第一章 金の流れ星

金の流れ星 1

 ――右腕が、疼く。

 汗の浮いた額を夜風が冷やりと撫でる。うっすらと瞼を持ち上げた少年は袖ごと腕を強く握り、空を見上げた。双子月が晧々と輝いている。
(朝は……まだか)
 ノムの大木の太い根に頭を乗せて眠っていたのだが、腕の痛みとそれによる夢のおかげで目が覚めてしまったのだった。毛布に包(くる)まった少年はのそのそと身体の向きを変え、睫を伏せた。

 朝日が山の稜線から完全に顔を出しきる頃、少年も毛布から這い出て、伸びをしていた。
 淡い、暖灰色の髪が日の光に透けるように輝いている。三ヶ月ほど前に短く切り揃えなおした髪は、今は耳とうなじを覆うくらいに伸びていた。旅をしているらしく、膝の擦り切れたジーンズ生地のズボンをはき、白いシャツはだいぶくたびれている。
 辺りの木々はまもなくやってくる初夏に期待と若芽を膨らまし、日の光を眩しく弾いている。少年は口元に笑みを浮かべ、靴を脱ぎ、毛布のそばに置くと、素足で小川まで駆け下りていった。

 少年は川岸にひざと両手をつくと、頭から水に顔を突っ込んだ。小川の冷たい水が寝起きの思考を鮮明にしていく。そこへ響く甲高い声。
「フレイム!」
 背後から名前を呼ばれて、顔を上げる。目の前の小川のような澄んだ輝きを放つ薄紫の双眸を細め、「フレイム」と呼ばれた少年は微笑んだ。
「おはよう、グィン。早いね」
 グィンと呼ばれた者は、宙に浮いていた。人ではないのだ。緑の精霊で、その体はフレイムの手の平より少し大きいくらいか。
 グィンは手を腰に当て、文字通りフレイムの目の前で、ぷりぷりと怒る。
「『おはよう』じゃないよ! 目を覚ましたら、いないんだもん。おいてかないでよ」
「ごめん、ごめん。あんまり気持ちよさげに眠ってたからさ」
 フレイムはさほど悪びれないように謝った。グィンは腰よりも長い明るい緑の髪を揺らし、人差し指で主人を指した。
「しかも、見つけたら入水自殺の真っ最中だなんて! フレイムは僕をショック死させるつもり?」
 フレイムは濡れた前髪を掻きあげながら、ぽつりと呟いた。
「――顔を洗ってたつもりなんだけど……」
 少年はしかめっ面の妖精を頭に乗せ、ノムの木の下まで戻ると、毛布を丁寧にたたみ、白い布製のリュックにしまった。替わりに最後の一切れとなったパンを取り出すと、口に放り込む。
「……さて、そろそろ食糧、調達しなくちゃ」
 ここは山の中腹やや下に位置する樹海で、針葉樹も見かけるが、大半はノムという広葉樹で構成されている。穏やかな気候で、魔獣も少ない地域である。
 だが、食糧を手に入れるためには、山の樹海を出て、下の町に行かなければならない。
 フレイムはできるだけ人目に触れないように旅を続けている。人付き合いは嫌いではないし、むしろ人懐こい面もある少年だった。――二年ほど前、あの事件が起きるまでは。
「食糧調達って事は、町に降りるの?」
 耳元で、ささやかれた高い声にフレイムははっと顔を向けた。
「な、なにさ?」
 小さな妖精が主人の様子に面食らって、フレイムの耳元から一歩さがる。フレイムは静かに視線を落とした。
「ごめん。考え事してたから……、ビックリして……」
 血の気の抜けた白い横顔を見て、グィンは心配そうにまたフレイムに近づき、その肩に下りた。
「夢見でも悪かったの? 夢ってのはその日一日の気分を変えちゃうから、いやなものなら忘れてしまいなよ」
 意外と的を射た響きに、フレイムは目元を緩めた。
「そうだ……ね。夢なんかにいちいち気分左右されてちゃ、人としてやっていけないね。……ありがとう、グィン」 
 少年のうっとりするような笑みにグィンはさっと頬を染め、そして自身も満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、僕っていい事言うよね!」
 そして、二人は山を下りる準備をした。

金の流れ星 2

 街の女性は誰もが振り返った。
 すこし伸びた黒髪を尻尾のように紐でくくり、前髪は短く切られている。意志の強そうな眉に切れ長の黒い瞳が涼しげに、しかし、力強く輝いていて、それは稀に見る美青年だった。
 美青年と言っても、軟弱そうな印象はなく、背は高く、好戦的な雰囲気を持っている。
 肩に鞄をさげ、白いシャツを着たその青年は、果物屋の前で立ち止まると、しげしげと品定めを始めた。
 この街はカルセ。大国ガルバラの王都ディルジャの遠く西方に位置する街で、隣国イルタシアとの国境に近く、交易の盛んな街である。北方にデル山脈を仰ぎ、山脈より流れる河が、街を潤している。
 カルセの通りは幅の広い石造り。両端には果物屋をはじめ、異国の商人も交えて、様々な露店が建ち並んでいる。
「おやじ、この果物はなんて言うんだ? 初めて見る。旨いか?」
 青年は赤い縦長の果物を指差しながら店の主人に尋ねた。 
「ああ、そいつはアポーの実だ。すこし酸味がきいているが、俺は好きだね。しかし、あんたアポーを知らないのかい? こいつはこの辺じゃ、よく採れるんだがね」
 エプロンをかけた小太りの店主がアポーの実を手に取りながら答えた。青年は差し出された果実を受け取り、言う。
「俺、イルタシアのグルゼ島から来たんだ。漁民の島でな。こっちに来てから、大陸の動 植物におどかされてばかりだ。これ、味見してみてもいいか?」
「いいとも。旅人さんへのおごりだ」
 年若い青年は好奇心旺盛な瞳で、果物をくるりと回して見たあと、がじっとかじりついた。
「……すっぱい!」
 青年が顔をしかめると、店の主人は声をあげて笑った。
「アポーの洗礼だな。いや、慣れるとその酸っぱさがたまらんのさ。」
 青年は悔しい顔で主人を見返したが、歯を見せてにっとすると、もう一度赤い実にかじりついた。また、同じように顔をしかめる。
「……病みつきになってやろうじゃないか。これともう一つもらってくよ、合わせていくらだい?」
「あっはっはっは。あんた、面白い人だね。それはおごりだと言ったからね、代金は一つ分でいいよ。百フェルだ。」
 主人は、白い紙袋を渡しながら笑った。ポケットから引っ張り出した財布から五十フェル硬貨を二枚出し、青年は紙袋を受け取った。

 カルセの通りにはパン屋もある。
 白木で造られた品台の上には籠の中で、焼きたてのパンたちが上目遣いで客を見ている。フレイムはそんな彼らと睨めっこをしていた。
(この町から次の町までふつうの街道を行けば三日だけど、山の中を進むと……えーと……)
 小さな妖精は自分の三倍はあろうかという丸いパンを両手で持ち上げ、パン籠の前で悩んでいる主人にねだった。
「フレイム、エルフィンベリーが入ったパンがあるよ。僕、この実が大好きなんだ。ねえ、買ってよ」
 フレイムはそのパンが入っていた籠に付いている値札を見やる。
「だめだよ。予算オーバーだ」
「えー、フレイムのどけち」
 グィンは仏頂面でパンを籠に戻した。フレイムがやれやれとため息をつく。
「パンより、実だけのほうが安いだろ。近くに果物屋があったから、そこで買ってあげるよ」
 グィンは蒼い目をきらきらと輝かせると主人の頭に飛びついた。
「だから僕はフレイムが大好きなんだ」
 自分の甘い性格を上手くつかれたようで、フレイムはまた額に手をあて息を吐いた。
 そうしてパンをいくつか買いこむと、そのまま二人は約束どおり果物屋へ足を向けたのだった。
 ふと、行き交う人々が何かを見て、その足を止めていることに気づく。そのほとんどが女性だったが、そんな事には気が付かなかった。ただ、人々が何に見入っているのか気になり、フレイムも足を止めた。
 女性たちが見ていたのは、果物屋で赤い果実を見つめている青年だった。黒い髪をしたその青年は果物屋の主人と笑いながら会話をしている。それが、一体なぜ人を立ち止まらせるのか、フレイムにはいまいちよくわからなかった。
(体つきがしっかりしている。傭兵だろうか、それとも旅人?)
 背の高いその青年をフレイムは目を眇めて見つめた。
「フレイム、早く!」
 声のする方を見ると、小さな妖精はもうお目当ての物を見つけたのか、果物屋の品台の上で手を振っている。
 フレイムは人々の目に触れることをためらいながらも、仕方なく人だかりを抜け、果物屋へ近づいた。人々の視線が自分に向かうのを背筋に感じ、思わず肩をすくめる。
「へい、いらっしゃい」
 店の主人が陽気に声を上げる。背の高い青年も少年に気づき、フレイムを見下ろした。
 フレイムは頭上に視線を感じながら、グィンのほうを見た。彼女は丸いピンクの実を指差している。
「フレイム、パンよりずっと安いよ。いっぱい買ってよ」
 グィンは両手を広げて、果実の入った籠全体を示したが、フレイムはその仕草を見て見ぬ振りをした。代わりに主人の方に声をかける。
「すみません、これ三つ下さい」
「まいど、九十フェルだよ」
 主人はフレイムから代金を受け取ると、紙袋にエルフィンベリーを三つ詰める。その間、フレイムはずっと頭上からの視線を感じ、そのうち気まずくなってうつむいた。それに気づいたグィンがくるりと黒髪の青年のほうを向いた。
「なんだよ、お前! 人のこと、じろじろ見て」
 青年は指摘され、息を呑んだ。フレイムが慌てて、グィンの服を引っ張る。
「グィン、何言ってるんだよ。失礼じゃないか」
「失礼なのは、こいつのほうだよ!」
 グィンは青年を指差しながらわめいた。青年がぽりぽりと頭を掻きながら口を開いた。
「すまん。はじめて見る髪の色だったんで……。つい……、いや、すまなかった」
 耳に触れた低い声はどこか温かみがある。二度も謝罪され、フレイムは恥ずかしそうにまたうつむいた。そこへ店の奥へ釣り銭を取りに行っていた店主が戻ってくる。
「どうしたんだい? 旅人さん、子どもをいじめちゃいけないよ」
 そう言いながら釣りと品物をフレイムに渡す。青年は苦笑した。
「別にいじめたわけではないんだが……」
 フレイムは釣りを財布にしまうと、店に背を向け、早足で歩き出した。
 青年はその後ろ姿へ何か声をかけようとしたが、言葉が浮かばず口を閉じた。しばらく考える様子を見せた後、彼は店主のほうを向くと、エルフィンベリーを指差しながら言った。
「すまん、これも、五つほどもらえないか」

