蒼穹へ大地の導き 8

 焼け野原となった村。それを丘から眺め、激しい罪悪感に涙をこぼした。
 ――たくさんの人を殺めてしまった。死にたい。
 そう訴えると、男はこう言った。
「そうか、まだ殺したりないのか」

 あれから、二年が経った。
 フレイムは目の前の席に腰掛けた男を静かに見つめた。
 ネフェイル・ホライゾ。年を取り、今でこそ隠居状態の身だが、若い頃は世界でも名の通った魔術師だったと、誰かに聞いたことがある。
 二年前と変わらない穏やかな表情で、彼は先ほどの話の続きをはじめた。
「昔、一度だけホワイトパレスを訪れたことがあったんだ。マリー嬢とはそのとき知り合ったんだよ。まあ、知り合ったと言っても少し話を交わしただけなのだが」
 それに対して、フレイムの横に座っているザックは不思議そうに首を傾げる。
「どうして、城なんかで母さんと会うんだ?」
 その問いにネフェイルは苦笑を浮かべた。
「何も聞かされていないんだな。……まあ、当然か。誰にでも話してよいことではないからな」
「どういう意味ですか?」
 そう尋ねたのは闇音である。普段は進んで会話に入るほうではないが、さすがに主人のことともなると口を挟まずにはいられないのかもしれない。
 ネフェイルは組んでいた手を広げて、肩をすくめてみせた。
「誰にでも話していけない理由は、マリー嬢の身分にある。そのジルと言う男もとんでもない相手を伴侶に選んだものだな」
 ひとつ息をつく。
「マリー嬢はマクスウェル公爵の娘だ」
 思考が止まる。ついでに息も止まる。ザックは目を瞬くことしかできなかった。
 フレイムが思わず身を乗り出しかける。
「公爵って……、え、貴族のこと?」
「それはそうだろう。マリー嬢は家を捨てて、ジルを選んだと言うことだな」
 感慨もなさそうに答えるネフェイルに、フレイムは少なからず絶句した。
 もとより、ネフェイルが地位や財に興味がないことは知っていた。だが、そうして駆け落ちした大貴族の娘の息子が目の前にいることはどうでもいいのだろうか。先刻の驚きは、ならば「貴族の娘の息子」ではなく、「マリーの息子」に対するものだったのか。
 そんなフレイムの考えに気づいているかのようにネフェイルが続ける。
「マリー嬢は素晴らしい魔術師だった。そんな彼女の息子に会えるとは、なかなか面白い巡り合せだな」
 魔術師。
 その言葉にザックは我に帰った。闇音のほうを見やる。彼はこちらを見ていた。
 音のない視線の間で交わされた言葉は、神臓。
 その二人の反応に、ネフェイルは思い当たることがあるらしい。緑の双眸を細める。
「だが、君は魔力を持たないようだ。……父親に似たのか。残念なことだよ」
 静かな声はかえって違和感があった。いや、聞く者によってそう聞こえるのか。ザックもフレイムも特に何の反応も示さない。闇音だけが目の前の男を凝視した。
 何かを訴えるようなその眼差しに、ネフェイルは笑う。
「そうそう、魔力と言えば、私は影の精霊と言うものをあまり見たことがなくてね。よかったら今夜、話をできないかな?」
 闇音は息を呑んだ。
「……いいですよ」
 答えて、主人のほうを見やる。
「難しい話になりますが、あなたは参加しますか?」
 嫌味とも言える言葉に、ザックは嘆息して両手を挙げた。
「お断り申し上げます。――口を挟んでは、いらぬ恥をかきそうだ」
 素直に認める青年に笑ってから、ネフェイルはフレイムのほうを見た。
「おまえはどうする?」
 尋ねられて、短く逡巡したあと、フレイムは首を振った。
「ふたりとも専門的な話をしたいみたいだし、俺はいいよ」
 じゃあ僕も、と誰も聞いていないのにグィンも答える。そしてネフェイルと闇音は頷きあって、二人だけで話をすることを決めた。
 ところで、とネフェイルが話題を変える。
「今更本題な訳だが、――君達は何が目的で私を訪ねてきたのかな?」
 複数形を用いながらも、緑の瞳はフレイムだけを映し出していた。
