翠の証 12

 飛竜はザックのベッドの脇にある、闇音が腰掛けていた椅子に座った。目の前に横たわるザックを見下ろす。
(……やはり、間違いないな……)
 雨降る森で見つけたもの。これを他人に渡すのはもったいない。
 思わず口元が笑うのをこらえる気はなく、飛竜は笑みの意味をすり替えることをした。
「うん、やっぱり好みだな」
 にまにまと笑う彼の後ろ髪を、フレイムが勢いよく引っ張る。
「ってぇ! ……何するんだ。女みたいな顔してるのに、全然優しくないな」
「女顔は関係ないだろ。ザックに余計な事しないでよ」
 フレイムが眉をしかめながらたしなめる。
「これ以上闇音さんに心配を掛けるわけにはいかないんだから」
 飛竜ははいはいと誠意のこもらない返事をした。それからザックの額の上に手をかざし、はじめて顔をしかめる。
「……馬鹿みたいに熱が高いな」
 その言葉に、思わずフレイムは息を詰めた。不安が募る。
 飛竜が赤い目を細めた。彼の手に赤い光が輝く。夕焼け色の、しかし温かみのない光だ。その状態で飛竜は小さく息をついた。
(魔力密度を高く維持したまま、極細に絞る……。大仕事だ。髪の毛なんて太すぎる)
 そう、相手は自分の衝撃波をことごとく遮ってしまうほどのものに守られているのだ。
(まあ、緑の精霊が使う光魔術、しかも低級の弱い魔術だったら、その振幅が極めて小さいから効くんだろうけど……。それじゃあ、回復魔術もたいしたものが使えないからなあ)
 結局は大魔力を強引に細く束ねてしまうしかないのだ。
 飛竜はもう一度、しかし今度は短く強く息をついた。意を決し、飛竜は手に集めた魔力を細く絞り始める。あっという間に額に汗が滲んだ。引き結んだ唇は苦痛に歪む。そうして、やがて赤い光がザックの額に降り、薄く全身を覆った。
 フレイムは黙って、その様子を見ていた。解熱魔術は初めて見る。
 しばらくして光はまた飛竜の手のひらに戻った。
「……水を……」
 手に光を宿したまま、低く呟く。押し殺したその声には焦燥すら滲んでいるように思えた。フレイムが慌てて傍にあった洗面器を差し出すと、飛竜はその手を洗面器の水に突っ込んだ。じゅっという音がし、湯気が上がる。
「これで、だいぶ落ち着くはずだ」
 そう告げて飛竜は脱力した様子で肩を落とした。
 息を呑み、フレイムは洗面器の水に恐る恐る触れてみた。――温い。冷水のはずだったのに。
 それからザックの方を見やる。熱にうなされ、引き攣っていた顔はもう緩んでいた。安らかな寝息が耳に届く。フレイムはほっと胸を下ろし、洗面器を台の上に戻した。
 椅子に座ったままの飛竜は疲れた肩をほぐすように回していた。ため息混じりに口を開く。
「ああ、疲れた……。普段はこんな魔術使わないからな」
「どうして? すごく役に立つと思うけど……」
 フレイムの問いかけに、飛竜は肩をすくめた。
「無償の人助けなんて性に合わん。俺は俺のためにしか、力を振るいたくはないんでな」
 自己主義的な言葉に、フレイムがわずかに眉を寄せる。飛竜はそれを見て、含み笑った。
「偽善的な説教はよしてくれよ?」
 フレイムがますます顔をしかめた、その時だった。
 ザックの黒い睫毛が揺れた。うっすらと、瞼が持ち上げられる。
「ザック!」
 フレイムがザックのほうに身を乗り出しす。飛竜は笑みを浮かべてそれを見ていた。
 ザックはぼんやりした様子で、間近にある少年の顔を見つめた。
「ここは……?」
「シギルさんの家だよ」
「でも、俺……」
