムもその美しさに半ば心を奪われて見惚れた。
「ああ、そうだ。結構な値打ちモノだからな。ザック、盗まれないように気をつけるんだぞ」
 後ろからシギルが思い出したように告げる。ザックは振り返りながら笑った。
「大丈夫だよ。父さんの形見だしな」
 形見。それを聞いてフレイムの淡い瞳が翳(かげ)る。その彼の頬をザックは軽く撫でてやった。
「そんな顔するなよ。人が喜んでるのにさ」
「あ、ごめん……。俺……」
 謝ろうとすると頭をぽんぽんと叩かれ、フレイムが顔を上げる。が、ザックはすでにシギルに向き直っていた。
「世話になった。ありがとう」
「なに、当然のことをしたまでだ」
 シギルの差し出す手を握り返してザックは相好をくずした。
「元気で」
 シギルも笑みを返す。
「お前こそ無茶をやらかすんじゃないぞ。そういうところはジルにそっくりだ」
「ああ」
 二人の握手が終わると、闇音がシギルに頭を下げた。グィンもそれに真似る。シギルはそれに頷いてみせた。
 フレイムは慌てて、ザックの後ろから顔を出した。勢いよく頭を下げる。
「あのっ、本当にありがとうございました」
 顔を上げるとシギルは優しく笑っていた。わずかに首を傾げて、瞳には甘い光。
(ザックの笑い方にそっくりだ……)
「フレイムくん、ザックをよろしく頼むよ」
 そう言って、こちらにも差し出されてきた手をフレイムは気恥ずかしそうに握った。大きな手は温かい。シギルのザックへの想いを預けられた気分だった。


 秋風が高い空へと吹き抜けていく。
 故郷の空よりも淡い青色の空。ザックは見上げて息をついた。
「……ザック?」
 シギルの家を出てから幾分か歩いたところである。不意に立ち止まったザックをフレイムが振り返る。
「いや、よかったな、と思ってさ」
「……なにが?」
 怪訝そうに眉を寄せるフレイムと、他二人にザックは笑みを向けた。
「お前たちと出会えて」
(俺一人じゃ、多分、耐えられなかった……)
 シギルによって明かされた過去。重く暗く、そしてどこまでも悲しい……。
 だが、シギルのことはやはり好きだし、形見の短剣も手に入れた。
(そこまで支えてくれたのは、こいつらだ)
 綺麗な独特の色合いをした瞳。見つめられて、動けなくなる。
 フレイムはわけも分からないまま、とりつかれたように頷いた。背後の闇音たちも動けずにいる。
 黙っている三人の様子から、ザックは我ながら恥ずかしいセリフを吐いたことに気がついた。
「そ、それだけだよ」
 口早に言って、歩き出す。
 うつむきがちに、そして耳まで赤くして進む男を、フレイムは愛しく感じた。おそらく、グィンたちもそうであろう。何があったかザックは話さないが、辛いことがあったのは見ていれば分かる。
 今はこちらに頼るそぶりは見せない。しかし、いつか頼ってくることがあれば、迷わず手を差し伸べてやろう。
 フレイムは笑みを浮かべて、ザックを追って歩き出した。それについて、闇音とグィンも足を進める。
 もう暑くはない午後。秋の爽やかな風が、それぞれの頬を撫で去っていった。