翠の証 23

 だいぶ高くなってしまった朝日。その光をめいいっぱい浴びながらザックは伸びをした。
 旅立ちにふさわしい快晴だ。
 一人早く準備を終えた彼は、外でフレイムたちを待っていた。
 ふいに、昨日の少年からの説教を思い出し、無意識に表情が緩む。
 実際に甘えようとは思わないが、そう言ってくれることが嬉しく、心はだいぶ軽くなっていた。
「ザック」
 呼ばれて振り返ると、シギルがいた。優しい笑みに寂しさを交えて。
「……何?」
 ほんの小さく笑みを浮かべて、ザックは首を傾げて見せた。足元には闇音がいる。不安はなかった。
 シギルは静かに歩み寄ると、右手を掲げた。陽光に銀が鈍く輝く。
 父の、ジルの短剣だった。
 目を見開く養子に、シギルがその短剣を差し出す。
「持って行きなさい。お前のものだ」
 淡い翠を含んだ黒い瞳が揺れる。
 銀の短剣は柄から鞘にかけて、美しい波の模様が彫り込まれていた。グルゼの海である。
「グルゼの短剣……海を守る戦士の短剣だ」
 それは父から子へ、子から孫へ、代々家を守る長男へと受け継がれるものであった。
 呆然としているザックの手を取り、シギルは短剣を握らせた。
「だいぶ遅くなってしまったな。十八歳の誕生日をもう三年以上も過ぎている……」
 震える指で、ザックは短剣を撫でた。波、そして柄に埋め込まれた青い宝玉。深い深い海の色をしたそれは日の光を弾いて、短剣を青く輝かせた。
「……俺……、俺はもう貰えないんだと思ってた……」
 視界がゆるゆると滲んでくるのを、ザックは必死に堪えた。
 友人たちがそれぞれの父から譲り受けた短剣を腰に携える中で、自分だけが空っぽの手を眺めていた。
「誰かに預けておくべきだった」
 シギルはすまなそうに苦い笑みを浮かべた。
(……だが、私はこの短剣を手放せなかった。これは私を殺すためのものだから……)
 自分はジルに対して罪悪感を覚えていたのだ。
 けれど、もう裁きの刃は必要なくなった。与えら得た罰は生き長らえること。短剣は持つべき者へ引き継がれなければならない。
 シギルはザックを抱き寄せると、その背を温かく叩いてやった。それから離れて真っ直ぐに向き合うと、シギルは改めて養子を見つめた。
 八年前と比べて随分男らしくなった。母の面影をしっかりと残しながら、その瞳に宿る光は父の強さを受け継いでいる。守りたい者もいるだろう――。
「ザック・オーシャン、正しく、強く、そして優しくありなさい。……成人、おめでとう」
 短剣を握る手に力がこもる。ザックは静かに息を吸うと、恭(うやうや)しく頭を下げた。
「誇りと家族と友人を裏切らないことを、この海の剣に誓う――」
 三年遅れの儀式。本来これを行うはずの父も、それを見守る母もいない。
 だが、彼らの子である誇りと、育ててくれたシギル、かけがえのない友人たちがある。
 晴れ渡る青空の下、ザックは泣かなかった。

「何やってるんだろうね……」
 玄関の扉から並んで顔をのぞかせて、グィンはフレイムに話しかけた。
「分からないけど……、うん、邪魔しちゃダメだよ。きっと」
 頭を下げるザックを遠く感じながら、フレイムは目を細めた。
「成人の儀式だそうですよ」
「えっ」
 頭上から降ってきた声に、肩を跳ねさせてフレイムは後ろ向きに仰いだ。真っ黒い精霊が自分たちと同じように扉の隙間からザックを眺めている。
「や、闇音さん……。ザックと一緒だったんじゃ……」
 まだ心配だからと言って昨日から闇音はずっとザックに付き添っていた。
「いえ、あれは一人で受けるものだろうと思いましたので……」
 そう言って彼女は再びザックのほうに目をやった。漆黒の双眸は温かく、しかし憂いも感じられた。成人の儀ならばいいことなのに、どうしてそんな目をするのかフレイムには分からなかった。
(銀の短剣……守る者の証……そうしてまたひとつ、彼の背負うものが増える)
 闇音は腕を組んで、いつになく真摯な顔つきの主人を見つめた。