金の流れ星 3

 フレイムは通りの突き当たりにある広場で、噴水のふちに腰を下ろした。丸い広場はベンチもあり、休む人々が見受けられる。端の方では旅芸人が人々を集めて、風船を膨らませていた。
「たのむよ、グィン。俺、あんまり目立ちたくないんだ。ああいう事はもうしないでよ」
 疲れを含んだ口調でたしなめる。
 妖精は袋からピンクの実を引っ張り出すと、嬉しそうにキスをした。実に小さな歯をたてると、フレイムのほうを見上げる。
「だって、あんな奴は嫌だよ。変だよ。はじめてだからって、あんなにじろじろ見て。男の子が好きなんじゃないの」
 フレイムは頭痛を押さえるかのように額に手をやるとため息をついた。
「……やっぱり失礼なのはお前のほうだよ。名前も知らない人相手に何を言ってるんだ」
 言いながら、黒髪の青年を思い出す。
(『旅人さん』って言ってた。傭兵(ようへい)とか、そう言うのじゃないんだ。でも、あれはこの国の訛(なま)りじゃない。イルタシア人に近いものがある)
 思案していたフレイムは、手のひらが影になっていて、その背の高い影が自分の頭上に降っている事に気が付かなかった。ベリーを一つ食べ終えた、グィンが声をあげる。
「あっ、さっきの変態!」
 フレイムはびくっとして顔を上げる。視界に黒い髪が飛びこんでくる。続いて、日に焼けた顔と甘い光を浮かべた瞳が映った。
「妖精さんにはずいぶん悪い印象を与えちまったみたいだな」
 先程の青年が手にこちたのものと同じ袋をぶら下げて立っている。フレイムは突然のことに声が出せなかった。
 そんな少年に青年は目を眇めて笑う。謝罪の意が含まれた笑みだった。
「さっきはすまなかった。これ、詫びだ。受け取ってくれないか?」
 そう言って、手に持っていた袋を相手の目の前に突き出す。フレイムはその勢いに負けて思わず受け取ってしまった。中を覗くと、エルフィンベリーが詰められたパックが入っている。
「こんな……、受け取れません」
 フレイムは困って袋を青年に返そうと腕を伸ばした。だが、中身を匂いで悟った妖精がその腕にぶら下がる。
「もらっちゃおうよ。僕が食べる!」
「グィン!」
 青年が手で口を覆う。笑らわれているのを感じて、フレイムは顔を真っ赤にして困った。
「ご、ごめんなさい」
 誤り、腕にしがみついている妖精を剥がそうと苦心する。青年は腕を振った。
「いいんだよ。受け取ってもらえたほうが嬉しい」
 フレイムは青年を見上げた。優しい黒い瞳が自分を見下ろしている。
「あ……、ありがとうございます……」
 青年は満足そうに頷くと、そのまま横に腰を下ろした。フレイムは驚いて、おずおずと腰を横にずらした。妖精は新しく増えたベリーのパックに頬ずりをする。
 青年は笑顔で話を始めた。
「なあ、あんたどこの出身なんだ? あんたの故郷はみんなそんな色の頭をしているのか?」
 フレイムはうつむいたまま、か細い声で答える。
「アシール……じゃない、今はデブリスっていう……村の出身なんだけど……」
 いつもは他人に自分の事を話したりはしないのに、なぜかこの青年には話してしまった。
(似てるんだ、雰囲気が。優しく、自分の頭を撫でてくれたあの人に……)
 しかし、だからと言ってフレイムの警戒心が解けるわけではない。
「あの……あなたは?」
 尋ねられ、青年はいまさら忘れていたというように笑った。
「あっ、ああ……俺はザックって言うんだ。ザック・オーシャン。イルタシアのグルゼ島の出だよ。半年ほど前、この大陸に来たんだ。この国に入ったのは……、えーと? 一ヶ月前かな」
「イルタシア……」
 フレイムは聞き取れないほど小さな声で、その国の名を呟いた。フレイムは白人で肌の色が白いのだが、よく見知っている者が見れば、今の彼はいつになく蒼白な顔をしていた。
 もちろん、今日出会ったばかりの青年はそんなことには気が付くはずがない。ただ、少年の呟きは聞き取ることができたらしく、嬉しそうに言った。
「デブリスもイルタシアの村だろ? 知ってるぜ。俺達、同じ国の人間だな。あんた、名前はなんて言うんだ?」
「ごめんなさい」
 フレイムは目を瞑り、手を握り締めて顔をそむける。
「ゴメンナサイ? 変わったなま……、え? 『ごめんなさい』?」
 声の端が上がる。少年の言葉を反芻(はんすう)したザックはフレイムのほうを向いた。彼は荷物を抱え、うつむいて立っていた。
「おい?」
 ザックは腕を伸ばしたが、フレイムのほうが一瞬早く走り出していた。
 心臓が高鳴り、右腕が痛んだ。
(イルタシアの人間……)
 肺の軋む苦しさに喘ぎながらも、フレイムは山に向かって全力で走った。
 黒髪の青年は、あっという間に小さくなってしまった、その後ろ姿を見つめていた。右手を首に回し、ため息をつく。
「あれが、フレイム・ゲヘナ?」
(旧アシールの出身。暖灰色の髪。ここまではばっちりだが……)
 真っ赤になって、腕にしがみつく妖精と格闘する少年の顔が思い出される。
 ザックはまたため息をつき、首にやっていた手で頭を掻いた。

 山の裾野の森まで走ってきたフレイムは、立ち止まり、近くの太い広葉樹の幹に手をついた。
 呼吸の苦しさに、声も出せない。うつむいた頭の髪を伝った汗が滴り、足はがくがくと震える。
(ばかだ。こんなに疲労をためちゃ、山を登れない。でも、ここにいるのはいやだ。さっきの男が来るかもしれない)
 木の幹に体を任せ、ずるずると座り込んだ。風が吹き、木々がざわざわと声をたてる。呼吸は落ち着いても、足はまだ震えていた。
(……怖い……)
 自分は追われている自覚があった。この、腕のせいで。
 恐怖とともに腕が痛む。歯を食いしばり、右腕をぎゅっと掴んだ。医者には、痛むはずはないと言われた。精神的なものが原因なのだ。
 空を見上げると、豊富な葉をつけた枝と枝の隙間から白い光が漏れていた。
(……すこし……、少しだけ、休もう)
 蒼白な顔のまま、目を閉じる。

 視界は涙で滲み、その向こうは真っ赤だった。
(また、この夢……)
 どこか遠くで、別の意識がそう囁いたが、それどころではなかった。
 真ん中に小さなダイニングテーブルが置かれた、板張りの台所の床に髪の長い少年は座りこんでいた。腕の中では、女性が長い睫毛で縁取られた瞼を永遠に閉じている。
 その周りは真っ赤な炎が渦巻いていた。それでも少年は動かない。
 無慈悲な叫び声をあげ、燃え盛る化け物はすべてを焼き尽くうとしている。炎はすでに隣家にも腕を伸ばしていた。炎は彼の心の現れだった。
 愛する女性を奪われた悲しみと怒りが彼の心を包み込んでいる。

 ――この女性(ひと)がいない世界なんて、いらない。

金の流れ星 4

 冷えた汗が頬を伝う感覚にフレイムは目を覚ました。降り注ぐ木漏れ日は赤みを帯びている。
「あ、フレイム」
 フレイムの横に座り、飽きずにピンクの実をむさぼっていたグィンが声をあげる。朦朧(もうろう)としていた意識は、その高い声によって急速に現実へと呼び戻された。
「ああ……、グィン。さっきは、急に詰め込んじゃって、ごめん」
 広場から逃げ出すとき、グィンを鞄の中に放り込んでしまったのだ。
 真っ青な顔で謝る主人を、グィンはどうしようもないお人好しだと思った。もう少し、他人より自分を心配するべきだ――そう言おうかと思ったがやめた。どうせ、少年は淡い笑みを浮かべるだけだろうから。
「今夜はここで休もうよ。そんな具合じゃ山を登れっこないよ」
 グィンはせめてこの蒼白な顔をした主人を休ませようとした。
 フレイムは嫌だと言おうとしたが、足は重く疲れきっていた。
(仕方ない……か。百パーセント見つかるというわけでもない)
 森に入ったばかりのどうしようもない恐怖は、鼓動とともに落ち着いていた。
「……うん、そうしよう」

     *     *     *

 カルセの宿屋にザックはいた。風呂から上がり、黒い髪を濡れたまま紐で縛る。タオルを椅子の背もたれに投げかけて、ベッドに横たわると、頭の下で腕を組んだ。
「どおすっかな……」
 悩みをため息と共に吐き出しす。
 ベッドの向かいの机には古びた一枚の紙が置かれている。

『    令
   次の者、アシールを焼き払いし疑いのある者である。
   フレイム・ゲヘナ。男。現在十五歳。旧アシール(現デブリス)出身。暖灰色の髪。
   なお、死体にはこの令状の対象にならない。
   身柄を確保しだい、イルタシア帝国役所へ届け出よ。恩賞一億フェルを与える。
    イルタシア帝国王室 イルタス六世   』

 令状は二年前のものであった。イルタス六世とサインされた後には、王室の象徴である、竜の四角い朱印が押されている。
 ――アシール大火災。記憶にもまだ新しい、二年前の事件。村人七十余名が暮らす普通の田舎村がある日、突然の火災に見舞われたのだ。
 昼間で外に働きに出ていた者が多かったのはせめてもの救いだった。炎は瞬く間に村を舐め尽くし、無残な姿に変えた。跡からは老人をはじめ逃げ遅れた人々、十数名の変わり果てた遺体が発見された、悲惨な事件であった。
 その炎勢は明らかに自然のものを凌(しの)いでおり、放火、しかも上級の魔術師が犯人であると思われた。そして、火災で生き残り、そのまま行方知らずとなった少年が、その犯人であるとされたのだった。
 ザックが十九になる頃、この礼状は公布され、そして彼に島から出る決意をさせる。
 グルゼ島は美しいが小さく、彼の心はいつも海を越え、遥かな大陸を見つめていた。
 魔物が息づき、人々は魔術を操り、剣を振るう世界。この世には満たされることのない好奇心を満足させるものを求める者達がはびこっている。
 ザックもまたその一人であったのだ。
 身の回りを整理し、家を売り払い、出立金がたまる頃には更に半年が経っていた。大陸ではまず始めにこの令状がまだ無効でない事を確かめ、長旅の仕度をした。賞金額は一年半の間に十倍の十億フェルになっていた。
 金が欲しかったわけではない。途方もない賞金を掛けられた少年に興味があり、出来れば一戦交えたいと思ったのだ。しかし――。
(あんな、子どもなんて詐欺だよな……)
 令状の内容から計算しても少年はもう十七歳のはずで、もっとガタイのいい者を想像していた。しかし、長身のザックにとって、今日見た少年は予想に反してあまりに小さく、細っこかった。どこを見ても、村を一つ火の海にしてしまった凶悪犯には見えなかった。
(人違いだろうか……)
 しかし、一緒にいた妖精は「フレイム」と呼んでいた。少年自身も何かに怯えているようだった。令状に書かれている内容にぴたりと当てはまる。
 しばらく考えをめぐらしたが、やはりあの少年がフレイム・ゲヘナである可能性は高かい。
 ふいに、青年はベッドから飛び起きた。
「闇音、いるか」
 誰もいない部屋で呼びかける。
「いつでもいますよ」
 足元から男とも女ともつかない声が響く。ザックは一度足を上げたが、声の主が現れる気配はなかったので足を下ろした。
「今日見た少年、覚えているか?」
「果物屋で失礼してしまった少年ですか?」
 静かな声が痛いところをつく。若い主人は恥ずかしそうに、こほんと咳をついた。
「そうだ。そいつが今どこにいるか捜してきてくれ。デル山脈に向かって走っていった」
 ザックの影はぐにゃりと歪むと、床から立ち上がり、そして人型となった。闇に属する影の精霊である。
 奥の見えない漆黒の瞳がベッドの上の主人を見下ろす。身の丈ほども長い黒髪と美しい顔立ちだが、そこには感情の表れがない。
「捕獲はしなくていいのですか?」
 闇音は抑揚のない声でザックに尋ねた。
「いや、いい。これ以上、あのちっちゃいのに嫌われたくはないからな」
 闇音は頷くと、また影に戻って消えた。
 床に張りついた染みのような影が部屋から出ていく。その気配が遠のくとザックはベッドに潜り込んだ。

金の流れ星 5

「間違いなかったのだな」
 薄暗い高級宿泊施設の一室。絹の服を着た男が、ランプの黄色い炎を見つめながらそう言った。壮年でやや中背の男だ。その瞳は倣岸で濁った光を湛えている。
 向かいに座っている男は半袖だが丈夫そうな服を着ている。剥き出しの太い腕は筋肉質で、上着の下には厚い胸板が見て取れる。その男は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。果物屋に立っている青年と少年が撮られている。
 写真を机に置くとコツンと指で示した。
「ええ、女どもが何を見ているのかと思ったら……。運がよかったです。あのガキはなかなか人の多い所には出てきませんから」
 丁寧な語尾を選んでいるが、生来の言葉の悪さは隠せない。屈強な体を持つその男は、明らかに一般人とは異なる空気を持っていた。
「ふむ……」
 絹衣の男は写真を手に取るとしげしげと眺めた。赤い実を手に持つ青年を見て言った。
「色男に感謝だな」
 そして少年が写っている部分にいとおしそうに指を滑らせた。
「……これが十億フェルもの価値を持つ少年」
 大男は苦笑とも嘲笑とも取れる笑いをしたが、相手は気がつかなかった。大男は体に小さい椅子でやや不自由に上半身をかがめた。写真に見惚れる男に視線を合わせ、にやりと歪めた口を開く。
「狩りはいつ行いますか?」
 尋ねられた男は手にしていた写真を自分のポケットへしまった。
「早いほうがよかろう。明日の早朝にでも……」
「今からだって構いませんよ」
 そう言う男の目は念願の獲物を狩ることに高揚している。雇い主である絹衣の男は机の上で手を組むと言った。
「殺すなよ」
 大男がにっと笑って立ちあがる。
「明日にはリボンをつけてお渡ししますぜ」

「ガンズ隊長」
 ホテルのロビーを大股で横切り玄関を出てきた金髪の大男に、若い男が話しかけてきた。腰に剣を帯び、険しい顔つきをしていて、彼もまた一般人でない事は一目瞭然だった。
「少年の後をつけた者の報告によれば、少年はデル山脈カルセン山の麓(ふもと)の森に休んでいるとの事です」
 ガンズは、フレイム・ゲヘナを捕獲するために先刻の貴族が集めた集団の隊長であった。報告に満足そうにうなずく。
「報告に戻ってきた奴には飯を食わせてやれ。俺達はこれから狩りに出る」
「はっ」
 若い男は一礼すると、ホテルの裏の広場を借りて待機している隊の元へ戻って行った。その後ろ姿を見送るガンズに壁の陰から別の男が話しかけてきた。
「興奮しているね。賞金稼ぎの腕が鳴るのかい?」
 ガンズは煩わしそうに振り返る。
「セルクか……」
 セルクと呼ばれた男はまだ若く、優美な顔立ちをしていた。短い金の髪が街の光に輝いている。白い長衣を緑の帯で留め、白いズボンをはき、肩からは紫のチャドルをかけていた。異国の出身である彼は魔術を扱うことが出来た。
「そんな顔をしないでよ。僕だってこの場にいる限りはあなたの部下だよ」
 仏頂面の隊長に向かって、セルクはにっこり笑った。花のような笑みに対して、ガンズはふんと鼻を鳴らしただけだった。
「どうせ、手柄を自分だけのものにする策でも巡らせているんだろう。お前は信用ならないからな」
 セルクの唇は相変わらず優美に弧を描いていたが緑の双眸は笑っていない。
「僕は金などには興味がないんだ。知りたいのさ。例えば、何故あの少年が生け捕りでなければいけないのか……とかさ」
 確かに賞金額が億単位の者――A級以上の賞金首はたいがい「生死問わず」である。そのことにはガンズも多少なりとも疑問を持っていた。しかし彼にとってそれは更に狩りの難易度を上げ、攻略する楽しみを増やしただけのものに過ぎなかった。
「ふん、俺は金に興味がある一般人なんでな」
 大男はそう吐き捨てると大股で隊のほうへ去っていった。セルクは手を振って見送った。
「ふふ、本音は金よりも闘いを選ぶくせに。……僕は決してあなたのこと嫌いなわけではないのだけれどね。闘いが大好きな剣士さん」

