翠の証 19

 いまだに見慣れない、人間の血液。
 動脈を切れば信じられないほど鮮やかで、静脈を切ればどろどろとどす黒い。まるでそれ自身が生きているかのように波打ちながら溢れる。
 あっけないことだが、人はそれで死ぬのだ。そしておそらく、父もそのようにして死んだのだろう。
 硬質な音を立て、短剣が床に転がる。
 ザックは力なく床に崩れ落ちた。うつむいた下に涙がとめどなくこぼれる。
「ザック……」
 シギルが驚きにも似た声で彼の名を呼ぶ。その声にザックは弱々しくかぶりを振った。
 死んでいくシギルなど想像できなかった。
 その恐怖は自分がたった独りで残されたときのそれより大きく――。
 銀の短剣はきれいなまま、床に落ちている。
「俺……、俺はシィが好きだ」
 掠れた声が漏らされる。
 その言葉にシギルは衝撃を受けた。
 長く罪悪感に苛まれていた自分と違い、彼はその間ずっと信じていたのだ。母と父の友人を。優しい養父を。
 裏切りを明かすことで、シギルはさらに裏切りを重ねたのだ。
 床についた養子の手はどうしようもなく震えている。思わず手を差し伸べようととすると、その前にザックが口を開いた。
「もし……、もし父さんと母さんがシィに罰を与えろって言うなら……」
 喉に硬い異物を感じるほどの嗚咽(おえつ)
 床に転がった銀の短剣を歪んだ視界の先に映しながらザックは続けた。
「死にたがっているシィを殺すのは、きっと罰じゃない……」
 ごめんなさい――……。
 心の中でザックはただ子供のように謝った。
 自分のこの選択を、父と母は恨まないだろうか。シギルにとって罰にならなくとも、二人は死の償いにこそ満足するのではないだろうか。命での贖(あがな)いは間違っているというのは、生きている者のエゴなのかも知れない。
 答えの出ようはずもない闇の中で、ザックは謝り続けた。
「……それでいいのか?」
 頭上から静かな声が降ってくる。感情を抑えた声だ。
 ゆっくりとザックはうなずいた。
「……そうか」
 罪の重圧を感じながらの生。それが罰、か。
「……ザック」
 呼びかけに応じず、ザックは首を振った。掠れてしまった声を必死に絞る。
「シィ、ごめん……。今は……無理だ」
 これ以上シギルと会話を交わすことは出来ない。
 彼の声を聞いていると、自分の選択に酷く不安を覚えてしまう。顔も知らぬ父と母の叫びが聞こえてきそうで。
「……闇音……」
 縋る思いで、支えてくれる者を呼ぶ。
「……闇音、来てくれ」
 反応は早かった。目を閉じて開けた時には、自分の背後に彼がいた。
「ザック」
 やわらかい低い声。
 肩を優しく支えられたことを悟り、ザックはもう一度目を伏せた。
 ぐったりと自分に体重を預けた主人を見下ろし、闇音は眉を寄せた。それからシギルに目を向ける。
 どこからともなく現れた彼に対し、シギルは畏怖の表情を浮かべていた。
「私はザックと契約を交わした者です……」
 その言葉の意味するところを悟り、シギルは小さく呻いた。
「精霊……。あの小さい子だけじゃなかったのか」
「グィンはフレイム様の精霊です」
 補足しながら、ザックを抱えて立ち上がる。その細腕のどこにそんな力があるのだろうかと、シギルは思わず考えた。
「ザックは休ませます。いいですね」
 主人の安否を第一に動く精霊。反対したところで聞きはしないだろう。無論、反対する余地とてない。シギルは頷いた。
 闇音は目線だけで会釈すると、小さく呟き、手も触れずに戸を開けた。部屋から出て、廊下で一度振り返る。
 感情の読めない漆黒の瞳。見つめられてシギルは息を呑んだ。
 唇は動きさえ優美だった。
「ザックはあなたを愛していますよ」
 思いがけない言葉に目を見開く。
 しかし間を置かず、シギルは重々しく頷いた。