 森にいたのにという言葉は空に消える。
 ザックの瞳が赤い双眸を捉えている。飛竜は笑顔で片手を上げた。
「その節はどーも」
 ザックは思わず起きあがり、飛竜から身を引いた。が、急に動いたことで頭痛に襲われる。たまらず頭を抱え込んだザックに飛竜が手を振ってみせた。
「熱が引いただけで、体調が良くなった訳じゃないんだ。無理して動くな」
 フレイムがザックをもう一度寝かせる。ザックは眉を寄せて、突き刺すような視線で隣りに座る男を見上げた。
「なんで、おまえ……」
「なんでって、夜ば……じゃない、おまえの解熱に出向いてきたんだ」
 飛竜はフレイムに横目で睨まれ、言いかけた言葉を訂正した。
「一応、五億の賞金が掛かってるしな。折角勝ったのに、そんな調子で他のやつらに横取りされちゃかなわん」
 ザックが小さく舌打ちする。にんまりと笑って、それから飛竜は眠っている闇音を肩越しに振り返った。
「さてと、俺はもう帰ろうかな。あんまり長居してもな、そっちから見れば俺は忌々しい賞金稼ぎだろうし」
 飛竜は立ち上がり、ベッドの端に手をつくと、上体を倒した。
「医療費、な」
 短く告げ、ザックの唇に自分のそれを重ねる。
 フレイムは口を開けたまま、それを見ていた。受け入れてしまったザックは、フレイム同様、驚きに目を見開いている。二人ともそんな調子だったので実際それがどのくらいの時間だったのかは分からない。すぐに――もしくはしばらくして、飛竜は唇を離した。
 満足そうに赤い瞳を細め、自分の唇をちろりと舐める。
「ご馳走さま」
 そのまま身を翻すと、軽やかな身のこなしで窓から出ていった。
 重い沈黙が残された二人の間に流れる。
「……大丈夫?」
 やっと口を開いたフレイムが――こういう尋ね方で良いのかは分からないが――とりあえず、尋ねた。
 ザックはのろのろと掛け布団で顔を覆った。
「……気持ち悪い」
 布団の下から絞られた言葉は、どこか泣き出しそうな響きすらあった。
 慰める言葉も、慰めていいのかさえも分からず、フレイムは唇を曲げた。飛竜が開けっ放しにしていった窓からは弱い雨音が聞こえている。
 やがて、かぶった時と同じ速さで顔を出し、ザックはフレイムを見上げた。
「闇音は?」
 フレイムは目で隣りのベッドを目線で指した。
「眠ってる。疲れてるみたいだったから、俺が眠らせた」
「……魔術で?」
 フレイムはうなずいた。ザックはゆっくりと体を起こして、闇音の寝顔を見た。
 静かに整っているだけの寝顔に、ため息をつく。
「頑張り屋だからな、顔に似合わず。たまには強制休息も悪くないだろ」
 そう言って、もう一度ごろんと寝転がった。むっつりと顔をしかめると、手のひらで口を覆う。
「……飛竜は何しに来てたんだ?」
 フレイムは肩をすくめた。
「本人が言ってた通り、ザックの熱を下げに来てくれたんだよ」
「……本当に?」
 疑うようなザックの視線にフレイムは居心地悪く、苦笑した。
「余計なことも言ってたけど、本音はやっぱり解熱だと思うよ」
「でも、俺、あいつと闘ったぞ」
「『気まぐれ』という言葉がこの世には存在するんだよ」
 フレイムは両手を上げて笑った。自分だって飛竜とは全部合わせても、一時間も一緒に過ごしていない。彼の真意など掴めるはずがないのだ。
 ザックは眉をわずかに寄せた。考え事をしているようで、視線は虚空を凝視している。
「……気まぐれ……ね」
 重いため息混じりに呟く。指で唇を撫で、嫌な事を思い出したように、また眉をしかめた。