ナキアたちと別れて、ザックが宿から離れたところまで歩いてくると、闇音が影から立ち上がった。
「いいんですか?」
「何が?」
問い返してくる主人に眉を寄せて闇音は口を開く。
「お二人と島に帰りたいんじゃないんですか?」
ザックはああと笑って、首を横に振った。
「今はそう思わないよ。何もかもが中途半端になっちまう」
空にある太陽はまだ高いが、それもすぐに赤みを帯びてくるだろう。
田舎道を歩きながら、ザックは続けた。
「フレイムがどこまで行くのかは知らないけど。あいつが安心できるところまでは付き合いたいよ。約束したしな」
裏切らない、と。
自分が裏切れば、フレイムは今度こそ誰も信じなくなるかもしれない。それをいつも感じていた。
それに、と言ってザックは闇音を見やる。
「俺にはお前がいる」
はっと闇音は目を見開いた。
その様子にザックは笑う。
「実はすごいんだぜ、お前」
「……何がですか?」
ザックはやはり笑顔のまま、手で自分を示してみた。
「俺に、いつでも一緒にいる、と言って、まだ離れていないのはお前だけだ」
闇音は愕然と足を止めて主人の笑顔を見つめた。
父親も母親も、シギルも、ナキアもタグルも、誰もが一度ザックと別れを交わしているのだ。
「まあ、お前とはまだ一年しか付き合ってないけどさ」
頭を過ぎるのはザックと主従の契約をした夜のことだった。
いつでもどこでも、いつまでも、あなたに従う――そう告げたらザックは不思議そうに首を傾げ、こう言った。
それ、本気で言ってんの?
問う声に冗談はなく、まるで「そんなことは不可能なのに」と言っているようだった。
闇音は先を歩く主人に向かって声を上げた。
「大丈夫ですよ。精霊は主人を絶対に裏切りません」
闇音の言葉にザックは頷く。
「信じてるからな」
当たり前のように漏らされた言葉はあまりにも重く、闇音は拳を握った。
「はい」
ネフェイルの家に帰ると、庭先でフレイムがぼんやりと空を見上げていた。
「フレイム、何やってんだ?」
ザックが声をかけると、少年はびくりと肩を跳ねさせてから、帰ってきた青年とその精霊を見やった。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま。……で、何してるんだ? 瞑想とか?」
見下ろして首を傾げるザックに、フレイムは苦笑して見せた。
「そんなとこ」
ズボンを叩きながら立ち上がる。
「さっき、ネフェイルがもうすぐ夕食だって言ってたよ」
「おっ、いいね。ちょうど腹もすいてきた頃だ」
ザックは笑って玄関へと向かう。闇音もそれに続いた。
二人の背中を見つめながら、フレイムはぽつりと呟いた。
「空はどうして空なのかな?」
聞こえなくても構わない。その程度の声量だったが、ザックは振り返って目を瞬いた。
ガラス玉の双眸がこちらをじっと見つめている。
ザックは一度空を見上げ、それからフレイムに向き直った。
「空が、空でいたいと思ってるからだろ」
そう告げると、フレイムは眉を下げて笑った。
「ザックらしい答えだね」
「……お前はどう思うんだ?」
少年の様子を怪訝に思いながら、ザックは問い返した。
いつものように目を逸らすかと思ったが、フレイムは視線を真っ直ぐに保ったまま口を開いた。
「……俺達が気づかないだけで、空は空じゃないときがあるかもしれない」
面白い答えだとザックは思った。
だが、少年の声はわずかばかり硬い。何かを否定するような響きを感じる。
「フレイム?」
不安になって名を呼ぶと、フレイムは相好を崩して見せた。こちらに歩み寄ってきながら、答える。
「瞑想のお題だよ」
そのままザックの横を通り過ぎて家の中に入っていく。
それを見送って、闇音は眉を寄せた。
「確かに、おかしいですね」
今朝ザックに話を聞いたときは旅の疲れだろうと思ったが、そういったものとは違うものを感じた。何か、悩んでいるようにも思える。
「ネフェイルが何か言ったのか」
怒ったような口調で言い、ザックは足早に家の中に入る。闇音は慌ててそれを追った。
「ザック、待ってください」
「待たない。あのおっさんは胡散臭くて敵わない!」
追ってくる精霊を振り返って、ザックはもう我慢できないとばかりに言い放つ。
「始めて会ったときからそうだ。あれは静電気なんかじゃない! ネフェイルはあの左手で何かをしたんだ! 俺が『何』かを確かめるために!」
闇音は目を見開いた。
何かをしたと言うのならば、それは魔術だろう。だが、ザックにそれが分かるはずがない。
驚いた様子の精霊にザックは自嘲を浮かべて見せた。
「気持ち悪いんだ……。昔はこんなこと何も分からなかったのに。今ではお前が精霊だと言うことをはっきり感じる。グィンもだ。フレイムの右腕を見るのも怖い」
コウシュウでフレイムが魔術を使ったあとの気配に彼が気づいたことを思い出し、闇音は息を呑んだ。
(やはり、感化されていたのか……)
もともとザックには魔術の才能があって然るべきであった。だが、母がその魔力を封じたために、彼は常人よりも魔力の気配に疎い青年に育っていたのだ。
だが闇音自身を含め、フレイム、セルク、飛竜……高度な魔術を使用する者たちが側にいるようになって、彼の本来の魔力に対する感度が復活しつつあるのはもはや間違いないようだ。
考え込む闇音にザックが呟く。
「ネフェイルの左腕が、怖い」