「……なにやってんだ?」
 扉の隙間に三つ顔を並べたフレイムたちに、ザックが気づくのにそう長くはかからなかった。不審極まりない三人にうろんな視線を向ける。
「あ、いや……」
 フレイムは遠慮がちな笑みを向けた。が、かまわずグィンは飛び出していた。
「ねぇねぇ、それ、見せて!」
 フレイムが気にしつつも何も言えなかった銀色の短剣を気軽に指差す。ザックは特に嫌な顔もせずに、それを掲げて見せた。
「わー、綺麗だね」
 グィンは素直に感嘆の声を上げた。飾り付けられた宝玉の放つ青い光が、銀の波をまるで本物のように輝かせている。
 フレイムもその美しさに半ば心を奪われて見惚れた。
「ああ、そうだ。結構な値打ちモノだからな。ザック、盗まれないように気をつけるんだぞ」
 後ろからシギルが思い出したように告げる。ザックは振り返りながら笑った。
「大丈夫だよ。父さんの形見だしな」
 形見。それを聞いてフレイムの淡い瞳が翳(かげ)る。その彼の頬をザックは軽く撫でてやった。
「そんな顔するなよ。人が喜んでるのにさ」
「あ、ごめん……。俺……」
 謝ろうとすると頭をぽんぽんと叩かれ、フレイムが顔を上げる。が、ザックはすでにシギルに向き直っていた。
「世話になった。ありがとう」
「なに、当然のことをしたまでだ」
 シギルの差し出す手を握り返してザックは相好をくずした。
「元気で」
 シギルも笑みを返す。
「お前こそ無茶をやらかすんじゃないぞ。そういうところはジルにそっくりだ」
「ああ」
 二人の握手が終わると、闇音がシギルに頭を下げた。グィンもそれに真似る。シギルはそれに頷いてみせた。
 フレイムは慌てて、ザックの後ろから顔を出した。勢いよく頭を下げる。
「あのっ、本当にありがとうございました」
 顔を上げるとシギルは優しく笑っていた。わずかに首を傾げて、瞳には甘い光。
(ザックの笑い方にそっくりだ……)
「フレイムくん、ザックをよろしく頼むよ」
 そう言って、こちらにも差し出されてきた手をフレイムは気恥ずかしそうに握った。大きな手は温かい。シギルのザックへの想いを預けられた気分だった。


 秋風が高い空へと吹き抜けていく。
 故郷の空よりも淡い青色の空。ザックは見上げて息をついた。
「……ザック?」
 シギルの家を出てから幾分か歩いたところである。不意に立ち止まったザックをフレイムが振り返る。
「いや、よかったな、と思ってさ」
「……なにが?」
 怪訝そうに眉を寄せるフレイムと、他二人にザックは笑みを向けた。
「お前たちと出会えて」
(俺一人じゃ、多分、耐えられなかった……)
 シギルによって明かされた過去。重く暗く、そしてどこまでも悲しい……。
 だが、シギルのことはやはり好きだし、形見の短剣も手に入れた。
(そこまで支えてくれたのは、こいつらだ)
 綺麗な独特の色合いをした瞳。見つめられて、動けなくなる。
 フレイムはわけも分からないまま、とりつかれたように頷いた。背後の闇音たちも動けずにいる。
 黙っている三人の様子から、ザックは我ながら恥ずかしいセリフを吐いたことに気がついた。
「そ、それだけだよ」
 口早に言って、歩き出す。
 うつむきがちに、そして耳まで赤くして進む男を、フレイムは愛しく感じた。おそらく、グィンたちもそうであろう。何があったかザックは話さないが、辛いことがあったのは見ていれば分かる。
 今はこちらに頼るそぶりは見せない。しかし、いつか頼ってくることがあれば、迷わず手を差し伸べてやろう。
 フレイムは笑みを浮かべて、ザックを追って歩き出した。それについて、闇音とグィンも足を進める。
 もう暑くはない午後。秋の爽やかな風が、それぞれの頬を撫で去っていった。