蒼穹へ大地の導き 20

 ルードが懐から何かを取り出した。黒くて冷たい、金属の塊。フレイムはそれを見たことがなかったが、側でアーシアが息を呑んだのが分かった。
「“禁じられた知恵(イースタンアート)”……」
 震える声が意味することは何か。フレイムも言い知れぬ不安を覚えて、その塊を見た。
「……私を殺すの?」
「フレイム・ゲヘナを殺す。神器は持ち主が死んでも機能することは既に実験済み。必要なのは、その右腕だけだ」
 「神器」とは神腕、神臓、神眼など神通力を導く部位の総称である。
 死んでも機能するというその言葉にフレイムは思わず唇を震えさせた。
 この男は殺すことを厭わない。確信が絶望とともに死を暗示する。
「やめて!」
 アーシアは叫んでルードの前に立ちふさがった。涙を振り払い、強い眼差しで過去の恋人を見据える。
「もうやめるのよ、ルーディス……」
 彼女の言葉には耳をかさず、ルードは最後通牒だと言うように口を開いた。
「どけ、アーシア。今回の行動は愚かだとしか言えないが、本来のお前は学識を持っている。失うのは組織の痛手だ」
「学識?」
 その言葉を聞いてアーシアが嘲う。もう絶えられないと言わんばかりに、彼女は笑いに身体を揺らした。
「人身売買の組織に知識が必要だと言うの? 人を愛することを愚かだと言うあなたに私が必要だと言うの!?」
 ルードの表情に変化はない。
 その瞳は手に持つ黒い武器と同じ、空虚で静かで、ただ一つの意志だけがある。
「ルード・ダーケン! 愚かなのはあなただわ!!」

 それは、殺意。

「アーシア!!」
 空気が裂かれたような音だった。
 何が起こったのか分からなかった。男が何か攻撃してくるならば、魔術で対抗しようと思っていたのに、フレイムは動くことが出来なかった。
 目の前でアーシアが弾かれたように踊る。
 倒れこんでくる彼女を受け止めながら、フレイムはその胸が血を噴いているのを見た。
「アーシア! ……どうしてっ」
「逃げ、て! フレイム、逃げて」
 目を閉じたまま、アーシアは掠れた声でそう叫んだ。
「だめだ、アーシア。傷を塞がなきゃ……っ」
 体が震えた。アーシアの白い服が見る間に赤く染まっていく。何が彼女の身体を貫いたのか。
 フレイムは涙で歪んでいく視界で必死に彼女を見つめた。
「いいの、逃げて……。私は助からない」
「嫌だ! 何を言ってるんだよ! 助かるよ!」
 泣き喚く少年に、アーシアは手を伸ばしてその頬に触れた。涙が指先を伝う。
「ごねん……、ごめんね、フレイム……こんなことに巻き込んで……」
 フレイムは首を振った。アーシアは微笑む。
「私の事は忘れて……。忘れていいから、早く逃げて……」
「そんなこと出来ない!」
 叫んでフレイムはアーシアを抱きしめた。
「世界中の誰が忘れたって、俺はアーシアを忘れたりしない!」
 彼女の青い瞳から涙が溢れる。
 声が嗚咽に負けそうになりながらも、フレイムは声を絞った。
「それが……っ、……俺がアーシアを愛した証だ……」
 もうこれが最後だとアーシアは感じた。
 何もかもが失われてしまう。
 失いたくないのに。
「忘れないで……忘れられたくない。フレイム……」
 そして長い睫毛は伏せられた。
 抱きしめている身体から力が奪われていく。永遠に、大地へと。
 愕然と彼女を見下ろすフレイムの耳に、カチリと硬い音が響いた。
 憎悪の眼差しで音のほうを見やる。
「……ルード・ダーケン」
 見下ろす眼差しは凍てついていて、再び火を吹こうと闇の武器を構えている。
「気安く呼ぶな。女ひとり救えない愚かな神器よ」
 どんっと地鳴りが響き、建物が揺れた。
 少年の身体から溢れ出した極彩色の魔力が唸り、室内を駆け巡る。荒ぶるドラゴンを思わせるその破壊衝動をルードは無表情に見つめた。
「……なるほど、これか」
 思ったほどでもない。それが彼の感想だった。
 神通力、人を超えた力。
 だから――なんだというのだ?
「操る者が人ならば、俺の恐れるところではない」
 呟いて、ルードは女の死体を見やった。
 神通力はその色を変え、今や咆哮を上げる炎と化していた。すべてを焼き尽くす神の炎。
 弔いだ。
 ルードはコートを翻し、フレイムに背を向けた。歩き出しながら、ぽつりと呟く。
「焼き尽くせ、“地獄の炎(ゲヘナ)”」
 その声に呼応するように、炎は高く天を目指した。

     *     *     *

 目覚めは静かだった。
 朝の光がカーテンの隙間から部屋を濡らしている。
(思い出した……)
 すべて、思い出した。
 助けられなかった自分――他でもない、一番殺したかったのはそれだ。
 そしてネフェイルが恐れたこともそれだろう。だから彼はフレイムの記憶を封じ、懐にしまったのだ。
(彼が怖かったわけが分かった……)
 助けてくれた恩人で、尊敬もしている人なのに、フレイムはなぜか彼に再会するのが怖かった。
 ネフェイルこそがフレイムの忌まわしい過去をその身に隠していたからだ。
 フレイムは涙に濡れた眼差しで、白い陽光を見つめた。