蒼穹へ大地の導き 16

「ネフェイル……、俺はどうしたらいい?」
 部屋の戸口に立って、フレイムはそう呟いた。
 椅子に腰掛けたまま、ネフェイルは振り返って少年を見た。泣き腫らした目がこちらをじっと見ている。
 ガラス玉の瞳。透明で壊れやすいその薄い紫が揺れている。
「……人を信じたいか?」
 問うと、フレイムは頷いた。
「だが、フレイム。人は信じたいと思って信じられるものではないのだ」
 ネフェイルは立ち上がって、フレイムの元に歩み寄った。見上げてくる少年に外を指差してみせる。
「私達が、空を空と信じられるのは、空がそれ以外のものになりはしないと思っているからだ。空を信じたいと思っているわけではない」
 高いところで雲を吹き流す青空をフレイムは見やった。それから首を振って、ネフェイルを見上げる。
「空と違って人は変わる」
「そうだな。それでも人というものをお前は信じたいのか?」
 フレイムはうつむく。
 ネフェイルは小さく笑みを浮かべた。
 人を信じる――そのことを考えるには、少年はまだ若すぎる。そのうえ多感な時期を人と触れ合えずに過ごしてしまった。
「変わり続けるものを信じるには……、自分が変わらない何かを持っていればいい」
 ネフェイルの呟きに、フレイムは再び顔を上げた。
「……何を?」
 その問いには答えず、ネフェイルは少年の頭を撫でた。窓から吹き込む穏やかな風とともに、低い声音が耳を撫でる。
「人を信じるためには、まず自分を信じなければならないということだ」

         *       *       *

 タグルとナキアが泊まっている宿に入ったザックは辺りを見回した。
「えっと……」
「ザック、こっちだ」
 階上から声が降ってくる。見上げるとタグルが階段の踊り場で笑みを浮かべていた。
「タグル! おはよう」
「ああ、おはよう」
 軽い足取りで階段を駆け上がってくる友人に、タグルは笑いを漏らした。ザックが首を傾げる。
 歩き出しながら、タグルは口を開いた。
「いや、変わってないなーと思ってさ」
「ちょっとは成長したとか思わないか?」
 ちょうど一年目の再会だったのだ。
 ザックの言葉に対して、タグルはその髪を引っ張った。
「まあ、髪が短くなってるのにはびっくりしたけど?」
 タグルの知るザックは腰まで髪を伸ばした少年だった。潮風になびくその髪を覚えている。
 ザックは苦笑した。
「邪魔だったんだよ」
 タグルは黒い双眸を細めて呟いた。
「ナキアを忘れるには?」
 ザックが立ち止まる。
 図星と分かりやすいその反応に、タグルは更に言葉を紡いだ。
「無理だよ。お前を救ったのはナキアなのに、そのお前がナキアを忘れられるはずがない」
 長い黒髪はナキアのお気に入りだった。伸ばし続けたのは、人の髪で遊ぶのが好きな彼女が喜んでくれるからだ。
 ザックは目線を下げて、ため息をついた。
「……タグルは意地悪だ」
「どこらへんが?」
 朗らかに笑う年上の友人を、ザックは悔しそうに見上げて笑った。
「鋭すぎ」

「あら、ザック。おはよう」
 ナキアはそう言って二人を迎え、それからきょろきょろと周りを見た。彼女の長いスカートにはイルタシア西方の民独特の模様が刺繍されている。ガルバラではほとんど見かけないそのスカートをザックは不思議な気分で見下ろした。
(島で見たときはこんなじゃなかった気がするんだけどな……)
 それを懐かしいというのだと気づく前に、彼の耳をナキアの声が打った。
「フレイム君は? 一人で来たの?」
「ん? ああ、そうだけど……」
 ザックが答えると、ナキアはつまらないと零した。
「昨日は時間がなかったから、今日はいっぱい話せると思ってたのに」
 ザックは苦笑する。
「あいつ、今日はなんだか疲れてるみたいだったからさ」
 フレイムを連れてきた方がいいのだろうとは確かに思っていた。空白の一年間を埋めるおしゃべりには、半年弱ほど一緒にいる彼の話もあった方が盛り上がるだろう。
 だが、結局ザックはフレイムを誘うことが出来なかった。
 フレイムが来ないならグィンも誘えない。だからもう一人で出掛けようと思ったのだ。実際は闇音も来ているのだが。
「疲れてる? 具合が悪いの? 大丈夫?」
 ナキアが心配そうに首を傾げる。ザックは首を横に振って見せた。
「大丈夫だよ。熱とかはないみたいだったし。まあ、俺達もこっちに着いたばかりだし、旅の疲れでも出たんだろう」
「……昨日お邪魔したのがいけなかったかな……」
 うつむく幼なじみに、ザックは慌てて両手を振った。
「ばっ――そんなことねえよ! フレイムも喜んでたし!」
 ナキアは顔を上げてきょとんとザックを見つめた。そしてすぐに笑う。
「変わってないね、ザック」
 その黒い瞳に浮かぶ甘い光に、ザックは頬を染めた。一年くらいでは変わらないのだ。
 彼女の内も――自分の内も。
 だが、自分は捨てた。
「私が好きだった頃のままだね」
 この表情豊かに笑う女性を置いて、島を出た。
「ナキア」
 声を出したのはタグルだった。案じるようなその眼差しに、ナキアは首を振った。
「大丈夫よ。明日、島に帰る」
 ザックを振り返って、ナキアは微笑んだ。
「私、待ってるから。ザックが帰ってくるのを待ってるから」
 ――帰ってこれないかもしれない、死ぬかもしれない、だからナキアは連れていかない、ザックはそう言って彼女と別れた。そのとき、シギルの気持ちを悟ったのだ。一緒に連れて行きたくても、出来ないときがあるのだ、と。
「ナキア……」
「だって、ザックは私が嫌いになったんじゃないよね? 私、信じてるよ」
 一瞬、ナキアの顔が歪んで、彼女が泣き出してしまうのではないかと思った。
 だが、そんなことにはならず、ナキアは微笑んだ。島の眩しい太陽を髣髴とさせる笑顔。
「ああ……」
 ザックは答えた。
「帰る。いつか絶対、島に帰るから」
 帰れないかもしれないなんて、そんなことはない。彼女を忘れなければならないことなんてない。
 驚きを宿した黒い双眸が、やがて嬉しそうに細められる。
「うん。その時は旅のお話いっぱい聞かせてね」
 それから、少しばかり恥ずかしそうにタグルも口を挟んだ。
「じゃあさ、とりあえず、今日はここまでの話を聞かせてくれよ」
「ああ、いいぜ」
 ザックはにやりと笑って答え、二人と一緒に席に腰を下ろしたのだった。