蒼穹へ大地の導き 23

 男は書類の一枚を眺めて、側の部下をこまねいた。
 淡い金髪と、銀に近い水色の瞳を持つその男は、イルタシア王室直属の剣士団である金獅子の団長として城に勤めている。彼の優れた剣技、臨機応変な判断力、そして一団体を率先する能力は誰もが認めるところであった。
「ヴァンドリー様、いかがいたしましたか」
 側によってきて用件を窺う部下に、金獅子団長イルフォード・ヴァンドリーは手にしていた紙片を示して見せた。団員の長期出張届けである。
「副団長はまだ帰ってこないのか?」
 金獅子の副団長は数日前、脱獄した政治犯を追って外国まで出ていったのだ。
 その届けに寄れば、帰国予定の期日まではまだ時間がある。しかし、なにぶん団長の補佐を務める男である。彼がいないと進まない仕事もあるのだ。
 ああ、と金の剣を揺らしながら部下は頷く。
「それでしたら、昨日、目標の位置を捕捉したのと連絡が入っていますので、もう間もなくだと思いますが」
 イルフォードはため息をつく。それから手にしていたペンにインクをつけると、白い紙を取り出しさらさらと文を綴った。最後に署名し、押し付けるようにして団員に渡す。
「……これを、伝達するんですか?」
 書き上げられたばかりのその文に目を通し、その団員は片目を細めた。
「『いつまで遊んでいるつもりだ。さっさと帰って来い』」
 イルフォードは自分の書いた伝言を暗唱し、それからふんと鼻を鳴らした。
「間違いない。そのまま伝えてくれ」
「……分かりました。まあ、いいですけどね。副団長も慣れてる事でしょうし……」
 今度は部下がため息をつく。副団長が仕事の遅い人だということはよく知っていた。そして彼が本気になれば、誰よりも仕事が速いことも知っている。
 一礼して部屋から出て行く部下の背中を見送り、イルフォードは机の上で手を組んだ。
 視線を滑らせて、窓の外を見つめる。色づき始めた木々が曇り空を必死に飾り立てていた。
「早く帰って来い……。どうにも秋の憂鬱な天気にふさわしい、不穏な空気だ」

         *       *       *

 それは町の出口の石畳にあった。側を通りかかった農婦が、足を止めてぽかんと口を開ける。
「あれまあ」
 思わず声を漏らすと、背後から顔見知りの商人が声をかけてきた。
「隣の国の剣士様がやらかしたそうだよ」
 振り返って、しわの増えた目じりを細め、農婦は驚きを含んだ声で疑わしく問う。背後の光景を示しながら。
「これを? どうやって?」
 さあね、と商人は答える。汗をかいた額をハンカチで拭きながら、息をつく。農婦の気持ちが分からないでもない。警邏(けいら)に直接聞いて確かめたことだったが、なかなか信じられない。
 幅は掌ほど、しかし緩やかに弧を描いたその長さは十数メートル。深さはそうない。だが、だからと言って、こんな亀裂をどうやったら人間が作れると言うのか。
 無残な姿の石畳の道路を眺めて、商人は呟いた。
「まあ、人間技じゃないよなあ」

「スフォーツハッド様!」
 耳元で喚く部下に、ウィルベルトは降参の意を示して両手を挙げた。
「分かった。君の言い分はよく分かったよ」
「いいえ! 分かってません!」
 ディルムは拳を握って、それで机を叩く。ウィルベルトが飲もうと思っていたコーヒーは揺れて中身が減った。
 二人はガルバラ国リルコ州、そのとある町の役所にいた。休憩所で白い机をはさんで向かい合っている。
「なんだってどうして、あんな連中にスフォーツハッド様が剣を抜かなきゃいけないんですか!」
 あんな連中、とは今回の出張の原因になった政治犯と、それに従った魔術師達のことである。
「……いや、だって仕事だし」
 少なくなってしまったコーヒーを悲しそうに見下ろしながら、ウィルベルトは呟く。いくら怒鳴ってもマイペースな上司に、ディルムは嘆息して椅子に腰を下ろした。頬杖をついてごちる。
「恐れ多くて目を潰しやがれって感じですよ、もう……」
 海外出張になったと言う以外は、取り立てて凶悪な訳でもない今回の事件。魔術師を味方にして逃げた政治犯を捕まえるだけの仕事だ。候補生の自分にだって片付けることは可能だった。
「いくらなんでも目なんか潰れないだろう」
 白いカップに口づけながら、ウィルベルトは朗らかに笑う。実年齢よりも若く見られがちなこの男は、嫌味なほどに笑顔が良く似合った。その笑顔になんとなく負けた気分になってディルムは口を開いた。
「スフォーツハッド様は自分の剣がどれだけ凄いか分かってないからそう言うんです」
 ウィルベルト・スフォーツハッドは滅多に公開試合を行わない。なぜか。公開してまともな試合が出来るほどの相手があまりにも少ないからだ。
(できるとしたら、金獅子の団長と……金獅子の団長くらいだよ)
 団長と団員が公の場で剣を交える。それは年に一度、新年の御前試合だけである。
 また、仕事でもウィルベルトは滅多に剣を抜かない。彼がのんびりと構える間に、他の団員が敵を片付けてしまうことが多いからだ。
「なのに、なんで今回に限ってあんなに素早く動くんですか」
 腐りっぱなしの部下に、ウィルベルトは眉を下げた。
「団長様からラブレターをいただいてしまったんだ」
 その言葉にディルムはぎょっと目を見開く。懐から一枚の紙を取り出し、ウィルベルトはひらひらとそれを振って笑った。
「『いつまでも遊んでちゃイ、ヤ。早く帰ってきてね』だそうだ」
「冗談言わないでくださいよ!」
 上司の手から紙を取り上げて、目を左右に動かす。そしてディルムはうなだれて机に突っ伏した。
「ああ……、だからもっと早く仕事しましょうって言ったのに」
「大丈夫だよ。団長優しいから」
 気軽に取り合うウィルベルトに、きっと鋭い視線を送る。
「それはあなたには何を言っても通じないからでしょう。私が怒られるんですよ!」
 候補生の嘆きを無視し、ウィルベルトはカップを干すと立ち上がった。投げ出された紙片を拾ってまた懐に戻す。
「その時はこう言っておけばいい」
 自分に続いてしぶしぶと立ち上がるディルムに、片目を閉じてみせる。
「副団長の教育は前団長様がいたしました」
 ディルムは両腕を戦慄かせた。
「そっ、そんなこと言える訳ないじゃないですかー!」
 泣き出しそうな顔をする部下に笑って、金獅子副団長ウィルベルト・スフォーツハッドは帰路に着くための準備を始めた。