翠の証 17

 雨上がりで畑に出れないため、シギルは今日一日家にいることにした。
 これを機に、話してしまわなければならない。
 あまりに幼かったため、彼が覚えていないであろう、事実を。
 シギルは客室の扉を叩き、押し開いた。同時に中にいた四人の視線が自分に向けられる。シギルはそれに構わず、自分の養子の方を見た。
 ベッドの上で本を広げている。読書家なところは変わっていないらしい。だが今は旧懐に浸っている場合ではない。シギルは小さく呼吸してから、声をかけた。
「ザック、大事な話がある。私の部屋に来てくれ」
 思わぬ指名にザックはいくらか戸惑った。昨夜の事が思い出される。
 ザックはためらいながらも、立ち上がった。
「ああ……」
 短く返事をして、彼の後について部屋を出ていく。扉が閉められて、残された三人はそれを見つめた。
「なんだろうね?」
 グィンが横に座るフレイムを見上げる。フレイムは首を傾げた。
「さあ……」
 窓際に立っていた闇音は、外に目を戻した。
(島を出た理由かもしれない……)
 言い換えれば、ザックを捨てた理由、だ。
 外は雨によって、すべてを浄化されたかのように、美しく輝いている。闇音は恨めしげにそれを見つめた。
 間もなく残暑もやわらぎ、秋が来るだろう。

 風に揺れる金の髪。優しい笑顔。
 ぼんやりと、曖昧に覚えているのはそれだけだ。家族の温かさは、すべてシギルに教わったようなものだ。あの美しい島で。
 だが、なぜか自分はあの島を離れたくて仕方なかった。いや、島を出たかったというよりは、大陸に渡りたかったという表現のほうが正しいか。
 ザックは冷たい板張りの廊下に目を落とした。
 ――母の血か?
 海を越えてやってきた母の血が、再び大陸の大地を踏みたいと願ったのか。
 分からないことだらけだ。自分の気持ちなのに。
 ザックは口元を厳しく結んだ。シギルと再会してから、両親の事ばかりが気になる。
「ザック」
 シギルに呼ばれて、ザックは慌てて彼の部屋に入った。昨日と同じ椅子に、落ちつかなげに腰掛ける。シギルは机の前に静かに立った。
「あの三人と旅をするのは楽しいか?」
 シギルは笑みを浮かべて、養子を見下ろした。予想していなかった質問にザックはやや気後れした。
「あ、ああ。……楽しいよ」
「……そうか」
 シギルは組んだ手に目を落とした。
「なぜ、島から出る気になった?」
 ザックは息を呑んだ。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……大陸に憧れて……」
 今のところ、自分の中で納得のいく理由はこれだ。
 シギルは小さくため息をついた。
「島の友達と離れるのは辛くなかったか?」
「そりゃ、寂しかったけど……。二度と会えなくなるわけじゃないし」
 ザックは軽く肩をすくめて見せた。
「父さんだって、島に戻ってきた」
 シギルは瞼を伏せた。
「私は島に戻る気はない」
 硬い声で告げる。ザックは驚いて、まじまじと養父の顔を見つめた。わずかだが、確実に刻まれ始めた皺が目に付く。彼ももう他の者達と変わらず、後は老いていくばかりなのである。ザックは何処か切ない印象を受けた。
「生まれた島なのに?」
「あの島には私の罪が、眠っている」
 思いがけない言葉にザックは目を見張った。こめかみに手をやり、シギルが重く息をつく。
「……今更な事を話すつもりだ。聞く気はあるか?」
 そう言ってから、シギルは目を開いた。黒い瞳に沈痛な光が浮かんでいる。ザックは眉根を寄せた。
「辛い話は聞きたくないし、話して欲しくもない」
 低く呟いて、養父の瞳を見つめた。シギルは微かに笑った。
「ジルにそっくりだな。奴もそう言うだろう」
 目を細めて、床を見つめた。忌まわしい過去を脳裏に浮かべる。
 彼はうつぶせに倒れていた。土で汚れた顔は真っ白で、まるで別人のようだった。
「……ジルは殺されたんだ」
 視線を静かに養子に戻す。ザックは瞳を大きく開いて自分を見つめていた。日の光を弾いて、黒い瞳の中の翠が光る。シギルは眩しそうに、その翠を見つめた。
「夕日が落ちる頃だった。海からお前の家まで続く細い道の上に、ジルは倒れていた。貝の破片を蒔(ま)いた白い道を真っ赤に染めて」
 ザックはふらりと立ち上がり、シギルの傍に歩み寄ろうとした。しかし、足がもつれて蹴躓(けつまず)く。シギルが彼の肩を支えた。
「大丈夫か?」
 ザックはのろのろと顔を上げた。その顔は衝撃に青ざめている。長い睫毛を震わせ、何かを懇願するように、シギルの顔を見つめた。
「気を確かに持って、聞くんだ。大事なことだ」
 ザックは弱々しく首を振って、うつむいた。
「……聞きたくない」
 泣き出しそうな響きのある声音が、絞り出される。
「お前の父親のことだ。辛いかもしれないが、知らずにこのまま旅を続けるのは危険だ」
 励ますような口調で告げ、シギルは養子の髪を優しく撫でてやった。
「ジルの傍にもう一人、男が倒れていた。島の者ではなく、誰もその男の顔を知らなかった」
 ザックはうつむいたまま、睫毛を伏せた。冷たい汗が背を伝うのが感じられる。深く息を吐いた養子を見下ろし、シギルは続けた。
「分かった事は、その男はジルが持っていた短剣で殺したという事。そしてその男の胸に縫い付けられた紋章が、イルタシア軍のものだということだけだ」
 ザックは顔を上げた。
「……なんだって?」
「お前の父親は、イルタシア兵に殺されたんだ」
 シギルは声を潜めて、低く呟いた。ザックはわずかに眉を寄せた。
「……三日ほど経って、島の裏でもう一人のイルタシア兵の死体が見つかった。おそらく、そいつがジルを殺したんだ。ジルも剣の腕は周りの誰にも劣らなかったが、あの日は短剣しか持ってなかったんだ。二人から挟まれて、一人を仕留めるのが限界だったんだろう」
 シギルはゆっくりと説明した。ザックはしばらく呆然としていたが、おもむろに口を開いた。
「……じゃあ、父さんを殺した奴は誰が殺したんだ?」
 極自然な疑問を投げかける。しかし、シギルは険しく眉間に皺を刻んだ。その様子にザックは訝しげに首を捻った。シギルは一つ息をつき、ザックの瞳を見つめた。
 その、母から受け継いだ翠を宿す瞳を。
「――マリーだ」