「森が静か過ぎる……」
 寝る準備をしていたフレイムが頭上を仰いだ。グィンも暗い森を見渡す。
「ほんとだ……。ヨグイスの声もヤミロギの声もしない。木も黙り込んじゃってる」
 フレイムは目を鋭くした。緊張が走る。
「結界を張られた。グィン、火を消して。俺達だけの光を」
 グィンは大急ぎで焚き火の火を消すと、光の呪文を唱えた。不思議な韻を踏んだその呪文はグィンら緑の精が扱う魔術で、母なる大地の女神の加護を受けるものだあった。
 二人の目にしか映らない光がともった。それは焚き火の光とは質が異なり、やや薄暗く、遮光板をとおした日の光に似ていた。
 フレイムはその光を頼りに急いで荷物をまとめ、背中に背負った。
「走るよ」
 足は泥のように重かったが、誰が張ったとも分からない結界を抜けるにはそれしかなかった。迷っている場合ではない。靴の紐をきつく縛りなおすと走り出した。グィンはその横を飛んだ。

金の流れ星 6

 広葉樹の繁るうっそうとした森の入り口で兵のひとりが言った。
「少年が移動しています。東の方向に……、走っているようです」
 兵は森の地図の上で手のひらを滑らしながら言った。手のひらの下には、列を成して円を描く光の文字が浮いている。結界は彼の魔術によって張られたものであった。
「よし、五人ずつ北と南からまわりこめ。俺は南のほうにつく。余った奴らは森の東の出口に馬で待機しておけ。」
 大男は東のほうを指差しながら、兵たちに指示を出す。横に控えていた兵から、自らの大剣を受け取ると、兵を連れて森に入っていった。
 金髪の魔術師はその頭上、周りの木々よりも高い宙に浮いていた。まるでそこに透明な板でもあるかのように、セルクは真っ直ぐ立っている。
「ガンズは気づいているのかな。招かれざる客がいるよ」
 そう独り言を言うと、ある兵の足元の影を凝視した。そうするとセルクの目には影が兵とは違う格好をしているのが見える。髪の長い女性のようだった。
「誰かの使い魔……かな」

 ザックが闇音に聞いたのはそういう事だった。
「闇音、そこまで案内しろ」
「しかし、今から間に合いますか」
 闇音は静かに言った。ザックは歯噛みして窓から外を見た。ふと、ある物に目をとめた。
「いや、間に合うさ。間に合わせてみせる」

 空には満月となった双子月が輝いており、明るい夜となっていた。しかし結界を張られた森の中は、夜の闇とは違う漆黒が霧のように漂い、どんよりとしている。
 右だ。追え――そんな兵たちの声が時々、風に乗って聞こえてくる。風は北から吹いていた。まだ十分距離はある。フレイムは走る方向を少し南のほうへ修正した。
 走るのに邪魔な枝を掻き分けた途端。
「そこまでだ! とまれ!」
 太い声が響き、フレイムは足を止めた。息を切らしながら、自分の置かれた状況に愕然とする。
 六人の男たちが前方に立ちふさがっていた。森に迷った旅の御一行と見るには余りにも屈強な肉体の持ち主ばかりである。
 剣を背負った、頭一つ他より高い男が話しかけてくる。彼がリーダーであるようだった。
「お前も頭が切れるようだが、今夜は俺の勝ちのようだな」
 満足気に見下ろす男をフレイムはきつく口を結んで見上げた。細いあごを伝った汗がぽつりと落ちる。
(やられた……北の兵達は囮だったんだ)
 結界を抜けることに頭を取られ、敵の数を把握しなかった自分に歯噛みをする。フレイムは一歩あとずさった。ガンズが一歩前に出る。
「ふふん、実物を見るのは初めてだが……。これはまた、ずいぶんと軟弱そうな子どもだな」
 親指と人差し指であごを撫で、値踏みでもするかのように、立ちすくむ少年を上から下に眺めた。
 後ろからも足音が響いているのをフレイムは耳にした。グィンは少年の頭に体を寄せていた。このまま立ち尽くしていても前後を囲まれてしまう。
(……どうする? グィンの魔術じゃこんなにたくさん相手に出来ない。……何かあいつらの気を引くものがあれば……)
 色の淡い瞳を左右に動かし、この包囲網を抜ける算段を練る。
 ガンズはにっと笑って、背の剣をすらりと抜いた。
「まだ、あきらめる気配はないようだが? 先制攻撃はないのか?」
 フレイムはじりじりと後ろに足を引く。
「魔術が使えるんじゃないのか? 二年前は村を一つ燃やしちまったんだろう」
 ガンズに詰られてフレイムは青ざめた。
 カタカタと右手が震える。口を引き結び、左手で右手首を握り締めた。
 戦う意志のないフレイムに、ガンズはつまらなそうに剣を持ち上げる。彼の剣はひゅっと空を切りグィンの顔の前でぴたりと止まった。
「うわあっ」
 グィンは悲鳴を上げてフレイムの頭にすがりついた。フレイムは顔の真横を掠めた切っ先に目を見開いた。
「そいつを切れば、少しは頭に血が上るかな」
 挑発をこめて吐き捨てる。
 フレイムはその言葉に対して、冷ややかな怒りが嫌悪を纏って心に宿るのを覚えた。
 心の奥に底流する深い憎悪。過去の記憶が彼の感情を冷たく侵す。ガンズがこちらに向けた白い刃が、少年の目には黒く冷たい金属の塊に映った。
 くぐもった闇に静かに見据えるガラス玉の双眸。
 ガンズはにやりと唇を歪めた。伸ばしていた腕を戻し、剣をすっと構える。傲慢な態度とは裏腹に、その構えにはあくまで丁寧で、一部の隙もない。
 頭上の木の陰にはセルクがいた。
(ガンズはどうあっても闘いたいみたいだね。面白くなりそうだ)
 フレイムとガンズは息を潜め、お互いの動きにだけ集中する。グィンもあとの兵たち 全員も息を呑み総毛立つ思いで二人を見守った。
 双方の間の空気がぴりぴりと張り詰める。近くの木の枝がふるりと震えた瞬間。
「どけえ!」
 緊迫した空気を切り裂き、怒鳴り声が響いた。

金の流れ星 7

 二人ははっと叫び声のした方を振り向いた。四本足が土を蹴る音と枝の折れる乾いた音が交錯して響く。兵達が何かに驚き、慌てて両脇に飛びのいた。
 フレイムとグィンはあっと声を上げた。
 兵たちのよけた向こうに黒髪の青年の姿があった。しかも馬にまたがっている。昼間は徒歩だった青年だ。まさか盗んだのではないかと、思わずそんな考えが頭を過ぎる。
 向かい合っていたフレイムとガンズの真横から登場したザックは、顔にかかる小枝をものともせず、全速力の馬の手綱を引いた。対峙していた二人の間を割って、上半身を揺らしながら、鹿毛の馬が足を止める。
「ほら見ろ、闇音。間に合ったじゃないか」
 ザックは馬から降りると、自信満々に笑った。その影がおもむろに立ち上がる。
 フレイムを始め、その場にいた者全員がその影に注目する。影は黒い服、黒い髪、底の見えない漆黒の双眸を持った人間の姿に変貌した。白い肌が際立って目に付く。
 影は長い髪を優雅な仕草で背にやった。その美しい立ち姿に男達は目を奪われた。
「ええ、随分と派手な登場で……」
 闇音は周囲の者を感情の表れない瞳で一瞥した。
「……間一髪というところですね」
 ザックはご苦労さんと言って馬の尻を叩くと、もと来た方向へと走らせた。フレイムも兵たちも無言でそれを見守る。ガンズは剣を鞘に納めた。馬のひづめの音が遠のくにつれて、場は異常なほどに静まり返っていった。
「よお!」
 ザックはフレイムの方を向き、陽気に手を上げた。フレイムはガンズと対峙していた時より動揺していた。上ずった声が口を突く。
「あの、あなた……」
「名前は、昼に教えただろう。ザックだ」
 ザックは親指で自分の胸を指す。フレイムは肩をすくめ、しどろもどろに尋ねた。
「あ、あのザックさんは何しに……?」
 ザックは片目を細め、怪訝そうに首をひねった。
「お前、俺の事も賞金稼ぎだと疑っているだろう」
 懐疑を指摘されフレイムは長い睫毛を震わせる。それを見たザックは、ゆっくり瞬きすると真っ直ぐにフレイムを見据えた。うつむく彼の額を握った拳の関節でコツンと突つく。
「お前の名前を聞きに来たんだ。『ごめんなさい』じゃなくてな」
 フレイムははっと顔を上げた。ザックはすでにガンズのほうに振り返っていた。
「賞金稼ぎのガンズだな。こんな所で本物に会えるとは思ってもみなかったな」
 ガンズはフレイムとザックのやりとりを黙ってみていたが、やっと自分の方に話しは流れてきた。ふんと鼻を鳴らす。
「俺はお前を知らんな」
 ザックは、へへっと笑った。
「そのうち誰でも知るようになるさ」
「十億の賞金首を庇うようなバカならそうなるだろうよ」
 侮蔑を投げ、ガンズは剣に手をかけた。ザックも腰を落とし、剣の柄を握る。
 闇音がフレイムに囁いた。
「二人が剣を抜いたら、西へ向かって走ってください」
「え?」
 フレイムは闇音のほうを向いた。
「大丈夫です。あなたの事は私が援護します」
 フレイムは眉を寄せ、闇音の顔を凝視した。美しい精霊はしっかりとうなずいた。
 瞬間。研ぎ澄まされた刃同士がぶつかる音が鋭く響いた。
「走ってください!」
 闇音がフレイムの肩を押した。戸惑いながらも、言われるまま走り出す。
 ガンズがザックと刃を交えたまま叫んだ。
「追え! 逃がすな!」
 兵達は慌てて走り出した。ザックが力任せにガンズの剣をさばく。
「何人かは俺の相手をしてくれよ!」
 近くの兵の肩をザックの剣が掠める。兵は肩を押さえて倒れた。
 ガンズは苦痛にうめく部下を冷めた目で見下ろした。ザックの背に冷やりとしたものが走る。
「少しは、使えるようだな」
 剣士の目に獰猛な光が宿る。怪我を負った部下には見向きもせず、剣をゆらりと構える。
(本気を出すのか……)
 ザックは剣を握ったまま距離を取った。

「ザックさんは強いんですか?」
 フレイムは息を切らしながら、音もなく横を走る闇音に尋ねた。追いかけてきた兵達は闇音が影縛りの呪文でとめてしまった。他人の結界の中では、魔術の効力は弱まるので、またいつ追って来るか分からない。
「まあ、あそこにいた兵達よりは強いでしょうが……、さすがにガンズには勝てないでしょうね」
 闇音は同情のない口調で答えた。フレイムが立ち止まる。
「それじゃ、助けに戻らなきゃ……」
 闇音が目を細める。はじめて見る闇音の美しい笑みにフレイムは頬を染めた。
「優しい方。でも、大丈夫です。ザックは逃げ足だけは誰よりも速いですから」
 脱力しそうな言葉で諭され、フレイムは荒い息をしながら、あっけに取られた。
「さあ、走って。結界を抜けたらザックのいた宿に行きましょう」
 闇音がフレイムを促したそのとき、樹上から、人が飛び降りてきた。
 短い金髪の青年である。彼は片手を後ろに引き、優雅に一礼した。
「はじめまして、フレイム・ゲヘナ。僕は、セルク・カルセア。一応、今はガンズの部下」
 闇音がフレイムをかばって前に出る。セルクは両手を上げて、含み笑った。
「ああ、今、君らをどうこうしようというわけじゃないよ。横取りしてはガンズに叱られてしまうからね」
 しかし、影の精の瞳は鋭くセルクを見据えている。
「ふふ、まさか十億の賞金首を捕まえこそすれば、逃がそうとする奴がいるとは思わなかったよ。興味わいちゃったなあ。……今夜は見逃してあげる」
 セルクは綺麗な笑顔を見せた。フレイムと闇音は顔を見合わせる。
「あれ? 信用ない? じゃあ、僕はこの場を離れるよ」
 おやすみと囁くと、セルクはまた木の上に飛びあがり、木々を揺らしながら去っていった。一体何の為に現れたのか分からない男にフレイムは眉を寄せた。闇音は何も言わずセルクが去っていた方向を睨み据えている。しばらくして、長い睫毛を瞬かせ、口を開いた。
「行きましょう」
 闇音がフレイムの手をひく。フレイムは小さくうなずくと、再び走り出した。

