翠の証 2

 昼頃になって彼らは、昼食をとるべく近くの飲食店に入った。余計な出費を重ねる必要はないと、食事をとらない闇音はザックの影に消えた。
 ご飯時というだけあって、飲食店内はもう九割がた埋まっていた。食器の触れ合う音と、和やかな会話の入り混じる店内は温かみがある。ザックが給仕を呼び、二人分の食事を頼んだ。給仕は二人にお冷を出し、しばらく待つように言って、厨房のほうへ戻って行った。
 コップの中で、からんと氷がぶつかる音がする。喉が乾いていたフレイムは、一息に冷たい水を干した。ザックはその様子を黒い瞳に淡い笑みを湛えて見ていた。
「俺のも、飲んでいいよ」
 そう言ってまだ口を付けていないコップを差し出す。フレイムは眉を上げて、やや驚いたような顔をした。
「いらないの? ……だって、外暑かったし。朝ご飯の後から、ザック何も口にしていないだろ?」
 よく見ているもんだと、ザックは唇の端を下げる。それから今度は、小さな妖精のほうにコップを進めた。
「お前はいるだろう?」
 グィンは嬉しそうにうなずくと、傍においてあったストローをさして、冷水を飲んだ。
 フレイムは訝しげに眉をしかめてザックの方を見た。
「ほんとに何ともないの? またなんにも教えてくれないってのは、もうなしだよ」
 シェシェンでの一騒動の後、ザックはどうしても言いたくない事以外は隠さないと約束してくれた。そのことがあったので、ザックは肩をすくめて口を開いた。
「お前って奴は勘がいいんだな……。ああ、確かに疲れてるよ」
 フレイムが微かに口を曲げるのを見て、ザックは含み笑った。
「でも、大した事はない。だって、今日はもうこれ以上進まないんだろ?」
 フレイムはうなずいたが、その目はまだ諦めていない。水を飲むグィンを目で示していった。
「緑の精の魔術では、疲労は癒せないんだよ。神腕でだって無理だ」
「肝に銘じておくよ。闇音もうるさいしな」
 ザックは両手を上げて、降参の意を示した。
 しばらくして、給仕が食事を運んできた。だが、やはりザックはその半分も手をつけなかった。食べ盛りであるフレイムは綺麗にたいらげたが、残してあるザックの料理を見て、顔をしかめた。ザックは眉を下げて、笑ってみせるしか出来なかった。

 とうとうザックが道端に座りこんでしまったのは、日も暮れ始める頃だった。
「わりぃ……」
 傍の木にもたれ掛かり、ザックは弱々しく謝った。フレイムが首を振りながら、近くの農業用水を流す用水路で濡らしてきたタオルで彼の額を拭った。
「いいよ。宿は近いし……」
 昼食の後、ザックは決して無理をするようなことはなかった。しかし、彼にはすでに歩くことも辛くなっていたのだ。
「熱が高いですね……」
 闇音が呆れたような面持ちでに、ザックの額に手をあてた。
「……大丈夫だ。宿までは歩ける」
 そう言って立ち上がろうとするザックの腕をフレイムが慌てて掴む。彼の腕は思いのほか熱かった。思わず眉を寄せる。
「何言ってるんだよ。無理に決まってるだろ。待っててよ、誰か呼んでくるから」
「そうですよ。これ以上動き回って容態悪くしたりしたら怒りますよ」
 闇音も厳しい口調でたしなめる。ザックは苦笑した。
「じゃあ、頼む……」
 そのまま彼は瞼を伏せてしまった。グィンがその頬を突ついてみたが、ピクリともしない。
「気、失っちゃった……」
 グィンが心配そうにフレイムを振り返る。
「なんで、もっと早く気づけなかったんだろう……」
 フレイムは拳を握り締めて、歯噛みした。一度でもザックに触れていたら、熱があることに気づくことができただろう。
「ザックは嘘をつくのが得意なんです。あとフレイム様に心配かけたくなかったんですよ。ま、裏目に出ましたがね」
 闇音は両手を広げて笑った。今になって思えば、闇音は何度かザックの体に触れていた。彼女はザックの容態に気づいていながら、主人の意志を尊重したのだろう。
 フレイムがこれからどうするかについて口を開こうとした、その時だった。
「その人どうしたんだい? 動けないの?」
 太い声が背後から響いてきた。三人が振り返ると、背の高い、がたいのいい男がこちらを心配そうに見ている。そう若くはなく、四十手前のようだが、その瞳にはまだ衰えは窺えない。黒い髪と黒い瞳をしている。農夫のようで、服の所々に土汚れがあった。
「ええ、少し熱を出したようで。宿まで運びたいんですが、何処へ行けば手を貸してもらえますかね?」
 闇音が男に尋ねた。農夫はぐったりして木に寄りかかっているザックに目をやった。心配そうに眉を下げる。
「宿はもうとってあるのかい?」
「いいえ、これからですが……」
 農夫は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「じゃあ、家へ来なよ。宿より近いし」
「でも、ご迷惑が……」
 農夫は手を振った。
「いいんだよ。この町じゃ、出会いというものを大事にする。その人が倒れて、私が通りかかったのは縁というものだ。な、家においでよ」
 闇音が困ったようにフレイムを振り返る。フレイムも同じような顔をしている。
「これは願ってもない申し出ではあるけど……」
 フレイムはイルタシアの国王イルタス六世によって高額の賞金をかけられている。あまり知らぬ人と関わりを持つことは避けたい。
 グィンがフレイムの袖を引っ張った。
「でも、早く休ませてあげないと……」
 グィンにしては珍しい事を言った。彼女がフレイム以外を心配することはほとんどない。それほどグィンの目から見ても、ザックは弱っているのだ。
 フレイムは眉を寄せて、ザックを見下ろした。もしこの立場が逆だったら、ザックは迷わずこの男の言葉に従うだろう。自分だって、それは同じである。
「では、お願い……できますか?」
 フレイムはためらいながら、頼んだ。農夫は笑ってうなずき、ザックに近寄った。そしてその太い腕でザックの身体を軽々と抱え上げてしまう。フレイムがその様子を呆気にとられて見ていると、農夫が気づいて片目を閉じてみせた。
「力仕事は慣れているんだ。これくらい、軽いものだよ」