「あれ? ザック、どうしたの?」
 グィンの声にフレイムは顔を上げた。
 扉のところにザックを抱えた闇音が立っている。
「まだ本調子じゃないんですよ」
 病み上がりですから、そう言って彼女はザックをベッドまで運んだ。
「なんていうか、意外と病気には弱いんだね」
 怪我には強いのにね、と付け加えてグィンはベッドのそばに立った。闇音は小さく頷いてみせた。
「大陸の環境にまだ体が慣れきっていないんです。グルゼはもっと温暖だそうですから」
「ふぅん、闇音も苦労するね――フレイムは元気?」
 グィンは振り返って主人を見やった。フレイムは微笑で答える。
「うん」
 そして近寄りながら、闇音にたずねる。
「ザック、大丈夫?」
「大したことはありませんよ」
 闇音は笑みを浮かべた。そして思い出したように告げる。
「ザックが回復し次第、ここを出ましょう」
「え?」
 思いがけない提案にフレイムは小さく驚いた。
「フレイム様もザックも追われている身です。あまり長居するとシギル様に迷惑がかかってしまいます」
「……そうか。そうだね」
 同意してフレイムはザックを見下ろした。そして予想していたとおりの疑問が心中に宿る。
(本当に具合が悪くて倒れたの……?)
 今朝、ザックはもうほとんど元気だったのだ。多少の熱はあったとしても倒れるほどではないはずだった。
(シギルさんは……何を、話した?)
 フレイムはザックの頬を汚す涙のあとを凝視した。

 ――俺はお前を裏切らない。
 暗い淵に座り込んでいた自分を、救ってくれたのはザックだ。
 その彼に自分は何が出来るのだろうか。
 フレイムは家を出て畦道を一人で歩いていた。雨上がりの空が晴れやかさすぎて、気持ちは妙に沈んでいる。
 怪我を負わせ、罪を負わせ、負担ばかりが彼に傾く。
 フレイムは足を止めて青空を仰いだ。
(……どんなに魔力が強くたって……)

 俺は、それだけなんだ――……

 何の役にも立たない力。
 そんなもののせいでザックやグィン、闇音にまで迷惑をかけている。
 目を閉じて、フレイムはこぶしを握り締めた。
(このままではいられない。守ることのできる力が欲しい)
 深く、息を吸う。
(今出来ることは、せめて旅の道のりを短くすることだ)
 そのためには風を使った探索魔術で、ネフェイルの居場所を突き止める必要がある。
 だが、広大な土地のどこにいるとも知れない者を探すほどの魔術を、自分に使うことが出来るだろうか。
「ネフェイル……」
 フレイムは意識を集中した。脳裏に探し人の姿を描く。
 腕から溢れる魔力は高く天へと伸び、風を呼ぶ。世界を駆け巡る強い風を。
 やがて真っ暗だったまぶたの裏に、遠い地の風景が描かれ始めた。高く連なる山脈を望む草原、森……そして南の砂漠。リルコの大地だ。
 ぽつりと、あごを伝った汗が地面に落ちる。フレイムは口を引き結んだ。
 魔力の放出量が多いほど、制御は難しい。
(でも……もう少しだ)
 人の気配を感じる。人里からわずかに離れた森。
 そこへ続く一本道、奥まった木陰から一人の男が歩んでくるのが見える。長い、深緑の髪。
(ネフェイル……!)
 大地の色をした瞳と視線が合った瞬間。
「……ッあ」
 フレイムは頭を抑えて膝を折った。ぼたぼたと汗が落ちる。それを半ば呆然と見つめながら、今起きたことを振り返る。
(……遮断された。ネフェイルに警戒されたんだ。俺だと、伝えることが出来なかった…)
 フレイム以上に高度な魔術を使うネフェイルが、自分を探ろうとする何者かを避けたのである。フレイムの魔術はその魔力ごと弾き返されてしまったのだった。
(もうちょっとだったのに……)
「おしかったなあ」
 からからと乾いた笑い声が背後から響いてくる。フレイムははっとして振り返った。
 赤い瞳が陽光を弾く。
「でも、ま、ギリギリ及第点ってところだな」
 そう言うと、男はにっと笑ってフレイムを見下ろした。