金の流れ星 8

 ちゃぷんと、お湯の跳ねる音が浴室に響いた。温かいお湯の中、長く、ゆっくりと息を吐く。清潔な紺のタイルの上、洗面器にお湯を張り、小さな妖精が一生懸命石鹸の泡をたてていた。
 宿についたフレイムは、闇音によって、浴室に放り込まれたのだった。一日中走った汗の匂いを指摘されたのだ。
 ザックが戻るのを待ちたいと訴えたが、闇音は浴室の鍵をかけて出ていってしまった。
 そうして仕方なく入浴するに至ったわけである。
 お湯は心地好く、疲れた体と緊張にやつれた心をほぐしてくれた。こうしていると先程の危機が嘘のようだった。漂ってくる石けんの匂いも爽やかで気持ちがいい。
 風呂から上がり、ほっと息をつくとフレイムは背を反らせて浴室を覗いた。
「グィンは、あがらないの?」
「まーだ」
 グィンの洗面器は石鹸の泡があふれている。フレイムはそれを見て呆れたが、好きにさせておくことにした。彼女が無邪気でいると、なんだか怖いものなどないような気がしてほっとできる。
 淡い暖灰色の髪をしたフレイムは、何も着ていないと全身真っ白だった。鏡の前に立ち、ザックを思い出した。黒い髪に黒い瞳、自分より色素の濃い肌。
(あの人はどうして俺を助けに来たんだろう……)
 馬に乗って現れたザックの姿が思い出す。嘘つきには出来ない目をした優しい人間。
(どうして……)

 バスタオルを元の位置に綺麗に掛けると、フレイムは困ってしまった。下着以外の着替えるものがないのだ。背後の桶には水が張られている。フレイムの服はこの中なのだ。これも闇音がしたことであった。
 脱衣所で立ち尽くしていると、外の扉を開く音が聞こえた。どきんと胸が高鳴る。
「あれ? おい、闇音。あいつはどうした」
 青年の明るい声が聞こえてほっと胸を撫で下ろす。
「お風呂ですよ。あなたも入ってください」
「今日はもう入ったよ」
 ザックが面倒くさそうに答える。
「何を言ってるんですか。あんなに馬を走らせておいて。あなたも汗をかいたでしょう」
 はいはい、とザックは返事をし、浴室のドアを開けた。と、少年が肩をすくめてこちらを見ていた。
「あ、ああ、悪い」
 ザックはそう言いながらドアを引いたまま、コンコンと叩いた。フレイムはすばやく下着を着るとザックと入れ替わりにドアから半分顔を出した。
「あの、闇音さん。俺、着るものが……」
 そう言われると闇音はベッドの方に行き、ザックのものと思われる鞄をあけた。そして中から白いシャツを取り出した。
「ザックには大きい物ですが、あなたにはちょうどいいかもしれません」
 フレイムは後ろを振り返り、ザックを見た。彼はもう服を脱ぎ終え、中へ入っていくところだった。
(ザックさんに大きいものが俺にぴったり……?)
 闇音からシャツを受け取ると、首をかしげながら、袖をとおしてみた。

 頭にのぼせたグィンをのせ、風呂から上がってきたザックはフレイムを見て笑った。
「なるほど。これはぴったりだな」
 フレイムは頬を赤らめて、むっつりとしていた。ワイシャツは彼の太股の辺りまであった。伸びをしても、下着は見えなかった。袖は二、三回まくってある。
「まあ、こんだけ背が違えばな。俺にもでかいシャツだし」
 ザックはそう言いながら自分の額の前で、手のひらを水平に滑らせた。フレイムとザックの身長差はその手ひら平ほどあった。
「今、背が伸びてる途中なんです」
 フレイムはぷいと顔をそむけた。そのまま近くの椅子に座ると辺りを見まわす。
「闇音さんは?」
「ああ、あいつならここだ」
 ザックは自分の影を指差した。フレイムは首をかしげた。
「影……? あっ、もしかして闇音さんて……」
 ザックはベッドの端に腰掛けるとにっと笑った。
「うん、影の精だ。お前のチビとおんなじだな」
 頭の上で伸びていたグィンを横に下ろす。
「グィンは緑の精なんだけど……」
 二人の大きさの差はなんだろうとフレイムは思わずにいられなかった。
「しかし、このチビと闇音のサイズの違いはどっからくるんだ?」
 ザックがグィンの頭を指で突つく。フレイムは一瞬息を呑みこみ、それから声を上げて笑った。ザックが訝しげに目を細める。
「なんだよ。俺何かおかしな事言ったか?」
「ううん。ごめんなさい」
 目元をこすりながら謝る。久しぶりに声を出して笑ったような気がする。
 落ち着いたあと、聞こうとしていた事を思い出した。
「あの……剣士は、どうしたんですか?」
 ザックは両手をベッドに置き、後ろに傾いた姿勢で答えた。
「ああ、ガンズのことか。剣でな、あいつのベルト切って逃げてきた」
 フレイムは口を開けたまま、なにも言えなかった。ザックはくくっと笑った。黒い瞳がいたずらそうに光る。
「お前にも見せてやりたかったな。俺の勇姿」
 青年はなにも持たない手で剣を振っている仕草をして見せた。フレイムはそのシーンを想像したが、「勇姿」という映像には程遠い物のような気がした。
「もう、聞きたいことはないか?」
 まだ聞きたいことはあったが、フレイムは首を振った。ザックがふっと笑う。嘘だったのがばれたのかと思い、視線を泳がせた。ザックは一度睫毛を伏せ、フレイムのほうを見た。
「じゃあ、俺の質問に答えてくれよ」
「え?」
 フレイムはザックのほうを見た。
「名前」
 ザックは上半身を起こし、背をかがめて両手を脚の上で手を軽く握った。名前を言えば、自分が途方も無い額の賞金首であることがばれる。
「あ、あの……」
 言葉の終わりは小さく途切れた。無意識に足が震える。
 顔をそむけると動悸が激しくなり、胸の奥がきりりと痛むのを感じた。自分の事を知り、目の色を変えた人々。過去の記憶がフレイムを臆病にしていた。
 ふと、机の上の紙に目を留める。一瞬青ざめ、信じられないと言うように唇を震わせた。
 おそるおそるザックのほうを見る。
 黒い、力強い瞳がこちらを静かに正視していた。
(この人はもう知っているんだ)
 助けに来たザックの笑顔が頭をよぎる。
 一瞬、胸の奥を風が下へ吹き抜ける感覚がした。
「フレイム・ゲヘナ」
 無意識のもとに呟かれた名前。
「いい名前なんじゃない?」
 ザックの声が響き、フレイムはびくっと肩を弾ませた。心臓が再びその鼓動を早める。
 恐怖ではない。
 自分が興奮しているのが分かった。こんな人間は二人目だ。
 揺るぐことのない、光。フレイムはそんな光を心に持つ人間をもう一人知っていた。
(ネフェイル……)
 緑の海原に立つ、その大きな後ろ姿が思い出される。
 二年前、心に深い傷を負いすべてに失望し、生きる気力を失っていた自分を助けてくれた人。彼もまた、豊かな心の持ち主だった。

金の流れ星 9

「さーて、お前の名前もわかったし、もう寝ようかな」
 ザックがあくびをしながら言い、フレイムははっと我に返った。
「あ、俺……」
 では自分はここを出ていこうと立ち上がった。が、服は全部洗われてしまっているし、自分もこんな格好だった。 
「ああ、そうか。お前の寝るところがないな」
 ザックは辺りを見まわした。ベッドが一つと、机がワンセットあるだけの安い部屋である。
「仕方ないな。一緒に寝るか」
「え……」
 フレイムはきょとんとした。
「お前はそんなにでかくないし。十分寝れるだろ」
 ザックの言葉にフレイムは動揺した。グィンの事を除けば、ここ二年、誰かと一緒に眠ったことなどなかった。
「ほら」
 ザックがベッドを半分開け、ぽんと叩く。
 断わることも出来ず、フレイムはおずおずとザックの横に座った。ベッドのほんの端っこにちょこんと座った少年を見て、ザックがその腰を後ろから両手で掴んで引っ張る。
 フレイムは小さな悲鳴を上げてベッドの上に転がった。ザックが上から覗き込んでくる。
「子どもがなに遠慮してるんだ。それともなんだ、お前は寝相が悪いから離れてるのか?」
 またおでこを指でつつかれて、フレイムは額を押さえ、恥ずかしそうに起き上がった。
「寝相は……多分悪くないです」
「じゃあいいじゃないか。人の好意は素直に受け取りな」
 ザックはそう言うとフレイムの隣に寝転がった。フレイムはしばらく悩んだが、ザックに言われたこともあり、毛布をめくると布団に入った。ふと、ザックが寝返りを打ってこちらを向いた。真摯なその目に思わずたじろぐ。
「俺は寝相はあんまりよくない……らしい。ベッドから落ちるほどではないが……。転がってきたら押し返していいからな」
 予想していなかった言葉にフレイムは二の句のつげようがなく、ただこくりとうなずく。ザックはまた寝返りを打ち、向こうを向いた。
(左向きじゃないと眠れないのかな……?)
 気になったがしばらくすると青年の寝息がしてきたので、ベッド脇のランプの火を消した。部屋が真っ暗になる。
 グィンは向かいの机の上、ハンカチに巻かれて眠っている。
 暗い部屋の中で少年は天井を仰ぎ、静かに息をついた。
 隣に眠る、人のぬくもりが伝わってくる。
 ふと、涙があふれてきた。
 長い間忘れていた、人とのふれあい。
 この世に存在するすべてを憎み、滅ぼしたいと思った二年前。またこうして誰かと眠ることなどないと思っていた。
 ネフェイルは、またいつか自分を愛してくれる人は現れると言ってくれた。
 だが、現れるはずがないと思った。現れても自分はきっとその人を愛せないと思った。
 その自分が、今、人のやさしさに涙を流している。愛せる人がどこかにいるかもしれない。
 一年前グィンと出会い、今日、ザックと闇音に出会った。三人を愛したいと思った。
 二年ぶりに神に感謝し、静かに目を閉じた。

 もともと眠りの浅い少年は、ザックの寝返りに目を開いた。目を凝らして時計を見ると夜中の三時を過ぎた頃である。
 ふと背中に気配を感じて、振り返ろうとした。
「ひわっ」
 おかしな悲鳴を上げてフレイムは体を硬くした。
 ザックが後ろから抱きついてきたのだ。最初は冗談かと思ったが、青年は相変わらず心地好さそうに寝息をたてている。身をよじって抜けようとしたが、眠っているくせにザックの力は強い。フレイムはあきらめて力を抜いた。
(普通に寝相が悪いほうがまだよかったかも……)
 こうなっては、ザックが離してくれるのを待つしかない。
 しかし、なんだか親に抱かれて眠る幼い子どもになってしまった気分だった。もしかしたら闇音が見ているかもしれない、そう思うとやはり恥かしく、フレイムはもがいた。
 無意識に闇音よりも「彼女」の存在が気になっていた。この世に幽霊というものが存在するなら、「彼女」も見ているだろうか。精霊よりも幽霊のほうが、すべてを見知る者かもしれない。
 だが、やはり脱出は無理だった。抵抗をやめてしばらくすると、再び眠気が襲ってくる。
(今日はいっぱい走ったから……)
 そう考える意識もろとも夢の中に引きずり込まれる。それはもちろん疲れのせいもあったが、触れる温かさがあまりにも心地好かったからでもあった。

金の流れ星 10

 フレイムは、目を開けた。カーテンをとおして、日の光が差しこんでいる。いつもよりその光がまぶしく思えた。
 はっと身を起こす。体はザックから開放されていた。横を見るとザックがまだ気持ちよさそうに眠っている。
 時計は午前十時を指している。いつもは日の出とともに目を覚ますのだが――、フレイムは何度か目をこすってみたが、やはり十時だった。
「おはようございます」
 静かな声がしてフレイムはそちらを向いた。闇音がこちらを向き、机の横で立っている。
「服、乾いていましたから、たたんでリュックに入れましたけど、よろしかったですか?」
「あ、ああ、ありがとうございます」
 向かいの机の上で、ピンク色の実を食べていたグィンがこちらに顔を向ける。
「おはよう。こんなに寝坊するなんて、だいぶ疲れていたんだね」
「うん……おはよう」
 フレイムはのそのそとベッドから出た。
 顔を洗いに洗面台に立つ。水で顔を洗い、タオルで顔をふく。鏡に髪の毛が立った自分を見、側にあった櫛で梳かした。
 ふと気づくと、鏡に闇音が映っていた。フレイムは慌てて振り向く。
「あ、ここ、使うんですか?」
 影の精は静かに首を振ると言った。
「昨晩はザックが失礼を働いたようで、すみませんでした」
 軽く頭を下げられ、フレイムはきょとんとした。頭に夜中の危惧が浮かぶ。
 見られていた。
 頭から血の気がひくのを感じる。ついで、顔を真っ赤にした。
「いっ、いいえ、そんな困ったことじゃ……。それに闇音さんに謝ってもらっても……」
 耳まで赤くしてフレイムは言った。闇音はそのおかしな顔色の変化をしばらく見つめた。
「ではやはり、ザックに謝らせましょう」
 くるりと向きを変えた闇音の黒い服を慌てて掴む。
「いいいっいいです。やめてください!」
 フレイムは頭を下げて懇願した。闇音は彼女の服を握り締めてうつむいている少年を後ろ向きに見下ろした。
「いいんですか?」
「いいんです!」
 闇音はフレイムの手をそっと離した。フレイムは闇音を見上げた。
「フレイム様がいいのなら、よいのです」
 闇音はそのまま戻っていった。フレイムはその後ろ姿が見えなくなると、へなへなと床に座りこんだ。
 当の本人に知られるのは、お互いに恥ずかしいような気がする。手にしていたタオルを握り締め、深く息をついた。
(闇音さんに見られていたなんて……)
「彼女」の事も思い浮かんだ。
 やはり幽霊もいれば見ていただろうか。
(アーシア……。君が見ていたら……やっぱり、からかうんだろうな)
「彼女」の意地悪ながらも、優しい笑みを思い出す。
 しばらくの沈黙のあと、フレイムは床でコツンと頭を打った。