 思わず震えた手を、フレイムはテーブルの下で握り締めた。
「色々、聞きたいことがあって…」
「色々とは?」
 言い淀む少年を、ネフェイルは首を傾げて促す。
「……神腕の、こととか……」
 答えながら、フレイムは自分がネフェイルの眼光に怯えていることに気づいた。なぜだろうと思う。分からない、しかし、やはり身が竦んだ。
 そんな彼の心情をいち早く察知したのはグィンであった。代わるように言葉を紡ぐ。
「あのね、賞金首とかに負けないくらい強くなる方法を知りたいんだ」
 言って、「強い」を表すのか、グィンは両手を広げて見せた。
 テーブルの上でひらひらと動く精霊に、ネフェイルは微笑み、それからフレイムのほうに向き直る。
「なるほど。しかし、そこらでのさばっている程度の賞金首ならば、今のお前でも問題はないだろう?」
 ネフェイルの口調は微かだったが、確かにたしなめるような響きを帯びていた。
「誰も傷つけたくない。だから強い魔術はいらない。そう言ったのは、フレイム、お前だぞ」
 フレイムはうつむいた。
「……そうだけど……」
 小さく呟く。上手く言葉が出てこなかった。
 落ち着け。そう自分に言い聞かせてから、フレイムは深呼吸をした。
 守ると、決めたのだ。
 顔を上げて、対峙する男を見つめる。そして、やはりなぜか躊躇する喉を無理やり開いた。
「誰かが傷つきそうになって……、それを防ぎたいって……その人を守りたいってそう思ったんだ」
 途切れつつも必死に言葉を探す。その間、誰も口を開こうとはしなかった。
「そしたら……俺には守れるだけの力がなかったんだ……」
 自分の掌を見下ろす。ちっぽけな手だ。剣も握れない、殴ることもしたことのない弱い手だ。
「力が欲しい」
 そう漏らした一言は半ば無意識のものであった。
 少年の言葉を聞きながら、ザックはぼんやりと一点を見つめていた。何をと言うわけではなく、ただ視線を動かさなかっただけである。
(……力、か)
 心の中で呟く。
 力があれば――父はそう思いながら死んだのだろうか。
 母は持てる力で、その仇を討った。
(……討って、狂っただろうな)
 死者のことなど分かろうはずもないが、ザックはなんとなくそう思った。
 人を一人殺すのだ。相手が自分の夫を殺したように、自分も相手を殺すのだ。
 これで狂わないはずがない。
 ふと、視線を動かすと、深く茂る葉の色をした瞳とぶつかった。こちらの思考を読み取るような、すべてを写し取るような、無感情で冷たい眼差し。
 ザックはぞっとして視線を逸らした。
 ネフェイルはそんな青年をしばらく見つめてから、フレイムに注目を戻した。ゆっくりと口を開く。
「いいだろう」
 思いのほか簡単に出された答えに、フレイムは思わず安堵の息を漏らした。
「守るためと言うなら、教えてやってもいい」
 はい、と答える少年に向かって、ネフェイルはただしと付け加えた。
「まずはお前がすべての夢を見てからだ」
「え?」
 突拍子もなく告げられた言葉に、目を瞬く。ネフェイルは挑戦的ともいえる笑みを口元に刷いた。
「お前はいまだに音のない夢を見ているだろう」
 フレイムがぎょっとする。何故そのことを知っているのか、尋ねようとするのを遮って、ネフェイルは続けた。
「音のある夢で、すべてを思い出してなお、守るためだけにと言えるなら教えてやってもいい」
 フレイムは眉根を寄せた。彼の言わんとするところが上手く掴めない。
「……よく分からないんだけど」
 ネフェイルはゆっくりと立ち上がり、それに合わせて顔を上げる少年を見下ろした。
「フレイム、お前はアシーアを殺した男の名はおろか、顔も覚えていないだろう」
 ガラス玉のような淡い紫の瞳が宙を泳ぐ。入り組んだ路地を彷徨(さまよ)い歩くようなその動きに、ザックは漠然とした不安を覚えた。声をかける。
「フレイム?」
 その声に、促されたようにフレイムは口を開いた。
「……なんで、覚えてないって気づかなかったんだろう……?」