蒼穹へ大地の導き 9

「……ああいうことって、あるもんなのか?」
「はい?」
 前振りのない主人の問いかけの意味が分からず、闇音は首を傾げて見せた。
 周辺の地理を教えて、ネフェイルは客人に部屋を貸し与えた後出掛けてしまった。付近の学校で非常勤講師を務めているらしい。
 ザックと闇音が借りた部屋は家の奥であった。窓からは隣接している木が見える。部屋はもとは空き部屋をネフェイルが倉庫代わりにしていたものらしく、ザックたちを入れる前に彼が片付けてはいたが、隅にはまだ本が山積みとなっている。しかし、特に邪魔になるというわけでもなく、ザックにとってはむしろ嬉しい放置物であった。
 たたんだままの新しいシーツをベッドの端にのけて、ザックはそこに腰掛けていた。聞き返してくる精霊を見上げる。
「フレイムだよ。記憶喪失とかそういうものなのか?」
 恋人を殺した男を覚えていない。そのこと自体には疑問を抱かなかった。経験はないが、強すぎる衝撃が記憶を奪ってしまうということは稀にあるらしいからだ。
 家の周りの様子を見ていた闇音は、窓の桟に寄りかかるようにして口を開いた。
「つまり、覚えていないということに何故気づいていなかったのか、ということですよね」
「ああ、覚えてないんだから気づけるはずもないってなら分かるけど、あいつは恋人が殺されたことも自分で火を放ったことも覚えてる。なのに、肝心の殺人者の顔だけ覚えてないことに気づかないってのはどういうことだ?」
 忘れるなら恋人の死か、人殺しの罪のほうだろう。ザックはそう考える。
 闇音は考え込むように視線を落とした。
 確かにおかしいことばかりだ。第一、そのことをネフェイルが知っていたことに疑問を感じる。
 二日ばかりかかる道のりを、空間転移で省いてしまった魔道師。その計りがたい双眸を思い出して、闇音はもしやと思った。
「魔術かもしれません」
「魔術?」
 また苦手な話題にぶつかるのかとザックが一瞬眉をしかめる。闇音は構わず続けた。
「相応の技術さえあれば、記憶を一時的に消すことも可能なのです。フレイム様はその魔術にかかっていたのかもしれません」
 専門的な部分を一切省いた説明に、ザックは質問を返した。
「『かかっていた』って……、忘れていたことに気づいたら解けるって事か? 解けたとして解いたのは誰なんだ?」
 闇音は人差し指を立てて見せた。
「ひとつに、記憶や感情など意思に関わってくる魔術は不安定であることが多いです。忘れていたことをあるきっかけで突然思い出すことが普通の生活でもあるように、何かのきっかけで魔術が解けることがあるのです」
 ザックが頷く。さらに解説は続けられる。
「だからフレイム様がその殺人者に似た人を見ただけで思い出すこともあるし、本人を目の当たりにしても気づかないこともあります。……つまり、何故解けたのか明確にすることは難しいのですが……」
「……今回は、思い出すきっかけをネフェイルが与えたってことか」
 闇音が途切れさせた言葉をザックが紡ぐ。
「フレイム様に記憶を封じる魔術が掛けられていたのだとする場合、今回はそれを解いたのはまず間違いなくネフェイル様でしょう」
 影の精霊が言い切ると、ザックは深く息を吐き出して、ベッドに倒れこんだ。
「まいったなー」
 簡素な天井灯を見上げて言葉を漏らす。
「俺、あのおっさん苦手だよ」
 まるで学生が苦手な教師の試験を受ける前に吐くような台詞に、闇音は呆れながらも同意を示して見せた。
「出会いから静電気ですからね」
「笑うなよ。マジで痛かったんだぜ。おっさん、セーターの重ね着でもしてんのかよ?」
 朝夕冷え込むようになってきたとはいえ、いくらなんでもまだセーターは早いだろう。それでもザックはぶちぶちと呟いた。
「電気ためるのは勝手だけど、他人に放電はやめて欲しいよな」
 闇音は思わず苦笑を浮かべた。
 どうもザックはネフェイルがどれほどすごい人物なのか分かっていないらしい。
 フレイムが不得手とするように、空間転移の魔術は難易度の高い術なのだ。四人がリルコに入ったことに気づき、なおかつ転移を遠隔操作で行う。引き出す魔力の量はもちろん、高い精度をも要求される高等技術。ネフェイルは間違いなく最上クラスの魔術師だろう。
(もちろん……彼の見るべき点はそこだけではないのだが……)
 ネフェイルはザックのことについて何か気づいているのだ。それを今夜聞き出さなければならない。
 態度からして、こちらから問わずとも彼は何か話す気ではいるようだが。
 赤く染まりだした太陽を見つめて、闇音は唇を引き結んだ。

 眼差し。
 覚えているのはそれだった。亜麻色の髪を追う、感情を殺した冷たい双眸。
 フレイムはベッドの上に横になったまま、自分の前髪を摘んで夢の中の記憶を探っていた。
 男の顔はどうだっただろうか。瞳は黒かった。
「瞳は黒で……」
 やはり思い出せない。嘆息してフレイムは寝返りをうった。
 彼に与えられた部屋は玄関に近い客室であった。ザックと闇音の部屋とは幾分距離がある。
 グィンは初めての家がものめずらしいのか、先ほどから部屋と廊下を行き来している。開いている部屋があったら勝手に入っているのかもしれないが、グィンの力では部屋を散らかすことはできない。そう思ってフレイムは好きにさせていた。
 窓から差し込む陽光を見るともなしに見つめながら、曖昧な記憶を掘り下げていく。
 思い出せはしないが、男の名を聞いたということは覚えている。
 確かアーシアがその男の名を呼んでいた。
 そうだ、彼女はその男と既知だったのだ。そのことを当時の自分は困惑しながらも理解したのを思い出す。
 記憶の階段を下りようとしながら、フレイムはうとうとし出している自分に気づいていなかった。馬車に揺られ、歩き、思いがけない条件を突きつけられ、心身は彼が思う以上に疲れていたのだ。
(……アーシアが……名前を……)
 声を荒げて呼んでいた。

「離して!」
 甲高く響く女性の声。
 フレイムははっとして目を見開いた。辺りを見回す。目に入ったのは向かいの道から続く細い裏路地。そこで掴まれた腕を引き離そうともがいている女性がいた。
「離してよ!」
 亜麻色の長い髪を揺らしながら女性は、再度叫ぶ。しかし腕を掴んだ男は、それを面白そうに見下ろすだけだった。定職にもつかず、ふらふら遊んでいるようななりの男だ。
「なあ、ちょっと付き合ってくれって言ってるだけじゃないか」
「嫌よ!」
 きっぱりと女性は拒否する。男は茶色の瞳に下卑た光を浮かべた。
「そういうなよ」
 そう言って女性を無理やり抱き寄せようとする。女性が悲鳴を上げようとした瞬間、男の頭を白い肩掛け鞄が横殴りした。
 鞄の中身は十分な重さのものだったらしい。男はあえなく転倒する。それを唖然と見下ろしながら、女性は鞄を投げた少年に目を移した。彩度の低い朱の制服は、近くの魔道学校のものだ。
 少年は男の側に落ちた麻布の鞄を拾い上げると、辞書を入れといて良かったと呟いた。それから顔を上げ、自分を凝視する女性のほうを見やる。
「大丈夫ですか?」
 そう言ってフレイムは、ガラス玉のような瞳を細めて笑った。その笑みに安堵するした様子で、女性もまた微笑を浮かべる。見惚れるような美しい笑顔。
 ――それが彼女との出会いだった。