「出ていったあ?」
 ザックはベッドの上で上半身を起こし、素っ頓狂な声を上げた。
「ええ、『泊めてくれてありがとうございました』とお言付けを預かっております」
 ベッドの脇に立つ闇音に抑揚なく告げられ、ザックは頭を抱える。
「なんで、引き止めないんだ。ていうか、なんで俺を起こさないんだよ」
 時計は昼前を指していた。
「フレイム様が起こさなくてよいと……。それにあなたが昨夜、捕獲はしないとおっしゃったので、引き止めませんでした」
 ザックはがっくりと肩を落とした。
「お前って奴はなんて気が利かない男なんだ」
「私は男ではありません」
 闇音が間をおかず答える。
「どうせ、女でもないくせに」
 ザックはむっつりと返した。
「どちらにせよ、フレイム様が望んだことです。それにあなたは押しが強いし、フレイム様は弱いようです。無理に言えば、頼みも聞いてくれるでしょうが、それはあなたの望むものではないでしょう?」
 やわらかい、低めのトーンで諭されザックは視線を逸らした。
「ああ、そうだ」
 カーテンを引き、開けた窓から風が吹き込む。初夏の始まりの温かい風が、ザックの黒い髪を撫でる。わずかに睫毛を伏せ、ぽつりと呟いた。
「でも、最後に話すくらい……」

     *     *     *

 フレイムは山の中腹まで登ってきていた。ちょうど木々がなく、開いたその場からはカルセの街並を見渡すことが出来る。
「少し休もうか。もう、お昼だし」
 グィンを振り返りながら、木陰に足を向ける。グィンは両手を後ろにまわして言った。
「よかったの? 直接お礼言わなくて……」
 フレイムは木の下に腰を下ろし、パンを取り出した。グィンにはまだエルフィンベリーの入っている袋を差し出す。
「うん。俺がいたら、迷惑をかけてしまうよ」
 グィンはベリーを手に持ち、しかし口をつけずにフレイムを見上げた。丸い青い瞳がためらいがちに主人の表情を窺う。
「そんなことは承知の上で、あの人は助けてくれたんじゃないの?」
 フレイムの手が止まる。小さくだが、確かに薄い紫の瞳は揺れた。きゅっと口を結ぶと、ゆっくりと睫毛を伏せ、静かに首を振る。
「これ以上、危険な目には合わせたくない」
「そんなの! あの人はもう、昨日フレイムを助けたときに、あいつらに目をつけられたよ」
 グィンが声を大きくした。優しい黒い双眸が頭をよぎる。フレイムは苦しそうにうつむいた。
 また誰かが自分のせいで命を落とすようなことがあれば、自分はもう正常ではいられない。
「……俺がいないって分かれば、やつらだって手を引くよ」
 そうなることを祈りながら、カルセを見下ろした。

金の流れ星 11

 日は沈み、町は夜が支配しつつあった。どの家も灯りがともっている。
 風が強まり、雲が月を隠し、闇が深くなる。
「ああ、どおすっかな。フレイム・ゲヘナを捜すっていう目的もなくなったし」
 ザックはのろのろと街の出口に向かって歩いていた。立ち止まり、空を仰ぐと言った。
「雨、降るかなあ」
 彼の影は前方へ伸び、立ち上がった。
「あれは、まだ雨雲ではありませんよ」
 闇音は変わらず黒い服で無表情だった。
 ザックがまた歩き出そうとした、瞬間。
 上空から、ものすごい力で圧しつけられるような感覚。いや、それとも下から引っ張られているのか。ともかく、自然現象とは言い難い現象が二人を襲った。
「……っんだよ? これは!」
 不可解かつ気分の良くない現象に歯を食いしばり、ザックはたまらず膝をつく。闇音は堪えて立っていたが、背をかがめ、今にも倒れそうである。
「……結界」
 闇音が苦しく呟き、道の脇の建物に目を向ける。その先から金髪の魔術師が現れた。肩の高さまで上げた右の手のひらの上には円の形に並んだ文字が輝いている。
「そう。でも昨日森に張られたのとは格が違うよ。この僕が張ったんだ。僕の許可する者しか入れない。何人足りとも干渉することは許さない。この空間は、カルセにあってカルセではないのさ」
 セルクが右手を握り締めると、魔方陣は消えた。結界が張り終えたのだ。
 気づくとさっきまであった圧力はどこかに消えている。周りの風景は全く変わらなかったが、確かに違和感はあった。外ではなく、内側に。
「セルク……」
 闇音が目を鋭くして言った。
「セルク? お前の知り合いか?」
 ザックが立ちあがり、先程の現象を引き起こしたらしい人物に眉を寄せながら、闇音に問いを投げかける。形のいい眉を歪め、闇音は嫌悪を示した。
「知り合いなどと言うほど仲良くなどありません。彼はガンズの部下です」
「仮の……ね」
 セルクが付け足し、目だけで背後を窺う。
 彼の後ろから、大剣を背負った大男が現れた。
「なんだよ。今日は部下はいないのか?」
 ザックは嫌な奴が現れたと一瞬顔をしかめたが、すぐに薄い笑みを浮かべた。ガンズは身軽くなったとでも言うように両手を上げた。
「ふん、足手まといは置いて来たのさ」
 ザックは闇音のほうに下がった。ガンズもセルクの横で足を止める。
 ザックが腰の長剣を抜き、肩の鞄を投げやった。
「正々堂々、さしで勝負しようって言うのか?」
「俺はお前に昨日の借りを返しに来ただけだ。その女とセルクが戦っても、邪魔にならんならいっこうに構わんさ」
「ガンズ、影の精霊に性別はないんだよ」
 セルクがそう教えると、ガンズは闇音を見た。片目を細めて見たが、彼の目には女性にしか見えない。
「そんなこと、俺の知った事か」
 ガンズはふんと鼻を鳴らした。
「まあ、いいよ。僕は影の精霊とは戦ったことないから、ぜひお相手願いたいね」
 セルクは柔らかい笑みを付けて戦いの申し込みをした。闇音はその笑顔を無視し、主人の方を見た。ザックが目だけでうなずく。
「いいですよ。受けて立ちましょう」
 影の精は他人の結界内という不利な戦いに臆する様子はない。セルクが緑の双眸を細める。
「俺達もさっさと始めようぜ。俺はあのガキを追うので忙しいんでな」
 ガンズが大剣をすらりと抜いた。

 フレイムは街の方を振り返った。魔力の気配を感じる。目を凝らすと、街の出口付近にお椀をひっくり返したような光の膜が見えた。
「結界……?」
 胸の奥がドクンと強く脈打つ。
(まさか……)
 少年のガラス玉の瞳は、結界の中の様子をとらえようとした。山の頂上付近から、街までの距離はかなりある。眼の奥がちりりと熱をもつ。
 フレイムの目はものの数秒で視力を数倍に上げ、透視の力を持って結界の光を見つめる。もちろん、持って生まれた力ではない。彼の魔力によるものだった。
 ――人が四人。
「ザックさん!」
 悲鳴にも似た声を上げる。ザックと闇音、ガンズ、セルクの姿が見て取れた。
「フレイム! 山を下りよう」
 グィンがフレイムの袖を引っ張った。
「あたりまえだよ!」
 千切れそうな声で叫ぶが早いか、フレイムは重力に任せて飛ぶような早さで駆け出した。

金の流れ星 12

 剣は宙を旋回し、重い音を立て地面に突き刺さった。
 ザックは右手首を左手で握り、地面に膝をついた。ぽたぽたと赤い雫が滴り、地面を汚す。
 ガンズの剣に痺れるほど強く、刃を打ち跳ね上げられたのだった。ザックは右肩からもすでに血を流している。
 ガンズはうずくまるザックに歩み寄ると、苦しく見上げた彼の額に剣を突きつけた。
「絶体絶命ってやつだな」
 ザックはただ歯を食いしばって、ガンズを睨みつけた。黒い双眸は諦めることを知らず、険しい光を浮かべている。ガンズは一度剣を引いた。
「お前は強くなる。俺もこの道長いからな。素質のある奴は分かる」
 そしてと付け足し、ザックの胸倉を掴むと易々と持ち上げた。
「……離せ」
 ザックは低く唸るように声を絞った。ガンズは剣を地面に刺し、青年の身体を持ち上げる左腕の力を抜いた。同時に、強烈な右拳をその腹部に見舞う。
 一瞬、ザックの身体は確かに宙を舞った。
 意識が明滅し、目の前が白くちらつく。
 ザックは土埃を上げ、地面を転がった。背を丸め、激痛にうめく。その姿を見下ろし、ガンズは薄い唇の端を吊り上げた。
「そういう奴の将来を踏みにじるのも、俺の趣味の一つだな」
 その声は少し離れた所にいる二人の耳にも届いていた。セルクは、闇音と向き合ったまま笑った。
「いい趣味してるよ」
 呪文を唱えると、向かい合わせた手のひらの間に光が宿る。
「君の主人、殺されはしないだろうけど、再起不能は免れないね」
 そう言いながら光を闇音に向けて放つ。
 闇音は右手を前に出し、短く呪文を唱えた。黒く輝く陣の浮いたその手で光を受け止めると力任せに握り、光をはじけさせた。
 底の見えない漆黒の瞳が、セルクを見据える。
「あはは、怒ったのかい? 顔に似合わず、主人想いだね」
 セルクは指で指し、滑稽なものを見るかのように笑った。
 闇音の周りに風が吹き、彼の髪がざわざわと広がる。風は自然の風ではない、魔力の波動だ。セルクは背にぞくりとしたものが走るのを感じた。
 闇音は長い睫毛を伏せ、うっすらと瞼を開けた。闇の双眸は明らかに怒気を孕んでいる。
「あなたが喋ると虫唾が走る」
 短く吐き捨てた闇音の手に黒い光が宿る。
 ガンズは横たわるザックに再び剣を向けた。ザックは苦しそうに喘ぎ、霞む目を開いた。
「悪いが……俺は死なないし、てめえに道を絶たれもしない」
 掠れた声で告げられた言葉にガンズは怪訝そうに片目を細めた。
「この状況が分からないのか?」
 白く光る刃はザックの目の前にある。切れ切れの呼吸の狭間で、彼は笑った。
「運命の女神は面食いなのさ」
 ガンズは呆れて首を振った。
「救いようのない馬鹿だな。その馬鹿さ加減に免じて、大事な右腕を落とすのは最後にしてやろう」
 右腕を斬られれば二度と剣は握れない。白銀の切っ先が嘲笑っているかのように揺れる。
(もうだめか……)
 ザックはガンズの背後に目をやった。
 金の煌きが空を駆けるのが見えた。
(……流れ星……?)
 助けてくれと願えということか。
 おぼろな思考でそう考え、数瞬後、ザックははっと目を見開いた。
(流れ星!? ばかな! 今夜は曇り空だ!)
 ガンズが剣を振り上げた。その目には狂気にも似た光が宿っている。
「まずは左足だ」
「ザック!」
 闇音が叫んで腕を伸ばそうとした瞬間。
 セルクが金切りの悲鳴を上げた。
「なんだ?」
 ガンズも手を止め、セルクの方を向いた。彼は両手で自分の肩を抱き、震えて地面にうずくまった。
「誰かが……」
 闇音が夢でも見ているかのように呟く。その声には畏怖が感じられる。
「誰かが結界を破る…!」
 周りを包んでいた透明であるはずの結界が光を放つ。結界の向こうは光の膜で覆われて見えなくなった。
 ガンズの背後、ザックの見据える先。
 光の膜は何かに引っ張られるように、内側へ尖った。同時にドーム状の天井がひしゃげる。セルクは弾かれた様に、後方へ体を反らせそのまま倒れた。
 高く、食器同士を打ちつけたような音がこだまする。次に、空圧の変化に似て、耳の奥が痛んだ。光の膜がはじけて、細かな粒となって消える。
 結界は破壊された。
 ザックは信じられず、目を見開いた。
 金に輝く右腕。その光を受け、髪も目も、神々しいばかりに輝いている。
 緑の妖精を連れた、線の細い少年が静かに立っていた。
「フレイム……」
 フレイムはザックを見やり、そしてガンズを見据えた。
 輝くガラス玉の瞳に、ガンズはわずかにあとずさる。
 フレイムはガンズから視線を逸らし歩き出した。闇音が先に駆け寄り、ザックの頭を膝の上にのせた。
「ザック、大丈夫ですか?」
 ザックは苦い顔で、笑った。
「たまらなく痛いが、骨は多分……折れてない……」
 フレイムもそばに膝をついた。その目はわずかに濡れている。
「ごめんなさい」
 ザックは腕を伸ばして、フレイムの頬に指先で触れた。のろのろとしたその動きにフレイムは色の淡い睫毛を震わせた。
「なんでお前が謝るんだ」
 フレイムは目を伏せ、ザックの手に自分の手を重ね、彼の胸の上に置いた。
「フレイム様……」
 闇音がフレイムを見上げる。フレイムは儚い笑みを浮かべた。
「グィン、二人についていて。すぐに“跳ぶ”から」
 グィンはうなずくと、闇音の肩に下りた。
 フレイムは立ち上がり、ガンズのほうを向いた。
「それが、村を一つ焼き払った力か……」
 ガンズは大剣を肩に担ぎながら言った。
「どうやら、イルタシア王室は『ただの罪人』を、捕らえたいわけではないようだな」
 フレイムは何も言わない。ガンズも、見守る周りの者もそれを黙認として受け取った。
「セルクではないが、――興味、わいたぜ」
 ガンズは剣をひゅっと振り、構えた。
 フレイムは睫毛を伏せ、小さくかぶりを振る。
「無意味な争いをしに来たんじゃない」
 低くそう告げ、金に輝く腕を左上から右下へ振り下ろした。光の尾がその動きに沿って、たなびく。
「つっ?」
 ガンズはあごを覆うように手を口元にやった。口をパクパクと喘がす様は金魚のようだ。太い指で喉元を掻きむしる。ザックは異様な光景に目を見張った。
 しばらくそうしたあと、ガンズはぐりんと白目をむくと、おもむろに傾いで倒れた。
 フレイムが握っていた右手のこぶしを開く。蛍のそれのような光がいくつかふわっと浮くと、弾けて消えた。
 息をつき、ザック達の方を向いた。
「山まで移動します。構いませんか?」
 フレイムが尋ねると、闇音はうなずいた。
 フレイムが地面に右手をつくとそこを中心に輝く魔方陣が浮かんだ。陣の最も外側の円が光の壁となり天へ伸びる。空まで伸びた光が消えると、そこには倒れた二人の姿以外、人影はなかった。

