蒼穹へ大地の導き 10

 自分は孤児で家族がいないのだと告げると、アーシアはしばしば家に来ては食事を作っていくようになった。申し訳ないと何度も言ったのだが、
「あの後どうなっていたかと思うとね、あなたにお礼せずにはいられないのよ」
 彼女はそう言って笑うばかりだった。仕方なくフレイムはテーブルについて、調理をするアーシアの姿を見つめていた。
 それにしても、なんて綺麗な人だろう。
 はじめて見た時からそう思っていた。あの時殴り倒した男が、無理にでも彼女を自分のものにしようとした気持ちが分からないでもない。
 艶やかだが、明るい健康さを失わない声。風に揺れる亜麻色の髪が彼女の白い美貌を縁取る。微笑む青の瞳は澄んでいて、アーシアの心の清らかさを表すようだった。
 彼女は話し上手で、ともに過ごす時間はとても楽しく感じられた。心が癒されて、彼女を大切にしたいと思うのだ。
 自分はアーシアに惹かれている。
 そう自覚してしばらくした頃、彼女はこう囁いた。
「私、フレイム君が好きよ」

 窓から差し込む光は既に夕日ではなく、月光に変わっていた。
 暗い部屋の中でむくりと起き上がり、フレイムは頭を掻いた。
「……寝ちゃってたんだ」
 呟いてから、眉を寄せる。
(……どうして、昔の夢ばかり見るんだろう? 見ようと思って見るのはおかしい……)
 ネフェイルはすべての夢を見ろと言った。すなわち忘れている部分を――殺人犯の顔を思い出せと言っているのだ。
 それでもなお、守るためだけにと言えるなら。
(……アーシアを殺した男をのことを思い出せば、俺は復讐心を持つ。ネフェイルはそう考えてるんだ……)
 守るためにではなく、仇を討つために力を欲すると。
 正直なところ、フレイムには自信がなかった。自分はその男を殺すために、村を火の海にしたのだ。
 室内に降り注ぐ光を見つめる。
 ――俺はお前を裏切らない。
 ザックがそう言ったときも、月はこんな光を放っていた。
(……力が欲しい)
 フレイムは目を閉じて、右腕を握り締めた。
 力が欲しい――守るために。

「……来たか」
 扉の向こうに立つ影の精霊を見とめて、ネフェイルは部屋に入ってくるように手で示した。室内に踏み入ると闇音は扉を閉めた。
 そして周りを見回す。ネフェイルの私室はその壁の全面がほぼ本棚で埋め尽くされていた。与えあられた客室も書庫代わりだったことを思い出す。膨大な情報。このすべてを彼は知り得ているのだろうか。
 しかし、もしそうだとしても、それがなんら闇音にとって有益であるわけではない。今、彼が必要としているのは、ネフェイルがザックに関して知っている事柄だけである。
「何を話しましょうか?」
 挨拶する間も惜しい様子の精霊にネフェイルは苦笑した。
「まあ、掛けなさい」
 椅子を示し、自分も腰を下ろす。闇音が椅子に座るのを待ってから、彼は口を開いた。
「影の精霊の生態なぞ、話す気はないのだろう?」
「もちろん」
 即答する闇音に薄く笑んで、ネフェイルは膝の上で手を組んだ。
「彼は……ザックは自分の魔力に気づいているのかな?」
 いきなり核心か。
 闇音は唇を噛んだ。
「……やはり、ザックには魔力があるんですね」
「なぜ今更そんなことを確かめる? 彼はマリーの子だ。神臓を持っていないはずがない」
 ネフェイルは淡々と言葉を並べた。精霊がうつむくのを見て、深い緑の双眸が細められる。
「――『封印』に、気づかなかったのか」
 闇音は自分の服を握り締めた。
「そう……です」
「フレイムもか」
「……はい」
 ネフェイルは組んでいる手の親指を撫でた。深く息を吐く。
「まいったな。……いや、さすがは赤き魔女というべきか……」
 闇音は顔を上げて声を大きくした。
「ザックの魔力を封印したのは彼の母ですか?」
 ネフェイルは頷く。
「無論。『封印』などという大魔術を扱える者は限られる。ザックの側にそのような者がいたとすれば、それは間違いなくマリー嬢だろう」
 ――封印。「結界」を応用した高等魔術である。
 結界との違いはひとつ。「封印」は術者が解かない限り、半永久的に持続する。
 結界は術者が常に魔力を放出して維持しなければならない。だから放っておけばすぐに崩れるし、長い時間維持し続けるのは相応の魔力が必要となる。つまり、「張りっぱなし」にはできないのだ。
 そしてその「張りっぱなし」を可能にしたものが封印である。封印は術を施したあとは作為なしに消えることはない。そのため、封印をする際には長時間の展開を可能とするだけの魔力が必要とされる。また、「封印自身が自己を存続させる」という付加を与えなければならない。
(ザックの母親は、凄まじいほどの使い手だった……ということか)
 闇音は沈鬱に目を閉じた。シェシェンの街で、医者である暁(シャオ)に言われた言葉を思い出す。ためらいがちに彼はこう言った。
『……僕なりに治癒魔術を使ってみましたが、どうもザックさんの身体はそれを受け付けてくれません。もとより、体質的に魔力の影響を受けない人もいます。ですが、ザックさんには<抵抗>を感じるんです』
 つまり、母親の張った封印がザックに対する暁の魔力を打ち消していたのだ。
 被術者の意志に関係なく常に展開される最高の防御結界。そしてそのおかげでザックは治癒魔術を受けることも出来ない。
「マリー嬢は息子に魔術を使わせたくなかったようだな」
 ネフェイルの深い響きを持つ声に闇音は顔を上げた。
「あの封印はザックの魔力を抑え、かつ周囲にそれと悟られないように出来ている。よほどの術者でなければ、あの封印には気づけないだろう」
 闇音の脳裏を赤い瞳の男が過ぎる。
(飛竜は封印に気づいたのだ。あのときの地面の破壊跡は、おそらくザックに魔術が効くか否かを確かめようとして出来たもの……)
 その結果、飛竜は悟っただろう。ザックには封印が掛けられており、その中には神臓が秘められていることを。
(……飛竜だけではない)
 もし、イルタス王にこのことを知られでもしたら……。ザックの母親が神臓の持ち主だと知ったときに覚えた不安感。それを再び感じて、闇音は服を握る手に力を入れた。
 ザックはイルタス王の命令に従って魔力を振るうことを良しとはしないだろう。正義感の強い青年だ。たとえ、そのことによってどんな制裁を受けようとも彼が間違った王に従うはずがない。
(守らなければ)

 命に代えても、守らなければ。

 漆黒の双眸に覚悟を決めた光を浮かべる精霊をネフェイルは静かに見つめた。
 彼の背後、窓の向こうは月が輝くばかりで、星はひとつとして見えない。広い大地をたった一人で照らす月。その光に隠れるようにして、多くの画策が瞬いていた。