ちゃぷんと、お湯の跳ねる音が浴室に響いた。温かいお湯の中、長く、ゆっくりと息を吐く。清潔な紺のタイルの上、洗面器にお湯を張り、小さな妖精が一生懸命石鹸の泡をたてていた。
宿についたフレイムは、闇音によって、浴室に放り込まれたのだった。一日中走った汗の匂いを指摘されたのだ。
ザックが戻るのを待ちたいと訴えたが、闇音は浴室の鍵をかけて出ていってしまった。
そうして仕方なく入浴するに至ったわけである。
お湯は心地好く、疲れた体と緊張にやつれた心をほぐしてくれた。こうしていると先程の危機が嘘のようだった。漂ってくる石けんの匂いも爽やかで気持ちがいい。
風呂から上がり、ほっと息をつくとフレイムは背を反らせて浴室を覗いた。
「グィンは、あがらないの?」
「まーだ」
グィンの洗面器は石鹸の泡があふれている。フレイムはそれを見て呆れたが、好きにさせておくことにした。彼女が無邪気でいると、なんだか怖いものなどないような気がしてほっとできる。
淡い暖灰色の髪をしたフレイムは、何も着ていないと全身真っ白だった。鏡の前に立ち、ザックを思い出した。黒い髪に黒い瞳、自分より色素の濃い肌。
(あの人はどうして俺を助けに来たんだろう……)
馬に乗って現れたザックの姿が思い出す。嘘つきには出来ない目をした優しい人間。
(どうして……)
バスタオルを元の位置に綺麗に掛けると、フレイムは困ってしまった。下着以外の着替えるものがないのだ。背後の桶には水が張られている。フレイムの服はこの中なのだ。これも闇音がしたことであった。
脱衣所で立ち尽くしていると、外の扉を開く音が聞こえた。どきんと胸が高鳴る。
「あれ? おい、闇音。あいつはどうした」
青年の明るい声が聞こえてほっと胸を撫で下ろす。
「お風呂ですよ。あなたも入ってください」
「今日はもう入ったよ」
ザックが面倒くさそうに答える。
「何を言ってるんですか。あんなに馬を走らせておいて。あなたも汗をかいたでしょう」
はいはい、とザックは返事をし、浴室のドアを開けた。と、少年が肩をすくめてこちらを見ていた。
「あ、ああ、悪い」
ザックはそう言いながらドアを引いたまま、コンコンと叩いた。フレイムはすばやく下着を着るとザックと入れ替わりにドアから半分顔を出した。
「あの、闇音さん。俺、着るものが……」
そう言われると闇音はベッドの方に行き、ザックのものと思われる鞄をあけた。そして中から白いシャツを取り出した。
「ザックには大きい物ですが、あなたにはちょうどいいかもしれません」
フレイムは後ろを振り返り、ザックを見た。彼はもう服を脱ぎ終え、中へ入っていくところだった。
(ザックさんに大きいものが俺にぴったり……?)
闇音からシャツを受け取ると、首をかしげながら、袖をとおしてみた。
頭にのぼせたグィンをのせ、風呂から上がってきたザックはフレイムを見て笑った。
「なるほど。これはぴったりだな」
フレイムは頬を赤らめて、むっつりとしていた。ワイシャツは彼の太股の辺りまであった。伸びをしても、下着は見えなかった。袖は二、三回まくってある。
「まあ、こんだけ背が違えばな。俺にもでかいシャツだし」
ザックはそう言いながら自分の額の前で、手のひらを水平に滑らせた。フレイムとザックの身長差はその手ひら平ほどあった。
「今、背が伸びてる途中なんです」
フレイムはぷいと顔をそむけた。そのまま近くの椅子に座ると辺りを見まわす。
「闇音さんは?」
「ああ、あいつならここだ」
ザックは自分の影を指差した。フレイムは首をかしげた。
「影……? あっ、もしかして闇音さんて……」
ザックはベッドの端に腰掛けるとにっと笑った。
「うん、影の精だ。お前のチビとおんなじだな」
頭の上で伸びていたグィンを横に下ろす。
「グィンは緑の精なんだけど……」
二人の大きさの差はなんだろうとフレイムは思わずにいられなかった。
「しかし、このチビと闇音のサイズの違いはどっからくるんだ?」
ザックがグィンの頭を指で突つく。フレイムは一瞬息を呑みこみ、それから声を上げて笑った。ザックが訝しげに目を細める。
「なんだよ。俺何かおかしな事言ったか?」
「ううん。ごめんなさい」
目元をこすりながら謝る。久しぶりに声を出して笑ったような気がする。
落ち着いたあと、聞こうとしていた事を思い出した。
「あの……剣士は、どうしたんですか?」
ザックは両手をベッドに置き、後ろに傾いた姿勢で答えた。
「ああ、ガンズのことか。剣でな、あいつのベルト切って逃げてきた」
フレイムは口を開けたまま、なにも言えなかった。ザックはくくっと笑った。黒い瞳がいたずらそうに光る。
「お前にも見せてやりたかったな。俺の勇姿」
青年はなにも持たない手で剣を振っている仕草をして見せた。フレイムはそのシーンを想像したが、「勇姿」という映像には程遠い物のような気がした。
「もう、聞きたいことはないか?」
まだ聞きたいことはあったが、フレイムは首を振った。ザックがふっと笑う。嘘だったのがばれたのかと思い、視線を泳がせた。ザックは一度睫毛を伏せ、フレイムのほうを見た。
「じゃあ、俺の質問に答えてくれよ」
「え?」
フレイムはザックのほうを見た。
「名前」
ザックは上半身を起こし、背をかがめて両手を脚の上で手を軽く握った。名前を言えば、自分が途方も無い額の賞金首であることがばれる。
「あ、あの……」
言葉の終わりは小さく途切れた。無意識に足が震える。
顔をそむけると動悸が激しくなり、胸の奥がきりりと痛むのを感じた。自分の事を知り、目の色を変えた人々。過去の記憶がフレイムを臆病にしていた。
ふと、机の上の紙に目を留める。一瞬青ざめ、信じられないと言うように唇を震わせた。
おそるおそるザックのほうを見る。
黒い、力強い瞳がこちらを静かに正視していた。
(この人はもう知っているんだ)
助けに来たザックの笑顔が頭をよぎる。
一瞬、胸の奥を風が下へ吹き抜ける感覚がした。
「フレイム・ゲヘナ」
無意識のもとに呟かれた名前。
「いい名前なんじゃない?」
ザックの声が響き、フレイムはびくっと肩を弾ませた。心臓が再びその鼓動を早める。
恐怖ではない。
自分が興奮しているのが分かった。こんな人間は二人目だ。
揺るぐことのない、光。フレイムはそんな光を心に持つ人間をもう一人知っていた。
(ネフェイル……)
緑の海原に立つ、その大きな後ろ姿が思い出される。
二年前、心に深い傷を負いすべてに失望し、生きる気力を失っていた自分を助けてくれた人。彼もまた、豊かな心の持ち主だった。