金の流れ星 13

「……空間移動の魔術……」
 辺りを見まわし、闇音は息をつきながら言った。
 フレイムは荒い息をつくと、支えていた糸が切れたように倒れた。
「フレイム様?」
 闇音は慌ててフレイムの上体を支えた。少年は冷たい汗をかき、気を失っている。
 グィンが闇音に囁いた。
「あんなふうに魔術を使うのはフレイムにはきついんだ。魔力をめいいっぱい制御しなくちゃならないから」
 ザックはゆっくり上体を起こすと、闇音の腕を支えた。
「替われ。俺が持つ」
「何言ってるんですか。無理です」
 闇音がぴしゃりと咎める。
 グィンは口元を引き結ぶと、ザックの怪我をしている肩に下りた。
 傷口にそっと触れ、呪文を唱えた。ゆっくりと、流れていた血は乾き、傷は閉じていく。ザックは目を丸くしてグィンを見た。
「昨日のお礼だよ。僕だって役に立つんだからね」
 グィンは照れ隠しに口を尖らせた。ザックはこの日はじめて目元を緩めて笑った。
「ああ、サンキュ」
 闇音からフレイムの体を受け取ると立ち上がり、フレイムの頭が自分の肩に乗るように抱き上げた。
「今夜はここで休むのか?」
 グィンはフレイムの蒼白な顔を見つめて答えた。
「多分……。ここまで跳んだって事は。ノムの木の下だし、近くに小川の流れる音もする」
 ノムの匂いを魔獣は嫌うのだ。小川があれば水も確保できる。
 ふむとうなずき、ザックは闇音にあごで示した。闇音はザックの鞄を開くと毛布を取り出した。木の下に毛布を広げると、ザックはそこにフレイムをそっと寝かした。
「よし。闇音、今日はもういいぞ」
 毛布をかけながら闇音に言うと、彼は首を振った。
「いいえ。まだ、知りたいことがあるのです」
 闇音は近くから薪を拾ってきたグィンを見た。
「フレイム様の力のこと、話してください」
 グィンは持っていた枯れ枝をぎゅっと握り締める。
「僕が話せるところまでだったら……いいよ」
 ザックがグィンの拾ってきた薪に火を起こした。顔に赤い光を受け、ためらいがちに口を開いた。
「ガンズは……殺したのか?」
 グィンは首を振った。体育座りをしている闇音の膝の上に腰掛けている。
「あれはね、ガンズの周りに結界を張って、その中の空気を抜いたんだ。ガンズは気を失っただけだよ。起きてもしばらくは頭痛がすると思うけど……」
 そっと肩をすくめて続ける。
「あんなことをするより、殺してしまうほうがフレイムには簡単なんだ。フレイムは魔力が大きすぎて、制御が大変だから……」
 闇音が閉じていた瞼を上げると重々しく口を開いた。
「あれは『神腕(しんわん)』ですね」
 グィンははっとして闇音を振り返った。ザックが聞きなれない言葉を繰り返す。
「しんわん?」
 グィンは膝を抱えて炎を見つめた。
 間を置いて、いくらかはばかりを気にする口調で語り始める。
「僕達精霊は仕える神の加護を受けて、その力を行使することができるんだ。そのためには何らかの方法で、神の世界にチャンネルを開き、力を請わなきゃならない」
 闇音が後を続けた。ザックが魔術を扱う者ではないのでゆっくりと説明した。
「一般的にはそれが呪文です。精霊は呪文が短くてすみます。簡単なものは呪文も必要ありません。霊的な力を元より備えていますから。人間は長大な呪文、必要に応じては魔具も使用するのです」
 静かに眠っているフレイムに目をやる。
「神腕はそれ自体が神の世界に通じるもの。それゆえ神腕を持つ者は、呪文も何も使わずに膨大な魔力を使用することができるのです。神腕によって引き出される魔力は『神通力』と呼ばれます」
 ザックは息を呑んだ。先刻のガンズの言葉が頭の中でやっと意味を成した。
「それじゃ、フレイムは罪人として追われてはいるが……」
 グィンがうなずく。
「イルタス王はフレイムの力が欲しいんだ」
 嫌悪とともに吐き捨てた。
 つまりイルタス王はフレイムに高額の賞金を掛け、人々に捕まえさせようとしているのだ。そうして巧みに万の軍隊にも勝る力を手に入れようというわけである。それゆえ、「生け捕り」が第一条件に挙げられていたのだ。
 闇音がザックのほうを向いた。
「現国王のイルタス六世は正式の嫡男ではありません。前王の正妃の娘であるパステァ皇女の夫として王室に入り、国王の座についたのです。彼が強欲な者であるなら、フレイム様の力はなんとしてでも手に入れたいでしょう」
 ザックは炎を見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「世界の覇者となることか……」
 赤い炎の作る光はゆらゆらと揺れている。炎だけを見つめれば、その温かさに安らぐ。だが、その影を見るとなんとも心がざわついて落ち着かないものだった。
 ザックはフレイムを見た。先程よりは顔色もよくなっている。あどけなさを残す寝顔は白く、綺麗だった。
 一国の王がこんな少年を操ろうというのか。
 吐き気にも似た思いが、胸でわだかまりをつくる。ザックは苦々しく視線を炎に戻した。
「あいつは……どこまで逃げ続けるんだ?」
 グィンは目を瞑り、首を振った。
「わからない」
 闇音の膝から飛び降り、天を仰ぐ。小さな体は不安とそれを超える決意に震えた。
「だけど僕はどこへだってついて行くんだ。一年前、助けられてから、僕の命はフレイムのものだ」
 闇音はグィンの気持ちに共感する部分があった。精霊の多くは人間を好きでもないし嫌いでもない。彼らは愛情というものがいくらか希薄であった。
 だが一度惚れてしまえば、彼らは死の間際までその者に尽くす。
 炎の輝きを受ける主人の横顔を影の精は静かに見つめた。出会って半年。しかし、闇音は彼が何を思っているのかが感じ取れた。
 出会ったばかりの少年を守りたい、と。
 闇音は睫毛をやや伏せた。漆黒の瞳は憂いを秘めていた。
(彼は愛を注ぐことを惜しまない者だ。惜しむことを知らないのだ。緑豊かな島と果てなく広がる海を見て育ったから)
 だから自分は彼を愛しているのだ。彼の意思に背こう筈もない。
 しかし、人の持ち得るものを超える神腕は危険を伴うばかりである。
 フレイムを見た。
(出会うべきではなかったのだ。助けるべきではなかったのだ)
 長く、淡い色をした睫毛を伏せた少年の寝顔。
 深い悲しみをたたえたガラス玉の双眸が脳裏に甦る。彼が誰にも助けを求めることもなく、声なき悲鳴を上げていることは感じていた。闇音自身も昏き所に生まれた者である。
(フレイム様にはザックが必要なのかもしれない。出会いは神が定めたのか……)
 闇音はきつく目を瞑った。子どもじみた嫉妬に対する自己嫌悪が、重く彼を侵す。
「闇音?」
 唐突に響いたザックの声に、弾かれるように闇音は目を開いた。
「どうした? 疲れたのか? 他人の結界内で魔術を使うのってしんどいんだろ」
 こちらを向き心配そうに話しかけてくるザックに、闇音は軽い眩暈を起こした。
 こめかみに手をやり、ちかちかとする目を閉じる。
「……いいえ、大丈夫です。ただ……」
「『ただ』?」
 ザックは首を傾け、闇音の言葉を反芻する。子どものような仕草に闇音はやや呆れた。
「……なんでもありません」
 ――自分は相当この男にまいっている。
 そう悟り、何やらさっきより頭が重く感じ、闇音は深く息をついた。
(なんと言うか……何故だろう。彼は愛を惜しまないうえに、誰にでも与えるのだ。悪く言えば八方美人……というところか)
 若い主人は頭の上に疑問符を浮かべて、こちらを見ている。闇音は目を細めた。
(まあ、そこが良いところでもある……とも言えるのか)
 闇音はためらいがちに、しかしもう決意はして口を開いた。
「私は……構いませんよ。フレイム様とともに旅をしても」
 ザックは最初に目を見開き、次に疑問を浮かべ、最後にともかく嬉しそうに笑った。
 闇音はその様子を見てふっと含み笑う。
「そうか。いや、しかしなんでお前は俺が言う前に分かるんだろうな」
 それはザックが考えていることは全部顔に出るからだ、とは闇音は言わなかった。
「以心伝心と言うものですよ」
 闇音の何か、いたずらさを含んだ笑みにザックは首を捻る。

金の流れ星 14

 二人のやりとりを見ていたグィンが口を挟む。
「フレイムと一緒に旅するって本気なの?」
 ザックがグィンを見下ろした。
「本気じゃ悪いか?」
 グィンは言葉が出ずに空気だけを呑みこんだ。そしてしどろもどろに言う。
「僕は嬉しいけど……。だってフレイムは僕だけじゃ見てられないんだ。ちょっと目を離すとすぐにいなくなっちゃうし……」
 グィンはつい最近の事を思い出しながら、傍らにあった石ころに腰掛けて続けた。
「もうちょっとしっかりした男の子だったら、いいんだけど。なんていうか、儚げって言うか、危なっかしいだろ。一人にしたら、どこかで傷ついて泣いてるんじゃないかって、いつも僕は心配させられるんだ」
 ザックはフレイムを肩越しにチラッと見やり、空を仰いで言った。
「まあ……、わからんでもないな。突つけば、崩れて消えちまいそうだもんな」
 闇音は本人が寝ているのをいいことに、なんて言い草だろうと思った。しかし彼のフレイムに対するイメージもそんなものだった。
「でもフレイムはなんて言うかな」
 グィンは膝をこすり合わせた。
「フレイムは『失うこと』をひどく恐れるんだ……。原因は……うん、わからないけど……」
 ザックはあごの下に手を添え、考えをめぐらせる。しばらくして、口を開いた。
「悩むよりは直接本人のリアクションを見たほうが早いぜ」
 フレイムの寝ている、自分の後方を親指で指す。二人の精霊はいまさらフレイムを起こすつもりなのだろうかと顔を見合わせる。
「俺達も、もう寝ようぜ」
 ザックはそう言うとあくびをひとつと、伸びをした。二人は呆れて脱力する。
「闇音はどうする? このまま一緒に寝るか? それとも影で…」
 今日、夜が明ける前にフレイムを襲った事件が闇音の脳裏を駆ける。
「一緒に寝ます。ただ、私がフレイム様の横です。あなたは少し離れて寝てください」
「は? なんだよ。なんでだよ」
 闇音の不平な指示にザックが火の傍から立ち上がりながら声を上げた。
「寝相の悪いあなたがフレイム様に迷惑をかけては困りますから」
 冷ややかな視線を送り、闇音はゆっくりと立ち上がった。
「む……」
 押し黙った主人を尻目に、闇音はグィンにフレイムの鞄から毛布を出してもらった。
「ああ、私が外で寝ると毛布が足りませんね。ザック、あなたは男なんですからそのまま寝てください」
 ザックは焚火に背を向けぼうっと突っ立ていたが、冷たくあしらわれ不満を訴える。
「なんでだよ! お前だって男じゃないか!」
「私は男ではないと何度言えばあなたは覚えるんですか。それにそんな大きな声を出さないで下さい。フレイム様が起きてしまうでしょう」
 ザックはぐっと息を呑み、それから眉を吊り上げた。
「……っ、ちくしょう! なんだお前、やっぱり引っ込め! 影で寝ろ!」
 自分の影を指差し、小さな声でわめいた。しかし闇音はグィンとともにすでに毛布に潜り込んでいる。
「何を一人でわめいてるんですか。早く寝なさい」
 子どものようにたしなめられ、ザックはむっつりと唇の端を下げた。上着を脱ぎ、ぶつぶつ言いながら、闇音との間を少しあけて寝転がる。左から毛布の中のフレイム、グィン、闇音、そして自分の上着を毛布代わりにしたザックの順である。
 グィンが寝息をたて始めると、闇音はザックの方を向いた。案の定、彼はこちらの方を向いている。彼が左向きでないと寝つけないことを闇音は知っていた。
「女性がお望みなら、私は女性の体にでもなれますよ」
 闇音が笑いながらそう言うと、ザックは顔をしかめた。
「やめろ、気色悪い」
 ザックは無性の闇音を男として見ている。彼にとって「どちらでもない」というのはなんだか落ち着かないのだ。
 闇音は綺麗な笑みを浮かべた。
「私だってあなたの行くところなら何処へだってついて行きますよ」
 ザックは照れておかしな顔をした。
「な、何が言いたいんだよ」
「私の心はあなたにしかないと言うことです。私はフレイム様より、何より先にあなたを守ります」
 ザックは黒い睫毛を瞬かせた。
「今日のお前は変だ」
 闇音は普段こんなに喋りはしないし、ザックに対しての忠誠を言葉にすることなどなかった。闇音は変だと言われて驚いたような顔をした。
「……何かあったのか?」
 声を落とし、真摯な面持ちでザックは尋ねた。
 闇音はザックの顔に腕を伸ばした。白く長い指が頬に触れる。ザックは黙って闇音を見た。
 どこにでもあるものではない優美な顔立ちをした、女性が見えた。
「多分……嫉妬してるんです」
 思ってもいなかった言葉にザックは我に返る。
「嫉妬? 誰が? 誰に?」
 闇音は手を引くとふっと笑った。
「影の精は闇が深いほど……、深夜に近づくほど口が滑りやすくなるんですよ」
 ザックの疑問には答えず、それだけ言うと寝返りを打って背を向けた。
 風が吹いてノムの木の大きな葉がいくらか舞った。
 ザックは闇音の後頭部を見つめた。黒い髪が流れるように伸びている。
(嫉妬? ……お前が? でも……誰に?)
 ザックの知る闇音は余り感情を出さず、しかし思慮は深く、決して感情が欠落しているという訳ではない。だが、まさか「嫉妬」というものを感じるようには見えなかった。
(やきもち焼くったって、焼く相手と、焼く原因になる奴が要るんだぞ)
 ここにいるのは、自分とフレイム、グィンだ。
 ザックはどう考えても、上手く結びつけることはかなわなかった。

