蒼穹へ大地の導き 14

「アーシア……」
 フレイムが呼びかけると、彼女ははっとして顔を上げた。
「どうしたの、何か心配事?」
 うつむいて気鬱な表情を浮かべていた彼女を心配して、フレイムは首を傾げる。
 アーシアは空色の双眸を細めると笑みを浮かべて見せた。
「いいえ、なんでもないのよ」
 答えて腕を伸ばすと、フレイムを抱き寄せる。柔らかな腕に包まれながら、フレイムは彼女と唇を重ねた。
「本当に?」
 唇を離して、フレイムがもう一度問う。彼女は笑って、フレイムの髪を撫でた。
「もちろんよ。私は今、幸せよ」
「それなら、いいんだけど……」
 しかし、フレイムには心当たりがあった。
 彼女はほとんど自分の家に帰っていないのだ。フレイムと一緒に暮らしていると言っても過言ではないほどに。
 アーシアも家族はいないのだと言っていたが、それは嘘なのではないだろうか。いつか、彼女の家族が彼女を連れ戻しに来るのではないだろうか。
 アーシアが沈んだ顔をするたびに、フレイムの中の不安も次第に大きくなっていったのだった。

 そしてある風の強い日、不安が目の前に形あるものとなった。
 とんとんとん、と玄関をノックする音が聞こえた。フレイムが返事をして席を立つ。
「どちらさまですか?」
 扉を開くとそこには闇が立っていた。思わず目を見張る。
 風になびく漆黒の髪。ばたばたとはためく黒いコート。黒いブーツは長く履き続けたのか、だいぶくたびれている。
 それらをざっと視界に入れて、フレイムはその男を見上げた。
 健康的とは言いがたい白い肌は痩せており、感情の窺えない黒い瞳は嵐の夜を彷彿とさせる。
「ルーディス!?」
 背後でアーシアが悲鳴を上げる。
 その恐怖の滲んだ声に、フレイムは一瞬心臓を跳ねさせた。
 ルーディスと呼ばれた男は特に感慨もない様子で、家の中にいる亜麻色の髪の女性を見やる。アーシアがびくりと体を震えさせたが、男は目を細めただけで、フレイムに視線を戻した。
「フレイム・ゲヘナ。神腕を持つイルタシア人。……おまえで間違いないな?」
 深く体の底まで響く声が確認するように問うてくる。
 フレイムは目を見開いた。――なぜ、知っている?
 村の人さえも誰も知らないことなのに。どうしてはじめて会ったこの男が知っているのか。
 混乱するフレイムに構わず、男は口を開いた。冷たい声が頭上から降ってくる。
「俺はルード・ダーケン。……人身売買を営む組織の――犬だ」
「ルーディス!」
 アーシアはとうとう立ち上がって、二人のもとへ駆け寄った。フレイムを自分の背後に押し隠しながら、ルードの前に立つ。
「フレイム・ゲヘナは神腕なんか持っていなかったわ。あの能無しが間違えたのよ!」
 フレイムは色の薄い睫毛を震わせた。自分はアーシアに神腕を持っていることを打ち明けた。彼女なら受け入れてくれると思ったから。
 知っていて彼女は持っていないという。この男から、自分を庇おうとしているのだということはすぐに知れた。
 ルードがぴくりと瞼を動かす。光が当たるとその双眸は紫を帯びた。
「アーシア……おまえは何のために、ゴロツキまで利用してその小僧に近づいたんだ?」
 心臓が震えた。
(利用して? 何のために、近づいた?)
 心が見あたらない声の主は、青褪めた少年に一瞥を投げる。
「我々の仕事はその小僧を――神腕の持ち主を雇い主に渡し、報酬を得ることだ」
 頭が真っ白になる。
 動けないフレイムの耳を甲高い声が打った。
「ルーディス! やめて!」
 アーシアは叫んで、ルードの服を握り締めた。懇願の眼差しで男に縋る。
「私っ、私は……っごめんなさい! 許して! 私はフレイムを愛したの!」
 長い前髪の下の眉が寄せられる。アーシアは目線を下げて続けた。
「分かってたわ。……分かってたけど、駄目だったの。私は彼を愛しているわ……」
 一瞬凍りついた心が、その言葉で氷解する。最初の目的がどうあれ、彼女は自分を選んでくれたのだ。
(俺はアーシアを……信じる……)
 コートを握る白い手を、ルードは掴み取った。アーシアの瞳にさっと恐れの色が浮かぶ。
「アーシア……」
 囁かれる名とともに、握る手に力が入る。アーシアは痛みに顔を歪めながらも、首を振った。
「ルーディス、お願い……。お願い、彼を見逃して……」
 答えない男を見上げて、アーシアは声を震わせた。青い瞳から涙が溢れる。
「お願いよ……」
 ルードは黙って女の泣き顔を眺めていたが、いきなり彼女の髪を掴んだ。
「きゃあっ」
 悲鳴を上げるアーシアを助けるべく、腕を伸ばしたフレイムはしかし体を強張らせた。
 ルードがアーシアに口付ける。
 深く、強引な口付けにアーシアは逆らうことも出来ず、ただ長い睫毛を伏せた。
 やがて相手を解放し、ルードはほんの小さく唇の端を歪めた。アーシアはさっと男から離れる。
「アーシア、おまえは浅ましい女だな」
 聞く者を支配してしまうような、低く官能的な声。
 ルードの声にアーシアが更に涙を零した。長い髪は乱れ、美しい顔は悲痛さで染まっている。彼女は嗚咽の声を必死に絞った。
「やめて……言わないで……」
 フレイムはもはや指を動かすこともままならず、黒い悪魔の声を聞いた。
「俺を愛していると言ったその唇で、他の男の命を乞う」