翠の証 1

 白い砂浜。何処までも広がる青い海。緑の木々が生い茂る美しい島。
 ――私はこの海を渡ってこの島へやってきた。
 愛する人と共に暮らすために――。
 金の美しい髪を潮風になびかせ、その女性は海を見つめていた。胸に生まれて間もない我が子を抱き。日がわずかに傾き、徐々に赤みを増してきた空は海の青とあいまって、夢のような情景を編み出している。
 昼寝から目を覚ましたばかりの赤子はまだぐずっていた。黒にうっすらと翠のさす瞳は涙で濡れている。
 ――この瞳はこの子が私とあの人の子供である証――。
「ザック……」
 女性は愛しい我が子の名を呼んだ。まだ言葉を理解しようはずもない赤子は、美しい母の呼びかけに首を捻ってみせるだけであった。紅葉のような小さい手を精一杯開いて、母の輝く髪を掴もうとする。
 年若い母は椅子を揺らし、子に優しく話し掛けた。
「おまえの父さん、今日は帰りが遅いね……。何処で道草を食っているのかしらねぇ……」
 その数時間後であった。
 彼女の元に、愛する夫の――死の知らせが届くのは――。

         *       *       *

 黒い肥沃な大地の広がる、農業の都市コウシュウ。地平線まで畑の広がるこの街に、フレイムたちはやって来ていた。畑の間を走る畦道にはたまに木が生えており、農民たちがその木陰で休んでいる姿が見うけられる。
「綺麗なところだね」
 シェシェンの町で買った白い帽子を手で押さえながらフレイムは呟いた。フレイムは暖灰色の髪に、薄紫の瞳を持つ、線の細い少年である。その彼の精霊であるグィンが、気持ちよさそうに深呼吸をしてうなずく。
「ねぇ? ザック」
 フレイムは広大な大地を見渡すザックを振り返った。ザックは高い身長に黒い髪と瞳を持つ、美男だ。しかし彼は畑を見ていると言うよりも、空の彼方を見つめていた。フレイムは黒髪の青年の表情を窺うように覗きこんだ。
「ザック?」
 目の前で視界を遮るように手のひらをひらひらと振ってみせると、ザックは驚いた様子でフレイムを見下ろした。
「……何だ?」
 今までの話は聞いていなかったらしい。フレイムが小さくため息をつく。
「綺麗なところだね、って言ったんだよ」
「あ、ああ、そうだな。良いところだ」
 ザックは気のない返事をした。
「何か、気になることでもあるんですか?」
 ザックの精霊である闇音が、彼の肩を叩く。影の精霊である闇音は性別を持たず、いでたちも黒を基調とした素っ気無いものである。しかし美しい容貌を持つ彼には、それだけで十分だと言えた。
「雨でも降るんじゃないかと思って……」
 ザックはまた空を見上げ、そう言った。フレイム達もつられて空を見上げる。
 雲一つない、快晴。伸びやかに広がる青い空は、永遠の時を象徴しているかのようだ。
「雨……降るの?」
 グィンがフレイムを見て、小さく尋ねた。フレイムは首を捻ってみせるだけだった。彼にも雨が降る兆候は窺えない。二人は一心に空を見つめる青年に目をやった。
「……風が……重い」
 独り言の様に呟き、ザックは睫毛を瞬かせた。フレイムとグィンは顔を見合わせた。なるほど、島育ちであるザックは二人には感じることの出来ない、風を読んでいるのだ。
 闇音が彼の肩をポンポンと叩き、首を振った。
「海と違って、内陸の、しかも平地の天気はそう簡単に変わるものではありませんよ。それに私達が船に乗って進んでいるわけではないですしね」
「ああ、そうか。……そうだな」
 ザックは輝く太陽を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「ザック、疲れてるんじゃないの?」
 フレイムがそう言って、ザックを見上げる。いつもの彼はもっと口数が多い。シェシェンとコウシュウの間は長く、ここしばらく歩き通しだった。しかも彼はシェシェンでのガンズとの一戦で、左腕に深い傷を負っていた。今だ腕に巻かれている白い包帯は痛々しい。
「そんなことは……」
 ザックはゆっくり首を振った。
「……ないよ」
 そう言って、フレイムの帽子に手を置くと、優しく笑った。フレイムは納得がいかないように、眉をわずかに寄せた。

         *       *       *

 重厚な金の輝き。尋常ならざる財力を持って揃えられた調度品に囲まれ、一人の男は椅子に腰掛けていた。後ろは全面ガラス張りの壁で、室内は明るい雰囲気を保っている。しかし、男の眉間には深い皺が刻まれていた。
 イルタシア現国王、イルタス六世。年はまだ三十を越えたばかりで、鋭い灰色の瞳は燃えるような光を湛えている。その彼の目を見て、鷹の目ようだと言った者もいた。金に近い茶髪の持ち主で、削いだように痩せた容貌をしている。
 彼は嫡出の王ではなく、前国王の正妃の娘パスティア皇女と結婚することで、王室入りを果たした。元は王家に親密で、血筋も高貴な貴族の息子である。剣士であった彼が王家主催の剣試合で、その見事な腕を振るったのがパスティア皇女の目に止まったのだ。
 今や一国の王となった彼の手には、一枚の紙が握られていた。文の最後にはイルタシアのある豪族のサインと印が押されている。
 イルタス王は深いため息をついた。その時、細かい装飾が施された重い扉が開かれた。
「まあ、我が君。ため息などつかれて。いかがなさいました?」
 透けるような銀の巻き髪が揺れる。海よりも深い青い瞳。
「パスティア……」
 イルタス王は低い声で、現れた自分の妻の名を呼んだ。パスティア王妃はにこりと笑い、傍に仕えていた従者を外におき、扉を閉めた。彼女は稀に見る美貌の持ち主で、人々から王家に咲く神の華だと称えられている。
「シェハード侯からの御手紙が、ため息の原因かしら?」
 王妃は優雅な身のこなしで夫に近づいた。王は手にしていた紙を渡し、机の上で手を組んだ。
「フレイム・ゲヘナの捕獲を阻む輩がいる。よほど剣の腕が立つらしい。シェハード侯の抱えていた、名高い剣士は敗れた」
 王は苦い物を噛んだような口調で手紙の要点を妻に教えた。王妃は手紙を広げ、羅列された文字を目で追った。赤い唇の端がわずかに上がる。
「……ザック・オーシャン……」
 王妃は楽しむかのように、その名を口にした。手紙をたたみ、王の机の上に置く。
「この男にも、賞金を掛けて差し上げたら?」 
「……いかほど?」
 王は灰色の瞳ではかるように王妃の美しい顔を見上げた。
「……とりあえずはじめは五億……」
「五億か…。少し高いが悪くはない。しかし彼は生死問わず…」
「いいえ、彼も生け捕りで……」
 王妃は笑みを浮かべ、その白い手で王の痩せた頬に触れた。
「十億もの賞金首を前にしておきながら、彼はその者を助ける。……きっと二人は親密な関係にあるのですわ。もし、彼が先に捕まれば、フレイムは案外のこのこと現れるかもしれません」
 王はしばらく考え込んだが、深くうなずいた。
「一理ある」
 王妃は王の唇に接吻した。
「ご英断ですわ」
 王は見ていなかったが、王妃の青い瞳はぞっとするほど、鮮烈な輝きを帯びていた。
 その後イルタス王は書記を呼び、新たに賞金首を増やす令状を作らせた。フレイム達がコウシュウに入る三日前のことであった。