金の流れ星 15

「アーシア!」
 夢の中で少年は叫んだ。
 美しい亜麻色の髪が宙をなびいて視界から消える。
 その先に、こちらに拳銃を向ける男がいる。険しく、感情が殺された瞳が亜麻色の髪を追っているのが見えた。
 自分の口から漏れる以外は何者も音を生み出さない。この夢はいつもそうだった。
 少年は床に座りこんで、倒れた女性を抱き上げた。その胸は赤く滲んでいる。
「アーシア! ……どうしてっ」
 女性は涙に濡れた蒼い瞳をかすかに開き、わずかに唇を動かした。
「そんなこと出来ない!」
 少年は激しく首を振った。
「世界中の誰が忘れたって、俺はアーシアを忘れたりしない!」
 女性の長い睫毛から涙があふれる。少年はきつく彼女を抱きしめた。
「それが……っ、……俺がアーシアを愛した証だ……」
 彼女は少年の耳元でかすれた声を絞った。
 そして静かに目を伏せた。女性の体から力が抜ける感触に少年は喘いで、涙を零した。
 男が女性の亡骸を見やり、ゆっくりと口を開く。
 少年は顔を上げ、激しい憎悪を男に向けた。男の唇がにやりと歪む。
 少年の右腕が、金色に輝いた。

「あっ……」
 フレイムは自分の流した涙が頬を伝う感触に目を覚ました。冷たい夜風が頬を掠め、こちらが現実だと理解する。
 涙を拭くと、自分の右腕を毛布から出し、見つめる。
(そうか……今日は神腕を使ったから……)
 だからあんな夢を見たのだ。
(もう、現実であんな思いはしたくない……)
 こぶしを握り締め、フレイムは睫毛を伏せた。
 ふと、起き上がり辺りを見まわした。
 先程消えたのか、灰色の焼けた木が所々赤くくすぶっている。
 横に目をやると三人が眠っている。自分の記憶は、血まみれで青い顔をした青年で途切れていたので、静かな寝息をたてるザックを見とめるとほっとした。
 雲は切れ、月の光が降り注ぎ辺りは明るくなっていた。
 すっかり目を覚ましてしまったフレイムは毛布を持って立ち上がった。ザックの傍に行き、毛布をかけると火のない焚き火の近くに座った。
 フレイムは焚き火をもう一度つけなくてはと思った。この辺りの山は魔物が少ないが、煙は虫除けにもなる。
 人差し指と中指を立て、その手を口の前にやると、小さな声で呪文を吐きかけた。二本の指の上に小さな火が点る。少年の白い指がロウソクのようであった。
 傍らにあった枯れ枝と枯れ草を灰の上に置き、火をつけた。はじめ火は草の上でくすぶっていたが、しだいにぱちぱちという音をたてて木を燃やした。
「それも神腕てやつの力なのか?」
 唐突に背後から響いた声に、少年は跳び上がるほど驚いた。
「……ザックさん」
 高鳴る胸を撫でながら振り返った。
 黒い髪の青年が炎の光を受けて、赤い顔をこちらに向けて起き上がっている。
「ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」
「いいや」
 ザックは首を振ると毛布を置いて、傍に歩み寄った。
(昨日は、全然起きなかったのに……)
 フレイムは少しおかしなモノを見るように、横に座ったザックを見た。
「闇音が神腕には呪文が要らないって言っていたが?」
 ザックがフレイムの指を指しながら言った。フレイムはさっき火をつけた自分の手を見た。
「……さっきのは普通の魔術です。簡単なものなら、俺も使えるから」
「ふぅん」
 フレイムは視線を炎に向けたまま口を開いた。
「あの、神腕のこと……グィンに聞いたんですか?」
 その声は微かに不安を孕んでいる。ザックは少年の細い肩が震えているのを見た。
「いや、闇音が知ってて……。お前のチビが自分からばらしたんじゃないぞ」
 フレイムは小さくうなずく。尋ねておきながら、彼の耳にザックの声は届いていない。
 自分を「高額の賞金首」と知る者と、「神腕の持ち主」と知る者に対する恐怖は全くの別物である。フレイムにとってザックは再び脅威となったのだ。
 細い体をした少年は明らかに怯えている。神腕という途方もない力の塊を携えた少年が、自分を利用しようとする者を恐れる気持ちは分かる。だがザックには、そんなことをするつもりはもちろん微塵もなかった。
「おかしな誤解をするなよ。ちゃんと話をしようぜ」
 フレイムは首を振った。何もかもに不安を覚え、子猫のように体を小さくして震える。
 頭から信用しようとしない態度に、ザックは小さな苛立ちを覚えた。
「こっち、向けよ」
 静かに、しかし短く言いつけた。フレイムは睫毛を震わせてうつむく。
 ザックは顔をしかめると、横にあった枯れ枝を掴み炎に投げ入れた。ぱちんと炎がはぜる。
「フレイム」
 青年の声は不機嫌に低く響いた。フレイムは肩をすくめたまま顔を上げない。
 ザックはむっつりとため息をついた。
「こっちを向かないなら、てめえを役所に突き出すぞ」
 短く告げられた言葉に、フレイムは弾かれるように顔を上げた。
 瞬間、ザックは両手で少年の小さな顔を挟んだ。
「あっ……」
 フレイムは小さく声を上げ、視線を逸らす。
「往生際が悪いぞ」
 ザックがそう言うと、フレイムはおそるおそる青年の顔を見返した。
 それでもザックの黒い瞳を見ることは出来ない。
「役所になんか連れて行かねえよ。俺は別にお前を利用しようとか、イルタス王に売りつけようなんて思ってないよ」
 ザックは声を落ち着けて、諭すように言った。
「命の恩人に仇なすほど、人悪くは育ってないつもりだ」
 フレイムが瞬きをすると、睫毛から雫がこぼれた。ザックは驚いて手を離す。
「……フレイム」
 フレイムはしゃくりあげ、涙をぽろぽろと落とした。
「だって、みんな……みんなそう言うんだ」
 ザックは息を呑み、肩を強張らせた。
「俺……信じられないよ……」
 フレイムは首を振り、崩れるように体を伏せた。ザックはその肩を支え、むせび泣く少年を見下ろした。
 今まで、一体何人の者がこの少年に出会い、騙して去っていたのだろうか。
 胸のわだかまりがしだいに大きくなり、きりりと痛みを伴うのを感じた。
 ザックは少年を起こすときつく抱きしめた。フレイムは体を硬くして、薄い胸を喘がせた。
「どうやったら……信じてくれるんだ」
 ザックは唸るように声を絞った。
 壊れそうな色の瞳をした少年は、体を締めつける力の強さに眩暈がした。
 フレイムが苦しそうに息を震わせたのにザックは気づいて力を抜いた。だがその腕は少年の細い体を開放しようとはしない。
 フレイムは額をザックの胸に預け、うつむいて震える唇を開いた。
「もう……俺に関わらないで……」
 ザックは愕然とした。
 拒絶。それが少年の選んだ、少年の心を守る術だった。
 ザックは腕を伸ばし、フレイムの体を支えると、その顔に触れた。フレイムはされるがままだったが、その瞳はもうザックをとらえてはいない。
「それしかないのか……」
 ザックは掠れた声を出した。
 ふいに月を雲が覆い、辺りが暗くなる。ぱちぱちと炎の燃える音だけが響く。
 数秒後、再び月の光が降り注ぐ。上方から青い光、右下方から赤い光を受ける少年はあまりにも幻想的で、儚かった。
 ザックはその柔らかい髪を撫でた。フレイムの肩がびくりと跳ねる。
「や……、離し……」
 切れぎ切れの声を絞り、フレイムは青年の胸を押しやった。
 ザックはフレイムの瞳をじっと見据えた。
「俺に出来るのは、お前が落ち着くよう頭を撫でてやるだけだ」
 囁いて、それからにやりと笑う。
「お前が女だったらもっと別の慰め方もあるんだけどな」
 冗談にもフレイムは生真面目に首を振る。ザックは苦笑した。
「ガキだな」
 フレイムは腰をずらして後ろに下がり、ザックとの距離をあけようとする。
「おいおい」
 ザックが逃げる足を掴んだ。フレイムの足首は、ザックの手のひらで容易に掴み取ることが出来た。
「は、離してください!」
 フレイムは慌てた。
「嫌だね」
 ザックは短く答え、足を掴んだまま、フレイムに詰め寄る。
「お前が寝ている間にな、闇音とグィンと話をしたんだ」
 ぱちんと炎のはぜる音にフレイムは顔を向けた。
「こっちを向けって」
 あいている手でフレイムの頬に触れる。フレイムは、今度はザックの真摯な眼差しを受け止めた。
「俺と闇音はお前と一緒に旅をすると決めたんだ」
 フレイムはゆっくりと目を見開いた。それは彼がザックの言葉を理解する早さであった。
「……一緒に?」
 フレイムは小さく呟いた。
「そうだよ。俺はイルタス王みたいに他力本願な男は大っ嫌いだ。そんな奴の好きにはさせない。それにお前と一緒にいれば、またガンズと闘える」
 ザックの言葉にフレイムは顔を青くした。炎の光を左から受ける青年は、笑みを浮かべて続けた。
「今すぐには無理だが、いつか必ず勝ってやる。負けたままじゃすまないんだ」
 力強く響くザックの声にフレイムはただ聞き入っていた。
「あとな、これが一番の理由なんだが……上手く言葉にできないんだ……」
 急に力を落としたザックに少年は首をかしげる。青年は恥ずかしそうに鼻の頭を掻き、ためらいがちに口を開く。
「単刀直入に言うと、お前を守りたいんだよ」
 フレイムは首をかしげたまま、瞬きをした。
「子どもが泣いてるのがな……、俺は苦手なんだ。お前が笑っていられるように、一緒にいたいんだ」
 ザックは恥ずかしくてうつむいていたが、そこまで言うと顔を上げた。
 フレイムは瞬き一つせずに、こちらを向いていた。
「……フレイム?」
 ザックが手を伸ばすとフレイムがその手を掴んだ。両手でザックの手を握り締め、うつむいた。淡い色をした前髪が握られたザックの手に触れる。
「……本当に……?」
 祈るようにフレイムは声を絞った。その手は小さく震えている。
 ザックは口で答える替わりに、もう一方の手をフレイムの手に重ね、力を込めた。
 二人の間に、ぽたぽたと雫が落ちる。
 ザックはそれを見とり、震える少年の肩を抱きしめた。
「俺はお前を裏切らない」

金の流れ星 16

 フレイムは促されるまま、ザックと一緒に眠った。
 毛布が一枚で、はじめはザックに譲ると言われたのだが、毛布はザックのものだったので断わった。
 譲り合った結果、結局二人で使うことになったのだ。
 フレイムは夢を見た。
 ザックが種を拾ってきた。煎れば旨く食べられると言えば、闇音にぴしゃりと手を打ち据えられる。
 闇音が種を埋めた。四人で待ってみたがいっこうに芽は出なかった。グィンが歌を歌うと、ひょっこり緑の芽が顔を出した。グィンは歌いつづけた。芽はどんどん伸び、天までとどくほど大きくなってしまった。
 ザックが「雲の上には金の雌鳥がいて……」という話を確かめようと言った。闇音がまたそんな馬鹿な事はやめなさいと咎める。四人でこの大きな蔓をどうしようかと話し合っている時、蔓がぶるりと揺れた。
 上を見上げると、種が降って来る。蔓が実をつけたのだ。大きな種だった。バラバラと降って来る種からみんなで逃げまわる。
 一つの種が自分に向かって降ってきた。もうだめだ。フレイムは目を瞑った。
「フレイム!」
 フレイムははっと目を開いた。ザックの顔が目の前にあった。
「なんかうなされてたけど……大丈夫か?」
 よく見ると、ザックの後ろにグィンと闇音がいた。二人もこちらを心配そうに見ている。
 フレイムは額に手をあって、睫毛を伏せる。眠気がまだあった。
「うん、大丈夫だけど……。……なんで植える前は普通の種だったのに、あんなに大きな種がついたのかな……」
 ザックは、二人を振り返った。精霊二人はそろって首をかしげる。ザックはまたフレイムの方を向くと、手の甲でぺちぺちと彼の頬を叩いた。
「おい、寝ぼけてるのか?」
 少年は重い瞼をもう一度ゆっくり開ける。甘い、極上の笑みを浮かべるとまた睫毛を伏せた。
 見ていた三人はみんな頬を桃色に染めた。
「……かわいい奴」
 ザックが呟いた。グィンが物珍しげに口を開く。
「こんなフレイムははじめてだよ。よっぽど疲れたのかな」
 闇音がザックの方を横目でちらりと見た。
「まあ、夜中眠れなかったみたいですしね」
 ザックがぎくりと跳ね、肩越しに振り返る。
「お前、起きてたのか?」
「あれだけ騒げば、誰だって目を覚まします。本当に寝相以上に迷惑をかけるんじゃないかと、私は心配させられましたよ」
 ザックは目を細め、こいつは主人を疑うことしかしないのかと思った。
「……俺はそんなことしねえよ」
「どうですか」
 闇音が両手を上げると、二人の間にグィンが割って入ってきた。
「ねえ、なんの話? 夜中? 何かあったの?」
 声を弾ませる妖精に、ザックはため息をついた。闇音を見やると、彼はこくりとうなずく。フレイムとザックのやり取りにグィンは目を覚まさなかったのだ。
「もういいよ。飯にしようぜ」
 ザックは手を振った。鞄を開けて、缶詰を取り出す。グィンが興味津々に覗きこんだ。
「げ、魚じゃん。僕、生臭は嫌い」
「別にお前にやるとは言ってねーよ」
 ザックは摘みを握り、缶を開けた。
「でも、フレイムも魚は嫌いだよ。僕、食べてるとこ見たことないもの」
 ザックは箸で魚肉を摘みながら言った。
「好き嫌いはよくないな。だからあいつは小さいし、細いんだ」
「まあ、正論ですね」
 闇音がうなずきながら続けた。
「ザックはカタリアを食べないから、強くなれないんですよ」
 ザックは箸の先をぱちんと鳴らす。
「んなこと関係あるのかよ。ていうかさ、あれ苦いんだぜ。お前は食事しないから分からないだろうけどな。カタリアは子どもが嫌いな野菜三位に入るんだぞ」
 カタリアはきつい緑色をした野菜である。非常に苦いが、栄養価は高い。
「ではザックは子どもなんですか」
「苦いものは大人が食べたって苦いんだ」
 ザックはむっつりと言うと、缶詰めをきれいにたいらげ、空き缶を鞄にしまった。
「なあ、チビ。今度は何処に行くんだよ?」
 グィンは長い髪を大きな櫛でと梳かしながら言った。
「さあ? この山脈に沿ってずっと東に進んでるけど」
 闇音が貸してくださいと櫛を受け取り、グィンの髪を梳き始める。
「山伝いに? まじで? じゃあ、ずっと野宿?」
 ザックが声を大きくする。グィンは闇音に髪を結ってもらいながら答えた。
「イルタシアからこっちに入ったばかりは、ホント、ずっと野宿だったよ。カルセ近くになって一回宿に泊まって、また野宿。昨日、あんたのいた宿に泊まって二回かな」
 ザックはため息をついた。
「よくもまあ……。追われてるからだろうけど。……もしかして、金がないのか?」
「知らない。でもフレイムは倹約家だよ。どけちとも言えるけど」
 グィンは三つ編みにしてもらった髪を揺すった。ザックは手をあごにあて、またため息をついた。

 フレイムが起きたのはその一時間後だった。寝癖がひどくて、みんなに笑われた。
「仕方ないじゃないですか。俺だって好きでこんな髪をしているわけじゃないです」
「いいえ、綺麗な色ですよ」
 闇音が目じりを押さえながらフレイムの頭を抱き寄せ、櫛で梳いた。ザックはその様子をぼうっと眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「そうだ。フレイム、敬語使うのやめろよ」
 フレイムはきょとんと首をかしげる。
「なんつーか、他人行儀でよくない」
「だって、ザックさん年上なのに……」
 ザックは手を振り、やめろと示した。
「『ザックさん』てのもやめてくれ。これからずっと一緒なんだ。ザックでいいよ」
 とりあえず、フレイムはうなずく。しかし、彼が普通に喋るようになるまで、このあとしばらくかかる。
「はい、綺麗になりましたよ」
 闇音がフレイムの頭を軽く撫でた。
「あ、ありがとうございます」
 フレイムは淡く頬を染め、頭を下げた。
「少年、悪いが闇音は女じゃないぞ」
「男でもありませんけどね」
 ザックが改まって告げると、闇音が付け足して、櫛を片付ける。
「え……、こんなに綺麗なのに」
 フレイムが闇音のほうを見ながら言うと、闇音は振り返って笑った。
「フレイム様だって、『十七歳の男の子』には見えませんよ」
 言えてるなとザックは思った。フレイムはいまいち意味がわからない。
(十七歳にしては背が低いってことかな?)
「あ、でもグィンは女の子ですよ。ちゃんと」
 フレイムが言うと、ザックが手のひらに乗せていたあごを滑らせる。
「女あ? これが?」
 あからさまに声を大きくしたザックの後頭部にグィンが蹴りを入れる。
「どこに目をつけて言ってるのさ。このかわいい、スカートが見えない?」
 グィンは太股の半分もない、短いスカートを摘んで見せた。
「妖精てのはどれもこれも似たようなのを着てるじゃないか」
 ザックは頭をさすりながら、口を尖らせた。
「失礼な奴!」
 グィンは腕を組み、ぷいとそっぽを向いた。
「グィン、三つ編み。可愛いね。自分で結ったの?」
 フレイムが笑顔で、自分の後頭部を指差しながらフォローを入れる。グィンはぱっと表情を明るくすると、フレイムのほうを振り返った。
「うん。これね、闇音が結ってくれたの!」
 妖精は嬉しそうに三つ編みを揺すった。
「俺のときと随分態度が違うじゃねェか」
 ザックは闇音にだけ聞こえるように言った。
「主人に褒められるのが、精霊は一番嬉しいんですよ」
 闇音はザックを伏し目がちに見ながら答えた。ザックがまじまじと闇音を見る。
「じゃあ、お前も俺が褒めたら嬉しいか?」
「いいえ」
 闇音は冷めた返答をした。
「あなたは女性を褒めることに関しては、口が達者ですからね。あなたが私を賛美する日が来ないことを祈っておきます」
 そう言うと、影の精は僧侶がするように手を合わせて頭を下げた。
「なんだ、そりゃ。人をケダモノみたいに」
 ザックは視線を空に投げ、呆れたような口調で言った。
「違うんですか?」
「違う」
 傍の芝を千切るとぺっと投げた。

金の流れ星 17

 フレイムが朝食を終えるとザックが意見を出した。
「なあ、山を下りて街道を進まないか」
 フレイムはためらって睫毛を伏せただけで、ザックが上げた腕はそのままになった。
「……俺、余り人目に付きたくないんです」
 青年はこほんと咳をし、静かに腕を下ろした。
「街道は整備されてて歩きやすいし、食糧も寝床も確保できる。魔物に襲われる心配もほとんどないぜ」
「それはそうなんですけど……」
 街道の所々にある関所には役人がいる。ガルバラと隣国イルタシアの国交は現在良好である。イルタス王が、ガルバラにも令状を出している可能性はある。
「ガルバラは広い。あんな令状、でかい都市にしか配布されてないって」
 フレイムはそれでも不安そうにうつむく。ザックは話にならないと両手を上げた。
「フレイム様。確かにザックはまだ弱いです」
 闇音が落ち着いた声でフレイムに話しかけた。ザックがおいおいと言う顔をしたが、ここは闇音に任せることにして押し黙った。
「弱いと言っても、その辺りで関所を守っている傭兵よりは腕が立ちます。ガンズのような者はガルバラにはそう多くはいません。ガルバラを抜け、より大きな国に出る頃にはザックの剣の腕もだいぶ上がっているはずです」
 フレイムはザックのほうに視線を向けた。彼は当たり前だと言うように大きく頷く。
「私も神腕には劣りますが、これでも上級の精霊です。決してフレイム様を悪しき者に渡したりはしませんよ」
 フレイムは睫毛を伏せた。
「……俺、みんなを危険な目には合わせたくないんです」
「大丈夫だって言ってるのに。どうしてお前は信じようとしないんだ」
 ザックが責めるように言うと、フレイムは弾かれるように顔を上げた。
「ザック」
 闇音が咎めるように名を呼ぶ。
「……違います。信じてない訳じゃないんです」
 フレイムはぎゅっと手を握り締め、掠れそうな声を絞った。
「……神腕のせいで……、俺……」
 きつく目を瞑り、忌まわしい過去を瞼の裏に描いた。
「恋人が殺されたんです……」
 三人は息を呑む。フレイムが人との関わりを避ける一番の理由。
「また、この腕のせいで、誰かが……。……俺、怖くて……」
 すべての不安を払うように、首を振る。 
 きつく握り締め、白く震える指の間が赤く滲んでいることに、ザックが気づく。
「フレイム!」
 フレイムの手を取ると、固まったようなこぶしを開かせた。
「バカ! お前は何やってんだ!」
 フレイムはザックにしかられ、血の滲む手のひらを見た。そこでやっと自分が何をしたのかに気が付いたようで、深く息をつく。
 手の傷はグィンが治した。
「フレイム……」
 ザックはそのままフレイムの横に腰を下ろすと、ゆっくり口を開いた。
「俺は死なない……とは約束出来ない」
 フレイムは顔をあげ、ザックを見た。日の光の下、こんなに間近で彼を見るのは初めてだった。フレイムは青年の黒い瞳が淡い翠を含んでいることに気がついた。
「人がいつ死ぬかなんて分かりはしない。もしかしたら、この一秒後に死ぬかもしれない。死ぬかもしれない、なんて思ってたら何も出来ないぜ」
 ぽんとフレイムの頭に手を置く。
「死ぬかもしれないなんて思うなよ。『今、生きている』ってそれだけを感じろ」
 フレイムは淡い藤色の双眸を瞬かせた。
「今……生きている」
「そう、それだけで十分。要らんこと考えるから、不安ばっかりで勇気が出ないんだ」
 フレイムは睫毛を伏せ、
 ――今、生きている
 そう心の中で繰り返した。
 生きているから、人は温かい。
 自分の手のひらに視線を落とす。傷が付けば血が流れる――生きているから。
 ぐっと握り締め、しっかりとうなずくと、笑みを浮かべた。
「じゃあ、山を下りましょう」
 ザックは歯を見せて笑うと、置いていた手でくしゃくしゃとフレイムの頭を撫でた。
「山通って行くのも、それは見つかりにくいとは思うけど。どうせ、追われてることには変わらないんだ。いろんな街のいろんなもの見た方が得だと思うぜ」
 フレイムは笑顔でうなずく。
「何二人で、勝手に話しを進めてるのさ」
 グィンが肘でフレイムの頭を小突いた。口に手を添え、小さな妖精は他の二人に聞こえないように囁いた。
「すでに親友?」
 耳元でぽそりと呟かれ、フレイムは笑った。
「これからだよ」
 そう答えると、グィンも笑った。
 ザックは闇音と山を下りる準備をしている。フレイムも二人の傍へ歩み、準備に加わった。
 周りの木々は日の光にまばゆく輝いている。
 風が吹いて、フレイムは空を仰いだ。白い雲が東へ流れていく。
(あの雲が流れていくところに、俺達も行くんだ……。この空の下ならどこへだって進んでいいんだ)
 右手を握り締める。過去のことを思えば鈍い痛みが甦る。この痛みを自分が人を殺めた罪と一緒に生涯背負うことになるのだろうと思った。
 アーシアが死んでから、村を焼き尽くした時から、これまで何にしても神腕を使わぬように心がけてきた。それが償いだと。しかし、これからは。
(神腕で二度と人を殺したりはしない。でも、神腕を使わないわけじゃない)
 青い青い空を見つめると、その彼方に吸いこまれそうな感覚に陥る。
 ガラス玉の瞳は空の青を映し、湧き溢れる清流のように美しく輝いている。
(これからは、人を救うために。傍にいる人たちを守るために使うんだ)
 フレイムは静かに睫毛を伏せた。
「フレイム! 行くぞ」
 背後から響く温かい声に、淡い髪をした少年は笑顔で振り返る。
 彼を待つ、仲間の元に新たな気持ちを携え、駆け寄るのだった。